ひそめて
名を呼ぶことも無く、四十路を迎えた、ぽってり熟れた躰の上で、ゆさゆさと夫。亭主元気に勿論外には女の気配。
それを知っている妻は、心の内で、うろ覚えな般若心経を唱えつつ、成り行きに任せている。
(コトが終わったら、内職しなくちゃ)
そして。妻は夫が寝静まると、寝室を出て『内職』を始める為に、四畳半へと向かう午前2時。
パチリ。
灯りをつければ家具のない四畳半は寒々しく、ユカを出迎える。暖房を入れると、クローゼットから花柄模様の包装紙で、デコパージュした箱を取り出した。
そこには不要なダイレクトメールと、ハサミ、ハンドルを回すタイプのシュレッダーが収められている。
夫がこぼしたコーヒーのシミが薄く残る、不要になったラグの上に座るユカ。箱の中から、ユカ宛で差出人の名前が書かれていない封書を取り出した。
チョキ、チョキチョキ。
封を開ける。中からムアッとした香水の匂い。差出人の主張が先ず届く。ハタハタ。中身を振り落とすユカ。以前、カミソリの刃が仕込まれ、怖い思いをしたからだ。
パサ。ピンクのカードが1枚落ちた。
『さっさと別れろ、地味女』
それに真っ赤なルージュの殴り書き。茶色く染められウェーブした髪の毛が一本。夫の襟につけられていた色と、ポケットから出てきたそれと同じ。
目を通しきちんと正座をする、シュレッダーの投入口にそれを入れる。
クルクル、クルクル、クルクルクルクル。
ハンドルを回す。無になり、ヒメゴトを終えたはずなのに、どこもここもガサガサに乾いて、ハンドルをクルクル回す深夜2時の四畳半。
スルスル、スルスルと千切りになった紙が出来上がる。終わるとダイレクトメールも処理していく。
クルクル、クルクル、ハンドルを回す、夜半の部屋。
☆
結婚をした折に家庭に入る事になんの疑問も持たなかったユカ。落ち着いた頃に夫は、先を見据えてマンションを購入をした。
会社に近く、夫の実家にも近い町へと。
「子どもは早く欲しいね、ユカ」
「欲しいわ、タカシさん」
「出来れば奥さんでいて欲しいな、ん。僕は共働き家庭だったから、寂しかったんだ、妹はまともだったけど、兄貴はあんなんだし。我が子にそんな思いさせたくない」
夫の要望により、家庭におさまったユカ。
全てを夫に頼るという事に、まるで飼い猫みたいだなとおもいつつ、新生活が始まったユカ。
やがて夫が少々、女にだらしないところがあるのを知ったユカ。
相手の女の本気度により、嫌がらせをされる度、隠れて泣いていたユカ。
「ゴメン。もう二度としない」
浮気がバレる度に、頭下げて謝るタカシ。そしてユカの躰を抱き締める。柔に求め夫が愛の行為と信じるそれで、コトを収めた。
別れようと思った事はあるにはあるのだが、一歩踏み出す勇気が無かった。無理に気持ちを押し込んだユカ。
溜まり行く鬱屈を吐き出す様に、時々ウェブサイトに投稿をした。高校時代の作品も、アップしてみた。
ぽつり、ぽつりと過去の仲間らしきユーザからのコメント。気恥ずかしく、それに返すことは、なかなか出来なかったが、ひっそりと楽しんだ。
(文芸部でよかった。ちょっと書いたら、スッとする)
幸せとは片手落ちがいいと聞きた事があるユカ。きっと、どこの家もこんなものと諦め、子どもができたら変わるだろうと信じていた彼女。
(子どもができたら、童話を書こう。優しい話)
小さな夢をよすがに、鬱々と過ごしたユカ。
家と社の往復に休日も何かと忙しく、夜遅くに帰り彼女を求めたあと、時々。ふと、唐突に何か欲しい物ある?と問う夫の裏に何があるかを気が付きながらも、平穏を壊したくない彼女は、知らぬ顔を突き通した歳月。
そこについぞ、コウノトリがやって来ることは無かった。
結婚をするとお母さんになるという、当たり前の様に信じて疑わなかった道は、ユカの前に広がっていなかった。
望んでも、望んでも。カラカラに乾くほど欲しても、子どもに恵まれなかったユカは、ママ友にも出逢えず、親しく話す相手がいないまま歳を重ねた。
そして気がつけば夫から、言わなくてもわかっているだろう、という自己思考により、睦言を囁かれることも無く、名を呼ばれる事も無くなったユカ。
マンションの裏手にある小さな公園には、町ねこ達が住み着いている。猫好きなユカは、味噌汁を作る毎に引き上げる、出し殻の煮干しや残り物を昼に与えるのが楽しみ。
ニャァ、ニャァ。したした、匂いに敏い友人が、孤独なユカに気がついた。
「こんにちは、ちゃろくん。寒くなったね、大丈夫?」
日中でも吐く息が白い季節が訪れた。うらうらと太陽の光が照らす中で、少女の様にしゃがみ込み、マスクのから、言葉通じぬ友に話しかけるユカ。
「なんだかね、疲れちゃった、ちゃろくん、ちゃろくんたちみたいに、鳴きたい時には声出せて。そんな風に暮らせればいいのに」
長年傷ついてきたせいか、胸の中にジャリジャリとした、砂を溜め込んでいるユカ。
「でもねぇ、おばさんだもん。自分で餌を捕ることなんてできないの。だめねぇ。ホント」
ハミハミ食べる、言葉通じぬ友に話をする息抜きのひととき。
ウィルスが世界的に季節性となり、安全宣言が出され、定期的な検査とワクチン接種が義務化により、イベントも人流が元に戻っている。マスクは衣服と同じような立ち位置に出世を果たした。
そして夫が朝、出勤をし夜に戻るという、変哲の無い日常に戻ると、どこかで信じていた彼女。しかしリモートワークで、多くの事が片付く夫の生活形態は元には戻らなかった。
広く、何かと便利なリビングで、一日の大半を過ごす夫。掃除は、夫が起きてくる前迄に、済ませて仕舞うことが習慣になった。続き間のダイニングキッチンは、夕食後に片付けてしまう。
洗濯機は7時から10時迄。規約に従い、毎朝7時にスイッチオン。二人分など干すのもあっという終わる。並行して、味噌汁を作り卵焼きを焼き、昼食がまちまちな旦那のお弁当を詰めてしまうと、あとは散らかす子どももいない、ペットもいない大人ばかりの世帯の家事は、大方終わったも同然。
以前は細々とした家事を、夫の居ない日中にゆるゆると丁寧に片していたユカ。
その時間がウィルスの蔓延により、奪われてしまった。
夫が本格的に動き出す前に、廊下と寝室、使っていない四畳半のフローリングに掃除機をかけてしまえば、する事が限られてしまう。
キッチンでホームベーカリーも、ハンドミキサーも、使うことに気が引け、趣味だったそれは休日か、夫が社に出向く日だけの楽しみに追いやられた。
寝室にはシングルベッドをふたつ、並べて押し込んでいる。そこで過ごすことも、日中、寝転がっているといわれそうでできない。ベッドの上で編み物やパッチワークをするのはユカが嫌だと思う。
ダイニングキッチンで、は。夫に気楽で良いなと言われかねない。好きなウェブサイトで小説を読むのも、書くのも遊んでると思われそうで出来ない。
ギチギチに追い込まれてしまったユカは、いつか子ども部屋にと空けていた部屋に逃げ込む様になった。空調設備だけがある、がらんどうの四畳半。
そこに手芸道具とソファーからクッション、寝室からブランケット1枚等を持ち込み、携帯で小さくひそめて音楽を聴いたり、読んだり洗濯物を畳んだり、ちんまり過ごすユカ。
そしてその頃から、感覚も味覚も夫を前にすると、ザラリと砂を喰むユカの躰。
夫を目の前にしつつ、食事をしても美味しくなく、砂を喰むとはこういう事と、黙って食材を呑み込む様になった。
秋の新米も、日々の味噌汁や煮物も、たまに夫が外でたっぷり汗やら、その他のモノやらを出して楽しんだ後、お詫びだとバレバレの、定番のケーキや有名店のデリバリーも。
口の中に味は広がるが、胸の中に砂利がみっしり溜まり、美味しいと感じない。それは夜、夫と躰を重ねた時もそう。
(早く終わればいいのに。早く食べ終わって欲しい。何もかも乾いていて、ジャリジャリして)
目の前の夫は何もかも変わらず、快適に過ごしている気がするユカ。鏡を見るたびに、どうして自分だけこんなに歳をとったのと、たるみを感じているユカは、年齢よりも若く見える夫と比べ哀しくなった。
「ほら、煮干し。おいでおいで」
昼間。寂しいユカはいつもの様に公園に出向いた。
音。と。声。
驚いた心。ユカはドキドキとした。
心がチリリと声を上げた様な、久しぶりの感覚が広がった。
夜になると北風がコトコト、音立てていた。いつもなら鬱々とした気持ちが、昼間の公園で、意外な人と出逢いった事により、少しばかり心がけ軽いユカ。
家に戻ってから、しまい込んでいた卓上サイズのクリスマスツリーを、ダイニングテーブルに設えた。ツリーの小さな飾りがキラキラ光る。
それを見て気がついたのか。
「そうだ。クリスマス家にいるよ」
夫の言葉が重く届いた。薩摩芋の甘露煮がぐっと喉の奥で塊になるユカ。飲み込むと返事をする。
「タカシさん、予定ないんだ」
「ああ」
「そう」
夕食時のテレビで、今年の子どもの名前ランキングが、にこやかに流れている。
「女の子は『華』ちゃんで、男の子は『大翔』君だと、お茶入れてくれ、オイ」
(女の子なんて、『オイ』、『おまえ』になるのに)
コポポ。夫のそれにユカは急須を傾けつつ、つまらない事をぽつりと思っていると、思いがけない話に続いた。
「そういや兄貴と出会った。ん。ゴメンってさぁ、昔の事、謝って来たんだ、すっかり忘れていたよ」
「そう」
『私も』と続こうとして、なぜだか言葉が宙ぶらりんになるユカ。彼女のソレを置いてけぼりで、何時ものように話は進む。
「写真のタイトル、そういやそんな事もあったねって、俺がなってさぁ、おかしいよな。10年経ったらなんとやら、なのにさぁ、ん。あの時、俺バカみたいだし。風呂入ろう」
ガタン。夫タカシが、言いたいことだけ喋ると立ち上がるのはいつもの事。ユカの話など聞くことはない。
ジャリジャリ、ジャリジャリ。ユカの躰の中で音がする。『ひどい』と言いたい言葉が出てきた。
言っても仕方が無いし事実なんだからと、こみ上げるモノを呑み込むと、シンクに食器を運ぶ。何時もなら、公園のネコの甘える鳴き声が耳に蘇るのだが、今日は昼間の声が慰めてきた。
「ニャオン」
ネコの鳴き真似と夫が呼ばぬ名前を、似ていて、似ていない男が優しく呼ぶ声音。
「ニャオン」
キッチンで洗い物をしながら、真似てみる。次にこう声掛けされたら、……。返したらどうかな。甘い雫が、一滴カピカピにひび割れた心に、しとりと広がった。
(あ、何か書けそう)
ふと思いついた。片付けが終わり寝る前、四畳半に入り携帯を取り出すと、久しぶりにページを開いた。青い光をスクロールしていく。吐く息が白い。200文字になる様、組み合わせて。
(みんなどうしてるかな。高校生の頃が、一番楽しかった)
鬱々と、がらんどうの部屋で、更夜。凍えるユカはどこもここも、カラカラに乾いている。




