夢に溺れる
目が醒めると布団の上にいた。眠っていたらしい。今は何時なのだろう。外を見ると、日はとうに暮れて、青とも黒ともつかない空の色になっていた。のろまで働かない頭でも、時間を無駄にしたことは気づいた。自分は舌打ちをした。部屋の中に昼の温もりが残って暑苦しく、それが一層苛立った。
自分はむくりと起き上がって、部屋を出て、階段を降り、妻が料理をする下の階へと向かった。
肉炒めのようなものを焼いていた妻に、寝ていたの、と聞かれたのを遮って、今日はなにかな、と尋ねた。するとビーフンにしてみたがどうだろう、と妻は言った。肉のいい香りと香菜の香りがしてなかなか美味しそうだ。サッパリしてていいんじゃないか、今日は暑いし、と自分は答えた。梅雨が続いたこの頃、急にカンカン照りに晴れた今日はとても蒸し暑かった。
もう出来上がるから夕飯の支度をしてほしい、と言われてそのまま居間に向かおうとした。
その時急にフッ、と足が軽くなった。 何も考えられなくなり、自分が一枚の紙になったかのように、体がふわりと軽くなった。まだ眠気が取れないなぁと思った瞬間、自分は布団の上で目が醒めていた。
目が醒めると布団の上にいた。何が起こったか理解できなかった。確かに自分は居間に向かっていたのだ。夢と言うにはあまりにリアルな感触だった。ビーフンの焼ける匂いも、妻の声も、足から伝わる床の冷たさもしっかり覚えていた。こんな夢を見ることもあるのか、珍しい体験をしたなぁ、と自分は回らない頭でぼんやりと思った。
外はもう暗かった。拍子抜けた自分はもう起きる気もせず、苛立ちもせず、ぼうっと暮れた空を眺めていた。妻が部屋に来て、寝ていたの、とあの夢と同じように尋ねた。自分は夢が醒める夢を見たんだ、こんな事経験したのは初めてだだったよ、と言った。 きっと疲れていたのね、と妻は答えた。
確かに疲れていたのかもしれない。目の前の景色が紙のように途切れ消えていく様子は、自分が溶けて消えてしまったようで少し恐ろしかった。日頃の疲労が夢に出たのかもしれない。
顔でも洗っておいで、と言われ、自分は部屋の中にあった水道で顔を洗った。水は少しぬるかったが頬にあたると気持ち良かった。
目が醒めるように、自分は何回も顔に水を流した。
しかし、自分は突然あることに気づいた。この家の寝室に水道はなかった。顔を洗うには洗面所に出なくてはならないはずだ。これも、まさか夢……?
そう思った瞬間、水道の受け口がいつの間にか消えていた。まるで最初から無かったかのようだった。流れる水はそのまま重力に従い、自分のいる敷布団へと染み込んで行った。この時初めて、自分はずっと布団の上に座っていたことに気づいた。
蛇口をどちらに回しても水は止まらず、むしろ溢れ始めた。布団はどんどん水で濡れていく。焦った自分は妻に、どうしたら水が止まるの?と必死で尋ねた。意外にも妻は冷静に、布団なんてそんなものだ、濡れては乾かすものだよと答えた。景色が溶け始めた。布団が、妻が溶け始めた。世界なんてこういうものだったかしらん、と思ったところで目が醒め、自分は布団の上にいた。
目が醒めた。今度はまどろみもせず、はっきりと目醒めた。首元に汗をかいていた。ここまで来ると、自分が夢から抜け出せないようで、少し恐ろしかった。今見ているこの世界が現実かどうか、確信できなかった。自分は頬をつねった。 何も起こらなかった。
妻が来る前に部屋を抜け出し、一段一段、床のひんやりとした感覚を噛み締めながら歩いた。 少しずつ、世界の現実味が増し、不安は消えていった。下から家の匂いがした。腕をつねると痛みを感じた。
妻は台所で料理をしていた。テレビはつけっぱなしで、虚しく独り言を垂れ流していた。ああ、帰ってこれたんだ、と自分は心の底から思った。そして、一度落ち着くと、今までの自分の疑心暗鬼が滑稽に見えてきた。子供の頃こそ怖い夢は見たものの、これ程真剣に悩まされた夢は無かった。今こそ笑えるが、起きた時は本当に恐ろしかった。自分はくすくすと笑った。
仕事をする気にもなれず、床に寝転んでテレビを見ていた。今晩は映画の再放送をするらしい。絵本のような画風の女の子と男の子が、レトロな街をかけ抜いていた。それは名作と言われたアニメで、いつかみてみたいと思っていたものだった。
自分は体を起こしてテレビに注視した。丁度今から始まるらしい。急に画面が崩れたりしたらどうしよう、というかすかな不安が脳を過ったが、アニメは順調に続いた。それすら少し幸せに感じる。
途中で妻が来た。夕飯が出来たから手伝って欲しい、と言われ、自分は立ち上がった。ビーフンかな、と聞いたら、いいえ今日は煮魚です、ビーフンが好きなの?、と妻は不思議そうに尋ねた。自分の中で確信が幸福に変わった。いいや煮魚の方が好きだよ、と答えて自分は台所へ向かおうとした。
その時だった。背後から、自分の首元に誰かの手が巻きついた。 そのまま締め付けてくる。後ろを振り向いた。手はテレビから突き出されている。画面は波紋のように揺れ、アニメ調の腕が自分の首元を締めている。そのまま引き寄せられた。自分の体はテレビ目前まで迫り、とうとうテレビの中に入ってしまった。目前に真っ白な世界が広がる。一瞬のことに頭の中も真っ白になった。手を離し、女の子は自分の前に来て不敵な笑みを浮かべ、一言、
「ずっと一緒だよ」
と言った。その瞬間、自分は目が醒め、布団の上にいた。
目が醒めた。もう眠気は無かった。恐怖と焦燥が身体中を駆け回った。自分は飛び跳ね、洗面台へ走った。汗をびっしょりとかき、その量は頬から垂れ落ちる程だった。手足は震えていた。もう何も信じられなかった。今が昼でも夜でもどうでもよかった。ただ夢から醒めたい。それだけしか思わなかった。
洗面所に洗面台はきちんとはまっていた。勢いよく水を流し、水面に顔を打ち付けた。水の冷たさが、火照った肌を刺激して心地よい。そのまま自分は水を流し、時に飲んだ。全身で水を感じたかった。この世界に自分を、縛り付けたかった。
しばらくして頭にも水を流し始めた。ひやりとした感覚が全身に響き渡り、自分は震えた。生きている、と自分は思った。自分は今、生きている。この世界に存在している。
もっと水を感じたかった。栓を閉じ、そのまま体を洗面台にうずめ、うなじの方まで水に浸かろうとした。寝起きのせいか体は柔らかく、肩の方にまで水が渡った。気持ちよかった。
体はもっと折り曲がった。水は腰の方まで届いた。
はっ、と気づいた時はもう遅かった。どんどん自分の体はうずくまり、ついに自分は洗面台に落ちそうになった。咄嗟に声を上げようとして泡を出し、水が鼻や喉の奥に迫ってきた。突然苦しくなった。なんとか這い上がろうとしたが、重力に従って自分の体はどんどん落ちていく。死の予感がした。もがけばもがくほど、水は腿を、膝を、脛を、徐々に殺していく。僅かに洗面台にしがみついていた足先が、空をかいて水に沈んだ時、自分は夢から醒めた。
おまけ を書きました(06.25)実体験や後書きについて書いてます そちらもぜひ読んでみてください