第八話 『称号は千年、役目を与え続けている』
渓谷は一足先に秋色に染まり、赤や橙に紅葉した葉が残暑に燃える。
その色付く大地を、一筋の小川が地を這う蛇のように何度も何度も折れ曲がりながら流れて消えていく。消えた先には、薄っすらと西の海が浮かんでいた。
背後のダムには浮草が茂り、水面はまるで世界地図のように見える。
それでも風は生温かく、夏の終わりをまだ告げてくれない。
湖面を指差しているのはセシリーさんか。大半の人間は彼女の下で説明に耳を傾け、もはや好奇心を抑え切れない兎はダム一周を掲げて走り出す。
天端に上がってまだ一歩も動こうとしないのは、俺たち二人だけだ。
「ねえ」
少女は、未だ凍っている。
凍ったまま、渓谷の景色を背後に精一杯の悲鳴をあげている。
「――お兄ちゃんはこの世界のことをどう思う?」
音色が透き通る鈴のように心を揺らす。
その時、兎の声が、川のせせらぎと一緒に蘇った。
◇◇ アルフ
私たちがネミィと出会ったのは渓谷の、奥深くの小川沿い。
どうして人里から離れたこんな場所で暮らしているのか分からなかったけど、ネミィの傍にいた若い男の称号を知って、私たちは驚いたんだよ。
ミシェルっていう名前の彼は、『魔王』だった。
シアンは『勇者』だし、当然討伐を考えたよ。
でもミシェルと一緒にいるネミィの立ち位置が分からなかった。
だから、しばらく観察することにしたんだ。
最初はシアンもすごく戸惑ったみたいだよ。
ネミィはミシェルを実の兄のように慕っている様子だったし、ミシェルに頭を撫でられてネミィがとても嬉しそうにしているのが、私たちには衝撃だった。
当然、ミシェルには悪事を働く気はないように見えた。
あれは本当に倒すべき敵なのか。
シアンは分からなかったみたい。
でも結局、ミシェルのレベルを見て倒すことに決めた。
彼はね、羽化して暴走する直前だったんだ。
酷い戦いだったよ?
私は直接は戦わなかったけど、シアンの仲間もたくさん死んだ。
ミシェルが死んで光になった場所を、ネミィはずっと見てた。
氷のような表情で、涙も流さずに。
多分、シアンは怖かったんだと思う。
ネミィに、自分の知らない『魔王』像を語られるのが。
だから、シアンはネミィをパーティーには置かなかった。
ミシェルの遺族を調べて、そこに預けたんだ。
うん、そうだよ。
それがセシリーの家だったんだよ。
◇◇ 沙智
ミルクを溢したように、青空と混じって生まれては消える霞雲。
無表情なネミィの瞳の縹色は何も期待していない。
「――お兄ちゃんはこの世界のことをどう思う?」
少女の問いが胸の奥にジリジリと重くのしかかった。
ネミィが何かを相談するつもりで口を開いたのだろうとは簡単に察せられた。しかし「どう思う?」とは、また酷く曖昧な尋ね方をしたものだ。
大切な人を奪ったこの世界を、少女は憎んでいるのだろうか。
俺は頭を掻いて片目を瞑った。
少女の悩みに沿うような返答が見当たらないのだ。
「その質問は結構難しいなあ」
「じゃあ、称号システムは正しいと思う?」
称号システム、ときたか。
千年前に魔神が作り出した、世界中の人間を管理するための魔力ネットワークシステム。メニューと呼ばれる魔力状の端末を媒体に、レベル、スキル、ライフポイント、魔力容量、そして称号の五つの要素から人間情報を分類するシステム。
特に称号は、他の四つと違って人間生活に影響を及ぼすものも存在する。故にこの魔神のシステムは、称号システムと、忌み嫌われている。
それを正しいか、と問われれば素直には頷けなかった。
称号で苦しむステラを思えば、なおのこと。
「正しいなら、もっと多くの人が褒め称えてただろ?」
「でもね」
俺の安直な返答に少女は間髪入れずに返答した。
子供とは思えないほど、理知的に。
「この世界では便利な魔法があるのに国同士の戦争はほとんど起きないし、環境問題で揉めることも基本的にない。称号システムが世界の秩序維持に一役買っているのは歴史が証明している」
「――――」
「魔王災害もそう。この渓谷のような美しい自然が開発されずに残っているのは、魔王が人間の文明拡大を抑えているからだとも言える。自然が残れば、魔獣と人間の住み分けもできるし、資源の持続的な確保にも繋がる」
淡々と語る少女に、俺は内心で戸惑いを隠せない。
話の大筋は俺でも理解できる。
今まで『魔王』という存在に対しては否定的な意見しか聞かなかったが、この少女は随分と俯瞰的な視点を持っていた。渓谷に生きるリスたちには見えないような景色をダムの上から俯瞰する。
人口が増えれば開発は進み、急激な開発は環境汚染や格差などの様々な問題を引き起こす。挙句の果てには問題の責任を擦り付け合って戦争だ。
その抑止力としての、称号システム。
理解はできる。
だが、それをこの年の少女が語るのか。
「その役目を負うのは、称号システムじゃなくても!」
「仕方ないよ」
俺の反論に少女は静かに首を振り、背を向けて渓谷の風景を見下ろした。錆びついた鉄色の柵を幼い右手で握り締め、吹き上げる風に白髪を揺らす。
「――だって人間は、魔法に対して責任を払えなかったから」
少女の声は、夏に取り残された氷像から漂う冷気のように冷たかった。
肌色の歩道の漆喰が帯びる熱にも、柿色の山が送る燃えるような風にも、少女の氷は一滴の汗すら溢そうとしない。
感情の見えない声の冷気に、俺はきっと怯えていたのだろう。
魔神支配への崇拝とも思える言葉の数々に、少女の正体を疑う。
緊張が、頬を強張らせる。
「称号によって人間に正しい『役目』を与えて、世界の継続的で緩やかな発展を守る仕組み。それが、称号システム。魔王による災害もまた、この世界ではバランスを保つための大事なプロセス」
「お前は!?」
「もし、そうなのだとしたらっ」
緊張と動揺で俺が声を張ったその時だった。
俺の叫びを遮って鳴り響いた少女の音色には、一転変わって少女の切実な葛藤が震えていた。今まで氷のように冷たかった声に、初めて感情が乗る。
胸を突かれて、俺は目を見開く。
そして、息を呑んだ。
危うく少女の本音を、見逃すところだった。
「――称号システムは、それでも正しいのかな?」
振り返った少女の頬に、氷の中心から一筋。
流れ落ちたのは間違いなく、答えに迷う少女の苦しみ全部だった。
いつから、俺はこんな嫌な人間になったのだろう。
魔神のシステムを大人びた観点で考察する少女に、俺は悪意を疑いを持った。年齢と話のギャップのせいで、少女がキャロルとダブって見えたのだ。
俺を何らかの理由で騙そうとしているのではないか、と。
実際には、無知な俺に予備知識を与えただけだった。
自分への不信感が募る一方、少女への返答は難しい。
もし称号システムに秩序維持の仕組みが意図して備わっているなら、環境問題や戦争で満ちた世界の住人であった俺が正しい解答を知っているはずがない。
かと言って、称号というものを今更認める訳にはいかなかった。
「――――」
だから、俺は下を向いて押し黙るしかない。
言葉を見失って彷徨う俺の隣の横切って、少女は今度はダム側の柵を掴んだ。流れることのない澱んだダムの水面に、ぽつりと孤独が浮かぶ。
染み入るように、悲しい声だった。
「大好きな人がいたんだ」
「アルフから聞いた。セシリーさんのお兄さんだって」
「うん、そして彼は『魔王』だった」
切ない少女の後ろ姿に、俺は拳を握る。
やはり根っこにあるのは、ミシェルとの別れか。
「ミシェルはこの渓谷に良からぬ何かを感じて調査していたんだよ。羽化を間近に控えて、自分が自由に使える時間なんて大して残されていなかったのに、赤の国の人々を危険から守ろうと一生懸命だったんだよ」
「優しい奴だったんだな」
「でも、結局ミシェルは志半ばで暴走した」
最初の温かみを感じる声とは一転、少女は冷たく事実を告げた。
称号『魔王』を持っている者はレベル30に到達すると魔神に従うか否かの選択を迫られる。それを間違うと、自我を失って暴走を開始する。
ここ最近、嫌というほど耳にした話だ。
「ミシェルが死んだ時に思ったよ。『魔王』という称号を得た者が、その役目を放棄して誰かを助けようとしたから、神様が罰を与えんだって」
「――――」
「私は、称号が正しいなんて受け入れたくなかった」
少女の掌が鉄色の柵から零れ落ちて、宙ぶらりんに虚しく揺れた。
誰かを救おうとした抗った男を称号は決して許さず、正しい役目を全うしろと言わんばかりに『勇者』の称号を持つシアンと対峙させた。
俺だって、それが運命だったなんて認めたくない。
決定的な何かがあったはずである。
少女が答えに迷うようになった、決定的な何かが。
「ミシェルが称号に抗ってまで救おうとした事が無意味じゃないって思いたかった。だから私は、赤の国の人々に危険が迫ってるかもしれないって伝えたんだよ」
「彼らは?」
「――口を揃えて、だったら諦めるしかないなって」
「何でっ!?」
萎む少女の声に、俺は耐え切れずに感情を爆発させた。
彼らの発言は幾ら何でもあんまりだ。必死に誰かを救おうと称号に抗ったミシェルに、お前の頑張りは無意味だと言っているようなものじゃないか。
少女は徐に振り返って、怒りを噛み殺そうとする俺を見る。
その氷の瞳は、驚くほど冷静だ。
「赤の国の住民みんなが持っている称号は知ってる?」
「いいや」
「その称号のせいで、住民は祭りが開かれる五日間は国境を越えてはいけない。もし災厄が訪れても、どうせ逃げられないからって、最初から諦めてるんだ」
先刻と同じように、無知に対して少女は感情を殺す。
しかし説明を受けても、俺は納得できなかった。
「そんな称号、無視すりゃあ!!」
「この世界は称号が全てなのに?」
俺の苛立ちに、少女はなおも氷のような冷静さで返す。少女はしばらく俺を見つめた後、鉄柵に片手を沿わせて、空を仰ぎながら歩き始めた。
始まったのは、脈絡の繋がらない唐突な話だ。
「――例えば、セシリー」
「え?」
「セシリーは将来は色んな国を旅したかったんだって。でも彼女は『店員』だった。どうしようもなく、『店員』だった」
何を言い出したのか分からず頭に疑問符が飛び交う。
だが確かな気持ち悪さを感じたんだ。
「ジョズエさんは『旅館経営者』だった。この国を少しでも良くしたいと思って自治会に立候補したけど、彼はやっぱり『旅館経営者』だった」
二例目を少女が語って、違和感が胸の中で骨格を模る。今までもこの違和感は何度か脳を掠め、その度に俺はまさかないだろうと目を瞑ってきた。
だが、記憶から、証明する声はもう止め処なく。
――僕もとうとう『陶芸家』になったのだ。
――そりゃあ、私が『御者』だったからですよ。
薄々は勘付いていた違和感の正体を俺は認めたくなかった。だが過去に出会った人々が俺に残した言葉の数々が、みるみる証明していく。
この世界が、ディストピアと呼ばれる真の所以を。
「分かった?」
「人の生き方を、称号が全部、決めてるのか?」
心臓を掴まれたような衝撃を何とか内に呑み込み、俺は声を上擦らせた。信じたくないという一心で少女を見つめるも、否定の言葉は帰って来なかった。
強く、思い知らされる。
俺は今まで世界の表層しか見ていなかった。
ジェムニ神国の宿の女将さんはどうしても『旅館経営者』だった。
メルポイのかき氷を売っていた露店の女性はどうしても『農夫』だった。
広場で作り上げた大砲を自慢していた親子はどうしても『花火職人』だった。
御者は、どうしても『御者』だった。
それは必ずしも彼らが願ったからじゃない。
称号が、彼らにそう生きるよう提示したのだ。
「『使命称号』って言うの。逆らえば、人は魔神から罰を受ける」
「そんなの間違ってるっ!!」
拳を両側に震わせ、俺は過去最大に声を荒げた。
称号が人から自由を奪い、夢や人生すら捻じ曲げるなんて間違っている。怒りに任せてそう叫ぼうとして、俺は見事に言葉を見失った。
少女が胸元に手を置いて、悔しそうに尋ねたからである。
「称号システムは人間に正しい役目を与えて、緩やかに発展する安定した世界の実現を最終目標に掲げている。それは、実際にしっかり機能している」
「――――」
「だけど」
「――――」
「人が争わずに紡いでいける世界を、称号なしで実現できないのかな?」
俺たち二人の間に、しばらく沈黙の時間が流れた。
少女の問いに対する答えを俺は持ち合わせていない。称号に自由を制限される事に忌避感を覚える一方で、少女の問いには俺は迷子だった。
称号のない俺たちの世界で、答えは見つかっていないのだから。
俯いて押し黙る俺の前を横切って、少女は声を出す。
柿色の渓谷を眺めて、絞り出すような声を。
「怖いんだ」
「――――」
「みんなが称号に従っているこの世界で、称号と戦おうとしたミシェルの意志を継いでも良いのか分からない。それに意味があるのかも、分からない」
答えのない俺に、山風はそっぽ向いて去っていく。
少女が、振り返って顔を見せた。
「ねえ」
頬に一度だけ流れた涙は乾き、頬に残った一筋の塩はまるで霧氷のよう。
少女は、すでに凍っている。
「――お兄ちゃんはこの世界のことをどう思う?」
ここは、ディストピア。
人々の暮らしは称号によって管理され、自由と権利は制限される。
魔神が支配して、千年。
安定のある世界と引替えに、人々は――。
選ぶ自由を、諦めた。
【使命称号】
ローニーの『陶芸家』やセシリーの『店員』みたいに、その人の職業や生活を縛る称号だよ。各称号に細かいルールが定められてあって、それを破ると罰を受けるんだって。全員が持ってる訳じゃないけど、ある日突然、そんな称号が勝手にメニューに刻まれるらしいよ。
※加筆・修正しました
2020年3月27日 加筆・修正
表記の変更
ストーリーの一部変更




