第二十八話 『その抗いの意味を涙の君へ繋いでいる』
◇◇
その少年は、困窮を極める自治会庁舎に唐突に現れた。
簡素ではあるが見慣れない白いポロシャツと黒い長ズボンに身を包む。胸元には紅いお守りをぶら下げ、腰には安物のレプリカの剣を携えて。
北棟の入り口から、少年は堂々とした足取りで歩く。
赤の大魔王戦による怪我人多数で未だ忙しい庁舎中庭ではあったが、その奇妙極まりない服装の少年を不思議に思って、人々の視線は自然と集まった。
だがその権能を――『認識外の存在』を破れた者は多くない。
勇者ヤマトは少年の気合の入った勝負服に思わず笑みを浮かべ、勇者セリーヌは少年がまた素敵な演説でも始めそうだと心の中で期待する。勇者ギーズはどうも情けなく思っていた少年の鋭い瞳に息を呑み、勇者パジェムは存命の少年を視界に捉えて話が違うではないかと唇をガクガク震わせる。
そんな彼らの反応を意にも介さず、少年は怪我人の合間を縫ってまっすぐ歩き続けた。その瞳に、溢れんばかりの熱を焦がして。
「――シアン」
少年は、眠れる猫の脇に腰を屈めた。
猫の脇には、細い銀色の聖剣が添えられている。
この聖剣が認めた主は猫であり、一振りの聖剣が長い歴史において同時期に二人以上を認めた例は、かつて一度もない。
だから少年がその聖剣を手に取った時、それは眠り姫に言葉を伝えるための、儀式的な行為なのだろうと誰もが思った。
そして、その推測は覆される。
「少しだけ、勇気を俺にも貸してくれ」
皆が耳にしたのは、青白く光る産声だった。
何と、少年は目の前に水平に握り締めた聖剣から、確かな力で鞘を引き抜いていくではないか。認められた者にしか引き抜けない刀身は、少年の意思に頷いて、無数の青白い光の結晶を宙へ放ち始める。
その幻想的な光景に、誰もが驚愕の色を浮かべた。
こんな奇跡、起きるはずがないと。
少年の頭の中に、ささやかな祝福が響き渡る。
慈愛に満ちたその声は――。
<称号『カーテナに認められし者』を獲得しました>
誰の耳にも、聞こえない。
◇◇ 一時間前 沙智
――――。
――――。
――――。
――終わりが、見えない。
頭の中を、様々な感情や思考が、浮かんでは入れ替わりを繰り返す。強い光を灯らせてしまった白髪の少女への罪悪感が浮かび、魔力爆発の直前に垣間見た猫の嬉しそうな涙に胸が締め付けられる。彼女ら二人に無謀な結論を与えたのは、他でもない、俺の無責任な言葉の数々だった。
異世界人の俺は使命称号には縛られていない蕾で、抗いにペナルティも発生しない。失うものが何もないから、純粋に衝動に準じて壁に挑むと宣言できた。
同じ土俵を、失うものがある花に押し付けるのは、無責任だ。
まだ何者でもない蕾は、雨の中でも背を伸ばす。
咲いて何者かになった花は、雨に散る。
全ては、俺が責任のない『 』だったから招いた悲劇だ。
そう、自分の罪を結論付けようとして。
――二つの世界は何が違う?
夢幻の中で、真っ向からそれを否定された。
この世界はペナルティや壁が称号という形で限界が目に見えるだけのことで、俺たちが息をした世界と本質は何も変わらない。使命称号のあるなしに関わらず、蕾には蕾なりに失うものがきっとある。土俵は変わらないと。
真っ向から、それは言い訳だと突き付けられた。
ならば、と俺は考える訳だ。
俺は一体、どこで間違ったのだろう。
また頭の中を、死んだ少女の無意味な笑顔や、眠れる猫の無意味な努力が、浮かんでは消えて、浮かんでは消えて。夢から発せられた声によって、彼女らの犠牲が無責任な自分のせいだと責め立てることもできなくなって。
思考の、終わりが見えない。
何も、分からない。
もう、迷子――。
「――――」
俺は、庁舎北棟の屋上で小さく溜息を溢した。
一人にして欲しいと、先刻、俺は確かにそう告げたはず。
ならば、この足音は何なのか。
「アルフか?」
「そーだよー?」
屋上の柵に上半身を預けたまま投げやりに確認を取ると、推測通りの人物が呆気らかんと返答した。瞬間、一気に気が重くなる。
この兎の空気の読めなさは今に始まったことではないし、諦めもつく。それでも今の俺には、兎の声は場違いに爛漫としていて陽気過ぎた。
「何で、こんな時は迷わないんだよ」
「えへへー」
「別に褒めてない」
振り返らずとも、アホみたいに照れている姿が目に浮かぶ。
ただ、傷心気味の俺にズカズカとスキンシップすべきではないという事だけは、さしもの兎も弁えているようだった。いつものように飛び掛かって来ず、背後の、少し離れた位置でアルフは立ち止まった。
その中途半端な気遣いが、腹立たしい。
どうせ空気を読むなら、徹頭徹尾読み切れよと。
「ステラたちが心配してるよー?」
「ああ」
「と、飛び降りたりしないよねー?」
「しねーよ」
短く言葉を返して、しかし兎は立ち去らない。
本当に、心底煩わしい声だ。
俺は、兎と茶番を繰り広げるために屋上に来たんじゃない。
決して人の心を踏み荒らす訳ではないが、その先に触れてほしくない激情があることを知りながら、言葉遊びで心の規制線を刺激する兎。
そんな鬱陶しい兎への苛立ちが徐々に募る。柵を突き放してようやく振り返り、俺は、感情の赴くままに声を。
「で、一体何の用で――」
張り上げようとして、直ちに噤んでしまった。
その兎の立ち姿を、目にしたからだ。
靴は片方が無くなり、もう片方は沼地を駆けたのか泥だらけ。シアンの真似で穿いているのだろう似合わないスカートの裾は何かに引っ掛けたのかボロボロに破れ落ち、一体どこに擦り付けたのか頬には赤焦げた粉がべっとり付いていた。
「――――」
そう、だった。
アルフの迷子力は、神様でも手を上げるほどの一級品だ。そんな迷子の申し子たる兎が、迷わず屋上にいる俺を見つけられようか。
この兎を、俺は胃が痛くなるほど知っているではないか。
死ぬほど、迷ったのだ。
この一時間を、迷って、迷い続けて。
それでも、俺を見つけてくれた。
「あのね、さっちー」
一瞬で苛立ちを忘れて、自然と身が引き締まる。
知りたいと思った。そんなにボロボロな姿になってまで、兎が俺に伝えようとした言葉は一体何なのか、強烈に知りたいと。
固唾を呑んで待つ俺に、兎の耳が、揺れる。
同じだった、墓地で見せた表情と。
アルフは、溢れんばかりの笑顔を浮かべて。
「涙を涙のまま終わらせちゃいけないよー?」
視界全体を覆い尽くす、分厚く重苦しい灰色空。
雲が、北から裂け始めていく。
細い光が空から差して、屋上の白い漆喰を照らし出す。
深緑の柵は相変わらず嫌な熱を帯びたままで、階下へ続く開け放たれたドアは虚しく風を浴びて、独りでにバタンと閉じた。斜光は、呆気なく潰える。
まだ正午すら回っていないと言うのに、空は異様に暗い。
泥まみれになってでも、アルフが伝えようとした言葉。
それに対する、正直な感想を言うと――。
「――またそれかよ」
落胆の色を隠せなかった。
頭では、ちゃんと分かっている。
墓地で一度発した言葉をそのまま繰り返した兎が悪いのではない。一向に出口の見えない心の霧を払う術を、兎の言葉に勝手に期待した俺が悪いのだ。
そう分かっていても、単調なフレーズに失望を隠せない。
再び振り返って、俺は街を見下ろした。
生温かい風に、冷たい音色が乗る。
「見ろよ、アルフ」
「ほえ?」
「これだけ警報が鳴ってるのに街は異様な静けさだ。自分たちは、どうせ『イズランドの決まり』のせいで逃げられないからって、諦めてやがる」
柵を掴む左手に自然と力が入り、俺はやるせなさを噛み殺した。
ミシェルが渓谷の危険を危惧した時から、より具体的で切迫した状況になりつつあるというのに、大半の人間が諦めて行動に移ろうとしない。
その事に一方的な憤りは感じるが、別に住民が悪い訳ではないのだ。
悪いのは、称号システム。
悪いのは、運命。
「ネミィは自分の命を犠牲にしてまで、住民に助かることを諦めるなって伝えようとした。シアンは赤の大魔王に挑んで、必死にみんなを救おうとした」
「――――」
「その結果がこれさ」
必死に、溢れそうになる激情を内に鎮める。
理性的に振舞おうと、抑えて、抑えて。
「ネミィの抗いは、やっぱり称号の掟は絶対なんだって受け取られただけで、あの子が伝えようとした願いと一緒に放られた。シアンの努力は、大魔王という巨大な壁を鮮明に浮き彫りにしただけで、壁を壊すことも越えることも叶わなかった」
でも声は、隠し切れずに震えていた。
いつもは口煩い兎が、今日は乗ってこない。街を見ろと促しても、兎は俺から、中途半端な心の距離を、実際の距離として保ち続けた。
俺は歯を軋ませ、振り返って、兎に何とかこの無念を分からせようと躍起になった。空気を読んで去って欲しいと願ったばかりなのに、矛盾している。
それでも、叫ばずにはいられなかったのだ。
「笑えるだろ! 全部無意味だったなんて!」
「――――」
「あいつらは自分の限界を正しく理解してたはずなんだ! 俺が無責任な言葉で惑わせなきゃ、無謀な挑戦をするような奴らじゃなかった!」
必死に喉を震わせても、兎は否定も肯定もしない。
ただ素の表情で、長い耳を立てているだけ。
「全部、俺のせいだと思った!」
どれだけ必死に訴えても顔色を変えない兎に対し、暖簾に腕を腕を押しているような徒労感だけがあった。注意力散漫な癖に目敏くて、空気は読めない癖に気遣いができて、一杯迷子になる癖に、決断には迷わない。
気を抜けば、八つ当たりを始めてしまいそうだった。
あるいは、兎は敢えて何も反応しないのではないか。
俺から、葛藤を全部、引き出すために。
「二人のような称号を持ってない俺が、分かった気になって、戦えって無責任に捲し立てたのが間違いだったんだと思ってた! でも称号のあるなしは、自分の限界を諦める理由にも、認める理由にもならないって、夢の中で諭された!」
だとすれば、兎の思うツボだろう。
それでも――。
「何が駄目だったんだ?」
「――――」
「何が正しかったんだ?」
「――――」
どうしてかな、叫びは収まらなかった。
この兎に突破口を期待していた訳ではないのに、胃痛の種の代わりに腹の奥底に横たわった罪悪感の油が、舌の潤滑油になって声を発し続けた。
きっと夢の中で、あの明るい茶髪の男が、死者に懺悔をしても無意味だと俺に言ったからだ。例え目の前に現れた兎が、藁よりも頼りない存在だったとしても。
期待している訳ではない。――でも、何か言葉が欲しい。
本当に矛盾していると自分でも思う。
真っ暗な迷宮で、冷静な思考回路まで焼き切れたか。
ああ、もう何も――。
「分かんないよ」
小さく本音が零れて、それっきりだった。
気持ちをありのまま吐き出しても、心に透き通るような安穏は訪れない。あるのはどこまでも、暗く、先の見えない黒い霧だった。
時間だけが、屋上を熱で焦がしていく。
それでも俺は、待ってみた。
この兎が、ずっと黙っていられる訳がない。
そう、思ったから。
「さっちー」
案の定、兎は穏やかに口を開いた。
だが始まったのは、想定外の話だった。
「実は私もね、ずっと悩んでたことがあったんだよー?」
「――は?」
「私たち獣人族はね、あんまり他の種族と仲良くなれなかったんだー。人族と友達になりたいからって踏み込んだばっかりに、兄貴は家族から離れちゃって、おとんとおかんは死んじゃって、彫刻のじじいも死んじゃったー。私、思ったよー。獣人族が他の種族と仲良くなろうとしたことに、悪い神様が罰を与えたんだってー」
唐突に語られた身の上話に、俺は唖然とした。
この際、本筋から逸れているように思えたのは問題ではない。
獣人族やエルフに、迫害の歴史があったことはステラから伺っていた。自分たちとは異なる外見や風習への恐怖が、迫害に発展したと。
しかし、同時にその影響は今では下火になっているとも聞いていたのだ。アルフは言葉を濁したが、現代においても、そんな直接的な殺傷沙汰に発展している場所があるとは、正直思いもしなかった。
だから、同時に強い違和感も覚える。
「それから、ずっと悩んでたんだー」
「な、何に?」
「私は、他の種族と友達になるべきじゃないのかなって」
この兎は、どうして――。
どうして、優しい表情で辛い話ができるのだろう。
「瓦礫の上でずっと泣いてた私に、シアンが教えてくれたー。世界はもっと広いから、分かり合える人もいるよーって。私も、誰とでも仲良くなれるって信じてみたかったー。実はさっちーと過ごした数日間もね、私たち獣人と関わったせいで不幸にしちゃったらどうしようって悩みながら、必死に迷いを隠してたんだよー?」
少し照れくさそうに耳を丸める兎に対し、俺も思い当たる節があって視線を落とす。二日目の勇者会議が終わった後の事だ。
兎が、珍しく真面目に問いかけてきた言葉を覚えている。
――私に初めて会った時、どう思ったー?
あれは察するに、そういう事だったのだろう。
獣人であることを気にして、俺の率直な所感を窺ったあの日のアルフ。普段は陽気に揺れている白い尾が静まり返っていたのも覚えている。
同情した訳ではないが、自然と拳に力が入って。
「ずっと迷ってたんだー」
「だ、よな」
「そしたら、さっちーがいきなり啖呵切るんだもんー!」
不意に陽気に笑った兎に、思わず顔を上げた。
兎は、眩しいものを見るような表情で、耳を揺らして。
「――繋がっていたいだけだからってー!」
「――――」
陽気な声で、そう笑ったのである。
瞬間、気づいた。
「あの言葉に救われたのはセシリーだけじゃないんだよー? 出会えたことを後悔なんてしなくていいんだよって、想いを肯定された気がしたんだ―!」
兎が、こうして笑顔で語れる理由。
それは――。
「だから、もう迷わない」
「ぁあ」
「私と、友達になってくれてありがとー!」
迷いに大して、すでに答えを出しているからだ。
それも、俺の言葉をキッカケにして。
だとするならば、この身の上話は何だったのだ。
現在進行形で迷っている人間に対して、その人間の言葉で迷いが吹っ切れたと、この兎は声高に主張しているのである。まるで、意地汚い自慢のように。
俺は、苛立って、声を震わせようとして。
「お、お前は――」
「これが、答えを出すってことだよー!!」
唐突な、絶叫に封じられた。
数秒前までは保っていた穏やかな笑みを余所へ払い除けて、兎は唐突に激情を露わにした。両手の拳を激しく振り、奥歯を強く噛み、尻尾の毛を逆立たせて、両耳をピンと高く張る。悔しそうに、俺を見る瞳を揺らした。
その突然の変貌に、面喰った俺が声を続けられるはずがなかった。
「さっちー、自分で言ったじゃんー!」
「な、何を?」
「『分かんない』ってー!」
声が、喉に詰まって動けない。
尻込む俺に、兎は痛烈に訴え続けた。
「さっちーはまだ迷子の途中なんだよー! ネミィが抗った意味も、シアンが努力した意味も、さっちーの中でまだ何にも結び付いてないー! 何が正しいのか分かんないのも、何が間違ってるのか分かんないのも、当たり前だよー!」
「――――」
「だって、『答え』にまだ辿り着けてないんだからー!」
「――ぁ」
答えに、辿り着けていない――。
その言葉は、酷く俺を揺さぶった。
ネミィの抗いに対して、シアンの努力に対して、今見えるものが全てなのだと俺は勝手に思っていた。称号を理由に助かることを諦めた赤の国の人々を見て、二人が必死に戦った意味は無為に終わったのだと、勝手にそう決めつけていた。
勝手に、目に見える絶望を、全てだと諦めようとしていた。
まだ、称号と戦っていない。
まだ、赤の大魔王と戦っていない。
まだ、誰にも結末は分からない。
壁に、挑んでいる最中だ。
それなのに、俺は――。
罪悪感を理由に、勝手にリタイアしようとした。
「迷い続けろー!」
「う、ぅ」
兎が、真っ向から吠える。
今が見えるものが全てだと、諦めるなと。
「何度でも言ってやるー! 迷子歴二十年の大ベテラン、アルフは知っているのだー! 自分が納得できる答えに辿り着けるまで立ち止まるなー! 辛くても、悲しくても、全力で足掻き続けろー! 迷っても良い、でも諦めちゃダメー!」
「ぁあ、あ」
誓いを、交わし合ったのではなかったのか。
信念を、語り合ったのではなかったのか。
記憶の中にある、二人のそれぞれの瞳。
白いアキレアを握って拳を突きつけてきた少女の瞳に宿っていた温度は、魔力爆発の直前に垣間見えた涙は、俺に絶望を期待する目だったろうか。
結局は言葉遊びかもしれない。俺の言葉が端を発して、二人の無謀な抗いに繋がった事実は変わらないのかもしれない。
ならばこそ、俺だけは止めてはいけなかった。
そう、そうだった。
戦え――。
「二人の抗いの意味を、未来に繋げるまでー!」
「――――ッ」
耐え難い熱が、瞬く間に全身へ広がっていく。
自分の内側から風が強く巻き上がったかのような錯覚を感じ、心を巣くっていた黒い靄が弾けて消えていくような、雪解けを全身で味わった。
それと同時に、北の空が割れて薄暗い庁舎の屋上にまた光芒が差し、決意の再始動を、淡く、慈悲深く、照らし出した。
感動に言葉を失った心に、声が響く。
時に優しく、時に厳しく。
俺を奮い立たせてくれた声。
『涙を、涙のまま終わらせちゃいけないんだよ?』
『あなたはもう自分の衝動を知ってるじゃないですか?』
『だって、それが大事なのじゃろう?』
『ねえ、聞いて』
『考えて、考えて、考え尽くせ』
答えは、まだ分からない。
俺の言葉が、間違っていたのかも、正しかったのかも。
迷い道にいるのは、変わらない。
でも。
「どれだけ――」
「ほえ?」
「どれだけ迷子になっても辿り着ければ勝ち、ってことか」
感慨深く、俺は小さな声で力なく微笑んで。
そんな情けない声をも、長い白耳で耳聡く拾って、兎は、にっこり満面の笑顔で俺にガッツポーズを向けるのだ。
本当に、兎らしく目一杯の陽気さで。
「そーゆーことーっ!!」
その温かい笑顔のせいで、目頭に熱が溜まって。
俺は心の中で、文句を言った。
ったく、どうしてくれる。使命称号を悩んでいた時や、シアンと対立した時に続けて、三度目の慈悲深き笑顔。迷子の面倒を見てやったと声高に主張する事なんてもうできない。貸しは完璧に返され、恩義は完全に振り切れた。
いつか、この兎にも必ず、返さなくては。
そう感じる一方で、この兎。
基本的には、空気を読むことはない。
「それでもさっちーが、二人に後ろめたい気持ちがあって踏み出せないなら、二人の気持ちを知れば良いー! シアンには目覚めた時に自分で聞けば良いよー!」
「は?」
「――――ネミィには、私が直接会って聞いて来るー!」
俺の衝動はもう復活したのだが、兎は俺の元気のない返答では満足しきれなかったようである。唐突にそう捲し立てると、淡い光芒の中に、人差し指を掲げた。その白い指先には、紫苑の魔力が確かに宿って。
嫌な、予感がした。
まさかと、思った。
「は、なな、何を!?」
「うぉぉぉぉおおおおおおおおー!!」
「ま、待てっ!!」
使命称号に逆らって死んでしまったネミィに、兎は話を聞くと言った。そして、その手段は見た通り、指先に魔力を込めて、何かに押し当てようとする事。
何より、兎は自分自身で言ったではないか。
自分にも、使命称号があると。
嫌な予感が脳裏を横切って、俺の足を咄嗟に前に動かした。そんな馬鹿な真似するはずがないと思う一方で、嘘が下手で、変に真面目で、よく迷子になる癖に迷わない、あの馬鹿な兎ならやりかねないとも思ったんだ。
例え、その代償を知っていたとしても。
「――ッ」
「抗ってやるうううううううーー!!」
兎が腕を振り下ろし、指先を自身のメニューに触れる。
瞬間、その指先から橙色の魔力の雷が空へ迸った。何が条件だったのか不明だが、その者が使命称号を破った証である。兎が、ネミィに会うためだけに、何らかの使命称号を破った瞬間である。俺の心に、絶望が広がった。
だって、雷は兎の白い肌を徐々に焼き始めて。
「くそぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉおお!」
もう、嫌だ。
失いたくないんだ。
頼むから。
お願い、だから。
「間に合えぇぇぇぇぇぇええ!!」
無意識に人差し指に込めた魔力を、兎の指先にぶつけて、今度はその隙間から青い魔力の雷が迸る。二色の雷は、それぞれ理不尽な壁と挑戦者を象徴するように、何度も何度も衝突し合って、火花を散らしながら空へと舞い上がり――。
やがて、白い光芒の中に消えていった。
どれだけの時間、絶望が世界を包んだだろうか。
こんな結末しかないなら、世界なんて滅んでしまえとさえ思った。立ちはだかった壁は、目の前で、途方に暮れるほど高くて、理不尽で。
見上げる愚者を、壁は酷い声で嘲笑う。
「ア、ルフ?」
「…………」
時には、特別な誰かを強く欲した。
時には、巻き込んだ犠牲を強く悔やんだ。
「……ぐふ」
でも、俺の中には壁の向こうに辿り着きたい衝動が確かにあって。
同じように戦ってくれた人の中にも、それはあって。
だから、必ず辿り着くのだ。
例え神様がそれを運命と呼んだとしても、例え人々がそれを限界と呼んだとしても、一生懸命戦い、願った、たくさんの人々の意味を連れて、どれだけ迷っても挑み続けるのだ。壁の高さなんて関係ない。壁の厚さなんて関係ない。
乗り越えた先に、みんなが望んだ願いがある。
「だ、戦えで……よ、がった、で」
「――っ」
「言っでだぁぁー!」
今にも泣きそうな呼び声に、苦しそうに歯を食いしばりながらも笑顔を作って親指を立てる兎を見ると、そう思わずにはいられない。
必ず、この馬鹿な兎の抗いの意味も連れて行こう。
涙を、涙のまま終わらせないために。
――出口を、探し続けろ。
――――。
――――。
――――。
急いで医務室に戻った俺は、明かりも点けずに自分のリュックの中をほじくり返した。防犯ブザーをベッドの上に投げ飛ばして、完全にお荷物な異界の教科書を壁に投げ飛ばして、目当てのモノは、奥底に眠っていた。
何度も、何度も、これと一緒にこの世界で窮地を乗り越えてきた。
「――――」
今は、めっきり着る機会が減った、異界の白い学校服。
六文字の号砲と一緒に、袖を通して。
「ああ、挑んでやる!」
◇◇
そして、時は冒頭の少し後に続く。
自治会庁舎西棟一階、医務室。
二つのベッドには、いびきを掻いて気持ち良さそうに眠る兎と、横に座って腕の包帯を整えるメイド服の女性。悪魔は窓際で防音の魔力結界を張り、赤毛の少女と小さな青目族は、中心のテーブルに少し遅めの朝食を用意する。
そして、最後の一人は、テーブルの前に胡坐を掻いて。
「よう、来ると思ってたぜ?」
少年は、来訪者におどけた笑みを向けた。
その瞳に、もう迷いはない。
【『編集』①】
沙智の持っているユニークスキルで、魔神が世界支配に用いている称号システムに干渉できる不思議な力。人のメニューの中から称号を消したり、新たに書き加えたりできるみたい。当人曰く「何だか曖昧なものを壊すイメージ」らしいよ。まだ分かっていないことが多くて使い道が難しいスキルだけど、今回は上手く称号『抗う者』を壊せて良かったね。
※加筆・修正しました
2020年6月24日 加筆・修正
表記の変更




