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歪─ふせい─   作者: 椿 冬華
本編
6/30

第三世界 【砂漠の世界】 前

第三世界 【砂漠の世界】


「少しは恥じらいを持たんか」

「だって全部水浸しですし」


 浄化された湖の世界。

 鏡の如く青空を映し出す湖のほとりに建てられているログハウスの軒先に、湖に浸かったせいで水浸しとなってしまった服を下着含め全て干している符正の姿にサジェースタは苦虫を噛み潰したような表情を浮かべている。ログハウスの中に置いてあったタオルを胴体に巻き付けただけの心許ない恰好であるというのに符正は堂々としたもので恥じらう様子さえない。


「ここわりとあったかい気候ですし……それにサジェ様だって似たようなものじゃないですか」


 符正はそう言ってため息を吐きながらサジェースタの、腰にタオルを巻き付けただけの恰好を眺める。サジェースタは片眉を上げて私とお前を一緒にするな、と零す。


「まあおっさんの裸を見て喜ぶ人ってレアでしょうけど……」

「その通りだが、おっさんは余計だ」

「おっさんはおっさんです」

「やかましい」


 サジェースタはチョップを符正の頭に喰らわせてから服が乾くまで中で休もうと符正を促して共にログハウスの中へ入った。

 ログハウスは旅行者の休憩所を想定して作られたのか、中には簡易なキッチンと四人が座れるダイニングテーブル、そしてシングルサイズのベッドが一台だけ置かれていた。符正がぺたぺたとキッチンに向かい、しゅっしゅっと音を立てているやかんを火から下ろしてコンロのつまみを捻る。そうしてかちゃかちゃとキッチンで作業を進める符正の背中を眺めながらサジェースタは椅子に腰を下ろして一息ついた。


「どうぞ、“お茶っぽいもの”です」

「ああ、ありが……お茶っぽい?」


 符正の物言いにサジェースタは不安そうに符正から手渡されたカップの中身を見つめる。曙色の、透明度の高い液体がほかほかと湯気を立てながら揺れている。香りにはシトラスやチョコレートが混ざり合ったような甘さがあった。


「缶の中に茶葉があったのですけれど見慣れないもので。とりあえず適当にフィルターに茶葉突っ込んで蒸らしました。──なので味は期待しないでください。わたし的にはまずくなかったですけど」

「なるほど。チョコレートティーの一種かもしれんな。ありがとう」


 サジェースタはそう言うとカップを傾け、曙色の茶で口内を温めた。甘い香りとは対照的にとても爽やかな味わいで、身も心も温まるとサジェースタはほうっと息を吐く。

 それを向かい側から符正が頬杖をつきながら眺めてきていることに気付き、サジェースタは何だと問う。


「いえ、毒が入っているって疑いもしないんだなぁって」

「君が入れるわけなかろう……今更か?」

「ふふ」


 サジェースタを殺すチャンスなどいくらでもあったのだから符正の言葉は本当に今更である。符正はおかしそうに笑いながら服が乾いたらごはん探しに出かけることをサジェースタに伝える。


「ふむ、ここには調味料もそこそこあるようだしそれなりのものが作れそうだな」

「お肉あるかなあお肉」

「…………、さっきの例の広場にあるかもしれんが……まあ、そこは任せよう」

「任されました」


 きらりと目を輝かせてお肉お肉と楽しそうに笑う符正に呆れつつ、サジェースタはふと思い出したように顎を撫ぜた。


「そういえば符正、お前よく私のことを知っていたな」

「ん?」

「私と初めて出会った時──お前は私を見て“王様ですか?”と言ってきただろう? 正直──我が国、エリモス王国はそれほど知名度の高くない小国だ。遠く離れた島国の一般市民である君が王族の顔を知っていたことは正直、驚きだ」


 エリモス王国はアフリカ大陸の北部にある砂漠地帯に位置する小国で、二百万人ほどの国民が暮らしている。エジプトに近いこともあり歴史は長いが、灼熱の砂漠に囲まれた国であることが災いし人の行き来がほとんどない孤立国状態となってしまい、国民たちが身を寄せ合って年々進む砂漠化に怯えながら暮らしていた。

 砂漠に断絶された国──そう呼ばれることもある小さい国の存在はまだしも、その国の王の顔まで符正が知っているということは非常に珍しいことなのだ。


「そうですね、確かに日本では全くと言っていいほど話題に上がらない国です。けれどサジェ様のことは知っていました」


 “王”は個に非ず。

 “国”は王に非ず。

 “民”こそ要なり。


 ──唐突にそんな文言を謳い出した符正にサジェースタは面食らったような顔になり、けれどその文言に覚えがあることに気付いてさらに目を丸くした。


「それは──」

「わたしが三歳の時でした。サジェ様の戴冠式がね、テレビで流れていたんです」


 二十年以上前──サジェースタがまだ二十代の精悍な若者であった頃、前王である父親が崩御したことによりサジェースタが跡を継いで国王に即位した。その様子はどうやら日本でもささやかながら報道されていたらしい。

 それを見てサジェースタを知ったのだと符正は笑う。


「今でもよく覚えておりますよ。サジェ様の演説」

「……三歳の時だろ?」

「ふふふ。それほど心を打たれたってことです──まあ、ぶっちゃけるとサラルティア様に一目惚れしたからなんですけれど」

「サラルティアに?」


 思わぬ名が出てきてサジェースタはぱちくりと目をしばたかせる。

 サラルティアはサジェースタの亡き妻の──エリモス王国王妃の名である。透き通るようなアッシュブロンドの輝く銀髪が印象的な美しい女性で、絶世の美女とも謳われていた王妃であったのだが──王女であるサハーシャを出産した十六年前に逝去してしまっている。サジェースタとサラルティアはとても仲睦まじい夫婦として知られており、王であるサジェースタを支える心優しき王妃として国民から慕われていたという。それだけにサラルティアの死は国民にとっても──サジェースタにとっても辛く、苦しいものであった。


「あんな美しい御方がいるのかと当時のわたしはとても衝撃を受けました。よく口説き落とせましたねサジェ様のくせに」

「おい」

「サラルティア様に一目惚れして、それがきっかけでサジェ様のこともエリモス王国のことも知りました。その過程でサジェ様の演説も聞いて……とても感動しました」


 あの人こそが真の“王”だと、憧れを抱いていたのですよ──そう告白されてサジェースタは若干照れ臭そうに頬を掻く。


「そうかね。あー、ありがとう」

「半裸のおっさんの照れ顔ってなかなかダメージ大きいですね」

「喧嘩売っているのかね君は」


 余韻も何もあったもんじゃないな、と顔を顰めてみせるサジェースタに符正は大笑いし、軽く謝罪した。


「──サハーシャ様でしたか。サラルティア様にとても似て美しく成長されましたね。去年の立志式のご様子、たいへんご立派でした」

「うむ……多少お転婆なのが玉に瑕だが、サラルティアに似て国民想いの優しい子だ」

「そこはサジェ様にも似たのだと思いますけれどね。──……こうなってしまって、色々とご心配でしょう」


 符正の言葉にサジェースタは無言で目を伏せ、脳裏に愛娘の最後の姿を思い描く。倒れ息絶えた父親の姿に泣き叫ぶサハーシャの姿は目を閉じるだけですぐ甦ってくる。


「……あの子は強い。まだ十六だが──あの子の周りには信頼できる家臣が大勢いる。心配で仕方ないし、置いて死んでしまったことが悔しくて仕方ないし……何より、まだ若いあの子に女王という重圧を背負わせてしまうことが申し訳なくて仕方ない……! だが、あの子ならばきっと大丈夫だ」


 ──私とサラルティアの娘だからな。

 不安も心配も、悔恨も心残りも一切抜け落ちておらぬ表情で、けれど心の底から娘と臣下たちを信じているという眼差しを揺らがせることなくしているサジェースタはとても凛としていた。──半裸だが。


「……余計なお世話だったようです。さすがはエリモス王国」

「フフ……だが心配といえば、君もそうだろう。家族といる時に死んだのだろう?」


 サジェースタの言葉に符正は頬杖をついたまま顔を逸らし、窓から青空に浮かぶ巨大な月を見上げる。


「……ええ。お父さんにお母さん。弟の符屈。妹の符和と符可。六人でバーベキューしている時でしたね」


 両親と、四歳下の弟と、八歳下の双子の妹。

 六人と現代日本の一般家庭にしては少し多い家族構成ではあったが至って普通の、平凡で平和な中流家庭であった。サラリーマンの父親とパートの母親に愛情を注がれ健やかに育ち、時折兄弟喧嘩をしながらも仲のよい家庭として平穏にやってきた。それがあの“声”によって唐突に終わらされてしまった。

 符正の脳裏に甦るは、符正を必死に呼ぶ家族たちの姿。


「符正」


 ──堪えるな。私がいる。

 名を呼ばれたかと思えば続けてそんなことを言われ、符正は驚いたように姿勢を崩してサジェースタを見つめる。符正をまっすぐ見つめているサジェースタの琥珀色の両眼はとても優しい光を帯びていて、符正のことを心の底から想っているということが窺える眼差しであった。

 突然の“死”を経てこちらの世界に投げ出されて数日。あまりにも理不尽な“死”を与えられ、強制的に“役目”を背負わされ──けれど符正はそれに対し怒りも、悲しみも見せることなくただただ自由気ままにこの数日を過ごしていた。

 自由気ままに、奔放に、流れるままに──現実から目を逸らしていた。

 現実と直面してしまえば心が拉げ、潰れ、捻れ、破れ、折れてしまうと自覚していたが故に。

 彼女の普段の様子からはついつい忘れてしまいそうになるが──彼女は、日向符正はただの一般人なのだ。


「符正」


 サジェースタの優しい声が符正の鼓膜を心地よく揺らす。

 それが合図であった。

 それで、限界であった。

 ぽろりと符正の濡羽色の目から涙がひとしずく零れ落ち、それを皮切りにぼろり、ぼろりと涙が溢れ出した。


「──……っ」

「大丈夫だ。私がいる──半裸のおっさんで悪いがな」


 符正の隣にどかりと腰掛け直し、符正の頭を撫ぜながらサジェースタはからかうようにそう言う。それには符正もくすりと笑い、けれどすぐ溢れ出る涙に押し流されるように嗚咽を零し始めた。

 そうして符正はサジェースタの浅黒い肌に顔を押し付けて家族の名を呼びながらひたすら涙を流し続けるのであった。

 飄々としているようでやはり可愛らしい女性であることには変わりないな、とサジェースタは穏やかな心持でただただ符正の涙を受け止める。


 ◆◇◆


 湖の世界が浄化されてから二日と少し。

 サジェースタと符正は鬱蒼とした森の中をひたすら歩き続けていた。


「あ、キノコ」

「明らかに毒々しいではないか。やめたまえ」


 サジェースタが方角を確認しながら進む方向を決めて進んでいる横で符正はうきうきとした足取りで食材を集めて回っている。ログハウスから持ってきたらしい鍋を手に抱えていて、中には肉やら魚やら果物やら、多種多様な食材がぎっしりと詰め込まれている。


「そろそろ境界線が近いはずだが……」

「そうなんですか? じゃあ今夜はシチューですね。持っていけないんですから全部食べなくっちゃ」

「本当によく食べるな、君は」


 そう言ってサジェースタが呆れた笑い声を上げたその時であった。密集していた木々が唐突に途切れ、草原の世界から湖の世界に来た時にも通った青い壁が目の前に現れてふたりは足を止める。


「──砂漠ですね」


 薄いガラスのような壁の向こうに広がっていたのは、一面の砂丘だった。


「砂砂漠か……」


 砂漠と一口に言ってもその面積の大半は岩石砂漠であり、細やかな砂のみの砂漠は全体の二割程度しかない。とは言ってもそれがこの世界にも当てはまるとは思えないのだが。


「十二分に準備を──と、言いたいところだが……やはり持ち込めんようだな」


 ぐいぐいと青い壁に鍋を押し付けている符正を横目にサジェースタはため息を吐く。砂漠を歩くにはそれ相応の準備が必要であるということを砂漠の国出身である彼自身、よく知っていた。それなのにこの青い壁は物資を持ち込むことを許してくれない。


「くぅ……おのれ、お弁当の持ち込みくらい認めてよカミサマ……」

「やむを得ん、今日はここで休んで明日、日が昇る前に行くぞ」

「はぁーい」


 それからふたりは手慣れた様子で野宿の準備をし、符正がログハウスから持ってきた調味料やこれまでの道程で手に入れた食材を全て使ってシチューを作り、腹を満たした。


「今日は番をしなくともよい。砂漠を歩くのは相当体力を使う──寝るぞ」

「ハーイ。浄化された世界だと危険もないみたいですしねぇ」


 符正はそう言うといそいそとサジェースタの隣に転がり込み、猫のように丸くなった。ログハウスから持ってきた毛布を符正に掛けてやってから自分もその中に潜り込んだ。そういえばこうして一緒に寝るのは初めてだな、とサジェースタはふと思ったが──既にすぴすぴと寝入っている色気の欠片もない符正の様子に思わず苦笑が零れる。

 普段飄々としているのは強がりではなく元来の性質からくるものであったらしい。


「…………」


 だが、とサジェースタは想う。

 数日前、己の腕の中で赤子のように泣きじゃくった小さく、脆いこの女性を守ってやりたいと。時折見せる、どうしようもなく壊れてしまいそうな儚い心を──包んでやりたいと、想う。

 ──尤も、現時点においてはサジェースタの方が符正に守られている側なのが些か情けなくも愉快なことであるのだが。数日前、牛の死体を担いで持ってきた符正にビビったのは娘や臣下たちには見られたくない失態である。肉を捌くのも符正に任せてしまったし、サジェースタは時折男としての矜持とはいったい何なのか自分に問いかけて遠い目になっていた。


「…………」


 ふいに気配がして視線を少し動かせば、寝心地が悪かったのか符正がもぞもぞと身動きしていた。無言で符正の頭の下にそっと腕を通してやれば符正はふにゃりと笑顔を浮かべて腕に頭を預けてくる。


「全く──無防備だな、お前は」


 やれやれ、とひとり笑いながらサジェースタは符正の体を抱き込んで抱き枕代わりにした。

 空には、いつもと変わらず金糸雀色の満月が浮かんでいる。


 ◆◇◆


「しっかり口も覆え」

「うぅ、暑い……」


 翌日、空が明るみ始める前に青い壁を越えて砂漠に入ったふたりはそれから数時間──ひたすらざくざくと砂丘を歩いていた。


「ア~……」


 砂漠なだけあって非常に高温で、太陽もないというのに日照りがきつかった。肌を出していては火傷するからとサジェースタが符正に服を脱ぐことを許さず、それどころかマフラーで顔を守るようにぐるぐる巻きにしたため、符正は暑くて仕方なかった。だがそれでも符正は脱ごうとは思わなかった。──暑い通り越して熱いからだ。ただ熱くて、痛い。日差しとはこんなにも攻撃的なのかと符正は思わざるを得なかった。


「サジェ様は平気そうですねぇ……」

「まあ、砂漠生まれだからな」


 エリモス王国──砂漠の国。砂上の国。日沈む国。星空の国。

 様々な呼称をされているが、そのどれもが砂漠に関係している。日沈む国というのは砂丘に夕陽が沈む様子がエリモス王国における絶景ポイントのひとつであるからだし、星空の国というのも砂漠の夜は空が澄み渡っていて星がよく見えるからというのが由来だ。

 そんな風に砂漠と密接した関係にある国に生まれ育ったサジェースタにとっては砂漠は庭のようなものである。砂漠の歩き方も心得たもので符正に比べるとだいぶんと軽やかな足取りであった。


「大丈夫かね?」

「大丈夫じゃないです~」

「そうか、大丈夫そうでよかった」

「ひ~ど~い~」


 符正のぶーたれた声にサジェースタはくすりと笑い、少しずれた羽織を改めて羽織り直してしっかりと頭を日差しから守る。


「ここの“歪み”って何でしょうね~。水不足とか?」

「水不足か。我が国でも問題にはなっているな……だが、これまでの世界を顧みてもそれ自体が“歪み”といのはなかろう。あっても水不足が原因による──人間の“歪み”だ」

「……確かにそうですね。環境破壊に対する人間の“傲慢”──動物愛護に対する人間の“矛盾”──どれも人間の心因的な歪みでした」

「人間の歪みを正す旅──さて、一体何処の誰が何の目的でそんなことをやらせているのやら」

「……同じヒトなれど現世は同一にあらず。同じヒトなれど欲望は同様にあらず。同じヒトなれど幸福は同種にあらず。同じヒトなれど苦痛は同等にあらず。故に歪みは生まれる。歪みは正さねば歪む。歪んで壊れゆくだけ。故に正さねばならぬ」


 ぽつり、ぽつりと符正が例の“声”の内容を再現する。


「……人によって環境も生活も境遇も、思想さえも変わる。それによって生まれる“歪み”か。正しようがないと思うのだがなあ」

「でも、前のふたつの世界は浄化されましたよね」

「うむ。そこが分からん。何がきっかけで浄化されたのか……そもそもアレは浄化でいいのか? 確かに綺麗になっていたが……」

「わけわかめです」


 お手上げとばかりに両手を挙げる符正に少しは考えろ、とサジェースタは呆れる。


「ま、とにかく今は進もう。──ほら符正、手を」

「ハーイ」


 慣れない砂漠で覚束ない足取りの符正の手を取り、サジェースタは方角を見失わぬよう空に浮かぶ月と砂丘の位置を確認しながらしっかりとした足取りで進んでいく。砂砂漠に数多存在する砂丘はどれも似たような形であるし、風によって位置も形も変えてしまうために目印には向かないが──サジェースタのように砂漠で育った人間であればある程度は目印として砂丘を使えるのだ。


「ア~……、ん? あれ、サジェ様サジェ様」

「ん?」

「あそこ、何かあります」

「む? ……本当だな」


 砂の中に何かが埋まっているのか、一部盛り上がっている場所があった。サジェースタは砂漠に住む生物かもしれぬと警戒の色を示しつつざりざりと砂を蹴って様子を見る。けれどサジェースタの顔色が唐突にさあっと青くなったことでその行為は止まり、サジェースタは焦った様子でそちらへ向かい砂に手を突っ込んだ。


「サジェ様?」

「これは──」


 砂を払い除けてサジェースタが持ち上げたそれ。

 それに符正もさあっと顔色を変え、慌ててサジェースタの元へ駆け寄る。


「それって……!」

「……──まだ生まれて間もないだろう」


 サジェースタが手にしている、両手で包み込めるほどに小さい、小さい──人間の赤子の頭蓋骨。それを前にふたりは神妙な面持ちで沈黙する。


「──……“歪み”に関係しているということだけは確かですね」

「うむ」


 サジェースタは沈痛そうに赤子の頭蓋骨をそっと胸に抱き、それから再び砂の中へ戻した。おそらくはエリモス王国の礼法なのだろう──両手で水を掬い上げるように手のひらを天に向け、そこに額を押し付けてサジェースタは黙祷する。その隣に符正もしゃがみ込んで両手を合わせて目を閉じた。


「……進もう、符正」

「ハイ」


 符正の手を取って歩き出したサジェースタに従って符正はマフラーで口を覆い直しながら砂に足を取られぬよう気を付けて歩き出す。もはや符正は方向など一切気にしていない。歩くだけで精一杯だった。


「──建物が見えるな」

「ほんとですか?」

「ああ。そこで休憩しよう──ひと踏ん張りだ」

「ハーイ」


 それから一時間弱灼熱の砂漠を歩いたふたりはひとつの建造物に辿り着いた。

 ──大半を砂に呑みこまれてしまっている、平屋らしき建造物に。


「……地盤が砂漠に呑みこまれて沈下したのか? 随分と傾いているな……だが中には入れそうだ」


 その建造物はいくつもの部屋を並べてL字型にした一階建ての平屋であったのだが、地盤沈下か何かあったのか、僅かに傾いている。人の気配はなく、窓は割れていて壁にもヒビが入っており、砂が内部にまでかなり入り込んでいて廃屋であるということだけは確実であった。


「……“あおぞら保育園”」

「ん?」


 ふいに符正が建造物の壁に立てかけられていたカラフルでポップな看板を読み上げ、サジェースタは片眉を上げた。


「日本語なのか?」

「ええ……サジェ様には読めないのですか?」

「分からん。文字は翻訳されんようだな」

「自動翻訳チートも文字には通用せずですか~……手抜きですね手抜き」


 符正は軽口を叩きつつ、眼前にある建造物を改めて見回す。やはり看板に書かれていた文字の通り──この建造物は日本の保育園を模したもののようだ。砂のせいで風化してはいるが、よく見れば壁や屋根に花や動物のイラストがふんだんにあしらわれているし、それぞれの部屋へ通じるドアには“りんご組”、“いちご組”、“みかん組”といったプレートが掛けられている。


「まずは休憩だ。中に入ろう」

「ハイ」


 辛うじて砂に呑みこまれていない“りんご組”の教室に入れば涼しい空気が全身を駆け抜け、久々の日陰に符正はほっと一息つく。

 けれどその涼しさもすぐ呼吸が止まるほどの寒さに塗り替えられてしまった。


 “りんご組”の教室。

 その中には夥しい数の、幼い子どものミイラが転がっていた。


「…………」

「…………」


 おそらくは二歳、三歳くらいの子どもだろう。それが何十体も──床で干乾びた死体となっている。さすがの符正もこの光景には恐怖を覚えたのか、ぎゅっとサジェースタの背中に縋る。それとは対照的にサジェースタは冷静な面持ちで状況の分析に努めていた。王としての風格と度量はこういう時に役立つということだろうか。


「餓死……脱水症か? 大人がいないのが気になるな」

「サジェ様……」

「符正はそこで休んでいなさい」


 サジェースタに促され、子ども用の小さな椅子に座らされた符正は青くなった顔色で俯く。そんな彼女を心配しつつもサジェースタは床に転がっている子どもたちの亡骸を壁際に並べていくことにした。埋葬してやろうにも砂漠に埋めるわけにもいかぬため、せめて綺麗にしてやろうという心遣いだ。


「……お手伝いします」


 しばらく休んで気力が少し戻ったのか、符正もサジェースタの作業に加わって来てふたりで日が暮れ始めるまで子どもたちの亡骸を整え続けた。他の教室にも赴き、大部分が砂に呑みこまれていたものの可能な限り子どもたちを集めて床に寝かせてやった。


「夕焼けが綺麗なのが腹立ちますね」


 保育園の窓から見える赤橙色の夕焼け──ただし夕陽はない、を眺めながら符正が漏らした言葉にサジェースタは緩やかに苦笑し、エリモス王国の夕暮れはこの数十倍美しいぞ、と口にする。


「そういえば“日沈む国”と呼ばれているんでしたね。日出ずる国、日本とは反対です。──エリモス王国にいつか行ってみたかったなあ」

「んん、色々案内してやりたかったところだ。美味しいものもたくさんあるしなあ」

「美味しいもの」


 きらりと符正の目が輝き、けれどすぐ消えて落ち込んだように唇を尖らせた。


「死んじゃっているのが残念です、本当に」

「そうだなあ~……」


 “生きているかもしれない”と、何度考えたか分からない。

 “もしかしたら帰れるかもしれない”と、何度想っただろうか。

 けれどそれらは全て──脳髄に色濃く、深く刻み込まれた“死”の記憶で塗り潰されてしまう。望みがあるのかどうか、それを考えることさえ許さぬほど──心臓を握りつぶされて呼吸が止まり、全身の血が止まっていくあの記憶は重かった。


「死んじゃっているんだからもう何もしなくてもいい、とも思うんですけど──何ででしょうかねぇ。気付いたら旅してますよねわたしたち」

「……そりゃお前のせいだ」

「えっ」

「最初の世界で……お前、川掃除していただろう? 私ならばそんなことしようとさえ思わんだろう。とりあえず安息の地を求めて移動するくらいか……だがお前はあの“歪み”と向き合っていた。だから自然と歪みを正す旅に流れていった感じだろうなあ」


 そうなのだ。

 符正も、サジェースタも──“歪み”を正そうとする必要などないのだ。歪みを正す旅に選られたとはいえ、やらなければ死ぬといったデメリットを提示されたわけではない。

 サジェースタが歪みを正す旅に身を投じたのはひとえに符正が“歪み”と向き合っていたからである。本人はドブ川に落ちて腹が立ったというのが理由だったが──何はともあれ、それがきっかけでふたりは自然と歪みを正す旅に出ていた。


「ま、お前のおかげと言い変えてもいいな。分からんことだらけとはいえ──ここまで心折れずにやってこれたのはお前が“歪み”と向き合うという最初の一歩を踏み出してくれたからだ」


 符正のアレがなければサジェースタはただただ彷徨い続け、何も分からぬまま心折れて朽ちていただろうという確信がサジェースタにはあった。そしてもしも“歪み”と向き合うことをしようとしたとしても、符正がいなければ途中で挫折していただろうとも思っていた。王なぞ、ひとりでは何もできないのだ。他人あってこその──王である。


「お前と一緒ならばこの旅、続けられる」

「……わたしもサジェ様がいなかったら途中で心砕けてた自信あります」

「分からんことだらけだが、続けるか? 何なら湖の世界や草原の世界に戻って平穏に暮らすというのも手だと思うが」

「うーん、それもアリなんでしょうけど……不思議なことに」


 ──前に進まなければならない。

 そう、思うんです。


 そう符正は静かに言い、夕焼けをまっすぐに見つめた。赤橙色の光に照らされていても符正の目は相変わらずの濡羽色で、光を一切映し出していない。何を考えているのか読み取れぬこの眼が最初は不気味であったが今となっては可愛らしいものだ、とサジェースタは口元を緩める。


「ならば今夜しっかり休んで、明日も歩くぞ」

「ハイ」


 それからふたりは保育園の職員室だったであろう部屋から水の入ったペットボトルや保育士の所有物であろうお菓子類を漁り、集める。



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