9 名前をもらいました
なんだかんだでお屋敷に保護されて早くも三日。
最初はお母さんとお姉ちゃんに会いたくて、泣きそうにもなったけど、ふかふかベッドに美味しい食事、これでもかと甘やかされて、私はすっかり飼い犬生活を満喫中です。
リーン様はとっても優しい。それにすっごい美少年。見た目が前世で憧れだったあの人に似ているだけでなく、放っておけない感じなの。
直接尋ねるわけにはいかないので、本人やお屋敷の人達が話している内容を総合して得た情報によると、歳はまだ十五歳で伯爵家の長男。歳の離れた異母姉が二人もおいでになるけど、どちらも既にお嫁に行かれている。
失礼ながら初日に拝見した時に、母上に比べて御父上の伯爵は結構ご年配だと思っていたら、母上は後妻なのだそうだ。伯爵にしてみれば、先妻の子が女ばかりだったところにやっと授かった待望の男児。
そんなわけで周囲の期待を一身に背負われて、リーン様はとっても大変。ペットでも飼ってストレスを解消したくなるのもわかるわ。
趣味は乗馬と剣術。繊細で穏やかそうな見た目に似合わず、外で体を動かすことがお好き。でも、お勉強は苦手では無くとも、あまり好きでは無いみたい。
朝食の後、午前中はみっちり家庭教師によるお勉強が待っている。
「犬を散歩させてくる」
私をダシに抜け出そうとしたリーン様に、すかさず冷ややかな声が掛かる。
「まだ子犬なのでそんなに運動は必要ございません。本日は数術と音楽の先生がおいでになられますので、部屋で自習をしてお待ちください」
……ハエル。いつもリーン様につかず離れず一緒にいる執事というか教育係。こいつもリーン様のストレスの原因だと思うんだよね。私にとっても。
長身で黒い長めの髪をきっちり結わえ、背筋をぴんと伸ばしたクールな感じのイケメンさんで、見た目は非常に良い。伯爵夫妻の信頼も厚い。だけど性格は悪そう。仕事熱心なのはわかるが、どうも私の事を邪魔者扱いしているのが露骨にわかる。
最初、こいつにも勝ったと思ったのにな。伯爵夫妻をはじめ、侍女他のお屋敷勤めの方々も皆、あっという間に私の虜になってくれたのに、ハエルにだけは私の魔法の効きが薄い。
「でも、ちゃんと世話をするって約束したのだから、一緒に遊んでやるのも世話だよ?」
リーン様のちょっと苦しい言い訳も効かない。
「勉強の後でもよろしいかと思います」
一言でハエルは終わらせてしまった。……完敗ですね、リーン様。
しょぼんと肩を落として、部屋に向かうリーン様は見ていて可哀相。私が駆け寄ろうとすると、目の前が塞がれた。障害物は無駄に長いハエルの足。
「こら、チビ犬。お前はリーン様の勉強の邪魔だ。部屋の外で待て」
むう。邪魔なんかしないのに。
ハエルを無視して足を躱そうとすると、今度はひょいと摘み上げられてしまった。
やーん、この陰険男に抱っこされたくないー! 私が必死になって逃れようと身を捩っていると、リーン様がハエルの手から私を奪い返してくれた。
「大丈夫だよ。邪魔しないよね? 傍にいておくれ」
うん、しない。リーン様のお傍で大人しくしてるから! そう思った私は、リーン様の顔を見て無意識に反応していたようだ。
ハエルが訝しむように言う。
「今、この犬、頷きませんでしたか? まるでリーン様の言葉がわかっているみたいに」
なんのことかしら? 私、まだちっちゃい子犬だからわかんなーい。
しまった。見てたのか。普通の犬らしくしないといけないのに!
「偶然だよ」
そこはリーン様がそう済ませてくれたので、なんとか助かった。しかし―――。
「本当にただの犬か? やはり魔犬族ではあるまいな?」
リーン様には聞こえないようなハエルの呟きは背後から聞こえていた。
……気を付けないと。この男。
リーン様がお勉強の間、私は部屋の隅で様子を伺いながら大人しく待っていた。
考えてみれば、どう考えても日本でもなければ、どこなのかもわからない世界で、私は言葉もわかれば文字も読めるのだろう。そこは例のボーナスなのかと勝手に解釈しておくことにする。
数術……リーン様はどんな難しいことを習っているのだろうと思って聞き耳を立てていたら、せいぜい小学校の算数レベルだった。
「領地が南北に六十ヘラ、東西に四十ヘラの縦長の四角ですが、中央に五ヘラ角の池があるとします。池の部分は除き、領地の広さは何ヘラルでしょう?」
単位は聞いたことが無いし、いかにもお貴族様な例題だけど、長方形の面積を求めて正方形の池の部分を引けばいいんだな。すっごい簡単だよ、リーン様。そんなにめいっぱい考えなくても……。
教えてあげたいのをぐぐっと堪えていると、やっと答えを出せたリーン様に、教師はとっても驚いて、拍手までしている。リーン様、十五だよ。
うん、この世界の文化レベルがなんとなくわかったかも。それとも、先生はお坊ちゃまに気を遣っているだけなのだろうか。
そんな感じで何問かみっちりやって、次は音楽。
これは嫌ではないのか、リーン様もノリノリだ。フルートによく似た横笛の演奏が、とってもお上手だ。
どこかで聴いたような、でも聴いたことのない旋律は少し物悲しくて美しい。なんとなく子守歌のようにも聞こえる。
ガラス越しに穏やかな陽の差し込む窓辺で聴く、綺麗な音楽。演奏しているのは素敵な人。
ついうっとり心地よくなって、目を閉じて聞き惚れているうちに私は眠ってしまった。次に目が覚めたら練習が終わってしまっていた。残念。また吹いてくれるかな。
「ホントに大人しくしてたね。先生達も君の事をなんて可愛くて、いい子なんだって言ってた」
リーン様が鼻高々ってお顔。えへへ、褒められたー! だけど、褒められたことより、リーン様がご機嫌なのが私は嬉しい。後半は昼寝してたけどね……。
午後はハエルと庭で剣術の稽古をされたリーン様を待って、そのあとひとしきり一緒に遊ぶ。
とってこいも出来るよ! これ、前世で犬が延々やっているのを何が面白いのだろうと思って見ていたけど、犬になった今、その気持ちがわかった。確かにハマるわ。
投げられた布製の球をただ拾いに行って、咥えてご主人様に持って行くだけなのに、めちゃくちゃ褒められるし、嬉しそうに笑ってくれる。
ハエルが一度だけ投げた球は拾いに行ってやらなかった。フフン、ちょっとした腹いせだ。
そんな風に楽しく一日を過ごして夜。
「いい加減、正式な名前をつけないと、皆チビだのクロだの好き放題呼んでいる。どんな名前がいいかな……」
そう言って、リーン様は机に向かって何やら紙に書き始めた。私の名前を考えてくれているのだ。
邪魔しちゃいけないと思って、私は少し離れて様子を見ていた。
どのくらい時間がたっただろうか。私も少しうとうとしていたけど、気が付くとリーン様は机に突っ伏してそのまま寝入ってしまったみたい。お疲れだよね。
私みたいに毛の生えていないリーン様が、そんなところで寝たら風邪をひいちゃうよ?
眠るならちゃんとベッドに行ってもらおうと起こしに行って、私が膝によじ登っても、リーン様は起きない。
机の上まで登ると、リーン様が書いていた名前の候補の紙が目に入った。
どれどれ、どんな名前をつける気なのかな?
ブルギエッタ、ベルリオーズ、メルシアンヌ、マルグリッタ、ザラべット……
うーん、一生懸命考えてくれたリーン様には申し訳ないけど、どれもすごく仰々しい名前すぎて、ピンとこない。
ってか、周りの人間さん達は、リーンやらハエルやらシンプルな名前なのに、犬にこんなに長い名前をつけるの? ひょっとして、皆愛称だったりするのかな。まあ、それはいいとして。
正直なところ、地味過ぎた前世は特別悪い思い出も無い代わりに、いい思い出も無い。でも、こうして記憶も残っている以上、私はまだ自分の事を詩杏だと認識している。
由来は忘れたけれど、お父さんとお母さんが想いをこめてつけてくれた名前。ある意味で前世で唯一人に愛されていた証。他の名前で呼ばれても自分の事だと思えるだろうか。
リーン様が決めたなら、それを受け入れる覚悟はあるのだけれど……。
そう思って、もう一度紙に書かれた候補を見ていて私は思いついた。
……そうだ!
「えっ?」
うたた寝していたリーン様が目を覚まして、私を見て固まった。
私は只今いたずらの真っ最中。
ぺったぺった。インク瓶をひっくり返して、手……じゃないや、前足にインクをつけて肉球スタンプ大量生産中だよ! リーン様が書いた名前の候補が書かれた紙にね。
やっている内に楽しくなってきて、ついつい必要以上にぺたぺたしたけど。
「あーあ。せっかく考えたのに……」
リーン様が溜息交じりに呟いて、がっかりしたように見えて、少し胸が痛んだ。でも、リーン様は私を叱らなかった。
「いたずらっ子だね、君は。それ、面白いかい?」
返事する代わりに、もう一つ肉球スタンプをぺたり。
無残に犬の足跡だらけになって、読める字が少なくなった紙を見ていたリーン様は、残った文字を読み上げた。
「……シ、ア、ン……」
そう。私はわざと他の文字を消して、それだけを残したのだ。
「これ、いいかも?」
リーン様が私を抱き上げて、顔をじっと見つめた。
「シアン。うん、いい響きだね。よし、君の名前は今日からシアンだよ」
こうして、私の名前は前世と同じ響きのシアンに決定されたのだ。
その後、なぜかリーン様も指先にインクをつけて、ぺたんと指紋を紙の隅に押した。
「うん、確かに面白いね、これ」
そう言って、またぺたぺた始めリーン様。私ももう一度参戦して、ひとしきり一人と一匹でぺたぺたやって、飽きるまで遊んだ楽しい夜だった。
……翌朝、リーン様を起こしに来たハエルが、インクまみれになった机の上とリーン様の手を見て鬼の形相になったのと、私もお風呂場に放り込まれて石鹸でゴシゴシ洗われたのはちょっと怖かったけどね。