ふたつめのかけ
朝食の洗い物を終えると、ユカは冷蔵庫を開き食材の確認をしている。昨夜眠りに落ちる前に数日、買い物に行けないかもと、気がついた。幸い、年末年始の大売り出しで醤油や砂糖、小麦粉。重い買い物は幾つか済ませている。
「コンビニ位なら行けそうだから。なんとかなるかしら、冷凍庫のストックを使っちゃえば。大掃除になっていいかも」
小声で呟くと、怪我をし数日とはいえ、買い出しに不自由になるのにも関わらず、何時もとは違う前向きな事を思う自分に気がつく。
「せっかくだし、オーナーに挨拶をしとこう」
タカシの声が耳に残っている。
(優しいところもあるもの)
貴子に、聡子に。そして実の兄に、この機会に身の振り方を考えろと言われた事を思い出す。
「そんな元気も無いんだけれど」
軽くびっこを引きつつ、洗濯機を回そうとランドリーに向かう。バスケットから取り出し洗濯ネットに入れ、カッターシャツの袖口と襟首に専用洗剤を塗布しようと手にした時……、
色に気が付く。
「口紅だわ」
見覚えのある色。封筒に、昨日見下ろしてきた唇と同じ色。
「口紅よね」
言葉を繰り返す。華やいだ気持ちはザラザラと砂にまみれ、散り散りに消え去った。唐突に、若い頃感じた、悔しい気持ちが顔を覗かせる。
「あの女と同じ色」
ピキキと、何かにヒビが入る音が遠くで聴こえた気がする。それ一枚を洗濯機に入れずに洗剤を入れスイッチを押した。ピッ、ヴォンヴォン、バシャバシャ、モータ音、水の音。握りしめるカッターシャツ。
息をひとつ飲み込むと、くしゃくしゃと丸め、ゴミ箱の中に突っ込んだ。
☆
小さい丸い椅子に座る四畳半の部屋。ドレッサーを使う時は、また動かす事になるのだが、立ち上がりを考えると、無いと不便と思い運んだ。
コトコトと動きクローゼットを開ける。中にはシュレッダーをかけていない相変わらずの封筒。日々届く、ダイレクトメール。
「同じ色だった」
ひとこと、つぶやく。ドキドキとしている。これまでとは違う、独りぼっちじゃない実感がある。昨夜、叔母から連絡を受けた実兄が、帰って来たらいい、仕事なら知り合いに頼むと話してくれた事が。
別れる事に力を貸すと言っている、叔母や義妹、自分に好意を持っているらしい、義兄の存在が。
(世界に独りぼっちじゃない)
私を見てくれている人達がいる。大丈夫、怖くない、怖くない。ほんの少し、世界が優しくなった気がするユカ。
「若い頃の様に聞いてみる?」
扉を閉めると椅子に座り呟き、自問自答。でも、今は。ふと気がつく。下手に動けばナイト・ミュージアムに行けなくなる。
「駄目よ、今は。気が付かなかったフリをしなくちゃ」
足首に目を向ける。おしゃれをしていきたいが、この足で履ける靴はムートン位しか持っていない。こんな時に、悔しくてカサカサ乾いている唇をキュッと噛む。
昨日、見下ろしてきた女を思い出す。
(綺麗な人だったわ、髪も肌も服もキラキラしていて。タカシさんと恋してるから?)
大勢の男の人に綺麗と言われているから? 手を広げ眺める。カサカサに乾いた肌、シミも所々にある、家事仕事で節が目立ち、白魚の指とはいかない。
パンの生地を捏ねる時には外すマリッジリングは、昔のような輝きは無くなり、そこにただ、あるだけになっている。
「私もあるだけの存在なのかしら」
気持ちが高まる。エプロンのポケットから携帯を取り出すと、ページを開く。しばらく考え。
『仕事をしているから
僕は君より偉いんだ
僕は収入があるから
君よりずっと偉いんだ
朝、何時もの様に起きる
クローゼットから着替えを出す
朝、食べ終わると席を立つ
仕事に向かう
昼食、仕事をこなして
夜、家に帰る。
夏は涼しく、冬温かい部屋
灯りはともされている
夕食を食べて席を立つ
脱ぎっぱなしで風呂に入り
整えられた寝具の上で
ゴロゴロ過ごす寝る前の時間
何時もの様に寝る
明日も続く順調な日々
パチンと消えた、毎日の歯車。
クローゼットを開けても
ピシッとしたカッターシャツがもうない
引き出しを開けてもシャツも靴下も下着も
洗濯機外は山になっている
中は干し忘れたものが溜まっている
早く起きて、洗濯とゴミ出しを
しようと思っていたのに、簡単な事なのに。
どうしたら出来るのだろう
タカシの未来』
「ウフフ」
書き上げ笑いが出る、投稿はしない。執筆中に置いておく。気持ちを吐き出した事で、スッと落ち着きを取り戻す、閉じるとポケットに入れる。
「私って、こんな女だったのかしら。でもタカシさんもタカシさんなんだから」
意地悪だわ。嫌だけど、でも。と昨日の事、これまでの出来事を思い出し、心の中が負の感情で、いっぱいいっぱいになり、溢れそうになっている事に気がつく。
「迎えに来てはくれなかったの、怪我を負わせた女といたの、酷い男ってきっと皆言うわね。私もそう思うもの。ひとつ目の賭けは負けね。ふたつ目は、綺麗って言ってくれるかしら」
ナイト・ミュージアムに出かける時に、お化粧をして、髪を整えて。去年編み上げたお気に入りのモヘアのセーターにロングフレアスカート、ムートンのブーツに合うように。
(きっとタカシさんはあの女に言ってるのよ)
ベッドの中で抱きしめて、カッターシャツに口紅がつく距離で顔を合わせて、その中できっと言ってるよの。ユカの頭の中で囁く負の感情の声。
「言ってくれたら」
四畳半の部屋、小さな椅子に座り、あるだけになっている、マリッジリングをくるりと回すユカ、小声で呟くと、湿布とテーピングの足をパタパタと小さく動かした。
「もう少し、良くなると思うけど。年取ると治りが遅いからやあね」
パタパタと、子どもに戻り動かした。
次はいよいよナイト・ミュージアムです。




