しずめて
朝、早い時間に起き、ベッドの上でユカは携帯を開く。お気に入り登録している作品を、布団の中でこっそり読むのが、ユカの少ない楽しみのひとつ。夫はまだ眠り込んでいる。
ウェブサイトを開くと、赤いお知らせの文字。もしかして、何時ものあの人から?嬉しくて、一気に華やいだ気持ちになる。
夫が在宅ワークの今日が始まる事に鬱となる、何時もの重い気持ちが軽くなる。メッセージを開けると、ユカの想像通り。画像投稿サイトへ飛んでみると。
驚いた。慌てて布団の中に潜り込む。
「タキシードちゃんよね」
囁く。携帯画面には、見覚えのある場所と猫の姿。
(もしかして、この『てん』さんって、とーるさんなの?)
時々、簡素なメッセージ内容と作品に沿ったフォト加工の画像を送ってくる、やり取りはそれだけのユーザー。ハムをしがんている猫のフォトは、昨日公園で見たそのままが写し撮られていた。
すっぽり潜った布団の中で、心臓の音が外まで漏れそうな程、ユカの躰の中で大きく音を立てていた。
☆
「おい」
仕事前のコーヒーを飲む、夫の呼びかけに気付くのが遅れたらしいユカ。食器を洗う手を止め、慌てて振り返る。
「朝からぼんやりするな。わかったな」
意地悪な口調に、ああ、またやってしまったとチクチク痛む心を奮い立たせ、何が?と聞き返す。タカシは、話の内容を繰り返し問われるのが嫌いな性分。
時々、書きたい世界に少しばかりトリップする事があるユカは、夫からしっかり聞けと、よく怒られている。
「はぁ、兄貴が飯食いに来るから適当に作れって話」
案の定、苛つくタカシの大仰な溜息混じりの答え。
「ごめんなさい。とーるさんが?いつ?」
「今日の夜、てかお前『お義兄さん』て呼んでただろう」
ドキっとした。少し詰まると応える。
「華ちゃんが、『とーゆしゃん』って言ってたの聞いて。それで」
姪っ子の話を持ち出した。
「ん、あ。そういやそうだな。まあいい」
ほっと胸を撫で下ろすユカ。カップを傾ける夫に、ソロリと問いかける。
「あの。メニューは何をお出ししたらいいのかしら」
社の後輩や同僚、上司を呼ぶ時は細かい部分迄注文をつけるタカシ。ユカはそれに習い聞いたのだが。
「なんでもいい。専業主婦なんだからそれ位、得意だろ」
ガタン。不機嫌そのものの答えを残すと、席を離れた。置いてけぼりを喰らうユカ。朝、貰った元気は、しおしおになり消えていく様。
(ちゃんとしないといけない、お家にいるんですもの)
ひと口飲み残したマグカップをシンクに運んだ。
冬の青空の下、ベランダで洗濯物を干している最中も、そそくさと朝の用事を済ましている最中も、エプロンのポケットの中の携帯が気になるユカ。
夫がリビングにこもり、顔を合わすことがない時間、ユカはユカのリズムで考える事が出来た。
(頂くFAには、サインが何時も小さく入ってた。とーるさんのそれなのかしら)
考えると、しおれていた元気が少しずつ沸き立つ。いつも通り、四畳半に向かうユカ。何時もの場所にちんまりと座ると画面を開く。
『ユカさん』
声が耳に残っている。今晩、何を作ろうかしら。久しぶりに明るい気持ちで、献立アプリからメニューを探した。
☆☆
行きつけのスーパーで、悩んだ彼女。あまり張り切り過ぎてもおかしいし、かと言って普段の食卓にしたくはない。
(何がお好きなのかしら)
カートを押しながら、候補に上げたメニューの材料を見繕うユカ。クリスマスパーティのオススメ食材が、セールになっている中、それに釣られてか妙に華やいだ気持ちになっている事に気がつく。
(結婚、した時みたい)
今と違い、ユカの名を呼び、気遣う事もあったタカシ。この人で良かったと思っていた日々。それがいつからだろう、タカシのリズムに合わせる事が難しくなったユカ。
(私に赤ちゃん、出来なかったからかな)
カートに幼子を乗せている、母親の姿を見ると、チリリと心の中が寂しい音を立てる。いつからズレてしまったんだろう。もし、コウノトリが来ていたら。
(外に女なんて居なかったかも、知れない)
夫の事を考えると、胸の砂がザラリと重い。華やいだ気持ちが急速に萎んで行く。結局、当たり障りの無い献立になった。
会計を済ませ、食材をエコバッグに詰め込んでいると、いたわりあいつつ、買い物をしている老夫婦の姿が最近、目につく様になっているユカ。
(年をとって、おばあちゃんになったら。お醤油や白菜やお芋に牛乳。重い荷物を私、持って帰れるのかしら)
ねずみ色した不安が広がる。
(あんな風に私達も、年を取れるのかしら)
チリリ。寂しいと心が音立てた。
☆☆
「ハッハ。兄貴、未だ、独り身って本当?おい、氷」
乾いた笑いのタカシ。リビングで軽い酒宴。ユカは輪に入らずダイニングで控える。おいお茶、おい、醤油、と言われる毎に運ぶのは、何時もの事。
「うん。こんな仕事をしていたら、なかなかなぁ。美味しいです。ユカさんも座られたら」
トオルの申し出を嬉しく思いながら、私は大丈夫です。と答えるユカ。そんな彼女に、忘れない内にと封筒を差し出したトオル。
「ああ、先にこれを。画廊でイブにナイトミュージアムをするから。ラストワン、貸し切りの招待券。夫婦でどうぞ」
「私に?」
「食事のお礼です」
嬉しかった。直ぐに受け取りたかったのだが、タカシの顔を伺うユカ。
「良かったじゃないか、行ってくれば。俺は行かないけど」
物言いたげな視線を受け取り、サラリとそう言われる。
「ありがとうございます。嬉しい」
それを受け取り、頭を下げ顔を上げぬ内に、タカシがユカを追い払う。
「おい。チーズ持ってきて」
「ハイ」
キッチンヘと向かう背に、聞こえるのは、タカシが次、加わる大企業とコラボをする、ビッグプロジェクトに移っていた。
「へえ、弟君。優秀だねぇ、アレに加わるのか」
「まぁね。ん。兄貴知ってるのか?まだ公になってないのに」
カラン。グラスをひと口傾けたトオルが、まあねと返す。
「ホームページやら、ん。諸々のね、大手企業の仕事も請けているから。彼処の会長とは懇意なんだ」
「へえ。猫ばっかり撮ってるんじゃないのか」
意外だな。とタカシの声がユカに届く。
「猫はライフワーク。それがたまたま当たっただけさ」
チーズの皿を置いた後、空いた皿を下げるユカ。トオルの顔をちらりと見ながら、フォトの事を聞きたくて仕方がない。しかし夫の手前、それはできないと身を引き締めている。
兄のさり気ない言葉が気に触ったのか、ムッと黙り込むタカシ。
「ちゃんと社会人として暮らしている、お前のほうが立派さ。僕なんて父さんにそろそろ落ち着けって、この年になっても言われるんだから」
そんな弟の様子に気がついたトオルは、気を引き立てる様に声をかける。ハラハラしながら、その場に留まり黙って見ているユカ。
「ま、まあね。これでも頑張ってる」
「そうだよ。素敵な奥さんも貰ってさ。馴れ初めは?ユカさん」
不意打ちな質問に驚く。
「あ、あの。叔父様のご紹介で、取引先企業に良い人がいるからって、その」
しどろもどろになりながら、答えた。もっと上手く喋れたらいいのに。こんな時、引っ込み思案で口下手な自分が、何時も情けなくなる彼女。
「おい。何かさっぱりしたもの用意して」
「は、はい」
その話はするなという、裏を含んだタカシのそれに気が付き従うユカ。話を続けたそうなトオルの側を離れ、キッチンに向かう。
何かあったかしら。シンクの上の果物籠を眺めた。
(叔父様の社にはタカシさん、お世話になってるのに)
タカシはその話をされるのを特に嫌う。
(お見合いでした。と言えばよかった。なら、側に居られたのに)
レモンをトン、切り分けながら、何気無い気持ちが心内で言葉になる。
「え。やだ。私ったら。何考えてるの?」
ステンのボウルに水を張り、キュッと串切りを絞る。ポトポト、シタシタ。酸っぱい果汁が滴り落ち、澄んだ水がうっすら濁る。
(とーるさんの側に、居たいだなんて)
『美味しいです。ユカさん、ユカさんも座ったら』
気遣う声がリピート。それに反応をし、ふるふると子猫の様に身を震わせる。
シャリシャリ、シャリシャリ。
赤い津軽を剥きながら、頬が同じ色へと、ポッポと変わる様な熱を躰が放つ事に気がつくユカ。
(やだわ。何、赤くなってるの。優しかった頃のタカシさんに似ているだけ、でしょ)
とぽん、とぷんとカットした林檎を、ボウルのレモン水に入れるユカ。
空気に触れ茶色に色変わらぬ様、白い指先で林檎を押して沈めるユカ、ほんのり、別の色で温かくなった心も、躰の中の奥底に、とぷんとしずめて。




