誘い
カチャン。ノブに手をかけたタカシ、そのまま勢いよく開こうとしたのたが。
「だいじょうぶだから。ほんとうに。うん、そうなの。おばさまからもいわれたことは、しんぱいしないで、じゃぁ」
『おばさま』その単語でユカの相手が兄、トオルでない事に気がつく。
(ハッ、ハハ。そうだよな、そんなことありえないのに。何馬鹿な事を考えたんだ)
「そうだよな。こんな日に、こんな時間まで起きているのは、俺を待っているから。だよな」
小さく呟くと、不埒な妄想がシュッと音立て消えていくタカシ。
「ただいま」
「おかえりなさい」
何時のやり取りは、何時もの様に淡々と。
☆
年甲斐もなく、ふわふわと甘い夢を見た気がした。朧げに、記憶に残っているユカの香りがそうさせたのか。寝具のカバーリングから、仄かに香るフローラルなそれがどことなく似ていたからか。
(はぁぁ。朝から疲れる)
目覚めの悪さに辟易としつつ、布団に包まったまま携帯を開くとまだ外は暗い時刻。メールが数通、着信している。開くと、
【早めに画廊に来て下さい。着替えを持っていきます】
香織からのそれ。
【プレオープンなので、取材が来ます】
弟子からのそれ。
【忘れてたけど、ナイトミュージアム、結が行きたいって言い出して。ダメかな?】
聡子からのそれ。
それぞれに返信を済ませ画面を閉じた。
(起きよう。カラス撮りに行かなきゃ)
大きく伸びをひとつすると、軽い羽布団をはねのけベッドから下りた。
「もう少しゆっくりされて、一緒に出たらよろしいのに」
トオルを見送る為に早起きをした、オーナー夫人に申し訳なく思いながら、最近街に住む鳥が気になっていてと、靴を穿き込み話すトオル。
「あら、素敵な。今度いらした時に作品を見せてくださいな」
あらごめんなさい。小さく欠伸を手で隠す夫人と別れたトオル。息が真白に濃い。日が昇る前の1番下がる時刻。霜がきららとアスファルトに粉を叩いている。
路地裏の方がいるな。画廊に向かいつつ、歩くトオル。きれいな街づくり運動が奨励されている通りや町内には、ゴミを漁るカラスや野良猫の姿はあまり目にしない。
チュンチュンと雀が空を舞う。見上げるとふくふくと丸く、シャッターを押す。
「起きてるかな」
早起きだという、確信があった。
「大丈夫かな」
聡子に心配無いと聞いているが、不安が頭の中に住んでいる。
「フフ」
不意に笑いが出た。浮かんできた良くない感情を押し込める。ビルとビルの間の空間に向かう。左右に並ぶ居酒屋、焼き鳥屋、ショットバー、多国籍料理の店、バルなんて看板もある、飲み屋街。奥に進み路地をまた曲がると、少しばかり酒に混じりすえた臭いがアスファルトに広がる場所に出た。
「雰囲気あるなぁ」
ドン。と裏口に出された黒のゴミ袋。それを狙うカラスの気配。積まれた酒瓶のケース、段ボール箱。警戒しているのか、見上げる先にカラスは周回をしている。
離れるか。トオルは来た道を戻り、経験から出す絶好な距離から、じっとその時を待った。その時は真っ白になる。現実の全てがサラリと消えた。
☆
「さてと。満足満足。猫も撮れた。かわいいなぁ。ん。朝ごはん買って、電話をしようかな、あ。香織君」
コンビニを探しながら歩く。すっかり明るく目覚めた街には、人々が動き始めている。ポケットから取り出し開いた画面に着信履歴。遅刻はしないから返事はいいかとなり見つけた店舗に入る。
(ここのイートインスペース、いい場所だな。通りから見えそうで見えないけれど、内からだと良い角度で眺められる)
コーヒーとおにぎり。日本にいるときの定番スタイル。フィルムを剥がし海苔をパリリと食む。昨夜うつらうつらとしながら、どうするかを考えていた事を整理していく。
(聡子に頼もうか。嫌だと言われたらその時はそのとき)
後で聞こう。コーヒーを飲む。
「そろそろ起きてるかな、弟君は」
もぐもぐと咀嚼しながら、次に進む。食べ終わり携帯を開くとドキドキと高まる心臓の音。年甲斐も無く緊張を感じる事に情けなく思いつつ、勢いのままに通話を始める。
トゥルルル、トゥルルル、トゥルルル……、呼び出し音。
出ないなら昼にでもと、コーヒーを飲み干す。コールを数えて5回。
「もしもし、こんな朝早くになに」
寝起きなのかぶっきらぼうな声が出た。
「おはよう。7時半って早いのか。ごめん」
まぁいいけど。タカシの声の向こう側に意識が集中していく。僅かな気配を耳が探っているのを止められない。
「今、時間空いている?」
「朝飯食べているところだから、大丈夫」
弟の答えに朝食なら、近くにユカがいる期待が高まる。さり気なく問う。
「昨日は大変だったね、ユカさんの怪我は、大丈夫?」
「軽い捻挫だそうだ、わざわざすまなかったな。世話になって」
タカシの言い方に棘を感じる。
「近くだったから構わない」
「聡子も大袈裟だよな。昔っからそうだけど、とりあえず、なんともない」
おい、コーヒー。タカシの声。ハイ。微かなユカの声、椅子を引く音。従うそれを聞くと、タカシに自分でやれと、文句のひとつも言いたくなるのを、この先を考え堪えたトオル。
「そうか、良かったよ。なら、ナイトミュージアムには、タカシが一緒だと来れるな」
上手く誘い出せるか。緊張が高まる。
「イブのか? 歩くのには大丈夫だが」
渋る口調が否を暗に告げている。
「なら、せっかくなんだから、夫婦揃って来いよ」
明るく、さり気なく。通話の向こう側から感じる、ユカの気配が濃い。息を殺し成り行きをみているのを感じる。それに同調していくトオル。
ドキドキとする、どうすると聞いてほしい。というか聞け、お前、弟だろう。ろくでもない女と浮気している、ろくでもない弟だろう。緊張が高まる、手にしていたコーヒーの容器を握りしめ潰す。
「そうだな……、おい。どうする」
「……、……、……、わ」
夫婦のやり取り、微かに耳に入る声が切なく残る。
「行きたいと言ってる」
「そうか、良かった」
「せっかくだし、オーナーに挨拶をしとこう」
ビジネスと結びつけたタカシが、あっさり応じた。じゃぁ待っているから。ユカと話をしたい気持ちを押し込め通話を終える。ギュッと締め付けられる様な、十数年昔に戻った心の動きを持て余しつつ、計画を実行に移す段取りを始める。
着歴をスクロール。
「もしもし、聡子。おはよう、朝っぱらからなんだとか言うなよな」
軽く牽制。朝ごはん食べてる最中にらなによとの返事に。
「ナイトミュージアムにさ、家族揃って来いよ」
「いいの? ゆい、皆でねこさん見に行けるよ! 代わるって」
もしもし、やったぁ~! ありがとう! 明るく澄んだ結の声が弾けて届く。
「うん、待っているから、パパとママと、一緒に来てね」




