第五話 『ヒーローなんているはずがない』
鈴の音は、凛と鳴り響いて始まりを告げた。何でもない日常の中に、唐突に紛れ込んだファンタジーの音色。その青い音色は確かに一瞬だったけど、俺を異世界へと攫っただけでは満足できなかったらしい。
あくまで、鈴の音色は「始まり」だった。
今回は、異世界へと渡ってからのお話だ。
※※※
足の裏の反力が蘇り、舌に触れる空気が自然に満ちた味になる。何かが変わったと直感で理解して、俺はゆっくりと瞼を開いたんだ。
「――え?」
最初に感じたのは、やはり驚きだったろうか?
芝のように丈が短い、ライトグリーンの植物がずっと遠くまで続く。そのところどころに灰褐色の大岩が隆起していて、単純な景観の中にアクセントを生み出していた。肌を横切るそよ風からは、僅かに夏の湿気を感じた。空は青く、先程神社の裏手から見上げていた夕焼け小焼けはどこにもなかった。
探せば俺たちの世界にもありそう景色。だが。
「ここって、異世界?」
その結論は、割とすぐに出た。
さて、ステラなら突然異世界に連れて来られたらどうする?
頬を抓って現実を探す? それとも堅実に荷物点検?
――俺の場合は、勿論八つ当たりだ。
「どうすんだよ! ちょっと女神様ー!!」
何もかも全く分からない場所に、学校帰りの格好でぽつりと一人。俺に罰を与えますと言って、この異世界に送り込んだ張本人がいない!
背中にリュックがあることの安心感たるや。元々俺は用心深い性格。人に盗られないよう背負ったまま缶蹴りをしていたお蔭だ。この唯一背中を預けられる五年来の相棒は、どこぞの自称女神の数倍頼もしく感じた。
これで異世界チュートリアル講義さえ開いてくれれば完璧だった。
そこで、ふと思い出す。
「待てよ?」
サクが俺に祝福をくれるとか言ってたよな、と。
自称女神の言い分だと「該当する祝福があれば」とのことだったけど、この時の俺は忘れている。何より必死だったので。
今にして思えば、サクがくれた祝福っていうのは、俺のメニューのユニークスキル欄に表示されているこの『キャラ依存』ってやつだと思う。何だか俺が願ったのと正反対の性能を思わせるような名前だけど、多分これだ。
ただ、当時の俺はスキルの確認方法なんて知らない。メニューなんてゲーム的なウインドウを開けることも知らなかったのだから。
「祝福ってどうやって使うんだ?」
「使ったら何か好転するのかな?」
「やり方が分からん! 女神様!」
「適当に構えて叫んでみるかっ!」
どうせ見渡しても人なんていない。それに祝福というのがどんなものか段々試したくなってきた俺は、徐々に焦りを忘れていった。
浮かれた気持ちで大声を出してしまったんだ。
そう、静寂を楽しんでいた先客には迷惑な大声を。
『ブォオオオオ』
「え?」
草原という単調な景色のアクセントになっていた、ところどころに隆起した灰褐色の大岩。その内の幾つかから、重厚感ある低い声がした。
まさかと目を瞬かせると、岩だと思っていたソレが動き出したんだ。
体高はおよそ三メートル。一見犀にも見えたけれど、その血走った瞳から感じる威圧感は草食動物のソレとは明らかに違った。触らなくても硬そうだと分かる灰褐色の鱗と、鼻先に伸びる立派な角が印象的な、重量級のモンスター。
そんな血走った怒りの視線が三つ。全て、俺に向いていた。
「――――」
ここで、何を血迷ったのか調子に乗った俺。
突然の女神降臨。そして祝福を授けられ、異世界転移。多少のズレはあるが、ここまで異世界テンプレを綺麗になぞっているのだ。
ならば、窮地の場面で主人公が覚醒するのは、まさに王道。
即ち、これは!
「俺が勇者になるための物が――!」
『ブォオオオオオオオオ!!』
「ひ! し、失礼致しましたああ!」
ステラさん、そんな白けた視線を向けないでくださいな。普段の俺だったら、もっと慎重だったんですよ、いや本当に。
まあ今更言い訳したところで、この時の愚行は取り消せない。
叫びを威嚇と受け取った犀のモンスター三頭は、リレーするように順番に唸り声を上げて、勢いよく走り始めたんだ。
「嫌ああああああああ!!」
俺は悲鳴を上げ、逃げようと全力で走った。
これでも中学三年間と高校の最初の一年は陸上部員だったので、最初は逃げ切れるはずだと俺は安直に考えていた。
だけど陸上をやめたのはもう二年前。今の俺には、怒れるモンスターを振り切るほどの体力貯金は残されていなかったのである。
「う!」
モンスター三頭との距離が確実に縮んでいった。
このままでは追い付かれて、ムシャムシャ餌になってしまう。
青褪めた俺は、藁にも縋る思いで悲鳴を上げた。
「ヘルプミィィィィイ!!」
別に、ヒーローの登場を期待した訳じゃなかった。
だが驚くことに、悲鳴は拾われることになる。
「――よし任せろ!」
「え?」
不意に前方上空から聞こえた清涼な声。目前に聳える岩山の真上に、輝く太陽を背にして、その青年は立っていたんだ。
その姿を俺がはっきり視認する間もなく、彼は鮮やかに、俺と犀型モンスターの中間に降り立った。その異常な身体能力に俺が「は?」と呟いた時には、すでに腰の刀で正面の一頭を一閃していた。
驚くべき早業。流れるような剣技。
残った二頭も、紫苑の色を帯びた速やかな剣技で切り伏せられた。
六メートル――それが犀のモンスター共が俺に迫れた距離だった。そして、それ以上距離が縮まることはなかった。
「ほれ一丁上がりだ!」
俺の髪よりも黒っぽい暗褐色の滑らかな髪。爽やかな笑みに凛々しい眼差し。俺と年はそう変わらなさそうなのに、貫禄ある出で立ち。
肩付近だけを覆う群青色のマントと、剣の二本差しが特徴の、何だか人を引き寄せるような温かみのある青年だった。
後ろの、血が滲んだモンスターの死骸さえなければ。
「俺はヤマト。お前は?」
「七瀬沙智です」
「敬語はやめてくれ。むず痒い」
俺は「グロテスクな狩り方するな!」と叫ぶのを何とか我慢できた。一応初めて出会う人間だったので、心象は良くしておきたいと思ったんだ。
幸いヤマトは鈍感らしく、俺の心の絶叫は聞き取れなかったようだ。
話をしてみると、ヤマトは本当に気さくな人間だった。
「でも本当に助かったよ」
「礼を言われるほどのことでもないさ。運が悪かったようだが、一頭だけだったならお前でも勝てただろ?」
「いや、無理だけど!?」
少し話をして分かったのは、彼は俺より一つ年上の十九歳で、その場にはいなかったけど、数人の仲間と一緒に冒険しているということだった。
仲間が激おこ中なので逃走しているんだと笑っていた。
いやはや、何をやらかしたのか。
「沙智、お前はジェムニ神国の人間か?」
「ジェムニ神国?」
「北にある大国だ。その反応だと違うっぽいな」
「えっと、まあそうだな」
好奇心に揺らぐヤマトの栗色の瞳に対して、俺は曖昧な返答を選んだ。それから自分の右手の小指を左手で包んで、僅かに目を伏せた。
ああ、俺が難しいことを考える時の癖なんだ。
数秒間の空白のあと、俺は小さく微笑んだ。
「――旅の途中なんだ」
先程も言ったが、普段の俺は慎重で警戒心が強い性格である。ここが異世界だと悟ってある程度の時間が経ったことと、対モンスター特化兵器ヤマトが隣にいてくれる安心感で、俺は平常モードへと戻っていた。
まだ自分が異世界から来たということは明かすべきではない。それが思考の末に俺が辿り着いた方針だった。
正直ヤマトならば、俺が異世界人だと明かしても、驚くほどあっさり信じてくれそうだとは思った。しかし当時の俺には――今も変わらないが――この世界に関する情報がまるで足りていなかった。「異世界人、見かけた人は、討伐を」という標語が流行っているような暗黒世界とまでは思わなかったが、それこそ手札を先に切るか後に切るかの違いしかないのなら、俺は後に切りたかったんだ。
ステラの時は、呪いのことを信じて欲しかったから、やむなく素性を明かして信用を得ようとしたんだけどな。
ヤマトはすっと目を細めた。そして。
「旅か! いいな!」
朗らかに笑って親指を立てた。やはり鈍感。
俺も苦笑し、旅人の設定を活かし尋ねてみた。
「それでここから一番近い町に行こうと思ってるんだけど、そのジェムニ神国って国まで行った方が早いのかな?」
「いや、人里ならジェムニ神国に着く手前にもあるぞ」
そう言うと、ヤマトは遠くを指差した。
「この方向にまっすぐ進めば整地された道に出るんだ。ジェムニ神国南門までの街道なんだが、途中で分岐が一つある。その分岐を右に行けば、小さな町に辿り着くだろう。風車がある町だ。えっと、名前は何てったかな?」
「どれくらいかかる?」
「なあに、ほんの三十分程度さ」
――そんなに遠くない!
心が高揚するのを感じた。水面をぷかぷかと漂うことしかできなかったテントウムシが枯れ葉の小舟を見つけた時のような感動。
これで、その町までの案内をヤマトに取り付けられれば、光り輝く明日に向かって飛び立つことができるのだ。
「なあヤマト、あのさ」
「うん、何だ?」
だが基本的に人見知りの激しい俺である。
もたもたしている間に、状況は変わった。
「げ、今メイリィの声が聞こえた!」
「え?」
「悪いな沙智」
チャンスというものは、掴める時に掴んでおくべきもの。でなければ流れていってしまうものなのだ。この時、俺は改めて実感した。
「困ったら今回みたいに助けを呼べ。そうしたら、お前がどこにいても助けに行ってやるよ。じゃあな!」
爽やかに笑って右手を振ったら、彼の姿が見えなくなるのに僅か数秒しかかからなかった。というか速すぎた。
身長の数倍もある大岩から飛び降りて平然としていたり、元陸上部員の俺が呆れるほどのスピードで走ったり、彼の身体能力は異常だ。異世界の人間は体の構造が違うのかもしれない、と思ってしまうほどに。
もはや呆れ半分でヤマトが消えた方向を見ていると、不意に肩に感触を得た。振り返ると、黒髪で緑縁の眼鏡をした女性が立っていた。
「――――」
ヤマトが言っていたメイリィって人だろうか。
そう思った俺は、すぐに指差して。
「ああ、ヤマトならあっちに――」
「YMTWMTN?」
「え?」
「OSETKRTARGTU」
「え?」
――まさか、言葉が通じていない!?
理解に達したと同時に、そんなはずないと俺は首を振った。だってつい数十秒前までヤマトと普通に話せていたんだ。
だけど、確かにこの女性とは言葉が通じ合っていない。現に、彼女は「どうしたものかしら?」という風に視線を彷徨わせた。
ただ、彼女の割り切りは早かった。
「ATTNNN?」
俺が指し示した方と同じ方角を指差して、ヤマトの所在を確認するように、にっこり笑顔で首を傾ける女性。
ジェスチャーとは偉大であると認識した瞬間だった。
「ま、行くか」
彼女を見送ったあと、俺は一抹の不安を抱えながら、ヤマトに教えて貰った小さな町へと向かうために歩き出したんだ。
街道を見つけるのは簡単だった。街道にぶつかったら、向かって左手が北だと聞いていたので、方角についても問題なかった。
不安要素は、道中でまたモンスターと遭遇しないかということと、町に着いたところで言葉が通じなかったらどうしようかということだ。
だけど、まず前者の不安に関しては、現実にならなかった。
町に着いたのである。
「何だか味気ない町だなあ」
玄関口で、俺は思わずそう漏らした。
何せ、景色は見事なまでに麦色一色。建物は全て平屋の家屋で、道は舗装されていない砂の道。街路樹はなかった。緑は、この町の入り口に生える、柑橘類らしきオレンジ色の果実を実らせた樹木が一本あるだけ。
気になるものと言えば、正面の通りの終着点にある噴水と、オランダでよく見られるような四つ羽根の風車。それくらいだ。
俺は、風車の羽音があまり騒々しく感じないことを不思議に思いながら、樹木の傍に佇む小さな看板を覗いてみた。
そこで、疑惑が確信に変わったんだ。
「やっぱり読めん」
まあ当然だった。異世界なら言語形態が違っても。
「寧ろヤマトと普通に話せた方がおかしかったんだよ! 何で通じたんだ? やっぱり無理言ってでも付き添い頼むべきだったか!?」
頭を抱えて叫んだ俺。困ったら助けを呼べと言っていたが、早々に使っても良いだろうか、ヤマトコール。
そんなことを考えながら、俺は全く読めそうにない文字列を無理やり読もうとしてみた。文字から感じるニュアンスを音にしたんだ。
その瞬間だった。
<『共通語』スキルを獲得しました>
「おわっ!?」
――頭に鳴り響いたのは、女の声。
「何だったんだ、今の?」
青く光る綺麗な蝶が視界を横切って行った。それを目で追いながら、俺は脳裏に響いた謎の声を思い返してみた。
スキルだとか何とか言っていた気がするが。
「まあいいか!」
ただでさえ悩むべき案件が多いんだ。幻聴だったのかもしれないし、深く考えるのは問題になってからで良いだろう。とにかく、まずは情報収集と寝床の確保を最優先に行動だ。言語の壁は、ジェスチャーを駆使して何とかカバーで!
そう方針を決めて、面倒事は丸めてぽいっとした。
そして。
「そう言えばこの町の名前って結局『はずれの町』だったんだな。何がはずれなんだろ? 当たりだったら旅行券とかくれるのかな?」
先程は読めなかった看板の文字をさらっと読んだのに、そのことに全く気付かずに俺は歩き始めてしまった。
あの謎の声が言語問題を解決してくれたと知るのは、少し後。
まあ、そんなこんなで出会った訳である。
「――こんなところで何してるの?」
あの昼でも薄暗い路地で、ステラ、お前とな。
【白犀】
ステラ「この異世界で一番ポピュラーな魔獣かな」
沙智「ひい!」
ステラ「草原にも雪山にも現れるけど弱いから大丈夫!」
沙智「嘘だ!」
ステラ「日持ちが良いから保存食にどうぞ!」
沙智「助けてええ!」
※割り込み投稿しました(2021年5月21日)
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