さみしくて
風呂に入る。グラスを空けると、タカシがリビングを出て行く。ちゃんと用意したかしら、今日は忙しかったから。案じたユカは頃合いを見計らい、脱衣場のラタンの籠の確認に向かう。
湯が流れる音と鼻歌と。
取引先からの電話。夫の常套文句と、機嫌が良さげな様子のバスルームに溜息をつくと、リビングに戻った。
わざと。
ゆるゆると時間をかけて、片付け始めた。
(おい。って言われるのが嫌。今晩はなぜかしら。物凄く、嫌だから。そう。アレの日だからって、謝って断ろう)
ユカが唯一、断れる事情。元々不順なので、怪しまれる事も無い、今日は何時もより呑んでるから、早く寝るはず。寝ていて。と、願う。
「ふう。ちゃんと片しておけよ」
ガチャ、冷蔵庫から風呂上がりのビールをひと缶、取り出すと、携帯と共に寝室に向かうタカシ。
ハイ。おやすみなさい。出ていく後ろ姿に小さく返事をしたユカ。
☆
カ、チャ。寝室が別ならば気楽なのに。深く眠っているのを祈りつつ、音を殺してドアを開ける深夜、1時を越した頃。
元々、音に敏いタカシなのだが、年を重ねるにつれ、眠りが浅いと、隣で眠るユカが、風邪を引き咳き込んだり、トイレに起きたりと、どうしようも出来ない事で、物音を立て睡眠を妨げると、朝起きてから、ひと言チクリと小言を放つ様になっている。
グゥ。ふぅ~。深い寝息を耳にし、緊張がほろりと解けたユカ。そろりとベッドに潜り込む。しばらくじっと、隣の様子を伺い、大丈夫だと確認すると。
寝る前に文字を追う習慣があるユカは、怖い話を聞いた時の子どもみたいに、すっぽりと布団の中に潜り込む。携帯を開く。こっぽりとした明るい空間。サイトを開けばメッセージの赤い文字。誰だろうと思いつつ、そっと開いてみれば。
「嘘」
小さく声が漏れた。
送信相手は『てん』
ドキドキと、戸惑いがユカを包む。開いてみた。
【こんばんは、今夜はごちそうさまです。美味しかったです。お料理上手ですね】
文字を目にすると、キュッと嬉しくなった。
まだ耳に残っている、義兄であるトオルの、夫と似ている様で似ていない声で頭の中で、音声となり流れる。
(褒められた。ううん。お世辞よ。ダメ)
ユカはとりあえずページを閉じた。目が冴えている。天井をじっと見つめていたが、寝過ごせば大変と思い瞼を閉じる。
ユカさんと名を呼ぶトオル。
話をしようかと誘うトオル。
気のせいだっただろう。甘く見つめてくる彼。
慌てた様に目を逸らし、ユカの剥いた林檎を齧るトオルの姿。
鮮明に浮かぶ、義兄の姿。眠るどころが気持ちが高まり、それどころでは無くなってしまったユカ。夫に気づかれぬ様、転々と寝返りをうっていた。
(何故気になるの? そう、きっと返信をしていないから)
そう思いつくと、布団から出る為、そろりと身体を起こそうとした。
ウー。ん。ゴソリ。
隣から寝返りをうつ気配と声。
ハッと。慌てて布団を被ると潜り込む。息が緊張で少し上がって、心臓はドキドキ音を立てている。
(起きた? 大丈夫?)
ヒヤヒヤしつつ、羽根布団の向こう側の気配を探る。かくれんぼの様に、じっと身を潜める。
(ふう。返信、しないといけないわよね。どうしよう。私だとわかって送ってくれたの?)
ンゴ。ふぅ~。
ヒヤリとして、明るい画面を抱き締める。
ふぅ~。
落ち着いて、落ち着いて。大丈夫、寝てるわ。ユカは自身に言い聞かす。どう返信しようかと、体温が籠もる小さな空間で考える。
『ユカさん』
耳に残っている声が蘇ると、頬が熱持つ様。
『座って、話をしようか』
優しい声で言われた時、恥ずかしさと違う、ドキドキが混ざっていた事を思い出す。
(なんだか、私。はしたないわ)
「ん、ファァ」
布団の向こうで起きた気配。感電したかのように驚いたユカ。動かずじっと息を殺す。軋むスプリング。ベッドから降りたタカシは、寝室を出た様子。しばらくすると、ドアが開いた音。
歩く気配を寝たフリをしながら探る。
(来ないで、来ないで、来ないで、声をかけないで)
震える程に願ったのが、叶えられたのか。ベッドを軋ませ戻ったタカシの気配。キュッと目を閉じ耳をすますユカに、再び寝息が届いた。
☆☆
――、ありがとうございます
再び眠りについたタカシに、ほっと息を漏らすユカ。そしたった、10文字を打てば良いのにさんざ、迷う。しかし心は軽く弾んでいる。
(簡単なのに、何故出来ないの?)
ふと。高校生の頃、恋バナで盛り上がっていた、皆の事を思い出した。
『コラボの御礼、どう書く?』
『だれに?○○君?きゃー!』
『やだぁ。そんなのじゃ無いから』
そんなのじゃないから。
「そう。そんなんじゃ無いの」
好きだとか。そんなのじゃないの。ユカは自身に言い聞かす様に囁やく。潜った布団の中は、何時もより温かくなっているのか、指で触れば薄っすらと画面が結露。
あ・り・が・・・ とう・ご・ざ・い・ま・・・す
ポツポツと、ためらう様にスクロール。
(うん。何時もの返信と一緒。そんな。お義兄さんなのに、惹かれるなんて。ちょっと昔のタカシさんに、似ているだけ、なのに)
名を呼んでいた頃。おはようも、おやすみも、夜になると睦言を甘く囁かれ、抱き締めて頬寄せた若い日々。他愛の無い会話。今日は何食べたい? と聞けば応じていた頃の夫。一緒に居るだけで、幸せだと、愛されていると、確信があった時。
「タカシさんも、優しかったんだから」
送信を終えると、そろりと頭を出す。耳に入る隣の寝息の相手に、ふと。
(私は、そんなんじゃないの。結婚をしているのに、異性に対してだらしないなんて。絶対、嫌!)
タカシさんと、一緒じゃないわ。湧き出てた思いのままに、眠る夫に背を向け目を閉じる。
グゥ〜、ふぅ~。
寝息が聞こえたユカは、チリチリと泣きたくなった。
暮らしを支えてくれる夫に対して、酷いことを思ってしまった自分が、嫌になる。
子どもを、ついぞはらめれなかった自分が、嫌になる。
寂しい今も何もかも、全て子が出来ぬ自分のせいなのに、今も、昔も会うと、優しく名を呼び、接してくれる義兄に、ときめいた自分が。
だらしなくて、情けなくて、寂しくて。
嫌になり。
チリチリと、泣きたくなったユカ。
ん。すぅぅぅ。
(何故こんなに寂しいの?)
胎児の様に身体を丸める。先に泣き出している様な、心を守る様に胸に手を当てる。
(タカシさんが、こうなのは何時もの事なのに)
『オイ』で使い回される日々。時折、気に入らぬ事があれば高圧的に向けられる物言い。一方的に話題を振られ、口下手なユカがあたふたとしてしまい、返事をせぬうちに切られて終わる夫婦の会話。
(慣れたのに。そう思っていたのに)
『観光地のね、ん。敷地が無駄に広い、林の中の古いペンションを、スタジオ兼住まいにリフォームした』
ユカが行ってみたい。そう思って返事が出来る優しい話題。ゆったりとした口調。ユカさんと呼ばれ、視線を交わして、実家にいた頃の様に、変哲のない、なだらかな会話を交わした。
「とーるさんのせいよ。優しくされたから」
名前を呼ばれて、私なんと話をしたいなんて言われたから。
「寂しいのは、きっとそのせい」
呟くと、携帯をまさぐり手にすると、宝物の様に胸に抱いた。




