第十六話 『殺人鬼から逃げ切りたい』
本日からシリアスです。
◇◇
ディストピア世界屈指の科学技術によって作られたジェムニの巨大な門。これは称号『門番』を持つ者が触れると流れる微弱な電波で開閉されている。その称号は、言わば端末なのだ。
ここはジェムニ外壁上にある、狭く埃だらけの小さな部屋。
電波を受信して門に開閉の信号を送る重大設備に今、女が触れている。
「ジェムニ神国を魔獣から守る巨大な門。これはまるで人の細胞の、有害な物質だけを弾くフィルターみてーだな。こいつのお蔭でジェムニ神国が地上から魔獣に攻め込まれた史実は存在しない」
白い発光、微かな雷鳴。
指先から流れていく繊細な電流が時間差でもたらす異常を、この世界の人類の叡智は決して観測できない。
「けど、もし細胞内部に直接毒が注入されたらどうなるんだろーな。外側にしか槍を向けていない防壁が、果たして今まで通りに人を守ってくれるのか――」
女は機械から手を離し、月が明るく照らす街並みを見下ろした。
エガリテ像への供物という形で第一の警鐘はすでに鳴らした。
その警鐘を――彼の犯行動機の表明を正しく読み取れた者はそう多くないだろう。だからと言って猶予は与えない。次に必要なのは、疑念を確信へと昇華させるための生贄である。その時、国は、人々はどう動くのか。
「全ては明日、犯行計画を表明した時のお楽しみだな」
手帳に刻まれた二つ目のチェックマークに笑い、女は今夜も分厚い革手袋を左手にその部屋を後にする。
「今日は、今日の契約を履行しねーと」
夜よりも暗く、月よりも明確な悪意を口元に宿して。
◇◇ 沙智
「ありがとうございましたー」
美味しそうなアイスを人数分買い、帰路についた俺はそれはもう天高く昇っていく気分だった。昼過ぎには今日を厄日と称した俺だが、火のオーブを貰う目途をつけ、思わず躍り狂うほど楽しいスキルを習得した今となってはその評価を改めざるを得ない。
そういう訳で天高く昇った俺が、飛び立つ前に決めた十八時には帰宅という約束事など覚えているはずもなく、すでに時計の針は十九時過ぎを指し示していた。
ええ、このアイスはご機嫌取りのためですよ。
「近道さん、近道さん、私を宿まで連れてって~!」
随分と間抜けな鼻唄だなと笑われそうだが、別に上機嫌だから歌っている訳ではない。トオルやステラに大目玉を喰らうのが嫌で、ほんの少しだけ近道をした。帰りを急ぐことで反省の気持ちを表したかったのかもしれない。ただ、薄暗い夜道を一人歩くのはやっぱり心細さがあるのだ。
「その道危険と宿が言う~。おそ~くなっても引き返せ~」
怖がりな俺には下手くそでも歌が必要なのだ。それでも紛らわせられない不安が歌詞に出てるのはご愛敬ということで。
「近道さん、近道さん、私を宿まで連れてって~!」
百物語で聞いた恐ろしい怪談が幾つも頭に過る。
夏と言えば怪談、幽霊と言えば夜。おまけに「この日は急いでいたので別の近道を――」だなんて語り出しの定番である。とにかく何かを常に喋っていないと背後から女性の声が聞こえてきそうで恐ろしいことこの上ない。
コツ、カツ、足音だけが暗闇に反響する。
窓ガラスの古い蜘蛛の巣を見ていると夏なのに薄ら寒く感じる。
――あ、ほら。皆さん、後ろを見てください。
「ああああ!!」
やめろぉぉー!!
昨日の夜から時間差で攻撃してくるな、トオルーっ!!
何が怖いかってベタな展開が一番シンプルに怖い。
「ここは現実。ここは現実」
――百物語、その最後の蝋燭を消した時。
「ああああ!! ここは現実、ここは現実ー!」
ああいうホラーは所詮ドラマや小説の世界の話で現実にはありえない、何度も心の中で繰り返した。しかし、俺は失念していたのだ。ここがそんな「ありえない」が「ありえる」に変わる異世界だということを。
『――――』
悲劇は、背後の軒沿いに放置されていた箒が倒れる音から始まった。
今日は無風、倒れるはずがない。体の隅々まで時間が固まったように硬直し、全身から血が搾り取られるような息苦しさが体を支配した。
振り向いてはいけない。
思いとは裏腹に、音の正体を確かめたいという本能が顔の向きを回転させた。窓ガラスが淡い月光を反射して、暗闇に映し出したのは――。
「ひっ、お化――じゃなくて人か」
「む?」
どうやら路地から人が飛び出てきただけのようだ。
特徴的な緑色のベレー帽はこの町中で何度か見かけたことがある。彼はきっとジェムニ神国の軍人さんなのだろう。
全く、驚かせないで欲しい。
俺はホッと胸を撫でおろし、彼が幽霊でないことに心の底から安堵した。
ただ、幽霊でないにしても軍人さんの雰囲気は何かおかしい。
俺を気にしながらも、自分が出てきた狭い路地から決して目を離さない。まるで天敵の狼の動きをじっくり観察して逃げようとする兎のように神経を尖らせているではないか。
「……っ」
ま、まさか彼は……見える系の人間なのだろうか。
彼の視線の先の暗闇に何かがいるとでもいうのだろうか。
「あ、あの……」
『おうおう、どこに逃げたぁ?』
「――っ!」
それは、随分と柄の悪そうな若い男の声だった。狂気を伴う夜の伴奏、月はまだ主演を映さない。声に反応して軍人の男は肩を震わせ、汗を流す。その横顔を見て俺も事態をようやく理解した。
「君……まっすぐ走って二つ目の路地を左に曲がった先に軍の小さな駐屯所がある。頼めるか?」
「えっ。軍人って妖怪退治もやってるんですかっ!?」
注、別にボケているわけではありません。
七瀬沙智は本気でこの先に妖怪がいると思っています。
「妖怪だったらまだマシだったんだがっ――伏せろっ!!」
「ぎょえっ!?」
突然軍人さんが俺の頭を掴んで地面に押し当てる。
何が起きたのか全く分からなかったが、軍人さんが何らかの危機にいち早く行動して俺を守ってくれたということだけは理解できた。混乱したまま、脇の下から視界に映ったのは地面に転がる包丁一本。
俺は今度こそ状況を理解した。
――行方不明の冒険者七名、芝の公園で遺体になって発見。
電子モニターで目を逸らした物騒なニュース。
確証はなかったが、どうしても無関係とは思えない。
「増援要請を頼む!」
「す、すぐ呼んできます!」
切羽詰まった叫びに応えて俺も無心に走り出した。
路地の暗闇の先に犯人の輪郭を見つけなかったのは幸いだった。あの軍人さんを襲っていた犯人の悪意が具体的になって目の前に現れれば、俺は竦んで動けなくなってしまったかもしれないから。
『今日の得物は元気がいいなぁー。嬉しくなっちまうじゃねぇかよ!』
幽霊よりも恐ろしく、妖怪よりも忌まわしい叫びが徐々に背後へ遠ざかっていく。曲がり角の寂れた看板に広がる蜘蛛の巣で蛾が必死にもがいている。
夜の町に響く悪意の前奏曲によって平和な一日はここに崩れ去った。
軍人さんの言った通りに走ると、暗くなった建物の中で唯一明るく光を灯しているドーム状の建物が視界に入った。駐屯所というのはあそこの事だろう。
あの軍人さんは経験を重ねていそうな風体で、俺にも冷静に指示をくれた。ひょっとすると俺を逃がすための方便だったのではないかと思わないでもないが、咄嗟に飛んでくる包丁を躱した腕はきっと信用してもいい。ならば俺にできることは情報の伝達に限る。
この時の俺は、突然現れた殺人鬼が繰り広げる非日常がまだ抽象的な感覚でしか理解できなくて、きっと応援さえ頼めばどうにでもなると楽観的に考えていた。
だからこそ――。
「すみません、軍人さんが――ぁ」
だからこそ、抵抗がない。
広がる現実を受け止めきれるほどのクッションを脳にまだ用意できていない。呼吸を落ち着かせる暇もないまま、その視覚情報は妙な生温かさと鉄の匂いとともに、喉に直接腕を突っ込まれて掻き出されたような衝撃を伴って再生された。
白いタイル張りの床に広がる赤い小さな命の池。
壁に貼り付けられたカレンダーにはドラマで見るような血飛沫。
床に転がる遺体が一つ。
受付口に伏す遺体が一つ。
裏口のドアに手を伸ばしたまま息絶えた遺体が一つ。
「ぁぁあぁぁあああ……」
一目で彼らはもうこの世にはいないのだと理解できた。理解できたと同時に頭の中に積み重ねていた今日の楽しかったことも嬉しかったことも全てが泡のように蒸発し、空っぽの真っ白だけが支配した。三人とも首に容赦なくナイフを突き立てられ、血に染まった表情には今も苦しみだけが生きているかのようだった。真っ白な頭に、恐怖で塗りつぶされた辛く印象的な映像だけがこびり付く。
「ああ……あ……ごほっ、ごほっ……ぅ」
視界が明滅を繰り返し、歪み始める。
大規模な揺れに耐えきれない体は支えを失い、頭を扉にぶつけて崩れ落ちた。
「な……にが……」
数分経って、それがようやく意味を為す言葉だった。
異世界に来ておよそ半月。
人の死ははずれの町で信じられないほど目の当たりにした。しかし、彼らは呪いの影響で目立った外傷なしに倒れ、直後にゾンビとして蘇ったため、ある程度心的負担は軽減されていた。恐怖はあったが、それは吐き気がするほどのものではなかった。
では、今はどうだろうか。
俺はただ呆然と、漠然と、語らぬ肉体を眺めるだけである。汗が全身から熱という熱を奪い、ついには許容制限を超えて脳に悲鳴を轟かせる。突然殴られたかのような衝撃による麻痺はずっと続き、指先は意思なく震え続けた。
血が、遺体が、血が、遺体が、血が、遺体が、血が、遺体が、血が、遺体が、血が、遺体が、血が、遺体が、血が、遺体が、血が、遺体が、血が、遺体が、血が、遺体が、血が、遺体が、血が、遺体が、血が、遺体が、血が、遺体が、血が、遺体が、血が血が血が血が血が血血血血血血血血血血血血血血血血血血血血血――。
意識は彷徨う。
真っ白な世界の出口を探して――。
「……軍人さん」
俺の思考が死んでいたのが一瞬だったのか、それとも数分間だったのかは分からない。ただ視界の縁に零れ落ちていた緑色の血が染み付いたベレー帽が、先ほど別れてきた男の存在に俺を思い至らせた。
「――っ」
冷静な思考回路は取り戻せていない。
恐ろしい犯人がまだいるかもしれないことなど頭にない。
純粋に生きていて欲しいという無垢な思いで走り出したのではなかった。決して少なくはない時間を駐屯所で無為に過ごしてしまったという罪悪感を押し流したい、そんな身勝手で利己的な囁きによるものだった。
寂れた看板の蜘蛛の巣に迷い込んだ蛾はもう動かない。
建物の角から顔だけをそっと出して――。
「ちっ、チョーよえーなぁ。レベルが30を超えてたからこれでも少しだけ期待してたんだぜぇ? なあ、おいっ」
「――――」
言葉は完全に消滅した。
暗闇に立っていたのは緑色のベレー帽の男ではなく、少し淡い水色が浮かび上がる白髪の男だった。鈍く輝く錆びついた鉛は血を吸って地面を貫いている。その奥で男は何度も、何度も黒ずむ肉塊を蹴り上げては狂気に声を弾ませる。どれだけ目を凝らしても、地面に転がる彼からメニューのアイコンが表示されることは決してなかった。
彼は、死んだのだ。
「――ぅ」
ついさっきまで話をしていた人間が息絶えた。どんな言葉で飾ることも隠すこともできない現実が腹を侵食し、生まれた一瞬の綻びは吐き気となって零れ落ちた。紙が舞い落ちたかのような繊細な音にも白髪の男は敏感に反応し、ポケットに手を突っ込んでゆっくりと歩き出す。
「くっくっくっ。なーんだ。まだ誰かいるみてーじゃねーか」
慌てて手で口を塞いでももう遅い。
男の確かな足音がコツコツと次第に大きくなっていく。
逃げなきゃ殺される――頭では分かっているのに、腰が抜けて思うように脚を前へ突き出せない。フラッシュバックする悲惨な映像が逃げ出す胆力を奪ったのだ。俺に今できることは精々息を潜めるだけ。その甲斐虚しく、俺は呆気なく男の視界に入った。
「てめえ、確か」
男が溢したのは狂気とは異なる何か詰まるような声だった。
その声に俺は見逃してくれと淡い期待を抱いたが、彼は直ちにポンと手を叩き、そして凶悪な笑みを浮かべる。
「ああっ、思い出したぜ。ステラに騙されてる可哀そうな子羊じゃねーかぁ。運がねーなぁ。そこはかとなく運がねぇー。そんなに震えて、可哀そうに」
「……ぇ?」
理解できない。
なぜ今、ここでステラの名前が挙がるのか。
ただでさえ機能しなくなった脳はさらに混乱する。しかし例え時間があったとしてもここは袋小路、抜け出せるはずもなければ、彼がそんな時間を与えるはずもなかった。
「経験値の足しにはなり得ねーが、見ちまったもんは仕方ねえ」
懐から取り出されたのは小さな短刀だ。
月光に妖しく光り、俺の呼吸はついに停止する。
ああ、終わる。
命が終わる。
「安心しろよ。俺のグンと一番得意な科目は何たって人殺しだからなぁっ!!」
精神と入れ替わって身体を支配した死の映像と、無意味で愚かな肉体の命の境界が男の短剣によって薙ぎ払われる。これが俺のさよならで――。
「契約――」
息は途絶えなかった。
短剣が振り下ろされることがなかったからだ。
代わりに、目の前に差し迫った死の何倍も恐ろしい感覚が背中に貼り付いた。無防備な心臓を、背後から掴もうとする冷たい掌。
「ステラの仲間をどう処理するかは私の範疇さ。人が見てねーところで契約違反はいけねーな」
背後から響く張り詰めた女の声が俺に安らぐ暇を与えない。発言の内容然り、状況然り、彼女が味方でないことは明白だ。男は不意に目を細めると、急速に表情を冷まして退屈そうに吐き捨てる。
「よー、遅かったじゃねーか。今日はもう来ねーのかと思ったよ」
「それで勝手に契約を破られたらたまったもんじゃねーんだよ。ギニー、お前の我が儘を妥協してやってるんだ。それに私の我が儘はお前の同胞を救いたい気持ちを考えた結果と言ったろ?」
俺を挟んで視線がぶつかり合い、激しく火花を散らす。
やがて、ギニーと呼ばれた白髪の男は諦めたように口元を綻ばせた。
「ふっ、まーいいや」
男はもう俺に興味を失ったのか、一瞥すらせずに歩き出す。
「命拾いしたな、小僧。精々今のうちに友達ごっこを楽しんでおくといいさ」
短剣を片手で玩びながら、悪意の残り香を醜く残して。
男が消えた後も、俺は小指一つ動かそうとしなかった。敵が別の敵に置き換わっただけで、状況は何も好転していないのだ。未だ緊張の絶えない空気の中、しばらくして女は俺の背中から手を剥がす。
それが合図だった。
「――っ」
意識が、本能が、体に刻まれた幾多の掠り傷の過去たちが金切り声をあげた。
女から離れろ、と。
大きく前方へ飛び跳ねると、俺はそのまま警戒の色露わに女に振り向いた。たった一メートル前後の距離、それでも無いよりはずっとマシだった。揺れる瞳を限界まで開くと、そこに映ったのはフードを深く被り込んだ金髪の女。
「おー慌ててるね。背中からでも心臓のバクバクが伝わってきたよ」
右手の掌を指しながら女は気分良さげに笑みを浮かべる。
その異様な雰囲気は先刻の男と遜色ない。それどころか、悪意を表に出さず、へらへらと笑っているその姿が俺にはもっと恐ろしいもののように思えた。
「まあそうビビんなって。殺しゃしねーよ」
女はそう言うと、フードの縁に手を掛けて背後へ下ろし始めた。
流れ出る少しくすんだ金髪。露わになる白い肌。黄色い瞳。
「お前は」
より激しさを増す鼓動が息を荒らしていく。
そんなことあるはずがない、どれだけそう思おうとしても脳は忠実に作業をこなし、目の前の人物を記憶にある見知った人物と一致させた。
「ふっ、昨日ぶりだな」
左手を腰に、醜く笑う女が一人。
間違いなく知っている。
しかし、全く知らない。
――彼女は、キャロルだった。
【ああああ】
えー、『最も重大視される沙智の危険行動best5』によると、『沙智の恐怖が限界に達した時に聴覚的な刺激を全て遮断するために発動される自動型の魔法である。その最大出力は周囲百メートル圏内にいる全ての人間の鼓膜を一瞬で破壊するという。直近では百物語で怖い話を聞いた時、宿の朝食の美味しそうなサラダにオクラのネバネバを感じた時などに発動された。』……え? 著者は私だけど?
※加筆・修正しました。
2019年9月3日 加筆・修正
表記の変更




