19 目覚めました
リーン様、リーン様。
前世で憧れだったあの人に、とてもよく似た、優しい素敵な私のご主人様。
それだけじゃない。鳥に襲われて、家族から離れてしまった私。まだ小さかった私はあのままだったら確実に死んでいた。それを拾ってくれたリーン様は命の恩人。
だから今度は私がリーン様を助けたい。助けなきゃいけないのに。
必死になって服を咥えて引っ張ってみても、重いうえ、リーン様の体が岩に引っかかっていて少しも動かすことが出来ない。
「リーン様! 目を開けて!」
頬を舐めてみても、幾らつついても、リーン様は目を開けない。冷たい沢の水に体がどんどん冷えていくのがわかる。鼓動もゆっくりになってきたように思う。
嫌だ、嫌だよ……!
この足は、速く走れるけれど、掴むことは出来ない。リーン様を抱きしめることは出来ない。
この牙は、噛みつけば引き裂くことや怪我をさせることは出来ても、人は救えない。
ああ、私が犬でなく人だったら。
私にはどうすることも出来ないの? 一刻も早く助けを呼びに行った方がいいのはわかっていても、先程の強い雨でか、水嵩も増してきたところに置いてはいけない。
その時だった。
突然、初めて味わう奇妙な感覚に襲われ、私は思わず目を閉じた。眩暈とも違う、突然足元に何も無くなって、穴に落ちて行くようなそんな感じ。
体が熱い。熱くて、なんだか変な感じ。
目を閉じていたのは数秒の事だと思う。おかしな感覚が消えて私が再び目を開けた時に、最初に目に入ったのはリーン様の胸に置かれた二つの肌色の手だった。これはリーン様の手じゃない。
え? これ、私の前足? 毛の生えていない五本の指。人の手だ。
それに脚も。膝をついている形で腿が見える。これも人間のそれだ。
「え、えっと……」
私、ひょっとして人の姿になってる? さっきの変な感じは変身したから?
立ち上がってみると、二本の足で普通に立てた。この感覚、前世以来だ。
顔などはどうなってるのかわからないけど、頭に手をやるとやっぱり獣耳だった。それに、ボディには黒い毛が生えていて、尻尾もそのままという中途半端さ。多分まだ私の月齢ではお母さんのように完璧には変身できないのだろう。だけど、さっきまで犬だったのだから、首輪だけの裸なのは致仕方ないので、丸見えでなく毛皮の服を着ているようにも見えて寧ろありがたいかもしれない。まあ、誰も見ていないからいいんだけど。
この手足の感じや目線の高さ、なんとなくふっくらした胸からすると、すごく子供というわけでもなさそうな感じ。
詳しくはないけど、犬の生後半年だったら、人間の歳にしたら小学生くらいだったような。それよりはもう少し大きそうな気がするのは、私が普通の犬ではなく魔犬族だからかもしれないけど……って、そんなことはどうでもいい。
やったー! 私、変身できたんだ! 魔力が目覚めたんだわ!
これでリーン様を助けられるかも。魔犬族でよかったって初めて思う!
早速、前足ならぬ両腕でリーン様を抱き起してみた。頭を打っていたら動かさない方がよいのかもしれないが、そうもいかない。
リーン様はそれでも目を開ける気配はなく、抵抗もせずに預けられる体に不安になりながらも、とりあえず水から引き上げることに専念した。さすがに幾ら人型になったとはいえ、リーン様をだきあげるまでの力はないので、脇に両手を入れて引きずってみる。重くても今度は動かせた。これで溺れる心配だけは無い。
川の横の草の上にリーン様を運び、胸の音と呼吸を確かめる。水は飲んでいないみたいだけど、体がかなり冷えていて心音も呼吸も弱々しい。
毛布か何か、温めてあげられるものがあればいいのだけど、それは望めないからとにかく覆いかぶさるように抱きしめてみた。体温でも少しは温めてあげられるかもしれない。それに、私にはふさふさの毛が生えている。
いつも抱きしめてくれるリーン様を、今は私が抱きしめている。そう思うとドキドキして、愛おしくてたまらない。だけど、そんな甘いことを考えている余裕は無いのよ。
少しは温かい? 一応心臓マッサージと人工呼吸もしたほうがいい? 前世で受けた救命講習、なんとなく覚えている。
胸を何度か押した後、頭を押さえて顎を持ち上げ、首を仰け反らせて気道を確保する……と、やったところで、血の気の引いたリーン様の形のいい唇を見て、息を吹き込むのを躊躇ってしまった。
恥ずかしがってる場合じゃない。もう少し持ち直してくれたら、助けを呼びに行けるんだからがんばらないと!
キスするんじゃないもの。これは救命活動なんだから。そう自分に言い聞かせて、リーン様の頬を押さえて口を開かせると息を吹き込んだ。お願い、目を開けて。
何度かマッサージと呼吸のセットを繰り返すうちに、リーン様が微かに眉を寄せた。
「……んっ……」
あっ、気が付いた? 良かった!
そこで私はハッと気が付いた。目を開けてって祈ってたけど、この変身した姿を見られてはマズイのではないだろうか。
鼓動も呼吸もしっかりしてきたし――もう大丈夫かな。
「待っててくださいね。すぐに助けを呼んできますから!」
私はリーン様が目を開ける前に言い残して、足早にその場を離れた。
さて。変身したのはよいが、速く走るには犬に戻らなきゃいけない。この明らかに魔犬族とわかる姿で助けを求めるのも駄目だろう。考えてみたら、私は変身の仕方も戻り方も知らない。お母さんに教わる前に離れてしまったから。
しかし、そんな心配は無用だった。気が付けば私はいつもの犬の姿に戻っていた。ひょっとしなくても、マグレで変身出来ていたのが時間切れになったのだと思う。
四本足になった私は、自分で言うのもなんだけど相当速い。斜面を登り切って峠の道に戻ると、来た方角の逆に一目散に走った。
峠道を下り切ったところに大きなお屋敷が見えた。あれがダグモンド伯のお屋敷だろうか。
リーン様のお家に負けず劣らずな大きくて豪華な建物の門に辿り着き、私は神経を集中してニオイを探った。
パネラ様と、ダグモンド伯のニオイがする。ここで間違いない。
豪奢な飾りのある鉄格子の門は閉ざされていたけれど、下を潜り抜けて玄関に向かう。
ぴんぽーんっていうチャイムなど無いから、大きなドアの横には紐を引いて鳴らす呼び鈴があるのはリーン様のお屋敷と同じ。だけど私には届かない。
「わんわん! わんわんわん!」
精一杯声を張り上げて吠えていると、しばらくしてドアが開けられた。気が付いてくれたんだ。
出て来たのは使用人のようだ。
「なんだ? どうして犬が?」
「わんわん! わん、わんわん!」
お願いよ、私が急いでいることに気が付いて!
「うるさいぞ。どっか行け」
出て来た使用人に追い払われそうになったところで、ドアの向こうで声が聞こえた。
「どうしたの? 騒がしいわね」
……あ、この声は!
「お嬢様、玄関先で犬が大きな声で吠えまくるんですよ」
「犬?」
使用人と入れ替わるように顏を覗かせたその人を見て、私は安堵した。眠り病の事が気になっていたけど無事だったんだ。
「シアンちゃん!」
久しぶりのパネラ様だぁ。うれしくて尻尾パタパタしちゃう。
私の姿を確かめると、パネラ様は驚いた顔で出て来た。
「どうしたの? あなただけでここまで来たの?」
尻尾パタパタしてる場合じゃないや。早くリーン様を助けに来てもらわないと。
「わん! わんわんわん!」
吠えてから、パネラ様のスカートを咥えて引っ張り、数歩ドアから離れて振りかえってみる。
「着いて来いって言ってるの?」
うんうん、と頷いたものの、わんわん吠えているだけでは埒が明かない。説明しないと緊急性が伝わらないだろう。
パネラ様なら……。
私は覚悟を決めて人語で喋ってみることにした。
「パネラ様、リーン様が大変なの! 助けて!」




