第十三話 『赤い記憶(1)―Stage1―』
直向きな想いで赤く染まる花びら。
その名は「親愛」――。
――記憶。
その目で見たことや、聞いたことなど、あらゆる経験は、頭にしっかり保存できるように海馬という部分で符号化され、よくエピソード記憶や陳述記憶などと言われる形で大脳皮質という場所に送られる。そのお陰で、ふとした瞬間、遠い昔の出来事を思い出すことができるのだ。
しかし科学的な事実が次々と明かされている現在でも、記憶の神秘性は依然として消えないままだ。
どうして伝書鳩は知らない帰り道を知っているのか。
どうして裂かれて頭を失ったプラナリアは、再生したあと、裂かれる前の経験を頼りにした行動を取れるのか。
ヒトデなど脳がない生き物の記憶はどこにあるのか。
彼らの記憶が脳に依らないなら、人間の記憶は――。
ただ一つ言えることがある。
それは、「その人が、その時間、その場所で、その世界で、鼓動をしていたという証明」こそが記憶であるということ。
記憶の消失は死と果てしなく同義である。
◇◇
引き続き穴場のケーキ屋『ルパラディ=ドゥーラ』から。
メニューにある「メルポイ」関連のデザートをコンプリートし、最後に締めのメルポイソーダを舌鼓を打っていた時だった。
ふと思い出したように、ソフィーが可愛く聞いてくるのだ。
「ところで沙智さんはどうして『オーブ』欲しかったのお?」
「――う!」
危うく俺の導火線に火が付きかねない問いだ。
声を詰まらせる俺に代わり、ステラが答える。
「魔法が昔からの憧れなんだってさ」
「適性なかったのお?」
「残念ながら」
「地団太踏んで悔しがってましたね」
――まずい。
俺はあまりよくない流れに冷汗を流した。当然のことながら、俺は『オーブ』をまだ諦めていない。ソフィーとの間に交渉の余地を残しておきたいのだ。それなのに余計な会話で「単に魔法を使ってみたいだけだったんだあ」と認識が固定されてしまったら話にもならない。
ここは勝負する時だ。
十八年の勘がそう告げていた。
「憧れてるのは本当だけど、俺も色々考えてるんだ。ほら、今のままだと魔獣が出た時とか、ステラやトオルに頼り切りになっちゃうだろ。さすがに男の子がそれじゃどうかなあって思う訳ですよ」
「じゃあ魔法じゃなくてもいいんですか?」
「魔法じゃなきゃ駄目に決まってるだろ!」
「――――」
「あ、やべ」
チョロい。チョロすぎる。
盛大に自爆してしまった俺は、目をキョロキョロさせながら「えっと」と挽回の言葉を探す。
だが悲しきかな。
向かいにいるのは純粋無垢な少女だった。
「そんな雑な建前なら最初から言わなきゃいいのにい」
「ぐは!」
相手を罵ってやろうとか、揚げ足を取ってやろうとか、そんなのは一切ない、少女の純粋無垢な一撃が炸裂。
あまりにもまっすぐに胸を抉った。
俺はバタンとテーブルに突っ伏す。
「クリティカルですね」
「ソフィーもしかして毒舌?」
「んー?」
笑顔のまま首を傾げるソフィーは、やはりよく分かっていないようだ。
――あーあ。
ともあれ、こうして俺の野望は潰えた。
なぜ願いを言う時の「夢」と、睡眠時に見る「夢」が同じ字を使うのかよく分かった。どちらも儚く消えてしまうからだ。
もはや叶うことのない、ファンタジー。
なんて風に拗ねていると、不意に朗らかな日差しを感じた。ソフィーだ。その温もりにつられ顔を上げると。
「あげよっかあ?」
「え!?」
――天使がいた。
「『イフタフ・ヤー・シムシム』!」
呆然とする俺の前で、ソフィーは可憐な花を咲かせるように両手を開き、黄色い瞳を輝かせながら可愛らしく呪文を唱えた。
するとどうだろうか。紫苑の魔力光が掌に集まって「カギ」の形になり、宙でカチッと、目に見えない扉を開けたのだ。空間魔法で亜空間の扉を開いたんだと理解するのにそう時間はかからなかった。
空間の裂け目。そこから炎は落ちてくる。
ゆったりと、重力なんかに惑わされずに。
「はい」
少女の白い掌の中で、宝玉は真紅の輝きを放っている。
視線を外せない。見ているだけで伝わってくるこの熱は何なのだろうか。
ジェムニ教会の聖域で見た『魔王玉』と、強いエネルギーを閉じ込めた宝玉という点では同じだ。しかしあれと違い、目の前にある炎の宝玉を見て胸がむかむかすることはない。感じられるのは純粋な火としての使命。炎の、全てを焼き尽くさんとする情熱が見る者の心を魅了した。
火を司るエーテルがそこにあった。
「どうぞお?」
「――お、お」
上手く声が出ない。これは一種の麻薬だ。宝玉の赤は、俺の心に燻ぶる魔法欲求に火を灯そうとする。
これで、俺も――。
手が伸びる。そこでストップが入った。
「ソフィー、さすがにそれは貰えない!」
「うぇええ!?」
――なに、駄目なのか!?
「さっきのお礼も兼ねて貰ってよお。ねえルビー?」
「お、おおお!」
――ああ、いいんだ!
「ダメですよ。ここぞという時に取っておいてください」
「あ、あがが!」
――やっぱり駄目なのか!
悪魔と天使がいる。
向こうがお礼だと言ってるのだから快く貰うのがマナーだと嘲る悪魔と、ステラたちの言うことが尤もだと理性に訴えかける天使。ある時、悪魔が言った。「万物は流転するもの。変化し続けるのだから今でないと届かないぞ」と。なるほど一理ある。宙づりになっていた腕が前へ――。
「お兄さん、自重!」
「はい」
敬語を止めたトオルに悪魔は負けました。
「ったく。年下の女の子にたからないの。ほら、ソフィーもまた沙智がおかしくなる前に仕舞って仕舞って!」
「あはは」
ソフィーが苦笑いを浮かべながら『オーブ』を亜空間に仕舞う。俺にはそれを恨めしい目で見送ることしかできなかった。
分かっている。自重だ。
「でもソフィーはすごいね」
ステラが話題を変える。
「空間魔法は特殊属性の中でも難しいって聞いたよ?」
「先生がよかったからかなあ」
「他にも色々とスキルやら魔法やら持っていそうだな」
「あんた、まだ拗ねてんの?」
ステラが呆れた目で見てくるので、俺は氷だけ残ったグラスの底を無理にストローで吸いながら視線を外す。俺は例えるなら、「待て」を食らったまま飯を取り上げられた哀れな犬なのだ。
こんな具合で不貞腐れていた俺に、朗らかな温もりを感じさせてくれたのは、またしてもソフィーだった。
「――そうだあ!」
彼女は何か思いついたように手を鳴らす。
「沙智さん沙智さん!」
「何だ?」
「私のユニークスキル試してみない?」
「ユニークスキル!?」
まさかの発言に俺たちは目を剥いた。
勇者や魔王を除いたらごく稀にしか持っている人はいないとされる、ユニークスキルまで扱えるとは思わなかった。
俺は恐らく異世界転移の特典で貰った。
しかし目の前にいる少女は違う。
運命の女神に愛されているみたいだ。
「あなたが最強天使ですか?」
「最強には程遠いかなあ。攻撃スキルは一つも持ってないしね」
ソフィーはにっこり笑ってから、自分の前にあるグラスを横に退けた。そして可愛らしいマジックショーは――。
こんな言葉から――。
「手を出してみてえ」
「こうか?」
――何が始まるんだろう?
俺はドキドキしながら、少女の掌に自分の右手を重ねた。
ソフィーは面白いと言ったが、どんなユニークスキルなのだろうか。宝玉のことを忘れて虜になっている辺り、俺も存外単純である。
花火を待つ時のようなワクワク。自然と鼓動が早まった。
「いい?」
顔を上げる。見えたのは綺麗な黄色の瞳。
「――忘れてしまったことお。でも心にしっかり刻まれてる思い出え。あなたがその錆び付いちゃった記憶の歯車を上手く回せないのならあ、私がそれをほんの少しだけ手助けするよお。だから思い出してみてえ」
重なる手の隙間から紫苑色の花が咲く。その優しい香りに触れて、これは目を瞑っていた方が良いなと俺は感覚的に悟った。
瞼を下ろす。その刹那に見たのは淡い幻。
――占いするから手を出して――
いつだろうか。いつか見た気がするのだ。
「――記憶の旅へ」
これと同じような、光景を――。
「――『リコール』」
※※※
境界が曖昧になって消えていくような感覚があった。
自分の体の輪郭が現実から剥がされて、どこかに漂っているような感覚。夢現な感じというのが何より近いかもしれない。
五感が困惑しているのを感じた。
ケーキ屋特有の甘い匂いが消えたから。
もう、目を開けてもいいのだろうか。
『――うーん』
誰かが俺の掌を触っている。
『――こういう時って右手の運命線を見るんでいいんだよね。うわあ、沙智の分かりやすいなあ。えっと、これがこうで』
声の主が女の子なのは間違いなさそうだった。
ソフィーの声ではない。
ステラでもトオルでもない様子。
でも、どうしてだろう。
この声は、無性に俺を懐かしい気分にさせる。
『――うん、やっぱり!』
弾むような響きと一緒に、掌にあった遠慮のない感触が消えた。その少女が得たかった調べを得られたことは、声の喜びようから察せられる。何がそんなに嬉しいのか気になってしまうではないか。
つい、目を開けてしまったのだ。
――な!?
俺は絶句する。
『――沙智、あのタイムカプセル掘り出すなら今だって! 間違いないよ! 手相占いでも、星占いでも、私考案の絵本占いでも、全部<すぐ掘り出すが吉>って出たもん! さあ、スコップ持って神社に行こ!』
瞳に映ったのはケーキ屋の光景ではなかった。
作業用の白い折り畳みテーブル。漫画ばかりが並ぶ本棚。壁沿いに無造作に置かれたカジュアルリュック。何種類かの犬が可愛くデフォルメされた絨毯。白いデスクには、見覚えのある筆記用具に、見覚えのある教科書。コンセントに刺さったままの、青いテープの巻かれた携帯ゲーム機の充電コード。クリスマスリースの飾りが吊るされたドアノブ。クローゼットの取っ手に吊るされた、謎の格言が載っているカレンダー。そして、そして、そして――。
全て知っていた。知らないはずがなかった。
ここは俺の部屋だ。
望んでいた「元の世界」が目の前にあった。
『何で!?』
動揺のあまり叫んで立ち上がった俺から、まるで逃げるように、卓上のマジックペンが転がって落ちていった。
だがそんな些末なこと気にしていられない。
戻ってきたのか。
喜べない。突然すぎて困惑が増すばかりだ。
『俺は異世界に――!』
『――急にビックリさせないでよ!』
『あ』
『――寝惚けてるの?』
何より俺を困惑させているのは、見慣れた折り畳みテーブルを挟んで向かいに座っている、この少女の存在だ。
覚えのある声?
そんなのは当然ではないか。
『何で――』
もこもことした季節外れの白いセーターに身を包み、こちらを不機嫌そうに見上げる黒髪の少女。過去二回会った時と比べて随分ラフな格好だが、その面立ちは忘れようはずがなかった。
そいつは夏の只中に青い着物姿でやって来た。
祝福として授かった『キャラ依存』という切符はすでに切られ、再び会う手段を完全になくしてしまったはずの始まりの少女。
この異世界物語のプロローグを飾った女神様。
自然と鼓動が早まる。もはや視線を外せない。
『何で、お前がここにいる――!?』
あの鼓膜をつんと破るような――。
『――――サク!!』
始まりを告げる鈴の音は鳴らない。
【イフタフ・ヤー・シムシム】
沙智「訳・開けごま!」
トオル「訳されても意味分かりませんね」
沙智「こう唱えると宝物を隠してる扉が開くんだよ」
トオル「では『開け扉』では?」
沙智「何でごまなんだろうな?」
※2022年2月21日
加筆修正しました
サブタイトルを変更しました




