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歪─ふせい─   作者: 椿 冬華
本編
5/30

第二世界 【湖の世界】 後

「──……なんというか、血の匂い……強くなってますね」

「……うむ」


 歩を進めれば進めるほど血の匂いが濃くなっていき、さすがの符正も気分悪そうにしていた。顔色の悪い符正にサジェースタが大丈夫かと声を掛けるが、逆にサジェ様大丈夫ですかと符正に問われ思わず苦笑してしまう。


「……あ、抜けられそうですね」

「結構ひ……ろい、な……」


 森を抜けて一気に視界が開けたことに声を上げたサジェースタだったが、その声はすぐ萎えていった。先程目の当たりにした首なし死体の広場よりも凄惨たる光景が、そこに広がっていた。


「…………」

「…………」


 どうやらここは山麓に広がる湖畔であったらしく、森を抜けた先には巨大な湖が静かに風に揺られながら波紋を作り出していて、少し視線を上げれば頭に雪を被った山脈が見える。湖の周辺には森が広がっていて、綺麗な自然の風景と言われて真っ先に思い浮かべるような、そんな理想的な景色であった。──色合いが本来のものであったならば。


「血……ですね」


 徹底的なまでに(あか)く。

 絶望的なまでに(あか)く。

 壊滅的なまでに(あか)く。

 猟奇的なまでに(あか)く。

 無意味なまでに(あか)い。

 ただひたすらに赤く、紅く、朱く、緋く、赫い──湖。

 血で満たされた、湖。


「……何かいるな」


 ふいにサジェースタがそんなことを呟き、符正を背後に庇う。何事かと符正がサジェースタの背後からひょこりと顔を覗かせてみれば、血の湖がちゃぷちゃぷと波立っていた。何かが泳いでいるようだ。


「魚……ですかね? 大きいですね」

「分からん。赤いせいでよく見えん」


 サジェースタは不気味そうに湖を眺める。赤いせいで見辛いというよりは──ただ赤く染めただけの水とは明らかに違う、粘着性を孕んだ液体であるが故に見辛いと言った方がより正しいだろう。


「うわっ」


 符正の小さな悲鳴、それと一緒に血の湖の中央部で赤い噴水が上がった。クジラが潮を噴いたような、そんな噴き上がり方だ──とサジェースタが思うのとほぼ同時に血の湖がぼごりと持ち上がり、巨大な水飛沫──いや、血飛沫だろうか。持ち上がった血の湖が爆ぜるように飛沫を上げてその中から──巨大なクジラが現れた。


 真っ赤に、染まったクジラが。


「クジラ……!?」

「見てください、あそこにはイルカがいます」


 符正にそう指摘されて視線を巡らせれば血の湖を軽快に飛び跳ねながら泳ぐイルカの群れがいた。それも、真っ赤な。


「何なのだこの湖は……!」

「あ、何か浮かんできて……」


 水際にぷかりと何か黒い物体が浮かんできたことに気付いた符正がサジェースタの背後から出て水辺へ近づく。サジェースタが制止の声を上げるが、符正は躊躇なく地の湖に手を突っ込んで黒い物体に手を伸ばした。それにはさすがのサジェースタも怒気を孕んだ声を上げる。


「符正!!」

「わっ!」

「迂闊な真似をするな! 戻れ!」


 出会ってから穏やかな気質しか見せていなかったサジェースタの怒声にさすがの符正も眉尻を下げてごめんなさい、と謝る。けれど既に掴んでいたらしい黒い物体は離すことなくざばりと血の湖から引き上げて陸地に無造作に放り投げた。反省しているようでしていない符正にサジェースタはぴくりと頬を引き攣らせ、つかつかと符正に歩み寄り──その両頬を限界いっぱいまで引き延ばした。


「むあー」

「君には危機感というものがないのかね? え?」

「むーあー」


 頬をぐにょーんと伸ばされた符正はわたわたと両手をばたつかせるが、血塗れの手でサジェースタに触れることは憚られたのか空を切るばかりである。


「私から離れないように。何があるか分からんのだ──勝手な行動はするな」

「むあ」

「分かったならよい」


 サジェースタはフンと鼻を鳴らして符正から手を離し、そのまま符正の両手を羽織の裾で拭った。符正が慌てたように拒否してきたがサジェースタはそれをひと睨みで黙らせる。符正が馬鹿なことをしなければこうすることもなかったのだ。


「……ねぇサジェ様、これ見てください」


 赤黒く汚れてしまった羽織の裾に申し訳なさそうにしつつも、符正は先程自分が引き上げた黒い物体に人差し指を向けた。怒りは既に失せたのか、サジェースタは素直に視線を滑らせる。

 そこにあったのは、巨大なマグロであった。──首なしの。


「──……また、首なし死体か」

「んー、でもクジラとイルカには首、ちゃんとありましたよねぇ」


 符正の言う通りである。首なし広場の動物たちとこの首なしマグロと、首を切られていないクジラとイルカ。一体何が違うのか。

 サジェースタは周囲を見回して他に何か情報を得られそうな場所はないか探す。そして少し離れた場所に小屋があることに気付き、そこに行くと符正に伝えてその手を取り歩き出した。符正は特に抵抗するでもなくサジェースタに引かれるままとてとてと歩く。


「あ、犬だ。猫もいますね」


 湖のほとりに建てられている小さなログハウス。その玄関先には多種多様な犬猫がいて、各々思うがまま自由にくつろいでいる。じゃれ合って遊ぶ犬もいればぴすぴすと寝息を立てて昼寝をしている犬もいるし、木登りを楽しんでいる猫もいれば他の猫と喧嘩している猫もいる。隣に血の湖がなければとても心安らぐ癒しの光景であっただろう。


「……首は、あるな」


 その和気藹々とした集団を見てサジェースタがまず思ったのは、それであった。

 首がある。

 首なし死体ではない。

 それは安堵なのか、はたまた不気味さからくる不安なのか。


「──……動物愛護」

「ん?」


 ふと、ぽつりと零れ落ちてきた符正の言葉にサジェースタは反応して符正の顔を見る。


「……わたしの国には捕鯨やイルカ漁の文化があるのですが、残酷で非人道的な行為だと動物愛護団体から非難されています」

「……なるほど、命の格差か」

「牛や豚は家畜(エサ)で、犬や猫は愛玩(ペット)。マグロやイワシは食材(ごはん)で、クジラやイルカは生物(いのち)。命は貴いと口にしながらもその行動には矛盾が存在している……その“矛盾”こそが“歪み”ですかね?」

「……ふむ」


 命の差別。

 犬は人間に忠実でありとても愛らしい。だから殺さない。

 牛は人間が食べるために育てている家畜だ。だから殺す。

 イルカは頭がとてもいいし感情もある。だから殺さない。

 マグロは何も考えないただの魚でしかない。だから殺す。

 愛護という名の差別。

 それは現代社会において日本にのみならず、ありとあらゆる地域で問題になっていることのひとつだ。その地域に根付いた食文化を拒絶し、野蛮だと非難し人間性を否定する。


「だとしたら菜食主義者による肉食の否定と弾圧も含まれるだろうな。我が国でも過激派の菜食主義者が時折肉食への抗議活動を行っている」

「植物を食する、それ自体も自然の摂理から考えれば肉食と何ら変わりないですもんね」

「うむ……だが“矛盾”が歪みだとして、どう解決すればよいのか」

「そうですねぇ……てか前のところでもどうしてあのゴミの塊が消えたのか分かんないですもん」

「……私もだ」


 草原の世界で出会った“歪み”──“傲慢”。

 サジェースタがその“傲慢”と向き合うことで消え失せ浄化されたのだが──そのロジカルが理解できない。サジェースタはただ、受け答えしていただけだ。その受け答えが“歪み”を解決する手段なのか、受け答えの仕方がたまたま解決に結びついたのか──よく分からないままである。


「あ、小屋の裏は畑になっているんですね。野菜がいっぱいある」


 美味しそうです、とログハウスの裏に広がっていた畑に実っている野菜を見て符正は舌なめずりする。相変わらず食べることしか考えていないな、とサジェースタは呆れの眼差しを符正に向けた。


「中も見てみますか?」

「そうだな──うおっ!」


 ばぁん、と勢いよくログハウスの扉が開いて中からひとりの人間が飛び出してきてサジェースタは思わず肩を跳ねさせる。符正は驚きこそしなかったものの、ログハウスの中から出てきた人間──いや。

 ヒトガタに、眉を顰めた。

 頭と、二本の腕と、胴体と、二本の足。

 二本の足で立ち、両手でクワを握り締めているその様は人間そのものである。

 けれど、人間ではなかった。

 ヒトではなく、ヒトガタだった。

 徹底的なまでに赤く。絶望的なまでに紅く。壊滅的なまでに朱く。猟奇的なまでに緋く。無意味なまでに赫い。

 血汐のように赤くて。劫火のように紅くて。鳥居のように朱くて。太陽のように緋くて。熔岩のように赫い。


 ただひたすら赤い、ヒトガタ。


「…………」


 符正はサジェースタに握られている手を強く──きつく握り締め、サジェースタがそれに驚いて符正に視線を向けるよりも早く──駆け出した。

 同時に、ヒトガタが符正とサジェースタ目掛けてクワを振り上げながら追い掛けてきた。


 ──ドウブツヲタベルナンテヤバン!!


「ッ!」


 ごぼりごぼりと、ヒトガタの喉元から血のように赤い粘着質な液体が溢れ出るのと同時に金切り声がしてサジェースタは思わず符正と握っていない方の手で片耳を押さえた。


 ──イノチヲナンダトオモッテルノ!


 ごぼり、ごぶり。

 ヒトガタの、どうやら裂けてしまっているらしい喉元からは聞くもおぞましい音しか聞こえてこない。


「何か武器でもあればいいのですが」

「また戦う気かね!?」


 森の中に駆け込み、縫うように逃げながら符正が唐突に過激なことを言い出してサジェースタはぎょっとする。符正は何かと好戦的で危なっかしい。


「殺られる前に殺れ。殺られなくても殺れ。とにかく殺れ。……──これ基本でしょう?」

「何処の基本だ!?」


 そんな物騒な基本があってたまるか!

 ──そう叫んだサジェースタはふいに己たちが先程の首なし広場に戻って来てしまったことに気付き、符正の手を引いて足を止める。


「青い壁のところに戻る方がよかろう。戻れる保証はないが──あの青い壁をこちらのモノは通り抜けられないはずだ。試してみる価値はある」


 サジェースタはそう言って符正の手を引くが、符正の体が動かなかったために後ろ向きにつんのめってしまい、仰け反る格好となってしまった。符正よりもサジェースタの方が遥かに体格はいいはずなのだが──どうも符正の方が身体能力は上らしい。薄々……どころではない勢いで分かっていたことだが。


「符正!」

「あ、すみません」


 サジェースタが声を掛ければ符正は悪びれもない様子で謝罪し──いつの間にか手に握っていた巨大な肉断ち包丁を軽く掲げてみせてきた。巨大な獣を解体するために用いられたものなのだろう、肉断ち包丁には赤黒い血がこびりついていた。


「武器ありました」

「おまっ……」

「戻っても結局、またここに来ることになるのですし──戦うのはわたしがしますからサジェ様は解決方法、探してください」


 役割分担です──そう符正は言ってサジェースタと繋いでいた手を離し、くるりくるりと肉断ち包丁を器用に手の甲で回しながら前に進み出る。視線を巡らしてみれば既にあのヒトガタが追いついてきていて、相変わらずの不快な音を立てながらクワを振り上げた格好のまま符正に近付いてきていた。


「符正!」

「来ないでください! 邪魔!」


 どストレートな物言いに符正を背後に庇おうと踏み出しかけた足をぐっと押し留める。


「お前ぇ、なぁっ……!」

「サジェ様おっきいくせに弱いですもん」

「ぐっ……!」


 私が王だって忘れているよな、お前──と、恨めしげな声が出てしまったのはしょうがないとサジェースタは思う。王族として生まれて四十数年。こんなにもぞんざいな扱いを受けたのは初めてだとじとりと符正を睨み付ける。

 だが王族としてのプライドや矜持を振りかざそうとは露ほども思わなかったらしく、サジェースタは呆れたように鼻を鳴らして視線を符正から逸らして状況の把握に努め出した。


 ──ヒドイヒドイヒドイヒドイ、ナンテヒドイ

 ──オマエタチハワルモノダ

 ──コンナカワイイイキモノヲコロスナンテサイテイ

 ──サイテイ! サイテイ! サイテイ!


「──……」


 例の“ヒトガタ”はどうやら一人だけではなかったらしい。

 一体どこから湧いて出たのか、ごぼりごぼりと鮮血を垂れ流しながら数十人のヒトガタが金切り声を上げてこちらに向かってきている。熊手や鎌、バットに鉄パイプ、ハンマーに銛──多種多様な武器を手にして不気味な金切り声を上げながら迫ってくる赤いヒトガタの集団は正直言って、ホラー以外の何物でもない。


「動物愛護という大義名分の下に思想の押し付けという名の暴力を振るう。そういうの、大嫌いですわたし」


 符正は心底侮蔑したような眼差しでヒトガタを睨み据え、不機嫌そうな声を隠すこともなく刺々しく言葉を荒げた。


「わたしだって犬や猫は可愛いから食べたくないです。けれど犬や猫を食べる文化を否定しようとは思いません──否定するならば、代替手段の提案をするくらいに留めますかね。犬や猫を食べるなと否定して食糧を取り上げるのはただの暴力でしかないです」


 食文化の否定は生存競争の否定。

 生存競争の否定は歴史の否定。

 歴史の否定は生活の否定。

 生活の否定は命の否定。

 いくら食の飽和時代が到来しているとはいえ、他人から食を取り上げる権利なんて誰にも存在しない──そう言って符正は腕を大きくしならせて横に薙いだ。

 ぎぃん、と肉断ち包丁とクワの先端がかちあう。

「頭がいい生き物だから殺すな! 肉食は野蛮な行為だからやめろ! ──ばっかじゃないの!!」


 ──ヤバンヤバンヤバンヤバン!

 ──ニンゲンノクズ! ニンゲンノゴミ!

 ──イノチヲタイセツニシナイクズ!

 ──アイジョウガタリナイケッカンヒン!


「うるさい! 否定するしか脳のないお前たちなんてわたしが()()する!」

「待て符正!」


 ヒトガタの頭部目掛けて肉断ち包丁を振り下ろそうとした符正の腕をサジェースタが掴み、無理矢理引き摺ってヒトガタから距離を取る。


「何をするんですかサジェ様!」

「落ち着け。()()らと同じことをしてどうする──()()らと同格に堕ちるだけだ」

「……!」


 サジェースタの落ち着き払った眼差しと正論に符正はぐっと息を詰め、不機嫌そうに歯軋りをした。


「先程、私のことを弱いと言ったな?」

「……、……ハイ」

「王に強さなどいらぬのだ。王に必要なのは、どんな人間であろうとそれを人間だと認め受け入れる度量だ」

「…………!」


 サジェースタはとても落ち着いた──凪いでいる眼差しで、けれど無感情というには慈愛のこもりすぎている穏やかな眼差しでヒトガタたちを見つめながら符正の手をそっと握り締める。符正自身、気付かぬ間に手が白くなるほど肉断ち包丁をきつく握り締めていたようで符正は目を見張り、サジェースタの温かな手のひらに促されるまま肉断ち包丁を手放す。


「民なくしては王など成り立たぬ。民あってこその王──だからこそ私は、彼らの存在も受け入れるのだよ。彼らもまた民のひとりであることには変わりない。民全ての願いを叶えることなど王にはできないが、民全ての想いを受け止めることはできる」


 どんな過激派であろうと人間であることには変わりない。それがたとえ罪を犯した人間であっても、人間だ。

 だからこそその言葉には耳を傾ける。他者が無意味で無価値だと判じようと、耳を傾け言葉を受け止める。


 それが“王”だ。


 ──そう言って、サジェースタは微笑んだ。


「…………」


 ああ、と符正は納得したように頷く。

 わたしの目の前にいるこの人は“王”なのだと、心の底から思うことができたのだ。


「……本物のサジェ様だ」

「何だそれは」

「いえ……申し訳ありませんでした。本当のこととはいえ、邪魔だの弱いだのサジェ様に好き放題言いすぎました」

「一言余計なのだ君は」


 サジェースタは符正の頭にチョップを食わらせて呆れたように笑い、改めてヒトガタたちと向き直って真摯な眼差しを向ける。


「──生きとし生けるものを尊重する姿勢、素晴らしく思う。君たちの思想は決して間違ってはいない」


 ──ドウブツヲコロスナ!

 ──ヤサイダケデモイキテイケル!

 ──ニクヲタベルナンテヤバン!

 ──イノチヲソマツニスルナ!


「危ないサジェ様、こっちに」


 武器を振り回しながら迫ってくるヒトガタを避けてふたりは森の中を後退していく。ごぼり、ごぶりとヒトガタがあちらこちらから現れてきてふたりは森の中を縫うように逃げながらヒトガタの声に耳を傾けた。


 ──ナゼコロス?

 ──カワイイノニコロスナンテヒドイ

 ──カチクトイキモノハチガウノヨ

 ──カチクダッテイキテイルノニ


「人間に忠実な犬を大切にするのも、人間と変わらぬ知恵があるイルカを尊重するのも、そしてたとえ家畜でも命ある生物だと牛を保護しようとするのも──どれも決して間違ってはいない」


 “矛盾”という名の歪み。

 愛玩動物の食用を否定し、守る。けれど家畜の命は度外視する。

 命の略奪を否定し、尊ぶ。けれど哺乳類以外の命は度外視する。

 肉食を否定し、菜食を推奨する。けれど植物の命は度外視する。

 愛護という名の裏に存在するありとあらゆる矛盾。家畜は食べるための存在だから構わない──哺乳類は人間と同じだけれどそれ以外は違うから構わない──植物には心が存在しないから構わない──そんな色々な言い訳をして矛盾から主張を守り、あるいは矛盾を見て見ぬふりして主張を貫き、彼らはただただ叫ぶ。


「動物愛護にしても菜食主義にしても、思想のひとつとして尊重されるべきものだ。だが、思想はひとつだけに選り固めてよいものではない。我々に必要なのは互いの思想を認め合い、歩み寄ろうとする姿勢だ」


 だが、とそこで言葉を切ってサジェースタは仕方なさそうに微笑む。


「それでも歩み寄れない、認められない、認めたくない、認めさせたいと思ってしまうのが人間だ」


 だからこそ争いは起きてしまうのだが、その争いもまた人間らしいものと言える。

 そう言ってサジェースタは難しいものだな、と哀愁を帯びた微笑みで目を伏せた。そんなサジェースタに符正は何か言うでもなくサジェースタの体を引いてヒトガタの攻撃をかわす。

 サジェースタの言葉はどうやらヒトガタたちには届かないようだ。暴力に訴えかけるような過激派ともなると他人の言葉など否定するばかりで聞き入れようとしないことが多いのだから当然とも言えるが、切なくなる結果だとサジェースタは思う。


「サジェ様、湖に出ちゃったみたいです」

「む」


 符正に言われて背後を振り返ってみれば確かに先程も目にした血の湖が木々の先に広がっていた。血の湖では相変わらず水飛沫──血飛沫を上げながらイルカたちが飛び跳ねている。


「──ふむ、参ったな」

「……こういう人たちには論理的な会話も、心情的な会話も通じないと思いますけれど」

「そうだな。経験上それはよく知っている。言葉が通じない人種というのは存在する。呆れるほどに自分を正しいと過信している人間とかな。だがな、それでもやはり人間なのだよ」


 だから私は受け入れる。


「…………」

「いやはや、困ったものだ。臣下たちがいれば対処のしようもあるのだがなあ」


 ひとりきりの王ほど役に立たない存在はないなあ。

 そう言って苦笑するサジェースタに符正は首を横に振った。


「わたしがいます」


 “王”は個に非ず。

 “国”は王に非ず。

 “民”こそ要なり。

 かつてサジェースタが口にしていた言葉を思い出し、符正は微笑む。もしもここにサジェースタの臣下たちがいればサジェースタはきっと全ての責任を己が負った上で暴動を収めるための策を臣下たちと練るのだろう。サジェースタならば一般市民に被害が出ぬようにすることを最優先にしつつ、けれど暴動の怒りを全て否定することなく主張の場を整えて体裁を改めることができるよう臣下たちに手配させるかもしれない。


「サジェ様の御付きの方々のように優秀ではありませんけれど……わたしにできることがあるならばやります」


 だからサジェ様はひとりきりの王ではないです。

 そう言ってにっこりと笑う符正にサジェースタは一瞬あっけに取られ、けれどすぐ口を吊り上げて嬉しそうに笑った。


「それは心強い」


 なんせ弱いんでなァ──と嫌味っぽく笑いながら仕返しをしてきたサジェースタに符正はむぅ、と唇を尖らせつつサジェースタの腕を引いてヒトガタたちの群れから抜けるように森を出た。


「さて、どうするか」

「どうしましょうかね──……って、あれ?」


 ふいに符正が背後に広がる血の湖を見て間の抜けたような声を上げる。それにつられてサジェースタも背後を振り返ってみれば、血の湖が盛り上がっていた。


 風船のように、湖全体が。


「──は?」


 表面張力とか、熱膨張とか、そんな次元ではない。重力という重力を無視して湖の水そのものが風船のようにぶくぶくと膨らみ上がっていっている。


「……サジェ様、これヤバくありませんか」

「……ヤバいな」


 膨らみ上がった湖に遮られ、ふたりに影がかかる。もはや物理法則もへったくれもない。湖はぎちぎちのみちみちに膨れ上がり、湖面に立っていた波さえも引き延ばされて──いるのかどうかは分からないが、まるで引き延ばされて皺がなくなる服のように波ひとつ、皺ひとつない。今にもはちきれそうなそれを前にサジェースタはひくり、と口を引き攣らせた。


「──逃げるぞ符正!!」


 その叫びを待っていたかのようにぎちぎちに膨れ上がった血の湖は──爆ぜた。


「サジェ様!」

「のわぁっ!」


 縦横無尽に爆ぜ津波の如く押し寄せてきた水の塊に全身が呑まれる。

 膨大な水の塊はもはやコンクリートブロックと変わらない。勢いよく薙ぎ払われ荒れ狂う水流に体がきりきり舞いとなって引き千切れそうになり、鼻から口から耳から鉄錆臭い液体が大量に流れ込んできて体の中をぐちゃぐちゃに掻き回され──そこでサジェースタの意識は途絶えた。


 ◆◇◆


 ちゃぷちゃぷと軽やかに揺れる水の音に意識を引き上げられ、少し首を傾けてみれば口の中に無味無臭で冷たいけれど美味しさと気持ちよさを覚える水が流れ込んできて思わずごくり、と水を喉奥に流し込んでしまった。


「サジェ様、生きてますか?」


 ──と、そこで耳に聞き慣れた声が飛び込んできてようやくサジェースタは目を開けた。

 まず視界に入ったのは空一杯に広がる青空とその青空を鏡のように反射して映し出している美しい湖だった。ふわふわと地に足がつかない不安定な感覚にサジェースタが不安を覚えて腕を動かしてみればばしゃりと手が水を打つ感触がして、そこでようやくサジェースタは自分が湖に浮いていることに気付く。


「今陸に向かってるとこなんでそのまま浮いていてください。引っ張ってあげますから」

「符正」


 青空と青空を映し出した湖、その中で符正はサジェースタの首に腕を回して引っ張りながら泳いでいた。暴れないでくださいねという符正の忠告を守りぷかぷかと浮遊感に身を任せていれば数分とかからないうちに陸地に辿り着き、ふたりは這い上がるように陸地に転がり込んで大の字に倒れた。


「ふはあー……溺れるかと思いました」

「何があったのかさっぱりだ」

「わたしもです。でも、どうやら浄化されたみたいですね」


 符正の言葉に視線を巡らしてみれば確かに前のエリア、草原の世界と同様──この世界も美しくなったようだ。鉄錆の匂いも綺麗さっぱりなくなっていて、とても気持ちのいい澄んだ空気が広がっている。サジェースタは胸いっぱいに空気を吸い込み、深呼吸をする。


「はあー……何が解決のきっかけになったんだろうな」

「さっぱりです」

「だよなあ」


 だが何にせよ、無事乗り越えられたようでよかった──そう言って笑うサジェースタに符正も同意して笑った。


「サジェ様」

「ん?」

「わたし、サジェ様と出合えてよかったです」


 歪みを正す旅に出ろという一方的な神託だけ寄越して死を与えてきたカミサマ。

 それに対する怒りも、疑問も、悲しみも、恨みもある。突然死んで、突然この世界に来て、突然の理不尽に連続で見舞われて。いくら図太い性格をしていても平常でいられるはずがない。いくら考えないようにしているとしても限界がある。

 けれどそれでも今現在、符正が落ち着いた心境でいられるのは──隣にサジェースタがいるからだ。

 サジェースタと出会い、サジェースタと話し、短い間とはいえ行動を共にして随分と救われた気がすると符正は思っていた。


「……それはこちらの台詞だ」


 サジェースタもまた符正と同様に、ひとりきりであったならばどうすることもできず朽ちていくだけだっただろうと考えていた。

 “普通の世界”の代表者、日向符正。一般人の女性ではあるが肝が据わっていて度胸も度量もある。色気よりも食い気で好戦的、猪突猛進的な単純さがあるがとても素直。そんな彼女のお陰で随分と気持ちが安らいでいるし、“王”としての矜持も失わずにいられている。そう考えてサジェースタは身を起こし、符正に向けて手を差し伸べた。


「これからもよろしく頼む、符正」

「ハイ、こちらこそよろしくお願いします!」


 青空と青空を映し出す湖に挟まれた境界線を背に、ふたりの手が固く結びつく。



【矛盾】





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