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歪─ふせい─   作者: 椿 冬華
本編
2/30

第一世界 【草原の世界】 前

第一世界 【草原の世界】


 灰色に濁り澱み切った空。

 土壌が腐り、草木の枯れ果てた地面。

 汚物という汚物を集め凝縮して煮詰めたような呼吸さえままならぬ空気。

 その中でひとりの男が、目を覚ました。荒れ果てた大地に伸びるように、その男性は大の字で横たわっていた。晴天の下心地よい風を受けながら昼寝をしていたという体ではなさそうだが、少なくとも今の今まで意識を失っていたようで男は軽く顔を顰め、頭を押さえた。


「…………」


 鼻孔を突く湿った不快な臭気に男は眉を顰めつつも上半身を起こす。周囲を見回すがあたり一面荒れ果てた大地が広がるのみで、何か目立ったものがあるわけでもない。


「私は……」


 男は己の体を確かめるようにあちこち触れ、異変がないことを確認するとゆっくり立ち上がった。周囲に比較物が存在しないためはっきりとは言えないが、百八十はゆうに超えているであろう長身の男だ。細身ながらも決して華奢ではない体躯に中東でよく見られるカンドゥーラとよく似た苔色のゆったりとした布を纏っている。その上に紫紺色の羽織を緩やかに掛けていて、とても気品のある出で立ちだった。苔色と紫紺色がよく映える浅黒い肌には深い皺が多くはないもののそれなりに刻み込まれていて、それなりの年月を重ねているであろうことが窺える。少なくとも四十は超えているであろう。

 男は顎に蓄えられた黒い髭を撫ぜながら首を捻る。その拍子に男の後頭部でひとまとめにされた癖の強い黒い髪が揺れた。


「ここはどこだ……」


 そんなぼやきが男の口から漏れ、ぐるりと男の琥珀色の輝きを持つ両眼が周囲を見回し──直後にため息が零れた。

 どうやら自分がここにいることに関して心当たりが全くないようだ。男は腕を組み、己が何をしていたか事前の記憶を掘り起こす。

「確か宮殿にいて──」

 そこで男はああ、と思い出した。


「“声”がしたな……」


 そう、それは男がいつものように愛娘や信頼できる臣下たちと談笑していた時のことであった。唐突に頭の中に声が響き、直後に暗転したのだ。その声は男だけでなく愛娘や臣下たちの頭にも響いていたようで、みな一様に驚き戸惑い、警戒していた。それを思い出して男は目を細める。


「……サハーシャたちは来ていない、か?」


 鼓膜を通さぬ、意識という意識を──意思という意思を、自我という自我を捻じ伏せるように鳴り響いた“声”の内容、それが正しければ男の愛娘や臣下たちはこの世界に送り込まれていないはずである。


「“普通の世界”……“権力の世界”……“財力の世界”……そして、“暴力の世界”」


 人間、生まれは平等ではない。生き方も選べる人間と選べない人間がいる。選べることに気付かず、選べぬと思い込んだまま死にゆく人間もいる。考え方も人間によって違えば何が望みかも人間によって形を変える。だからこそ同じ世界であっても、全く種類の異なる世界が構築される。

 あの“声”は世界を四つに分類し、それぞれから代表者を選ると言っていた。


 さあ、歪んだ世界を正しなさい。四人の子らよ。

 日向符正(ひゅうがふせい)。サジェースタ・サン・ジャスティト。

 ゴルドル・ユートピア。ニコラウス・デスピア。

 さあ、歪みを正し罪を償う歿後(ぼつご)の旅に出なさい。


 男の目の前が暗転する直前、“声”はそう言っていた。

 その言葉を素直に受け止めるならば男を含む四人の代表者とやらが歪みを正す旅に放り出されたということになる。が、あまりにも非現実的だ。


「……ここにいても仕方ない、な」


 男は思考を止めぬまま足を踏み出し、目的地を定めるわけでもなくゆったりとした足取りで歩み出す。しかし元いた場所を見失わぬよう、右足で微かに地面を擦り跡を残していった。


「四つの世界の、四人の代表者……順当に考えれば私は“権力の世界”の代表か……」


 その言葉の意味する通り、男には権力が存在した。

 男の名はサジェースタ・サン・ジャスティト。エリモス王国の第二十七代国王である。そして男には──サジェースタには他の世界の代表者についても心当たりがあった。

 “財力の世界”の代表者は世界最大のカジノ、ユートピアカジノを経営するゴルドル・ユートピア。

 “暴力の世界”の代表者は世界最悪のマフィア、デスピアファミリーのボスであるニコラウス・デスピア。

 どちらも非常に有名な人物である。残った“普通の世界”の代表者はおそらく全く知らぬ名である日向符正という人物だろう、と当たりを付けてサジェースタは頷いた。


 それからどれくらい歩いただろうか。鼻孔を突く不快な匂いは歩みを進めるたびに強くなっており、サジェースタは眉を顰めずにはいられなかった。だが同時に水場特有の湿気った匂いもしていて、水場が近いことを知らせていた。別に喉は渇いていないのだが、目印があるのとないのとでは全く違う。サジェースタは水場を拠点とすることを考え、そこに向かっていた。

 そうしてどれ程の時間が経っただろうか。

 疲れはないものの、変わり映えしない景色と鼻を突く悪臭にげんなりしていたサジェースタの視界にようやく──それまでは見なかった景色が映った。


「岩場……いや、川か」


 まだ遠いものの錆色の岩が転がっている川辺らしき風景がある。サジェースタははやる足を抑えつつそこへ向かう──が、その足も自然と重くなっていく。何故ならば──川に近付くにつれて明らかに、歴然と、はっきりと、悪臭がもはや災害とも称すべきほどに強くなっていたからである。けれどこの状況下で逃げても何も変わらないことを分かっていたサジェースタは重い足を渾身の精神力でもつて持ち上げる。

 そうして川に近付けばもはや一目瞭然で、悪臭の原因は川にあった。むしろ川でなければ一体なのなのか。そう言えるほどに──川は、汚濁しきっていた。黒緑色の水に深紫色のヘドロが浮かんでいる川なぞ川ではない、とサジェースタは顔を顰める。ゴミも相当溜まっているようで水の流れは滞っており、泥のように水が質量を有していた。かなり汚れているようだ。

 その川を前にどうしたものか、とサジェースタが考えているとばしゃりと川の上流の方から水音が聞こえてきてサジェースタは僅かに警戒の色を目に持たせる。

 水音は断続的に聞こえてくるようだが、それに混じってがちゃがちゃとモノがぶつかり合うような音もすることにサジェースタは片眉を上げた。誰かいるのか、という警戒だ。


「…………」


 愛娘や臣下たちと談笑していた直後に“声”が鳴り響き、暗転して気付けばこの見知らぬ場所にいた。それも、腐り果てた大地と悪臭しかない濁った空という最悪な場所に、だ。

 サジェースタ自身、国王という身分にいるため一時は国家転覆や侵略などを狙った国王の誘拐を疑った。だがそれはすぐ否定された。国王をこんな場所に放り出す誘拐など聞いたことがない。死んでもらうのが目的ならばこんな場所に放り出すよりも普通に殺した方が確実であるし、生かしたまま放置しておく意味が分からない。

 故に、たとえ誘拐だとしても国王という身分を狙ったものではなく、実験体のひとつとして狙った誘拐であるとサジェースタは考えていた。あの“声”の正体は分からないが、有り得る可能性のひとつとして科学技術の発展過程における電脳化実験の一環──というのを想定しているが、それも非現実的である。


「…………」


 上流にいるのが誰なのか、サジェースタには分からない。状況も理由も目的も分からないこの状態で分かれというのが無理というものなのだから仕方ない。

 だがそれでも、サジェースタは上流に向かうことを決めた。もしかしたら誘拐犯がいるかもしれない。だがここで逃げても何も分からないままであるし、それならば危険を冒してでも状況の把握に努めるのが吉だろう。

 そう決心してサジェースタは上流に向けて足を踏み出した。音を立てぬよう岩を避けながら歩くが、断続的に響く水音と物音は殊の外大きく、それほど気にせずともよいかもしれない。


 そうしてしばらく歩けばサジェースタの視界に大量に積まれたゴミの山が映り、サジェースタは目を見張る。ばしゃ、がしゃ、びちゃ、がいん、と響いてくる音と共にゴミがどんどん川から陸地に投げ出され、積まれていっている。どうやら──川の中に誰かが、いるようだ。


「…………」


 そろりと息を潜めながら川に近付いてみれば、汚濁しきった水の中にひとりの人間がいるのが見えた。濡羽色の長い髪を頭頂部でひとまとめにし、水に濡れぬよう袖や裾を縛り上げて腕や下半身を惜しげもなく曝け出している──女だった。


「ん?」


 と、その時不意に女がぐるりとこっちを振り向いてサジェースタと視線が合い、サジェースタはぎょっと顔を強張らせる。髪の色と同じ、濡羽色の虹彩とその奥にある漆黒色の瞳が真っ直ぐサジェースタを射抜いている。太陽が出ていないからか、光を映さぬその黒一色の目はまるでサジェースタの全てを見抜いているようでひどく不気味だった。

 女は幼い顔立ちをしていたが、子どもという印象は受けない。成人女性の体つきをしているし、幼い顔立ちと言ってもサジェースタに比べると顔の凹凸が薄い造形であるために若く見えるという印象だ。


「あー……君は……」

「もしかして王様ですか?」


 どう話しかけたものか、とサジェースタが考えあぐねていると女の方からそう声掛けてきた。濡羽色の光を映さぬ目をサジェースタに向けたままこてりと首を傾げた女にサジェースタは緩やかに頷く。


「サジェースタ・サン・ジャスティトと言う。君は……」

「日向符正と言います。あ、フセイ・ヒューガです」


 その名を聞きサジェースタははっと“声”の内容を思い出す。“声”が選った代表者の中に確かに、日向符正という名前があった。

 では彼女が“普通の世界”の代表者か、とサジェースタは考えて顎を撫ぜる。確かに女は特に目立った特徴のない、普通の一般人女性に見えた。


「日向符正……名の響きからして、日本人かね?」

「ハイ。日本で会社勤めしているただの一般人です」


 女──符正はそう言うとヘドロに塗れた両手を挙げてお手上げのポーズを取る。その手を見てサジェースタはそれまで疑問に思っていたことを聞いてみることにする。


「君は──日向符正、くんはここで何を?」

「符正でいいですよ。何って、川掃除です」


 見ての通りですよ、そう言って符正はにかりと笑った。不安を覚える濡羽色の目とは裏腹に感情は豊かであるらしいことにサジェースタは少し安堵しつつ、何故ゴミ拾いしているのかと問う。


「聞いてくださいよサジェ様! わたし、死んだ後気付いたらこのドブ川で溺れかけていたんですよ!? 信じられます!? お陰で全身ヘドロまみれだし、臭いし、もう本当最悪で! 腹立ったので掃除してるんです!」

「色々突っ込みたいのだが、まず待て──()()()()だと?」


 サジェースタの言葉に符正はきょとんとしたように目を丸くする。光を持たぬ濡羽色の目でもこんな風になれば可愛らしいな、などと関係のないことをうっかり考えてしまうサジェースタであったが、この後符正の口から出てきた言葉に思考は停止する。


「そうでしょう? わたしたち、()()()()()()()()


 その言葉に。

 その()()に。

 サジェースタは──ようやく、思い出した。


「ああ──……」


 そして諦めたように、サジェースタは目を伏せた。


 サジェースタの脳裏に甦るは、泣き叫ぶ愛娘と蘇生を試みる臣下たちの姿。

 “声”が響いた直後に心臓に激痛が走り、全身の血が凍りついたように流れなくなって呼吸もできなくなり──そして、死に至った。


歿()()の旅と……確かに、“声”も言っていたな……」

「ハイ」


 “声”は四つの世界から四人の代表者を選り、歿後の旅に出すと確かに言っていた。歿後。死後。死んだ後。()()()()()──……

 サジェースタは自分の胸を抑え、歯軋りをする。あの時サジェースタの胸に走った痛みは、本物であった。心臓が絶叫し、絶望し、絶命した。その時の感覚を思い出してぞわりとサジェースタの肌が粟立つ。“死”とはあんなにも冷たいものなのか、とサジェースタは恐ろしくて仕方なかった。

 四十代も半ば、いい歳をした大人ではあるが──それでも“死”への理解があまりにも稚拙であったとサジェースタは痛感せざるを得なかった。王として人より様々な経験を積んできたという自負はあったが、その数々の経験から学び想定した“死”など、所詮はただの妄想に過ぎぬのだと理解せざるを得なかった。


 思考など無意味に。思想など無価値に。思慮など無頓着に。思案など無神経に。思慕など無関心に。思念など無造作に。思索など無関係に。

 何もかも根こそぎ。ありとあらゆるものを根絶やしに──“死”は奪っていく。ただ剥いでいく。根こそぎ剥いで、それで終わる。

 後に残るモノ? あるわけがない。


「──……だが、私はここにいる」

「わたしもですよー」


 符正はそう言ってふにゃりと気の抜けるような笑顔を浮かべた。彼女もまたあの“声”を聞き、“死”を経験したはずであるのに──随分と、強い。そう考えてサジェースタも少し頬を緩める。


「……それで、何だったか……川掃除?」

「ハイ。このドブ川に落ちて腹が立ったので川掃除しています」

「どういう理屈だ……」


 どうやら符正は“声”がした直後、暗転して気付けばこの川で溺れかけていたらしい。頭の先から靴の中まで全身ヘドロ塗れとなってしまい、しばし虚無に襲われていたという。だが時間が経つにつれて何故こんな目に遭わねばならぬのかと怒りを覚えるようになり──思い立って汚れてしまった服を放り投げ、川掃除に励み始めたのだそうだ。脈絡がない。


「──それにこうしていると、余計なことを考えずに済むので」

「……!」


 その言葉を聞いてサジェースタは目を見開き、そして痛ましげに目を細める。

 符正の飄々とした様子からは分かり辛いが──まだ年若い女性なのだ。突然死んで、平気であるはずがない。サジェースタとて今現在落ち着いているように見えるが──それは“王”としての矜持と培ってきた経験がそうさせているだけで、決して平気なわけではない。本当ならば今すぐにでも愛娘の名を叫び出したいくらいなのだ──ただの一般人である符正が平然としていられるわけがない。


「…………付き合おう。話をしながらでも良いかね?」

「お、大歓迎です大歓迎。でも靴は履いたままの方がよろしいかと。ゴミだらけで危ないですからね」

「分かった」


 サジェースタはそう返事すると羽織を脱ぎ捨て、服の裾を捲り上げて腰のあたりで固く結ぶ。袖も捲り上げるとそのまま川の中へずぶずぶと足を沈めていく。川とはとても思えぬ粘着質な感触が伝わって来て全身粟立つのも構わず、サジェースタは符正の隣へ向かった。


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