薫香
その香りは、即効性のある水薬。それは甘やかで、激しく、罪深い麻薬感が半端なく。好いた躰を抱きかかえた事で症状が進行していく。理性が感情に駆逐されていく。赴くままに動きたくなる。
(このまま連れ去ろうか)
立ち上がるなり思う。安心しきっている周囲を裏切り、出し抜き方向を変え、駆け出したらいい。タクシーを拾い何処かに向かう。腕の中で身を固くしているユカは、恐らく助けの声を上げない。
(そして何処かでひっそり暮らすんだ)
全てを捨てて。後悔はしないが共に暮らす日々で、トオルに対し、遠慮をするユカの姿が脳裏に浮かぶ。
(きっと。今ある僕のセカイを壊してしまった事に、ユカさんは生きてる限り悔むんだ)
一歩、一歩、ゆっくりと進む。
腕に感じる重さは心地よく。キュッと、身を小さくしている躰から感じる小さな震えは、ざわざわと心をくすぐる。
彼女を感じ、意識をしている心臓の音が気になる。胸元近いユカの耳に聴こえていると思うと、更に高まり痛みを伴う。
人目も気にせず、今ここで可愛らしくまとめた髪に顔を埋めたくなる。彼女の香りを存分に身体の中に取り込みたい。いい歳をしたおっさんが何をと思うが、走り出した感情は止まらない。
(そう。無茶をしなくても、未来は目の前にある)
貴子と彼女に雇われている運転手の姿が目の前にある。
腕の中の震える仔猫を手に入れたい。笑って喋って、昼も夜も抱きしめ、名前を呼んで、愛してアイシテ、感じて寄り添い暮らしたい。
車の側に辿り着く。気を付けて降ろしたのだが、バランスを崩したユカ。運転手の彼が手を差し出す前に、しっかと抱き締める。
柔らかく、暖かく、とろけさす香りが濃厚にトオルに染み渡る。
「車に乗せなさいな、聡子さん達も」
冷水を浴びせる貴子の声。僅かな時間に別れを告げる。
「お願いします。聡子、頼んだよ」
運転手に介添えされ、乗り込んだユカの問う様な顔。
「おじちゃんは、いかないの?」
あどけない姪っ子のそれ。
「うん。お仕事があるからね。貴子さん、よろしくおねがいします」
意味を含めて言う。
「車が出たら直ぐに電話をしてらっしゃい、ユカもいるし丁度良いわ。ひとつふたつ、貴方にもお願いがあるの。足跡が残るのはだめよ」
ぬるりと笑う貴子の目。その返事に、まんまと彼女の策に引っかかってしまった気がした。
★
車を見送りザワザワと、大人、子ども、男も女も、老いも若きも、歩きさざめく午後の道を戻る。言われた通りに電話をする。顧客でもある貴子夫婦のそれぞれは入っている。
「もしもし」
「総合病院に行くわ、彼処の院長とは懇意だから。付いて来ないのは英断ね」
「それで。何をすれば」
「そうね。連絡先を知らないって話だったけど、ホントに?」
「ええ。お互いペンネームでのやり取りは、ありますが、やましい事はありません」
「ならそれも切っておいてね。調べられて足を取られたく無いから」
誰が何を調べるのだろうと思いつつ、はいと応える。
「あとは世間一般的な良い関係でいること。勘繰られる事が無い行動をなさい」
「はい」
弟の家に遊びに行くことは大丈夫なのかと、ぼんやり考えていると、潜めた貴子の声が続く。
「何かしらで伝えて捕まえなさいな、じゃぁ、何かあったら掛けるから」
ブッ。ツー、ツー、ツー。
「はあ? え! 切れた。あ、逢えない、当然ながら番号調べての電話も駄目なのに?」
あ然とした。どうやって?
★★
「いや、気合い一発で電話を弟のソレに掛けたらいいんだ。でもそれだけだと。もっと気持ちを伝えたい」
画廊に戻りながら策を練り始める。
(そう何回も電話は出来ない。チャンスは上手く使わないと)
ひゅぅぅ。日だまりの光を冷やす風がイルミネーションが巻かれた枝を揺らす。
考えをまとめようと息を吸い込む。不織布の向こう側から流れ込む新鮮な空気。ソレに混じるユカの香り。
(ダメダメ。真っ昼間から、おかしい。イヤ、夜でも危ない)
少しばかり形を取り戻した理性が、感情を押し止める。高ぶる想いを抑える為に、遠回りをする。身体を動かしていたかった。
角を曲がる。大きな通り。歩く。目に入る細い路地裏の様なセカイ。ごちゃごちゃと小さな店が並んでいる一角。
入る。飲み屋、居酒屋、スナック、小さな和菓子屋、手造り雑貨の店。自販機、日向ぼっこをしている猫。
歩く。動いても動いても。
先に飲まされたそれの影響から抜け出せない。
ポケットの携帯が振動。持ち場を放り出し、戻らぬ彼を諌める様に、名前を確認したあと、知らぬ顔をする。
駆け出す。理性などあっけなく感情に散らされる。
走って、走って、走って。
あいたくてあいたくて、あいたくて。
せつなくて、苦しくて苦しくて、せつなくて。
駆け抜けた、冬枯れの世界。たどり着く、あの公園。
「ハァァ」
汗だくになり、マスクを外す。白く濃く息を吐き出す、ひとつきりあるベンチに座り込む。
シタシタ、シタシタ。ニヤァ。
「あ? タキシードかぁ。煮干し貰った? いいなあ。お前はとやかく言われなくて。かつぶし食うか?」
上着のポケットからビニール袋。座る黒猫にひとつまみ。何時もの様に、モサリと口に花かつおを入れ、クチャクチャ、食む。
出汁が広がる。口を動かしていると、高ぶった気持ちも徐々に落ち着いてくる。ポケット内の携帯が震えた。弟子からの着信。
「ハイ」
渋々、出る。諌める言葉を受け取る。
「わかった。すぐ戻る」
通話を終えてから、ひと呼吸、ふた呼吸、座ったままで過ごした。北風がヒュルルと鳴くように吹く、乾ききったプラタナスの葉が、目の前をカラカラと転がる。
「戻ろう、次に進むために準備をしないと」
立ち上がる時に目を向けた足元には、彼女が手ずからハムを与えていた黒猫はもういない。




