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これは俺が勇者になるための物語  作者: 七瀬 桜雲
第五章 スターツ自然保護区
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第十七話  『昔話を聞いてみよう』

◇◇  Scene.6 「ダークエロフ」





 ハロルドからダークエルフとエルフの問題についてご高説を受けたアイビーとアルフは、畔の小屋の屋根に布団を持ち込んで、月のない夜空を仰いでいた。月こそないが、地上の魔法花の紫苑が薄っすらと映って夜空は美しい。なお真剣な話を聞いた反動なのか、アイビーは全裸であった。


「ウサちゃんも脱いでいいのよ?」


「寒いからやだー!」


「もうピュアなんだから!」


 訂正。反動ではない。これは素だ。


「ふう」


 夜に白い息を投げかけるアイビー。普段の彼女なら直ちにこれを指差し「見て見て白濁したわ!」などと際どいトークをおっぱじめるところだろうが、今夜は少し様相が違った。それは、今という時間が、彼女の生きた時代とそう変わっていないと知って思うところがあったからか。


 アイビーは遠くを見つめて言った。


「私が生きてた千年前にね、おバカさんが一人いたのよ」


「ほえ?」


 記憶は遥か底にある。

 それでも思い出して伝えなくてはと思った。

 この愛らしい白兎に。


「その女の子はね、色んな人たちと繋がりを持とうとしたの。人族も、ダークエルフも、エルフも、獣人族も、青目族も。中には魔族もいたし、悪魔とかいう謎の存在とも慣れ合っていたわ。彼女は、他人と関わることを怖がっていた私たちの心にあったバリケードを、自分勝手な言い分で次々壊していった。――尤も彼女自身ピュアだったから、私と身体では繋がってくれなかったんだけどね」


「カラダで繋がるってキスのことー?」


「もうウサちゃんったらいじらしい!」


 アイビーは無垢な兎を柔らかな胸にぎゅっと押し寄せる。

 目一杯の愛情を表現しながら、また少し声の調子を変え。


「楽しかったの。本当に」


「――――」


「その子と一緒なら、どんな世界だって生きていけると思った」


「――――」


「その子が、世界に結界も境界もないんだって教えてくれた」


「――――」


「だからね、ウサちゃん」


 アイビーは乳圧からアルフを解放する。

 そしてまた、遠い夜空に想いを馳せて。


「好きな子をいっぱい作りなさい」


 ――伝えたいと思った。


「たくさんの人に好かれなさい」


 ――人生の先輩として。


「たくさん愛して、愛されなさい」


 ――どうしても、この時代で初めてできた友人に。


 伝えたかったことを言い終えると、「うふふ。らしくなかったわね。エロトークに戻りましょうか」とアイビーは微笑んでみせた。

 でも、アルフの耳にはしっかり聴き取っていたのである。

 だから、これは何気ない好奇心みたいなものだ。


「ねえ、アイビー姉」


「どうしたのウサちゃん。エッチな気分になっちゃった?」


「アイビー姉が氷の中で眠ったのってねー」


「ええ」


「その子が死んで寂しかったからー?」


 アイビーは紺色の目を見開いた。言葉がすぐ出てこない。微かな声色の変化からその推測を導き出したアルフが間違っていたからではなかった。永い眠りを求めたあの日、アイビーが氷の外側に置き忘れてきた昔の記憶を、その動機を、白兎の言葉が思い出させてくれたからである。


 ――そうだったわ。私は。


 澄んだ瞳で見つめる白兎。彼女には悪いと思いつつ、アイビーは心の中で色付いたその答えをはぐらかすことにした。

 なぜなら、この気持ちはとても甘美で――。


「さあ、遠すぎて忘れたわ」


 自分だけの宝物にしていたいと思えたから。





◇◇  沙智





 夜。ソフィーが寝たことを確認した俺たちは、地上に咲く魔法花の星々に誘われるようにある場所を訪れた。


 ――知らなくてはならない。


 少女の心の在り処を知るためにはまず、少女の心を今の形に作り変えた土壌を知らなくてはならないと、俺たちは今日の一日で痛感した。

 エルフとダークエルフの対立の始まりは何なのか。

 ソフィーとカイルの二人を巻き込んで何が起きたのか。

 この二つが分かってやっと、明日、少女がしようとする「戦い」がどういうものなのかが見えてくる。そんな気がするのだ。


 ――始まりが何だったかを。


「エルフとダークエルフの事情を聞かせて欲しいと?」


「はい、ここには里一番の長寿の方がいますから」


「ボケが進んでいる長老を頼りにですか?」


「長年御付きをされているマチルダさんを頼りにです」


 エルフの里中心部、洞の家。


 ちょーろーと呼ばれるお年寄りのエルフと、その付き人であるマチルダ女史が暮らす小さな家に俺たちはお邪魔している。

 洞での生活がどういったものなのか興味があったので、扉を通って中に入った時は驚いたものだ。この大樹の洞に作られた小さな居住スペースには、驚くほど物がなかったのだ。部屋の真ん中にキノコデザインのクリーム色のテーブルが生えていて、奥に簡易キッチンと簡易ベッドがあるだけ。


 そんな手狭な場所だからか。トオルと静かな口調で渡り合う深碧色のエルフの顔が普段より二割増しで無表情に見えた。


「夜分遅くに申し訳ないと思っています」


「そうですか」


「これはちょっとしたお詫びです」


「何ですか」


「ココアがお好きと聞きましたので」


「頂きます」


 第一ステージ突破。トオルは無事マチルダ女史の心を開いたようだ。


 マチルダ女史が「せっかくですし淹れてきましょう」とキッチンへ向かうと、俺はほっと胸を下ろして、ステラやトオルと笑い合った。途中で「何か買って行きましょう」と言ったトオル、マジファインプレーである。


 だがまだ安心はできない。


 殊更「秘密」というものに関して、エルフは口が堅いのだ。

 ソフィーの友人だからという免罪符でさえ通じないほどに。


「あなた方がどういった理由で私たち種族の事情を聞きたいと思っているのかは分かっているつもりです」


「マチルダさん」


「ですが、結界が関わることになりますし――」


 マチルダ女史はポットの前で、指を頻りに組み直して話すべきか考えていた。なおこの間も彼女の表情に変化は見られない。


 元より無理を言っているのは承知している。急かしたい気持ちを抑えて、俺たちは辛抱強く彼女の判断を待ってみる。

 そんな折だった。

 思わぬ場所から助け船が出された。


「サっちゃんのお願いは聞いとけ」


「長老?」


「無茶じゃけど役に立つ」


 簡易ベッドの上でだるまの真似をしていたちょーろーが、いきなり会話に入ってきたのである。


「無茶じゃけどの」


「俺、ちょーろーに無茶そんな言ったっけ?」


「――ZZZ」


「寝た!?」


 納得した様子でこくこくと頷くステラとトオルの二人とは後で存分に話し合う場を設けるということで、俺はマチルダ女史を見る。相変わらず無表情。でも頻りに組み直していた指の動きが止まっている。ちょーろーの珍しくボケゼロの発言はマチルダ女史は大いに揺さぶった様子だ。


 このチャンスを逃す訳にはいかない。


「マチルダさん」


 俺は立ち上がって言った。


「何が始まりだったのか教えてください」


「――――」


 マチルダ女史の深碧の瞳がまっすぐにこちらを見つめてくる。俺たちの真意を探っているのだろうか。いや、それは彼女自身分かっているつもりと認めていた。ならば覚悟を問うているのか。それとも俺たちが撤回するのを待っているのか。

 やっぱり彼女の能面の向こうにある感情は読めない。

 だからこそ見つめ返す。こうして目を逸らさないのが誠意だと信じてみた。


 やがて――。


「分かりました」


 この応対が正解だったのかは分からないが、マチルダ女史は折れてくれた。


「他言無用でお願いします」


「はい」


 短い返事の裏で、心臓は弾けそうだ。

 やっと知ることができる。

 感慨はない。あるのは緊張だけだ。

 ステラとトオルはどうなのだろうか。


 マチルダ女史は俺たちの前に淹れてきたホットココアを置くと、そっと向かいに座り直して、こんな言葉から始めた。


「今から八百年前のことになります」


 ――八百年前か。


「エルフとダークエルフは当時は、人族の排斥運動に協力して抵抗しました。昔から仲が悪かった訳ではないんです」


「そうなんですか?」


「ええ。仲が良かった名残は今でも残っていますよ。催事の時期が重なっていることも、伝統工芸が同じく染物であることも、当時は付き合いがあった証拠です。そもそも、境界線を無視すれば私たちが住んでいるのは同じ土地です。隣り合って眠ることなんて仲が悪ければできません」


「確かにそうですね」


 俺たちは、座ったまま器用に眠っているちょーろーを見て同意する。


「エルフとダークエルフは八百年前、人族の迫害から逃れるように、このスターツ自然保護区に逃げ込みました。どこへ行っても拒絶される。そんな中で、この森の主である神獣『玄武』は、森に逃げ込んできたエルフとダークエルフを拒みませんでした。あの巨大な獣からすれば、小さな私たちが森に増えようが増えまいがどうでもいいことだったのでしょう。それでも当時のエルフとダークエルフは受け入れてもらえたと嬉しかったようです。二つの種族はその神獣を『聖獣様』と呼んで慕うようになり――ええ、聖獣様が見下ろすこの場所に里を作ろうと決めました」


 俺は昨日の会話を思い出した。「エルフは何で魔獣を恐れないのか?」と尋ねた時に、マチルダ女史が「私たちには、魔獣たちの森に住まわせてもらっているという感覚があるから」と答えていたことを。


 あの時は特に何も感じなかったが、改めて聞いて、それが人族に追われた結果だったと知ると微妙な気持ちになる。


「なあステラ。人族の排斥の理由って何だったんだっけ?」


「エルフもダークエルフも魔法適性が高い種族だったから、きっと怖い魔法を作ってる種族なんだって、恐れて、追い出したの」


「知らないっていうのは怖いことなんですよ」


 意識して引用した訳ではないだろうが、奇しくもトオルの言葉は、いつかソフィーが寂しそうな顔で言った言葉と同じだった。


 俺はゆるゆると首を振って、溜息を吐いた。


「ちゃんと知ろうとすれば分かったろうにな」


「私もそう思います」


 マチルダ女史は無表情で頷く。


「しかし、相手を知ろうとしなかったのは人族だけではなくて、エルフとダークエルフもなんですよ」


「――――」


「いざ里を作るとなった時に、二つの種族が一番に考えたことは、どんな風に里を閉ざすかについてでした。他種族と話し合いで解決しようと志した者はなく、どれほど強固に関係を断絶するかに両種族は腐心しました。――結果、出来上がったのが里をぐるりと覆う『鏡面結界』です。人間の実像を一切結ばず、森に元からある自然物だけを反射する鏡のような結界は、まさに両種族の心の表れでしょう」


「――――」


 里の結界は、自然構築物だけを反射する。人の姿が映らない様は、幽霊の前に鏡を置いたみたいだ。そこに立つ人をいないものとして扱っている。

 興味はあるけど、近づきたくはない。

 内側からは見ていたいけど、知りたくはない。


 そんな結界の状態こそ、エルフとダークエルフの心理なのだ。


 ――ままならないもんだな。


 覚悟していたがピリ辛ムード満載だ。俺は手元の甘いココアを口に含んで、ほっと呼吸の間を作る。


 それから、また一歩前へと踏み込んだ。


「でも、まだ他種族との話ですよね」


「そうですね」


「そのあと、何があったんですか?」


 今までのは内と外を区切る「結界」の話だ。それも知れて良かったが、一番気になるのは内と内を区切る「境界」の話である。


 どこかのタイミングで、あったはずなのだ。

 それまで仲の良かった二つの種族が袂を分かつ瞬間。

 そんな決定的な瞬間が、あったはずなのだ。


 マチルダ女史は目を伏せて、話を再開する。


「結界を作ったその日に事件があったのです」


「――事件、ですか?」


「神獣『玄武』が岩になったのですよ」


 ――ここでその名前が出てくるのか。


 俺は目を細める。予感はあったのだ。感謝祭で「聖獣様LOVE」なエルフたちの姿は見ていたし、昼の境界線の騒動でも争点からズレている「聖獣様のこと」をわざわざ取り上げて罵り合っていたから。


「岩になった神獣『玄武』を見てエルフとダークエルフは大いに困惑しました。先程も言ったように、神獣は二つの種族にとって信仰そのものでしたから。結界展開作業を終えたあと、両種族は調査を始め、それが魔法の仕業だと判明します」


「つまり、石化は人為的だったという訳ですか?」


「ええ。それもかなり魔法技能に長けた種の仕業です」


 ――そりゃそうだ。


 俺はあの巨大な岩亀を思い出す。

 レベルは脅威の201だ。

 神獣にも数えられている超越獣。


 そんな存在を、気取られることもなく石化した未知の魔法使い。


 ――そんなのいるのか?


 首を捻った俺ははっと思い出した。


 まさかという思いはある。でもステラは先程、人族がエルフとダークエルフを排斥した理由を何と説明した――?


「当時のスターツ自然保護区は現在よりも更に未開の地。他種族は来ません」


「――あ、あの!」


「そんな中で、石化という未知の魔法を行使できたのは誰か」


「――マチルダさん?」


「もっと言えば、お互いに結界展開に集中して他への注意が散漫になるタイミングを知っていて、狙えたのは誰か」


「――もしかして」


「エルフはダークエルフを、ダークエルフはエルフを疑ったのですよ」


 俺は思わず「うわあ」と額に手を添えて仰け反った。


 最悪の展開である。人族との付き合いで猜疑心を育んだ両種族が、今度はその根拠のない感情をお互いに向けて解き放った訳だ。

 トオルも可愛い顔を崩して「うわあ」と言っている。

 ステラが俺たちを抓るが、言いたくもなる悪循環だ。


 マチルダ女史は大して気に留めた様子もなく続ける。


「そこからはあっという間です。二つの種族の間で軋轢が深まるのに、そう時間は必要としませんでした。境界線を引いて里を二分し、度々大きな対立を繰り返しながら、まあ現在の状態に至る訳です。両種族が今でも種族感情を横に置いて協力していることなんて、『シープ=ロッド』としての任務くらいなものですよ」


「「――うわあ」」


「沙智もトオルも失礼だってば!」


 最後によく分からない単語が出てきたが、それは別の機会で良い。


 俺はまたココアを口に含んだ。


 石化した神獣と、互いに向け合った猜疑の心。

 生まれた黒い感情は、結界や境界によって模られた孤独な世界で、新しい風を一切浴びることなく、膨れ上がり続けた。

 もはや、手に負えなくなるまで。

 これがエルフとダークエルフの対立の始まり。


 だとするならば――。


「――――」


 だとするならば、あのエルフの少女はこの諍いを見て何を思うのか。


 少女が部屋の机の引き出しに隠していたノートには、エルフとダークエルフの対立のせいで大切な友人が犠牲になったと記されていた。少女はその一件で、時間が何かを解決してくれることはないのだと悟る。最後の猶予として五年だけ待ち、ある一つの決意を五年後の自分に託したのだ。


 戦って、全部ひっくり返せ――。


 少女が託した日は十一月十八日。

 明日だ。もう何時間後かだ。

 日が回る前に、知っておきたい。


 少女の「戦い」が意味することを。


「――五年前にも、対立は深まりませんでしたか?」


 鼓動を落ち着かせ、もう一歩前へ。


「ご存知でしたか」


「はい」


 マチルダ女史は目を伏せる。


「越境事件。事件はそう呼ばれています」


 昼にも聞いた単語だ。


「エルフの領域とダークエルフの領域の間には『均衡ライン』なる白い境界線が引かれており、それを越えてはならない決まりが双方にあります。それを踏み越えることは、攻撃の意思があると取られるからです」


「――――」


「ところが五年前、エルフの少女とダークエルフの少年が、その境界線を越えて遊んでいることが発覚しました」


「――――」


「無邪気な子供のすることとして軽い叱咤で済ませようとした者もいましたが、残念ながら大半はそうではありませんでした。子供たちの行動の裏に、大人の意思があるんじゃないかと疑ったのです」


「――――」


「誑かして、境界線を越えさせるように、大人から言われたのではないかと。相手が境界を越えたという開戦の口実を作るために」


「――――」


「焦点はどちらが先に境界を越えたのかという点に絞られました。嘘でも相手が先に越境したのだと子供たちが言えば、それを攻撃の材料にできます。大人たちは言わせることに躍起になりました」


「――――」


「しかしソフィーとカイル少年はお互いを庇い続けました。自分たちが勝手にルールを破っただけだと。大人の意思なんかないんだと。その頑なな態度に、大人たちの詰問もエスカレートしました。そもそもエルフとダークエルフが友達になんてなれるはずがないだろうと。向こうは、騙されているお前を見て、内心、笑っていたはずだと。時には酷い言葉で相手を罵って、言わせようとしたんです」


「――――」


「それでもソフィーとカイル少年は訴え続けました。自分たちは本当に、大人の思惑なんてない、ただの――」


「――――」


「――ただの友達なんだと」


 無謀にも叫んでいる少女の姿が目に浮かぶようだ。きっと少女は、大の大人たちに向かって言葉を選ばずに叫び続けただろう。

 私たちは分かり合えたのだと。

 類は友を呼ぶ。少年も同じく叫んだだろう。


 だけど、きっと二人の声は――。


「そしてある日、カイル少年が自殺したんですよ」


「――――」


 凝り固まった、心の結界を壊せなかった。

 疑心に満ちた、心の境界を崩せなかった。


「あとは感情に突き動かされるままの結果です。ダークエルフ側はカイルがソフィーと関わったから死んだのだと主張し、仇討ちすべきと戦争の機運が一気に高まりました。実際に戦争が起こらなかったのは、それまで穏健派だったセリーヌが唐突にダークエルフに対して敵対宣言を行ったからです。セリーヌの強さはダークエルフも知るところ。強力な軍事的抑止力の登場で戦争は回避されました」


「――――」


 俺は舌打ちしたい気分だった。


 ――余計な真似を。


 セリーヌさんがどういう経緯が方針転換したのかは知らないが、選んだ手段はこれもまた最悪と言える。結果的に戦争を止めるのに有効だったとしても、それは禍根が残るやり方だ。核は戦争の抑止力になり得るが、平和の推進力にはなり得ないのだ。次の争いがより激しくなるだけだ。


 そんなこと、分かっていたろうに。


 二百年も生きた、エルフの賢者ならば。


「これが五年前にあった越境事件の全てです」


「何だか悶々とした終わり方ですね」


「実際、両種族ともに遺恨は残りました」


 長かった話は、その内容と同じくらい、言葉にできない悲しみと中途半端な余韻を俺たちの心の残して幕引きとなった。


 俺たちのマグカップは揃って空っぽだ。それに気づいたマチルダ女史はココアを入れ直すために席を立った。話にずっと付き合ってくれたちょーろーは、背もたれのない椅子で器用に寝息を立てている。


 これでお開き――。


 ――いや、まだだ。


「あの!」


 まだ本当に知りたいことを聞けていない。


 知ることを恐れながらも、知らないことが怖くて、知ろうとした。

 そこにある想いを知りたかった。

 声は喉の奥で絡まって上手く出てこない。

 それを無理に引っ張出そうとすると痛いけど。

 でも知らないままの方がきっと痛いから。


 俺は、痛みに耐えて、その問いを発した。


「ソフィーも、そうだと思いますか?」


 俺は、知りたかったんだ。

 知って、安心したかった。


「そうですね」


 マグカップにお湯を注ごうとしていたマチルダ女史はポットを置き、腕を組んで少し悩んだ素振りを見せる。

 そしてこちらに振り向く。

 深碧の瞳がこちらを見る。


 マチルダ女史は、結局最後まで無表情だった。


「――あの子は、恨んでいるのかもしれません」





§§§





『――ところで里のルールはもう聞いていますか?』


 花は健気に笑っていた。


『――エルフとダークエルフは絶賛喧嘩中』


 その笑顔が造花なら踏み込もうと思った。


『――取り決めがあるらしいですよ』


 だけど、花は許さない。


『――時の神様は、のらりくらりとやり過ごすだけ』


 いつか枯れてしまうのだとしても。


『――我らから聖獣様を奪ったエルフなど信じられるか』


 咲き続けようとする。


『――あの子は、恨んでいるのかもしれません』


 強く、孤独に咲き続けようとする。


 ――もしも、あの子が間違った選択をしたら。


 それでも、やっぱり思ってしまう。

 あわよくば、全てが思い過ごしでありますようにと。

 明日にそんな幻想を抱いてしまう。


 そして、十一月十八日。


『――――――――!!』


 俺たちの密かな期待を痛烈に引き裂いて、その日の朝、鋭い警報がカランカランと里中に響き渡った。


【均衡ライン】

ステラ「エルフとダークエルフの居住地を分けるように引かれた白い線」

沙智「越えちゃいけないがルールだったよな」

ステラ「越えると、攻撃の意思ありと見なされるから」

沙智「でも、越えなきゃ言葉を届けられない」

ステラ「うん。越えなきゃ相手を知ることができない」

沙智「踏み出せるだろうか」

ステラ「きっといつか――」



※2022年4月21日

加筆修正

ソフィーの事件について補強


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