第十四話 『赤い記憶(2)―Stage1―』
熱に浮かされていた。とても冷静ではいられなかった。
この覚えがある光景の答えが欲しかった。一刻も早く。
『――何でお前がここにいる、サク!』
俺を異世界へ連れ去った女神様が今、随分と凡俗な格好で、どういう訳か懐かしの俺の部屋にいる。
現状の全てが理解できなかった。
どうして元の世界に戻ってきてしまったのか。そして、ここにいるはずのないサクがいるのはどうしてなのか。
その二つが無関係とは思えない。
だから、俺は必死に声を投げる。
――何がどうなっているのか知りたくて。
やがてサクの顔に笑みが灯った。
『ふふ、沙智が私をそう呼ぶとか面白すぎるんだけど!』
『お前がそう名乗ったんだろうが!』
失礼な奴である。俺は覚えているのだ。忘れもしない補講帰りの八月二日。近所の神社で誰かと何かをしていた俺を、こいつはあろうことか空へと攫い、冷静な判断能力を奪った挙句、無理やり異世界行きの切符を買わせたのである。その時に言っていた。「サクって呼んでくれてもいいよ」と。
と、そこまで考えて、やっと思考が再稼働する。
『――――。いや待てよ。サクには俺を別世界へ連れていく力があった。同じようにあの異世界から戻るのをサクが手伝ったなら、ここにいてもおかしくない。ってことは、俺は、俺は本当に元の世界に?』
『異世界って、マンガの読み過ぎでしょ』
サクは俺を馬鹿にして頬をつく。腹立たしいことこの上ない。
ただ、ハリボテの回路でも思考を巡らせたお陰で、邪魔で、余計な熱を何とか排除することができた。
思考はクリアに、視野は広く。
そうすると見えてくるものがあった。
『――――』
いつもの衣装とのギャップばかりに目が向いていたが、目の前の少女は、よく見れば細部にサクとの違和感がある。
例えば顔立ち。サクはこんなに幼さを感じる顔だったろうか。
例えば髪。くるんと曲がった後ろ髪の癖毛を知らない。
例えば印象。サクはもっと凛としていて、自信に満ちていて。
そうだ。よく似ているが――。
『――違う』
『いや、そこのマンガ棚見たら説得力の欠片もないんだけど。まあ私もお世話になってるけど』
この少女はサクではない。思わずドッペルゲンガーだと叫んでしまいそうなほど酷似しているが、何か違う。
でも。じゃあだ。
この懐かしさの正体は一体何だ?
『あれ、今度はフリーズした?』
無意識に左手が右手の小指にいく。思考が深化する。
この少女はサクではない。でも確かにどこかで会っている。いいや、それどころか長い時間を一緒に過ごしていた気さえする。
友達なんて遠い存在じゃないのだ。
他愛もない一時に少女はいた。身近にいた。
――もう広い視野はいらない。色も邪魔だ。
モノクロに浸って思考を進める。
俺はこの少女のことが嫌いではなかった。好きでもなかった。駄目なところをいっぱい知っていて、同じくらい良いところを知っていた。傍にいるのなんて当たり前で、いなくなることなんて考えられない。
当たり前のようにそこにいて欲しかった。
この感情を「親愛」と呼ばずに何と呼ぶ。
そうだ。俺は少女に「親愛」を抱いていた。
『おーい』
小指から左手を離す。立ち上がり、俺の前で手を振る少女。覚えがある。記憶が叫んでいる。思い出せと。
思い出せと叫んでいる。
『お前は誰だ?』
『は?』
大事な何かを忘れているのだと悟った。
そうしたら、不安で不安で仕方なくて。
『お前は誰なんだ?』
『あーダメだこりゃ。沙智がボケて――』
『真剣に答えろッ!』
処置なしと首を振って部屋から出ていこうとする少女。焦った俺は少女の細い手首を掴んで、背後のクローゼットの扉に彼女を押し当てた。少女漫画のような立ち位置だが、胸が躍ることはない。荒れるばかりだ。こんな乱暴な光景ですら、俺の記憶に強く訴えかけてくる。
思い出せと。
『ちょ――』
少女の顔に恐怖が浮かぶ。
『――沙智?』
正気を探るような声だった。それだけでも俺と少女の間に確かな繋がりがあったのだと分かる。怒られるようなことを、泣かれるようなことを、軽蔑されるようなことをしているのに、「私の知っているこの人はこんなことしないのに」と、当たり前のようにそう思ってくれている。
それが当たり前だと思える人。
少女の胸中にも「親愛」があった。
『――うう』
『あ!』
少女が痛みで顔を歪ませて、やっと俺は自分のしていることに気付き、少女の手首を解放した。
掴んだところが赤くなっている。少女は涙目だ。やってしまった。俺はしどろもどろになりながら視線を逸らす。
そして、目を見開いた。
視界が叫んでいる。思い出せ。
『――――!』
デスクに置かれた立て掛け写真。亡くなった母がいて、父がいて、俺がいて、そこにもう一人、少女がいたのだ。
モノクロの花吹雪が飛び交う。
――思い出せ。
高校入試の朝、緊張で周りが見えていなかった俺に少女は言ってくれた。「今更緊張したって仕方ないんだから、終わったあとの晩餐でも考えてたら?」と。彼女なりのエールは、目の前で手を振って俺の気を惹こうとする、そんな仕草から始まったんだった。花びらが一枚赤く染まる。
――思い出せ。
室内にテーブルを運ぶのを手伝ってもらった。運び終えたあと、俺は床に散らばっていた梱包材で足を滑らせる。そのまま少女ごとクローゼットに倒れ込んで。そうだ。「おおリアル壁ドンだ。キスでもしちゃう?」と冗談交じりに少女は笑っていた。花びらが一枚赤く染まる。
――思い出せ。
家族写真を撮った。言い出しっぺは少女だ。占いと同じくらい記念日が好きな少女は、今日は特別な日だからと家族をリビングに集めたのだ。思い出した。写真を撮った日が何の記念日だったのか。俺のピーマン克服記念日じゃないか。本当にくだらないことなのに、何でか泣けてきて。花びらが一枚赤く染まる。
――思い出せ。
雨が降っていた。墓前に佇む少女はセーラー服姿。傘も差さずに、俺に背を向けたまま悲しい叫びを繰り返す。自分のせいでお母さんが死んじゃったって頬を濡らす少女に、俺は何かを伝えようとしたけれど、どれも届かなくて。すれ違いざまに見えた虚ろな瞳が、酷く、胸を締め付けるんだ。花びらが一枚、赤く。
『お前は――』
記憶の全部が、思い出せと叫んでいる。
『お前は誰だ?』
そうして問いは繰り返される。だけど最初の問いとは違った。漠然とした投げかけではなく、確かな一欠けらを求めている。
どうしてかは分からない。
この問いで全て繋がる、そんな気がして。
『誰なんだ!?』
手首を押さえたまま、少女が顔を上げた。
不安で潤んだ眼差しを、でも、まっすぐ。
そして――。
『――――愛する妹の名前を忘れたの、お兄ちゃん?』
瞬間、モノクロの花吹雪が一斉に色を取り戻す。
――ああ。
どうして忘れていられたのだろうか。思い出してから、俺は記憶に空いていた大きな大きな穴をやっと自覚した。
母が亡くなってからは父と二人暮らし――そんなことあるものか。いつも、当たり前のように、そこにいてくれたではないか。
どんな時だっていてくれた。
喧嘩しても、そこにいてくれた。
――大切な、妹。
止め処なく涙が溢れてくる。でもまだだ。拭っても意味ないけれど、それでも拭って妹の顔を見なくては。
記憶は取り戻した。二人でどんなことをしたのかを思い出せる。
でも、どうしても一つだけ思い出すことができないのだ。
それを取り戻さなきゃ心の穴は埋まらないのだ。
『なあ』
声を――。
『お前の、なま――』
そこで声が止まる。
振り絞ろうとしても声が出なかった。あるのは、自分というものに輪郭が引かれて、夢から急速に剥がされていくような感覚。自分が、それ以外から、みしみし剥がされていく感覚。立っていられない。「あと少しだけ!」と叫びたいのに、やっぱり声は音にならなくて。崩れ落ちた俺を見て妹が驚いている。慌てて俺の肩を揺さぶって、必死に何かを言っているのだ。何かを言っているのに、何かを言いたいのに、もう遠い――。
――境界線を引かれた。
それが、この赤い記憶の最後だった。
※※※
「――――まえは!?」
詰まっていた声が勢いよく飛び出す。でも妹の姿はなかった。
シックなテーブルの上には何枚かのお皿と、フォーク。氷がまだ残っていたはずのグラスには薄く水が張っていた。その向こうで、なぜか金髪のエルフの少女は泣きそうな顔で、桑色髪の少女がその肩にそっと寄り添いながら、心配そうに俺の方を見つめていた。
鼻が甘い香りを再び感じ取った。
そして悟る。ここはケーキ屋なのだと。
――異世界に戻ってきた。
俺は半ば放心状態で左隣へ視線を遣る。
「沙智、大丈夫?」
赤毛の少女がつんと俺の頬に軽く触れてくる。ステラだ。肌がリアルな感触を得て今度こそ俺はちゃんと理解した。
さっきのは夢だ。
あれは「みたい」でも「ような」でもなく本当に夢だったのだ。あの中で感じた匂いや熱はそれこそ現実と見紛うほどだったけれど、やはりこうして現実の感触を得たら納得できる。届いていないと。
だからこそ、目覚めた今、その儚きに思うのだ。
――何か、チャンスを逃した気がしてならない。
「とりあえずメルポイソーダ貰っていい?」
「ふふ、こんな時もメルポイ?」
「メルポイこそ至高!」
「はいはい。入れてきてあげる」
気になることはあるが、まずは状況を収集するのが先かと、俺は一旦くぐもった感情を振り払って、この場を和ませてみる。
軽くおどけただけで察してくれたステラに感謝だ。
――さてと。
どんな言葉から始めればいいのだろうか。
迷っていると、最初の言葉はソフィーに取られた。
「ごめんなさい」
「えっと?」
――何を謝られたんだ?
分からない。でも本当に申し訳なさそうに縮こまっているので、言い間違いの類ではないのだろう。
直前のことを思い出そうとしてみる。ちょっと気を抜くと、あの濃厚な夢に意識を奪われそうになるが、きっと思い出すべきはその前だ。
ソフィーが謝ろうと思った何か。
そうだ。俺は「あ」と溢す。思い出した。
あの夢は――。
――記憶の旅へ、『リコール』――
この子のユニークスキルで始まったのだ。
「あのねえ」
しゅんとしたままソフィーが話す。
「私のユニークスキルは記憶を再現することができるのお」
「再現できる?」
「夢って形でねえ」
やはりあれは夢だったか。
「まず何か思い出そうとした時のシグナルを強めてえ、その人が忘れたと思ってる『過去の一場面』まで記憶の状態を巻き戻すんだあ。例えばあ、友達に誕生日プレゼントを渡そうとしたあ、そんな印象的なシーン。巻き戻したらそこを夢の始まりにしてえ――夢の中で当時と同じアクションだと『過去の追体験』になるしい、違ったアクションだと『あったかもしれない可能性』を体験できるのお」
種明かしを受けて、俺は「なるほど」と納得した。
よくよく思い出してみれば、確かに俺の部屋に尋ねてきた妹に「タイムカプセルを掘り出そう!」と言われた覚えはある。これまでは全く思い出せなかったが、ソフィーがこの記憶を見つけてくれたお陰か、今では鮮明だ。時期はクリスマス。夢にあったクリスマスリースにも符合する。
そこが夢の起点になった。
あそこで正史に則り「また占いかい」と呆れた姿勢をみせると、タイムカプセルのことなんて忘れて「占いの良さ」を妹が永遠に熱弁するという、過去の追体験になった訳だ。ならずに良かった。本当に。
でも夢では、「何で元の世界に!?」と、俺が実際にはなかったセリフを吐いたため、その流れに合うIF世界が作られた。
つまりは、そういう訳だ。
――確かに面白いスキルだ。
しかし夢だと分かると途端に勿体なく思えてしまう。いきなりのことで、あれほど困惑していたはずなのに。
「で、何を謝ったんだ?」
「それはあ――」
そうだ。ここまででソフィーが泣きそうになる理由はない。
俺はなるべく優しい口調で尋ねてみる。すると、ソフィーは黄色い瞳を膝元に下げてゆっくりこう言った。
「本当ならね、記憶の旅はスキルの効果を受けてる本人はともかくう、周りから見たら瞬きの間に終わるはずなのお。だけど沙智さんはずっと眠ったまま起きなかったからあ、何か失敗しちゃったと思ってえ」
「なーんだ。そんなことか」
思ったより深刻なことではなかったので俺はホッと安堵した。
軽く「じゃあ起きたからいいよ」と手を振って流そうとする俺に、ソフィーは「大変だったんだよお!」と騒ぐ。
でもな、ソフィー。
眠っていた間のことなんて分からないんだよ。
頬を抓られていたとしても、アホ毛で遊ばれていたとしても、せいぜい夢にそれっぽい情景が現れる程度。このグラスの底に張っている水が、俺が眠っていた間に解けた氷だったかなんて、知る方法はないのだ。
「ね、沙智は気にしないって言ったでしょ?」
「ん」
「ほら、だからソフィーも気にしないの」
「分かったあ」
にこりと笑うエルフの少女。ああ、これでいい。俺はステラたち二人と顔を見合わせて微笑み合った。
――お兄ちゃん――
魔法のイタズラで偶然思い出せた大切な妹。
どうして忘れていたのかは分からない。
どんな名前だったのかも分からない。
今、どこで、どうしているかも分からない。
それでも――。
「なあ、ソフィー」
「なあに?」
「あの場面、本当にあったんだよな?」
「――――。ん」
それでも、二度と忘れたくないから。
俺は掌を握り締める。
大切に大切に胸に仕舞っておこう。この記憶が――魔法が思い出させてくれた赤い夢が、もう色褪せてしまわぬように。
【IFの世界】
ステラ「沙智はああだったらなあって思うことってある?」
沙智「ありまくり」
ステラ「へえ、例えば?」
沙智「あの日ラクガキ放っとけばなあ」
ステラ「この物語が始まらないから!」
※2022年2月21日
加筆修正




