たからもの
公園を後にしマンションに辿り着いたユカ。郵便物の確認はせずに真っ直ぐ部屋に向かう。エレベーターの中で、有り得もしない期待を持つ。少しばかり長く歩いた事で、じくじく痛み始めた足首を庇うよう冷たいステンレスの壁にもたれ、階の数字が進むのを見上げている。
(迎えに来れなかっのは、あの女に逢いに行くからだって、分かっているのに)
指定した階で止まる。ゆっくりと降り歩くユカ。通り過ぎるドアの前には、クリスマスリースが飾れている部屋も多い。
「前は私も飾っていたのに」
ぽろりと漏れる言葉。
(ツリーもそうだけど、いつの間にか心も何もかも、パサパサに乾いちゃって、意味がなくなったの)
のっぺらぼうなドアの前に立つと、鍵をバッグから取り出そうとし手が止まる。ひとつの賭けをした時と同じ気分に陥った。
(家に居たら。仏頂面で出迎えてくれたら、リビングだけでも暖かく暖房が入っていたら、自分の為にでも)
緊張が高まる。ドキドキしながらインターフォンを押した。
……、……、……。
解っていた結果なのに酷く寂しく、心の中で何かがまたひとつ、ペリリと剥がれ消えて行くユカ。鍵を取り出しドアを開けた。
☆
キッチンとリビングに灯りをつけ暖房を入れる。外から帰るとマスクを処理をし消毒に手洗い、バタバタと行うのも習慣になっている。冷えた身体を温めたく、ケトルに水を入れるとお茶の仕度を始めた。
酷く疲れていた。医者から一晩、入浴は避けるようにと、言われているユカは残念に思う。お気に入りの入浴剤でとろりと癒やされたかったから。
食べたゴミを棄てると、立っている内に食器棚から宝物のアンティークのカップとソーサを一客、飾りの揃う銀のティースプーンをそろりと取り出した。
亡くなった祖母が結婚祝いに、銅のコロンとした小さな鍋と共に贈ってくれた品物。
暮らしていく内に、新婚生活の為に揃えた食器や台所用品はいつの間にか、すっかり代替わりをしている。レンジにかけて温める事が多い物は、案外早く呆気なく割れてしまう。
飯茶碗は年を追うに連れ、大きさが変わって行った。夫婦茶碗だと夫用が大きく、そこに軽く盛ると貧相に見えると文句を言われた頃から、小さめのサイズで色違いを探して買っているユカ。
ガラスのティーポットと、ワイルドストロベリーが細かく描かれた、カップに熱い湯を注ぎ温める。ティーパックの紅茶でも、何時もひと手間加えるのにこだわる。
(タカシさんはさっさとしろって言うの。コンビニの紅茶だって、しばらくティーパックを置いてくださいって言われるのに)
何時もなら無糖で飲むのだが、一人きりの今。甘い紅茶にしようと思う。ガラスのポットに入れてある、マルキチシュガーのスクエアキューブを出してきた。
「シュガーは三温糖が美味しい。優しい感じが好きでね、これかわいい砂糖でしょ、おばあちゃんのとっとき」
白髪を一部、極々淡くピンクに染めていた祖母が好きな角砂糖。紅茶もホットミルクもコーヒーも、これを入れるとワンランクアップするのよと、幼いユカに秘密だと教えてくれた思い出が蘇る。
湯を棄て、ポットに紅茶を仕込みながら浮かぶ祖母の姿は、懐かしさがユカをほんのりと癒す。
「どの色にしようかな」
勿論白いのもある、薄茶色、濃い茶色、精製の違う砂糖で作られている小さな四角達。子どもの頃は濃い色が一番甘いと信じていた。キッチンのいつもの席に座る。
途端。足首がホッと息をついた感覚。小さなトングでひとつ、摘むとスプーンの上に置く。ぷくぷく……、ゆったりとスプーンの上の砂糖を浸して沈めていくのは、ユカが小さい頃から、お楽しみにしている事のひとつ。
シュワシュワと崩れる様に溶け、細かな泡がぷくぷく上がるのが目に楽しい。そしてくるくる混ぜるのも。スプーンを扱いながら、主のいないリビングを眺める。
ユカの居場所が消えて行ったその部屋。タカシがテレワークになる前は、平日昼間の主はユカだった部屋。今はあちらこちらに、仕事に使用する物が雑多に置かれている。
若い時は。温かい紅茶を一口含み考え、言葉に出してみる。
「嫌だった。別れて、別の誰かが家入り込むのは」
――、私が掃除をして、管理をして、お気に入りの物を飾っている場所を横取りされる気がしていたの。
「今は。どこかで薄情な私が、別にいいと思ってる」
(多分、疲れたから)
「燃えるゴミの日、燃えないゴミの日、資源ゴミの日、それぞにきちんと分類して、ビン・カンは洗って乾かして。ペットボトルのキャップは別にして、ラベルは剥がして、ボトルは洗って乾かして」
(ゴミだけでも倒れる迄先を思うと疲れてしまう)
「飲んたら飲みっぱなし、脱いだら脱ぎっぱなし、集めて分けて棄てて。グラスや服は集めて運んで」
(それでいてお前は家で何もしていないと言われるの。家事は仕事じゃないの、タカシさんの中では)
「それでも若い時は楽しかったのに、家の事を細々とするのは好きだから」
(何時からかしら。タカシさんの為に動く事が、義務と圧を感じる様になったのは)
「子どもがいたら。違ってたのかもね」
人肌に冷めた紅茶をこくこくと飲み干す。
「そういえば、若い時に出ていく事になったら、銅のお鍋とこれは持っていこうと思ってたっけ」
ピカピカに磨いている銅の鍋は、今も大切に使っている台所用品。手にいているカップもそう、両品共にユカの数少ないたからもの。
自問自答を終えると、手の内でくるりとカップを回す。空の底を見る。しばらくそのままでじっと考え込む。
ガタン。席を立つとシンクに運び、欠けぬ様注意を払いつつ茶器を洗う。洗いかごで伏せ水気が切れると、布巾で丁寧に拭き上げ、銅の鍋と共に食卓へと運んだユカ。
(何をしようとしてるのかしら)
食卓の上には今朝タカシが読んだ新聞が、そのままにある。それを広げると。
カップを丁重に包む。ソーサーも、銅の鍋も新聞紙にカサリとくるまれる。鍋の形の包みの中に、茶器を入れ込むと、四畳半へと向かうユカ。冷えた廊下がいいのかと問うて来た気がする。
ひょこひょこと転ばぬ様に歩き、ドアを開け灯りをつけた。息が白くもわる。冷え切った何もないカランとしたユカの今の居場所。
クローゼットの中にはリビングに飾っていた、キルトや刺繍を刺したテーブルクロス、小物の数々が押し込んでいるダンボール箱がある。ひとつを引きずり出し、開くとたからものを中に入れた。
「ついでに。アレもしておこう、ここじゃ座れないから」
溜まっているダイレクトメールと、足首に怪我を負わせた女からの封書がはいった箱、クルクル回すシュレッダーを抱えるとキッチンに戻るユカ。ひょこひょこと廊下を歩いて行く。
「よっこいしょ」
ふう。座るのに声が出るなんて。苦笑が浮かぶ。
「タカシさんに見せようかしら。見せたらどう言うのかしら、あら? いつの間にかメッセージが入っている」
作業を始めようとした時、テーブルの上に置いていた携帯がふと気になったユカは貴子からのメッセージに気がついた。今日のほど事を御礼を言うのを忘れていたと、慌てて開いてみると。
「そんな事をしても……、大丈夫なのかしら」
驚き声が出る。
(届けを警察に出した方が良いだなんて。院長先生とのお話って、そういう段取りを進める為だったの? 叔母様のお宅の弁護士さんにも連絡しているからって、どうしよう)
『考えておいてね』
締めくくられた言葉に、そんなの無理としか、気持ちが出ないユカ。誰かに相談しようにも周りにいないと気づかさせられる。
(どうしよう、そんな事になるなんて……。叔母様は何を考えてるの?)
ピルルル、ピルルル♪ 着信音がキッチンに響いた。驚き息が止まる思いをするユカ、相手の名前を確認すると。
「え? お兄さん?」
実家を継いでいる兄の名前。出るかどうか、疎遠になってから滅多とやり取りがない相手。ひと息悩みつつ、同居している高齢を迎えている両親に、何かあったのかもと思い直し、通話を押す。
「もしもし、お兄さん。お久しぶりです」
「うん。元気にしているか? 貴子さんから連絡を貰って、父さんも母さんも心配している。その。早く電話しろとせっつかれてたんだけど、聞きたいことがあるから遅くなったけど。電話今、大丈夫か?」
貴子からの連絡と聞き、頭の中がジンとしびれる。タカシさんが居なくて良かったと思いながら、画面に目をやると、10時を5分ばかり過ぎた頃。
(大丈夫、まだ帰って来ない)
携帯の向こうは、昔と同じ穏やかな兄の気配。子どもが無い事で疎遠になっている実家との間柄なのだが、こうして連絡をくれた兄に、抱えている悩みを話そうか話すまいかと心が揺れる。
(お兄さんなら、どうすればいいかと一緒に考えてくれるかしら、叔母様が何を話しているのか知らないけれど)
「大丈夫、今ひとりなの」
心を決めて話を始める。ほんの少しだけ、
世界がユカに優しくしてくれたと思いながら。
☆☆
カチャン。ふう。今何時だろうか。近所を気遣い静かにドアを閉めたタカシ。ポケットに手を入れると2つの携帯の存在。
(車のドアポケットに落とし込むなんて、案外かわいいところがある)
取り敢えず触った感覚で取り出すと、何時もより少しばかり早い時刻表示。日付けが変わり直ぐ。
「あ。いたた。馬鹿な事するんじゃなかったよ」
靴を脱ぎ散らかしながら、上がり框に足を上げる。女に言われるままに兄に対抗し抱え上げた負荷が、日頃運動などしない身体に影響を与えている。
「うふふ。脱がしてあげる」
そのままベッドに運ぶと投げてと言われ、戯れに興じた、タカシと女。女が身をくねらせ身体を跨ぐタカシのワイシャツのボタンに手を伸ばす。わざとなのか、白い指先を獲物を舐める蛇の舌の様に、緩んだ胸板の上を這わしていく。されるがままに過ごした濃い色の時間。
もっと遅く迄愉しもうと考えていたのだが、最中からピリリと痛みが走る事が気になり、女に異変を悟られる前に、コトを終えると早くに帰路についたタカシ。
マンションの駐車場で思い出した携帯を、探すときに捻った事も良くなかったのかもしれない。
(クソッ! それもこれもアレがどんくさく転ぶからだ!)
ユカに八つ当たりをしながら、リビングに向かえば話し声が漏れてきた。
「なんだ? こんなに遅い時間に誰と?」
『まんざらじゃないわよね』
女の唆す声が蘇る。足音をできる限り殺し近づくと、盗み聞きをする。ユカが誰かと親しげに話している。
「ありがとう、またでんわをするわ。うん、だいじょうぶ。おにいさん」
少しばかり甘える様に聴こえた声に目を見開いた。そして語尾の単語に頭の中が真っ白になった。
(おにいさん? おにいさんって言った!まさか!)
不埒で下衆な妄想が、一気に構築されタカシの中に広がった。




