しせんのさきに
「付き合いで遅くなる。お前は用が済めば早く帰れ。ん?」
後部座席のドアを開けようとした、ユカだが前に乗れと言われ、気が重くなりつつ乗り込む。駅までの僅かな時間を思うと早から息苦しさを感じた。
「はい」
シートベルトを嵌めていると夫の携帯に着信。
「これこらオフィス。定時までだな。ん? ああ、駅前まで送るんだよ、ん。そうそう。分かった」
誰から? 聞きたかったが、関係ないと言われ不機嫌になることがわかっていたユカは、黙って座っている。
「ん」
夫がハンドルを握り、アクセルを踏み込んだ。駐車場からゴトリと出る。走行音、振動、流れる夫が好きな音楽。芳香剤の香り。圧縮された空気が重いユカ。
前ばかり向いているのも疲れると思い、助手席側の窓へと、顔を向けた時。ドアポケットに詰め込まれている物に目が行く。雑誌、ティッシュ、小売のマスクが袋のまま幾つか乱雑に入ってた。
無言の時間が過ぎる。カーステレオから流れる、女性シンガーの、明るく媚を売る弾んだ声。
(ふう。早く着いたらいいのに)
ユカは夫が運転する車の窓から街を眺め、車内に夫の匂いが濃くなる中、吐息を漏らす。マスクがあって良かったと何時も思う。
(不機嫌な顔をごまかせるもの、黙ってる事に気を使わなくていいし)
◆◆
「何なの、ちっとも喋らないじゃない。せっかく自動着信設定して仕込んだのに。面白くなーい、この夫婦、会話って無いの?」
離れた場所で、ひと言も聞き漏らすまいと携帯を、燃える緋色のピアス近くにあてがう女が、くっきり濃い紅を引き、もっちりとした唇を尖らせている。
「この地味妻、泣き事を旦那に言わないから、揉めなくて面白くない。ここで手を引くのも癪にさわるし、ちょっと考えなきゃ」
グイン、縦列駐車していた場所から勢いよく出た赤い車。女は目指す場所へと進んで行く。
☆
「こーら、ゆぅいい? 前を見て歩きなさい」
明日から冬休みなのもあるのか、テナントビルが立ち並ぶ通りは、行き交う人々で賑やか。
手を引かれ歩く少女は、何か気になることがあるのか、後ろを振り返り、振り返り。気もそぞろな様子。
「うん」
母親の言葉に頷くも、しばらくするとまた身をよじり後ろを見る。
「結ちゃん、後ろに何かあるの?」
「おばちゃん。だるまさんがころんだ。みたいなの」
プードルモールで編まれたマフラーを巻き付け、ピンクのマスクに、ワンポイントにシールを貼っている少女が、母親を挟み向こう側に、真剣な顔を向けモシュモシュ話す。
「は? なにそれ」
「ママ、さっきからね、だるまさんがころんだみたいなの」
怪訝に思い、少女を挟む大人二人が立ち止まり、後ろを見たのだが歩く人、通り過ぎる人、店に入る人、出る人、路地に曲がる人、出る人、……。
年末を前にし、浮き足立つ様な通りは、平和そのものの光景。
「何にもないわよ」
さっ、とーるおじちゃんにお土産渡さないとね。聡子が娘を引く手に力を入れる。
「うん」
母親を見上げ、素直に従う少女。
「おじちゃん、どこにいるの?」
「この先のお店よ」
「どんなおみせ?」
「絵がいっぱいあるところ」
母と弾むように話す娘のやり取りを、横目で眺めるユカは、ほんの少し羨む気持ちがチリチリ。心に焼け焦げをつくる。
(かわいい)
女の子、ううん男の子。どっちでもいい、もし居たら……、そう考えても、若い時に思い描いていた家族のイメージが沸き起こらないユカ。
(ダメね。すっかり望みが無いから、優しいパパになったタカシさんと私と子ども、ちっとも思い浮かばない)
「おばちゃん。このマフラーね。がっこうでね、かわいい、どこにうってるの? て、きかれるの」
ぴょこんと会話を振られたユカ。
「そうなの? おばちゃんうれしいな」
こんな感じでいいのかしら。子どもと接する事が少ないユカは、緊張して応える。
「えへへ~、おばちゃんにあんでもらったって、いうとね、イイなあって、いわれるの」
「そうなの?」
「いつもね、つくってくれたかわいいの、もってったら、いいなぁって、おばちゃんほしいって、えへへ~」
冬うららな陽射しの中、子どもの無垢な笑顔に魅せられ、甘く切なくなるユカ。
「ほんとよ。ユカさん上手だもん。ママ友でもね、お教室されてないの? って聞かれるのよ」
聡子がユカに話す。
「ええ! 無理よ。趣味なんだもん、自己流だし、ちゃんとお勉強した事もないの」
ドギマギとする。
「前に貰ったお誕生日のケーキも、インスタに上げたらすっごく『イイね』がついたのよ。勿体ないわよ」
「で、でも、知らない人と話すのは苦手だし。それにタカシさんも、ダメダって言うから」
間に挟まり、二人の顔をキョロキョロ見ていた結が、何かに気がついたのか再び後ろを気にする。
「横暴男よね! お兄さんならきっと言うわね。ホント、とーる兄とは大違い!」
「聡子さんはどうして、タカシさんの事は『お兄さん』なの?」
以前からの疑問が口に出る。
「他人行儀だって思うでしょ。なんかねぇ、合わないの。とーる兄が有名になりかけた頃からかな、私の事を直ぐに『女だから』、『妹だから』って、下に見るようになってね、その頃から嫌いなの」
むくれる聡子の言葉に、チクリと胸が刺される。
「でね。前から聞きたかったけど、お兄さんの何処が良かったの? お見合いだけど。ほらぁ、後ろを見ない、危ないでしょう!」
グイッ。娘の手を引く聡子。問いかけに、小首を傾げ考える。
(そういえば、どうだったのかしら。お見合いをして、その時、決めたんだっけ)
「んー。何処かで会った様な気が」
「ええ? キャッ! 危ない! 引っ張らないで」
「ママ!」
不意にしがみつかれバランスを崩す聡子。
「大丈夫? どうし。キャッ!」
ユカの肩に後ろから不意打ち。
(え? どうして?)
人通りは多いが、ひしめき合うほど混み合ってはいない。なのに、ドンと強くぶつかられ追い越される。ガクン、前のめりに転ぶユカ。
「うわぁぁぁん」
泣き出す結。
「あ!危ないでしょう! 貴方、何なの? わざと?大丈夫? ユカさん」
我が子を守るように抱きしめ、素知らぬ顔をし、茶色のウエーブをゆらし通り過ぎようとする女に、マスク越しで語尾あやふやになるのを避ける為、声を張り上げる聡子。
「あら、ぶつかった? 広がって、くっちゃべりながら歩いてるから邪魔だったの」
倒れたユカをせせら笑う様に見下し答える女。
「はあ? そんな事ないわよ! 結、泣かないの」
「うわぁぁぁん、このおばちゃん、えっえっ。ずうっとついてきてたの、でね、でね、はしってきてね、ドンって」
おばちゃん、子どものそれにヒクヒクとした女。
「ハッ! お嬢ちゃん馬鹿じゃない? 子どもの躾ぐらい、ちゃんとしときなさいよ」
転んだユカをそのままにできず、泣く子どもに手を取られる聡子を鼻で嗤うと女は騒ぎを見て、ガヤガヤと野次馬が集まり始めた中を、すり抜ける様に逃げて行った。
「もう! 何なの! 立てる? ユカさん」
ええ、応じたものの、突然だった事もあり、足首を捻ったらしく、立ち上がろうとしても動けないユカ。
(どうして? あのヒトは。ううん、そんな事よりタカシさんに知られたら)
大勢の人前で、みっともないと叱られるかも知れない。身を硬くするユカ。
「痛い? 結、ちょっと我慢なさい。ママこれから電話するから、お兄さんでいい?近くよね、会社」
どうしようもない状況に、頷くしかないユカ。聡子が、先ずはタカシに電話をする。
「もしもし。うん、ユカさん押されて怪我しちゃって、動けないの。来てよ。……、……、ええ? なんとかしろって! バカ兄ぃ!はあ? もう! 切ったし。信じられない。私なら離婚案件よ! うちの旦那は遠いし、クソっ。こうなったら仕方ない。……、……、もしもし、とーる兄?」
☆☆
ズルい。ううん。神様のイジワル。
野次馬に囲まれたのも、ひととき。少しばかり無理をして、邪魔にならない場所に移動をしたユカ。タイル張りの地面に座り込んでいる。
「あ! おじちゃんきたぁ!」
母親に汚れた顔を綺麗に拭って貰った、子どもの弾んだ声。少女が手を振り合図を送る。
「大丈夫? 押されたって? こんなところで?」
ユカの見上げる先には、走ってきたトオルの姿。
「結が見たって」
「うん。まっくろいますくでねぇ、ちゃいろのかみのけが、うねうねしてる、まじょみたいなおばちゃんに!」
二人が説明を始めたのを、ぼんやりと聞く。
(どうして? 走って来てくれたの? お仕事を抜け出して、こんな不様な私のところに)
だめよ。転がりそうになる気持ちにブレーキをかけるユカ。
「見せて」
しゃがみ込むトオル。ショートブーツに手をかけた。恥ずかしくて、恥ずかしくて、大丈夫、休んだから立てると、動くユカ。
「痛い」
ズキンとした痛みが走る。
「危ない」
バランスを崩した躰を、抱きかかえる様に支えたトオル。
(こんなの、ズルいわ。ズルい)
似ていると思っていた。身長も顔貌も、声も。だけど身を寄せると、違いがホロホロとわかってしまう。咄嗟に掴んでしまった腕は、着痩せをして見えるのか、夫と違い筋肉質。
不可抗力で、胸に頬を寄せる様になっているユカ。すっぽり入り込んでしまう懐の広さは、タカシには無い。
「貴子さんが車を回してくれる。病院に行こう、すまないけど聡子、付き合ってくれないか」
構わないわ。と応じる聡子。
「叔母様が?」
「うん。偶然、画廊にお見えになってて」
車道に向かい、大きく手を振るトオル。
滑り込む様に乗用車が停まる。後部座席のドアが開き、貴子が降り近づいて来る。
「大丈夫なの? とにかく病院に行きましょう。えっと……、確か、聡子さんよね。お久しぶりです」
「こ、こちらこそ。ご無沙汰しております」
あたふたとお辞儀をし、挨拶を返した聡子。母親のそれを見ると、こんにちは。頭を下げる結。
「お利口さんなお嬢ちゃんね、じゃぁ、参りましょ。トオルさん、ユカを車に運んで下さらない? 後は私達で大丈夫だから」
「すみません、叔母様。大丈夫です。支えてもらったら歩ける……、ええ!」
不意に。
ヒョイと、抱えられたユカ。
「歩かない方がいい」
「で、でも」
危ないからじっとしてて。耳に入る声が甘く感じてしまう。
「ふぉぉ。おうじさまが、だっこしたときの、おひめさまみたい、」
それを見た、姪っ子の素直な感想が、心臓に届く。ドキドキ感が止まらなくなる。ちろちろと入ってくる、タカシとは違う、日焼けした首元は太くて、肩幅も全然違っいて。
恥ずかしくて、ときめいて、イケナイ、ズルい。
心の奥の奥で。
このまま時が止まったらいいのにと。
気持ちに気が付き、情けなくて泣きたくなるユカ。




