第七話 『俺TUEEEなんてできるはずがない』
そのモンスターもとい魔獣は、このディストピアという世界では、あらゆる場所で見られる普通種なのだそうだ。体高は人間の倍近くあり、体重に至っては三十倍にもなる。地域によって多少の差があるそうで、この草原に生息する個体は、ところどころに隆起する岩に擬態するために暗い色をしている。
獰猛な肉食性で、自慢の角で獲物を突き刺して止めをさし、頑丈な顎で骨すらゴリゴリとすり潰して食べてしまう。百舌鳥の「はやにえ」のように、角に獲物を突き刺したまま移動する姿も偶に見かけるそうだ。
今、目の前で眠るその凶悪な魔獣の名は――。
「冒険初心者でも楽に倒せる『白犀』だよ!」
「嘘つけえええええええ!!」
始まりの日と同じように、草原に絶叫が響き渡った。
ジェムニ神国の南部に広がっているこの広大な草原地帯は、巷では「ウィルヘン草原」と呼ばれているらしい。この岩山が点々と隆起している大草原が、大陸最南端にある霊峰まで、ずっと続いているという。
ここは何を隠そう俺の異世界物語始まりの地だ。
そして、現在地でもある。
「うぅ」
質として預けたリュックを取り返すための資金稼ぎ。
そういう名目だったはずなのに、どうして?
泣きそうな目でステラを見ると、彼女はにへらと笑って答えた。
「『白犀』の角とか蹄ってお金になるんだよ。それに沙智の『レベル1』ってこの世界だと変だから、レベル上げ手伝ってやろうかなと思って」
「一石二鳥ってこと?」
「そんなレベルだとすぐに死んじゃうよ?」
レベルが上がると死ににくくなるのだろうか。よく分からないが、とりあえずこれがステラの善意だということは理解できた。
俺の今後のことを案じて手伝ってくれると言うのだ。やはりステラは優しい。感動の涙で前が見えなくなりそうだ。
魔獣も見えない。倒せない。だから帰ったら駄目だろうか?
駄目だろうな。知っている。
「冒険初心者でも倒せるってのは盛りすぎじゃないか?」
「本当だってば。見た目よりずっと弱いんだから」
――俺がな、と言うのは我慢。
「俺の装備、貧弱な学校指定のポロシャツなんだけど?」
「猪突猛進だから躱しやすいよ。ファイト!」
――躱し続けろと。無理無理。
「あ、あの硬そうな鱗にグーで殴れと?」
「私の短剣、特別に貸してあげるからさ」
――短剣も振ったことないが。
「仕損じたらどうするんだよ?」
「私が魔法を使って止めを刺すよ。でも経験値は分配システムだから、私が仕留める前に一発は攻撃を当ててね」
――要するに、やれということである。
段々と受け答えが雑になっていくステラを傍目に、俺は深々と溜息を吐いた。桜の模様が柄と鞘に刻まれた綺麗な短剣を右手に握らされて、逃げ場なし。
しかし、短剣一つというのはどうにも心許ないのだ。
じっと鞘を見つめていた俺は、ふと妙案を思いついた。
「先に良い感じのスキルを覚えたいんだけど!」
不可能を可能にする奇跡。この世界にはそれがあるのだ。
俺の目を輝かせた要求に、ステラは唸り声を上げる。
「今すぐ覚えられるかもしれないのは普通スキルなんだけど」
「何でも良いからプリーズ!」
「じゃあジャンプして」
「は?」
「ジャンプ」
意味が分からない。
兎でも蛙でもないのに、なぜ突然ジャンプしなければならないのか。
眉を顰めると、ステラはにっこり笑った。
「運が良ければスキルをゲットできるかもしれないよ?」
「馬鹿にしてんのか!」
勿論、即答だった。
ステラの楽しそうな顔を見ていると冗談で言ったのかもしれないが、そんな謎の修行法でスキル獲得だなんて夢がなさすぎる。
苦労するのは御免だが、全く障害がないのもつまらないだろうに。
「言うなら、もっとマシなジョークにしろよ」
「ジョークじゃないんだけど、まあいいや。とにかくズルしようとか考えなくても良いくらい弱い魔獣だから、頑張れ頑張れ!」
あっさり魂胆を見抜かれて、俺は背中を押し出される。
目と鼻の先に眠れる魔獣。自然と全身が強張る。
どうもメニューは魔獣にもあるようで、目の前で眠っている『白犀』を確認してみるとレベル4だった。俺より三つも上である。それでもステラが大丈夫だと太鼓判を押してくれるということは、本当に弱い魔獣なのだろう。
しかし、俺には恐怖の記憶があるのだ。異世界転移を経た直後に追いかけ回された、あの絶望の記憶が。
最後にちっぽけな抵抗。
「本当にステラは倒せるんだな?」
「期待してくれていいよ。この草原で倒せない魔獣なんて、特別強い『主』くらいだからさ。だからガンバ!」
「うぅ~! やればいいんだろ!」
笑顔のステラにパチンと背中を叩かれて、やむなく一歩。
意を決して鞘から短剣を抜き、自分の意思で一歩、二歩。
『――――』
陽だまりですやすや寝息を立てる『白犀』は、意識の外側にあってなお威圧感に溢れ、決して起こしてはならないと強く俺に認識させた。
目覚める前に決着をつけねばならない。その閉じた瞼だけを見ながら、息を押し殺して、ゆっくり、ゆっくりと距離を詰めていく。
そして――。
「あ!」
石に躓いて転んだ。
次に何が起きるのか想像するのは難くないだろう。
「えーっと」
『ブォオオオオオオ?』
「ぎゃああああああ!」
「ちょ、沙智っ!?」
不機嫌な鳴き声で『白犀』が起床。俺は絶叫しながら脱兎の如く逃げ出し、そんな俺に驚きながらもステラが風魔法で目覚めた魔獣を処理。
しかし俺が逃げた先で騒音に怒り狂った別個体とエンカウントし、ここでいわゆる「ダ・カーポ」だ。今度は別方向へ悲鳴を上げて逃げ出した俺を、ステラが文句を言いながら追いかける。その繰り返し。
そして、その繰り返しが五巡目を終えた頃だ。
――ええ、五巡目まで繰り返しましたとも。
『ブギャボロゴオォオオ!!』
「ひいっ!?」
「沙智! その魔獣はダメ!」
ステラが遠くで慌てた声を上げた時にはもう手遅れだった。
明らかに他の個体よりも大きな図体。年季が入った紅色の瞳。獰猛な牙はどの個体よりも長く、強靭な角はどの個体よりも太い。鱗の至る所に刃物を受けたような切り傷があり、それでも悠然と鼓動を続ける命からは、数多の冒険者を退けてきた逞しさが窺える。大地を鳴動させる巨大な『白犀』。
確認するまでもなかった。ここら一帯の『主』である。
「ごめんなさいいいいいいいいいいいい!!」
「沙智こっち! 急いで!」
こうなったらあの赤毛の少女だけが頼みの綱だ。目尻に大粒の涙を浮かべて、俺は全力でステラの元へと駆けた。
俺の背後へ風の刃を放って『白犀の主』の追跡を遅らせるステラが、神々しい女神様に見えた。後光が見える!
「ステラああああああ!」
「ちょっと泣きつかないで! 走れない!」
「うわああああああん!」
「大丈夫だよ! 『ウィンドカッター』!」
ステラは右手で俺の左手首を掴み、左手に風の渦を生み出しながら前へ走り続けた。時折顔だけ振り返っては、左手にある風の卵を刃に変えて放ち、敵の進路を妨害する。風魔法の一種なのだろう。羨ましい。
しかしその魔法攻撃よりも、何度も入れてくれる励ましの言葉が有難かった。精神の支えだったと言って過言ではないだろう。
『ブォロブオオオオオオオオ!!』
「大丈夫だからね!」
とは言え、さすがは『白犀』の元締め的存在だ。ステラの威嚇射撃をものともせず、その距離を少しずつ縮めているようだった。
怖いもの見たさで魔力を瞳に集めてみると、何と驚愕のレベル25。見るべきじゃなかったとすぐに後悔。悪夢である。
なぜ二日連続でこんな目に――。
「――あ!」
「沙智?」
二日連続。そんな単語が浮遊した瞬間、この状況が昨日と瓜二つであることの意味に俺はハッと気づいた。
あの時、彼は言ってくれたではないか。
「『困った時は』だったよな?」
本当に呼ぶだけで来るのだろうか。思い浮かべた疑問に対し、あの好青年は頭の中で爽やかな笑みを向けてくれる。
「――――すぅ」
風の生温かさ、零れる汗の塩辛さ。足音。掻き乱される草の音。――深々と息を吸い込むと、その全てが綺麗にエネルギーに変換されて、喉の奥で圧縮されたのを感じた。あとは、それを思い切り吐き出すだけだ。
どこまでも続く草原の彼方まで、この声が聞こえるように。
「ヘルプゥウウウウウ!! ヤマトォオオオオオオオオオオッ!!」
叫びに集中し過ぎて、足がもつれる。
その隙を紅色の瞳は見逃さない。
『ブォロロオロオオ!』
「ひいっ!?」
四つに分かれた硬い蹄が寸前のところで大地を踏み、すっと俺を庇うようにステラが立ちはだかって、強い紫苑の光を帯びた。
やはり電話で呼んだ訳でもないのに、颯爽と現れはしないのか。
目を細めた、その時――。
「よし任せろ!」
声は、再び小さな鼓膜を震わせた。
§§§
突如として降臨したヤマトの前では、『白犀』は例え自らが『主』たる証明を持っていたとしても、鼓動を十秒も続けられなかった。
その鮮やかな剣技は二度目なので、俺は「さすが」と感心しただけだったが、初めてのステラは口をあんぐりさせていた。
やはり、同じ異世界人から見ても非常識だったらしい。
それからヤマトは仲間を呼ぶと言って、空に向かって水飛沫を打ち上げた。澄んだ青空で太陽光がキラキラと散って、数分後。
やって来たのは、あの黒髪に緑縁眼鏡の女性だ。
「この死骸、何?」
確かメイリィという名前だったろうか。
呆れる彼女にヤマトは爽やかに笑った。
「ようメイリィ。アリアの相棒は見つかったか?」
「まだよ。――それよりこのヤケ狩りは何? 私何かした?」
「人助けしただけだ。あとで換金してやってくれ」
ヤマトが親指で指し示した先にいる俺たちに、メイリィは視線を向ける。その黒い瞳には小さな納得が浮かんだ。
「あら、あなた昨日の?」
「どうもです」
「なんだ。話せたんですね共通語」
「紆余曲折ありまして」
嘘だ。言語問題に関しては神の声がパパっと解決してくれた。俺は特に苦労していない。自称女神のサクとは大違いの仕事振りだ。
俺から話を聞いて真相を知っているステラがじろりとこちらを睨んだが、気にしたら負けだ。見て見ぬ振りだ。
「私はメイリィ。まあ冒険者みたいなものよ」
「正確に言えば――ごぉ!?」
「冒険者みたいなものなのよ」
何か言いかけたヤマトの横っ腹をピンと張った掌の側面で突いて、何の屈託もない笑顔を浮かべながら繰り返すメイリィ。
俺はギョッとして、思わずステラと顔を見合わせる。
多分あっちも嘘だ。反応を見るに彼らはきっと冒険者ではない。何か自分たちの素性を明かせない理由があるのだろうと察せられた。
ならば、敢えて俺からは問うまい。秘密があるのは一緒なのだ。メイリィの笑顔も怖いので、別の話題に切り替えよう。
――丁度、聞きたかったことを思い出したところなのだ。
「ところでヤマト、昨日は何で俺の言葉が分かったんだ?」
「ああ、俺のユニークスキル『隔てられぬ言葉の壁』だな。俺の周囲一定領域では言語によって壁が生じることはない。宇宙人とでも友達になれるぜ!」
「ちょっとヤマト!」
爽やか笑顔のヤマトにメイリィの右フック。ダメージ大。
この話題は駄目だったらしい。
「そう言えば助けを呼んだら本当に来たな。地獄耳か?」
「それは俺のユニークスキル『SOS受信』だな。世界の裏側からの助けてだろうが聞き逃さないさ。間に合うかは知らんがな!」
「ヤ~マ~ト!」
「待て待て、沙智たちなら大丈夫だって!」
すごい剣幕のメイリィにヤマトの笑顔の弁解。ダメージ皆無。
この話題も駄目だったらしい。
失敗した。静かにそう思った。
俺としてはメイリィの意を上手く汲んだつもりだったのだ。彼女が隠したがる素性関係から逸れて、なおかつ俺の疑問を解消できるような話題転換を。
ところが、何なら俺は彼女らが隠したい事情をピンポイントで突いてしまったようである。ユニークスキルくらい教えても良いじゃないかと笑うヤマトに対し、人差し指を眉間に突き付けて怒るメイリィ。正直怖い。
空気を読む才能が俺にはなかったようである。
最初から会話はステラに任せてしまえば良かった。どうやら見て見ぬ振りをしていたのは間違いだったらしい。
俺は、助けを求めるようにステラへ視線を遣って――。
「――――ん?」
そのまま、言葉を失くす。
まるで、その瞳は万華鏡だった。
小豆色の瞳の中で様々な感情が、色を変えては流れ、変えては流れ。瞳の中に浮かんでいた疑問は、不意に何かを察したように目を見開いた時には小さな驚きへと変わり、最後には固く唇を結んで怯えへと変わった。
何かを受け入れていたような横顔だった。
無性に胸が騒めき立って、俺は名を呼ぼうとした。
丁度その時、同じくしてステラも口を開いた。
「あなたって、もしかして『勇者』ヤマト?」
「ああ、そうだが?」
呆気らかんとした応答に、赤毛の少女は目を伏せた。
※※※ 二年前
「七瀬、本当にやめるのか?」
「はい」
先生がもう一度俺に確認するが、返答は変わらない。
大量の書類が山積みになったデスクの中心で、俺が今しがた提出した退部届が夕日に照らされて赤く染まっていた。
「お前中学からずっと陸上やってたんだろ?」
勿体ないなあと言いながらも、先生は最後には俺の説得を諦め、一番上の引き出しからハンコを取り出して押印した。
退部の理由は、怪我でも人間関係でもない。ただ少し――ほんの少し、気持ちが離れてしまっただけのことだった。
もしかしたら、ギリギリになって続けたいと思うかもしれない。
体の奥底で何かが蠢く度にそんな風に感じていた。だが退部届に朱色のインクが付いた瞬間も俺の心は動かなかった。
衝動は、眠ったまま目覚めなかった。
「失礼しました」
これで良かったのだろうか?
俺は一礼して職員室を出る。生じた疑問をリュックに仕舞って。
【ユニークスキル】
ステラ「お待たせしましたユニークスキルの授業です!」
沙智「いええええい!」
ステラ「ユニークスキルは習得方法が体系化されてない不思議スキルのことだよ。魔法スキルの場合もあれば普通スキルの場合もあるね」
沙智「俺のはどっち?」
ステラ「アホ毛スキル?」
沙智「???」
※加筆・修正しました(2021年5月21日)
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