第十三話 『Message to me』
『五年後の私へ』
『エルフとダークエルフのケンカは時間が解決してくれるものじゃなかった。それに私は気づかなかったんだ。当然だ。確証もないことで、憎しみ合い、子供みたいに境界線まで引いて、それを何百年も続けている。私なんかの声が届くはずなかったんだ。このくだらない争いがカイルを殺して、やっと分かった。時の神様は、のらりくらりとやり過ごすだけで、何も解決してくれはしないのだと』
『だから』
『だから、私は――』
※※※
エルフの里滞在五日目。
今日もこの薄緑色の空は、雲一つなく、どこまでも続いている。俺の心にいる雨雲を押し付けたいくらい。
「はあ」
溜息の理由は幾つかあった。
一つは、迷子のアルフのこと。
感謝祭から二日経ってなお、手がかりすら見つかっていない。飴の甘いの匂いのする白骨遺体が現実に近付いてきた感がある。俺たちが同行して迷子になったら二次災害になりかねず、こうして吉報を待っているのだが、どうも歯がゆい。早く見つかれと祈ることしかできないとは。
一つは、ソフィーのこと。
祭りの夜。ずっと不安定な様子だった少女が、何か決意した目をしていた。突けば崩れ落ちそうな砂山が水で固まったような、そんな感じだった。ずっと小さな体で無理して抱えていた悩みに、あまり選びたくないような選択肢を、答えにすると決めたような感じだった。でも、荷を分けたくなさそうな少女にしてやれることはやっぱりなくて、こちらも歯がゆい。
一つは――。
『――ぶぉ?』
俺と睨めっこを続ける白犀ルビーのこと。
――何で俺がコイツの散歩なんか!
敢えて言おう。溜息の原因は大体これだ。
きっかけはソフィーと交わした朝の会話。
ぬいぐるみ姿のルビーとじゃれていた俺に対して、ソフィーは不思議そうに言ったのだ。どうしてぬいぐるみ姿のルビーは怖がらないのかと。それに対して、俺は勿論「ぬいぐるみだから」と答える。当たり前だ。ぬいぐるみが怖くないのも、魔獣が怖いのも当たり前のことなのだ。俺は至って健全だった。
しかし、それでは納得できない様子のソフィー。難しい顔でしばらく唸り声を上げたかと思えば、ある瞬間、ぱあっと顔を明るくした。
嫌な予感はしたのだ。だが耳を塞ぐのは間に合わず。
そうして放たれた言葉は、悪魔よりも悪魔的だった。
――ルビーと仲良くなることを命じますう!――
「何が悲しくて魔獣姿のルビーと散歩しなきゃいけないんだ! 最悪! 別にぬいぐるみと仲良けりゃいいじゃん!」
という事情で俺は、里入り口にある厩舎ナウなのだ。
『ぶぉ』
「ひい騒がしくしてすみません!」
『ぶぉ』
かやぶき屋根の小屋の一番奥の部屋。青年隊基地の鐘を枠に収めた窓を背に、俺はどっしり座り込んで、たっぷり藁の敷かれた部屋から、鉄の柵が開くのを今か今かと待ち侘びる白犀と向かい合う。
――これと、散歩か。
まるで何人も殺した凄腕暗殺者のような赤い目。
まだ子供とは思えない威圧感。
肉を裂くことに特化した蹄。
怖い悪役みたいにイガイガな鱗。
その小さな角はこれまで何匹の小動物の腹を貫いたのか。
――できるのか?
叶うなら、あの鉄柵に近付きたくもない。しかし、このまま「待て」の状況を続けようものなら、ルビーにフラストレーションが溜まり、暴走する、なんてことは起こり得ないだろうか。そうなれば、こののどかな里に未だかつてない凄惨な悲劇が訪れるに違いない。だって魔獣だもの。
馬たちが心なしか呆れた視線を向けているような気がする。
早く連れて行ってやれと。
「――よし」
静かに呟いてから更に三分。
俺は意を決して立ち上がる。
「ルビー、今日、散歩、俺、分かった?」
『ぶぉ』
素直に答えているようにも見えるが、俺は絶対に騙されない。へっぴり腰で鉄柵の錠を外したら、さっと道を開ける。
そんな警戒心マックスな俺の態度を全く気にした様子もなく、ルビーはのっそりと藁から起き上がった。開錠された鉄柵を鼻先でつんと開け、ゆったりと廊下へ歩みを進める。そして壁に掛けてあったリードを角で外して、それはもう器用に自分の首へ回してみせた。
なるほど、利口だ。
だがその知恵は危険ではなかろうか。
ステラ曰く、シャロンは昔言っていたそうな。白犀が文明を持てば人間を狩って生計を立てるだろうと。
あのエセ預言者は気に入らないが、この危惧は無視できない。
俺の名前は七瀬沙智。絶対に警戒を怠らない男。
「ん?」
ルビーの巨体がなくなった藁の部屋に、光る何かを見つけた。
見間違いでなければ、あれはガラスの破片だ。
回収してやる義理はないのだが、放っておこうものなら、あれを踏んづけて怪我をしたルビーが正気を失い、暴走する、なんてことは起こり得ないだろうか。駄目だ。危険すぎる。凄惨ルート一直線だ。
あれは何としても回収せねばならない。
「ソフィーのやつ、ちゃんと掃除を――」
『ぶぉ!!』
「ひぃいいいいい!?」
俺は全力で飛び退いた。
――オタカラ。
ふと思い出したのはそんな言葉だ。ルビーは散歩中に気に入ったものを咥えて持ち帰っては、それをせっせと藁山の中に隠しているらしい。そうして隠したオタカラが、他人に触られるのを殊更嫌うのだ。今の低い一喝も、俺が不用意にオタカラに触ろうとしたからということか。
要は「取られる!」と思ったのだ。
「そんな怒んなくてもいいじゃん」
『ぶぉ?』
「すみません。何でもないです!」
散歩は、まだ始まってもいない――。
§§§
ようやく厩舎から外に出る。試練はここからだ。
「俺にこの巨体を制御できるだろうか」
ルビーは外の空気を吸えて嬉しそうに見える。だが気のせいだ。魔獣が散歩なんかで喜ぶはずがない。きっとそうだ。
俺が静かに解放された獣を睨んでいると、青年隊基地から黄色い羽織を着たエルフが四人やって来た。
何人かは一昨日の祭りで見た顔だ。
「ああ、確かサっちゃんでしたか?」
「沙智です。七瀬沙智です!」
俺の叫びに自分が名乗っていないことを思い出して青年ははにかむ。
「改めて青年隊所属のスコットです」
「同じくテッドだ」
「ベリンダよ」
「ウィンストンよ。ユラの姉でーす」
覚えられそうにないが一応愛想笑いを浮かべておく。
「ルビ助の散歩を頼まれたのですか? さすがに森の方へ出られるのは避けて頂けると有難いのですが」
「里内を回るつもりです」
「ならよかったです」
スコットは「さすがに迷子が二人になると大変なので」と笑って、ルビーの撫でても気持ちよくなさそうな頭を撫でた。
――よく躊躇なく触れるもんだ。
「ルビ助は人の言うことをよく聞くので大丈夫だとは思いますが、木々は傷つけないよう見ていてあげてくださいね」
「もし住居が傷つけたらオマエに賠償を求めるからね!」
「こらベリンダ」
「あはは。じゃあまた今度ね」
あのベリンダというエルフは、人族である俺をあまり良く思っていないのかもしれない。去っていく四人を見ながら思った。
――まあ無理もないか。
それはそれとしてだ。俺はルビーを見る。
「お前、物を傷つけないとかできんの?」
『ぶぉ』
間抜けな鳴き声が返ってくる。
やはりいまいち信用ならない。
「まあいっか」
俺はポケットからメモを取り出す。
「えっと、里の中を散歩する時は、結界に沿って南へ進んで、青い屋根の小屋が見えたら戻ってくるのか――」
『ぶぉ』
「ってルビー!?」
『ぶぉ』
「待て、そっち違うから!」
予定されていたコースとは正反対の方向へ歩き出すルビー。さすがは魔獣だ。子供だろうと、俺の力ずくの制御をものともしない馬鹿力。さては飼い主のいないこの状況を好機と捉え、暴虐の限りを尽くそうつもりか。
やはり腐っても魔獣。犬の散歩なんかとは訳が違う。
――言うこと聞くって話は!?
叫びたい気分だが、こうなってはどうしようもないのだ。どっちが飼い主か分からない状況を続けるしかない。
「ルビー。お前、最っ悪だな」
§§§
ルビーがとうとう里の中心部へ到達した。
実に恐ろしいことだ。俺はこの怪物の強襲を止めることができなかった。諦めの境地にあったのも事実だが。
俺はエルフたちに囲まれるルビーを見る。
「ルビちゃん。今日も元気ね」
「ルビ坊。うちのトマト食うか?」
「なでなでさせてー!」
「あれ、サっちゃんさんが散歩?」
『ぶぉ』
この魔獣、人心を掌握している模様。
何と恐ろしいことだろうか。
「おはようございます。マチルダさん」
「ええ」
俺は欠伸をしているルビーを片目に、洞の家の小さな菜園に水を遣っていたマチルダ女史に話しかけた。
「朝から騒がしくしてすみません」
「いいわ」
「ちょーろーはまだお休みですか?」
「そうね」
マチルダ女史は短く返答して、視界を確保するように、深碧色の前髪を尖った耳に掛けた。綺麗な目がこちらを向く。分かりにくいが、水遣りを中断して、俺とお喋りしてくれるようだ。何だか申し訳ない。
ちょーろーの付き人をしている彼女だが、バジルが以前紹介したように、必要以上に喋ろうとはしない。この物静かな雰囲気は、どちらかと言うと、俺のイメージにあるエルフの印象に近かった。ただ、逆を言えば必要なことは喋ってくれるということでもあるので、全く会話が成り立たないということもない。
無言で言葉を待つ彼女に、俺は苦笑しつつ話題を提供する。
「この里の人たちはよく魔獣なんて受け入れられますね。あの人なんて手渡しでトマトあげてますし」
「そうね」
手諸とも食い千切られるとは思わないのだろうか。
青い顔をする俺に、マチルダ女史は無表情で言う。
「私たちには、魔獣たちの森に住まわせてもらっているという感覚があるから、あなたたちと違って恐れないのでしょうね」
「住まわせてもらってる?」
「聖獣様によ」
「ああ、なるほど」
――要は魔獣との距離が普通より近いのか。
そう思うと納得するところもあった。
ルビーがのそのそとこちらにやってくる。それを見たマチルダ女史は、菜園に生っている紫色の果実を摘んで屈み込み、ルビーに食べさせてやった。「なんて恐ろしいことをするのか」と、俺は、先程トマトをあげていた男エルフに向けた目と同じ戦慄の目でマチルダ女史を見る。
餌付けを終え、彼女は腰を上げる。
そのまま洞の家に戻っていくのかと思っていたら、ふと、彼女は深い緑を映す瞳を俺に向けて、こんなことを言った。
「最初の日に言い忘れていたことを」
「え、何です?」
「日光にはよく当たるようになさい」
小さく「不健康になるわ」と補足して、彼女は家へ消えていく。
――もしや昼起き生活が知られてる?
ステラやトオルに「ぐーたら」を呆れられるのには慣れたものだが、必要なこと以外はあまり喋らないマチルダ女史に注意されるとは。これは意外とくるものがあった。普通にダメージ大だ。恥ずかしくなり顔を覆い隠す俺の隣で、ルビーはどうでも良さそうに薄緑空を見上げている。
この魔獣、自分は関係ないからって。
「そろそろ帰るぞ、ルビー」
『ぶぉ』
「まだ続けんの!?」
『ぶぉ』
俺に拒否権はないようだ。
それからしばらくルビーの思うがままに歩かせた。そうするより他ないのだ。ソフィーの話では一時間で終わるという散歩が、すでに二時間を超えている。それでいて、まだ帰路にもついていないこの状況。
あとで、俺、飼い主に怒られないだろうか。
いや、ルビーに怒られるよりマシなはず。
「どこまで行くんだ?」
『ぶぉ』
ルビーの歩みは軽快だ。それに、せっかく得た自由時間を無意味に時間を引き延ばそうとしている――なんて感じはなくて、どこかへ、目的を持って進もうというような理性が見えるのが不思議だった。
「やれやれ」
その目的が果たされたら、この散歩も終わるに違いない。
俺は期待とも諦めとも取れる境地でリードを握り続ける。
やがて――。
「あれってソフィーの家だよな?」
見えてきたのは立派な楢の木と、赤いレンガの外壁。もう数日もお世話になっているので分かる。ソフィーの家だ。
俺は「なんだ」と胸を下ろした。
「大好きな飼い主に会いたかっただけなのか」
返事がない。
「このツンデレめ」
いつもみたいに間抜けな声で肯定すればいいのに、ルビーは振り返ろうともしなかった。可愛げのない魔獣である。
――まあいい。
この愛らしい要望に応えねば飼い主代理の名が廃る。他ならぬルビーがソフィーに会いたいというのだ。ならば家の前を通った時に彼女を大声で呼んで、このリードを譲ってやるのが代理の務めというものだろう。
というかもう面倒だ。俺は充分やったはずである。
そんな俺の悪巧みを、ルビーはその一歩で崩した。
「あれ?」
奇妙なことに、ルビーはソフィー宅の裏道を選んだ。大好きなソフィーが目と鼻の先にいるというのに興奮する様子もなく、寧ろ、固い蹄はあまり大きな音が鳴るものを踏まないように慎重になる。
――何か、変だ。
「ルビー?」
そこで、俺はようやくルビーの赤い眼差しが向く方を見た。
そして「あ」と溢す。そう言えば感謝祭の日、ソフィーに連れられていた時もその方向を気にしていた。
「――お前、丘に行きたいのか?」
返事は帰ってこない。
代わりにリードを引っ張る力は強まった。
§§§
「――へえ、意外に雰囲気ある場所だな」
ダークエルフ領に向かって大きく迫り出した丘。ここはぎりぎり二つの種族を隔てる『均衡ライン』の内側らしい。
丘には無数の魔法花が咲き誇る。里のあちこちで見るこの花だが、花畑と呼んでも遜色ないほどに咲き乱れている場所は、ここ以外に知らなかった。そして、丘の鼻先には寂しくも立派な一本木。種類はステラに聞かないと分からないが、その佇まいは、飛び降り自殺を躊躇い続けている人のようで。
静かに、声なき主張を繰り返す。
魔法花の合間に刺さっている、錆び付いたスコップの標石を通り過ぎて、ルビーはそんな一本木へ向かっていった。
「おーい。ルビーさん」
『ぶぉ』
鼻先を地面に擦り始める。
それはもう、一心不乱に。
――まるで、そこに何かがあるのだと言わんばかりに。
「ここ掘れワンワンってか?」
『ぶぉ』
「いやお前、犬じゃないからな」
『ぶぉ』
分かっているのかいないのか。
――はあ。
俺は心の中で溜息を溢した。
ルビーの奇行にわざわざ付き合う理由はない。しかし、今は仮にも俺がご主人様である。もし犬にとってのタマネギのような、食べたら毒になるようなものでも掘り当てられて、それをオタカラにでもされたら、俺が責任を取る羽目になる。法廷に呼ばれるのは御免なので、仕方ない。
俺はリードを一本木の枝に任せると、スコップを引き抜く。
白犀は邪魔にならないよう後退した。
「お利口なもんだな」
『ぶぉ』
こんな時だけ、という言葉は敢えて言わない。
――とにかく掘ってみよう。
ある昔話みたいに、埋蔵金でも出てくればいいのだが。そんな俗っぽいことを考えながらスコップの刃を突き刺して、俺は「あれ?」と首を傾げる。魔法花の根が複雑に絡まっているにしては、やけに土が柔らかかったのだ。まるで、少し前に耕された畑のような柔らかさだ。
刃先は、いとも容易く進む。
そして早くもかつんと何かに当たった。
「お、埋蔵金か?」
檜の箱。それが眠っていたものの正体だった。
俺は土の中からそれを引っ張り出して調べてみる。サイズは薄いA4サイズの冊子が入りそうなくらいの、お手軽な感じだ。
誰かのタイムカプセルみたいなものだろうか。
ルビーがじっと見てくる。開ける他なさそうだ。
俺は小さく息を吐いて、蓋を持ち上げる。
「――え、空っぽ?」
中には、何もなかった。
俺はがっかりした気持ちで、もう一度蓋へ目を遣った。よく観察すれば、蓋には俺がスコップの刃先で付けた傷とは別に、もう一つ小さな傷があった。つまり、誰かが先に掘り出して中身を回収していたということだろう。残念だ。実はちょっぴりワクワクしていたのに。
でも、誰かが先に――。
「あ!」
俺ははっとなって顔を上げた。
誰かなんて不明瞭な人物ではない。そうだ。この木箱をルビーが気にする理由なんて一つしかないではないか。
それはルビーにとって大切な人だから。
それはルビーにとって近しい人だから。
つまり――。
「ソフィーだ」
頭にあの可愛らしいエルフの少女が浮かび上がる。感謝祭の夜と同じだ。どこか無理をした色んな表情が浮かび上がってくる。
この木箱には、何が入っていたのだろうか。
それが分かれば、近づけるのだろうか。
ソフィーがずっと抱えている、何かに。
「――――」
どうしてそう思うのか自分でもよく分からない。
でも知りたくなった。
知りたくてたまらなくなった。
この衝動は止まらない。ここには健気な笑顔で「踏み込むな」と暗に線を引く小さな少女がいないから。
「ルビー、お前は――」
俺は視線を前方に戻す。魔獣は俺を見つめていた。
「お前は、これで俺に何を伝えたかったんだ?」
『ぶぉ』
ルビーが鳴く。その意味は人間の俺には分からない。
赤い眼差しから汲み取れるものは何もなかった。
※※※
知ってはいけない。直感は告げていた。
「あ、おかえりなさい」
「ただいま」
他人の墓を暴くのは褒められた行為ではない。
分かっている。そんなことは。
それでも、あの土の中の木箱に隠されていた何かがソフィーに関わるものだと思ったら最後、見て見ぬふりをするなんてできなかった。
少女が抱えている悩みが何か分かるかもしれない。
そう思えば、それが悪いことだろうと欲してしまう。
そして、俺と同じように思う二人がいて――。
「ここに糸を通すんですよ」
「うえ、難しいよお!」
「ただの玉結びなんですが」
居間から無言の合図が飛んでくる。トオルの目配せが、まだしばらくソフィーを留めておけると教えてくれる。
俺はステラと頷き合った。
「――――!」
ソフィーの部屋は二階の、あの丘の一本木がよく見える部屋だ。丁度居間の上だから足音には注意しなければならない。
――ごめんな、ソフィー。
階段を上って廊下を進み、古い擦り傷のあるドアをそっと開ける。若葉色の絨毯には精霊の絵が躍り、温かい色の照明は、恐らくは亡くなった親からそのまま譲り受けたのであろう、使用感のあるデスクを仄かに照らす。
俺とステラは、盗人のようにそこへ踏み込んだ。
――たとえ力になれなくても。
俺たちは頷き合うと、手分けして探し出す。
きっとどこかにあると思うのだ。
あの箱に入りそうなサイズの、何かが。
――どうしてお前が、あんな顔をするのか。
クローゼットを開けようか悩んでいると、背後から小さく「あ」と聞こえた。デスクを調べていたステラの声だ。
胸が激しく脈を打つ。
恐る恐る振り向く俺の目と。
――知っていたいんだ。
緊張に満ちた小豆色の目がぶつかった。
「あった」
それは一冊のノート。
デスクの上から二番目の引き出しが開いている。そこにあったようだ。瞳孔の中で震える光に、俺も間違いなさそうと頷く。丁度あの檜の箱に入るくらいのサイズであることもそうだが、特に、根岸色の表紙の下半分が茶色くくすんで、よれよれになっていること。あの木箱も、泥水が侵入して、一部が汚れていたから。
視線が尋ねてくる。
――どうする?
勿論、良心の呵責はある。でも優しいステラには悪いが、あの空っぽの箱でさえも俺は止まれなかったのだ。
止まれるはず、ないのだ。
「――――」
表紙を捲った。
「これは――?」
少女の丸まった文字が静かに叫び出す。
『五年後の私へ』
――未来の自分へのメッセージ?
『エルフとダークエルフのケンカは時間が解決してくれるものじゃなかった。それに私は気づかなかったんだ。当然だ。確証もないことで、憎しみ合い、子供みたいに境界線まで引いて、それを何百年も続けている。私なんかの声が届くはずなかったんだ。このくだらない争いがカイルを殺して、やっと分かった。時の神様は、のらりくらりとやり過ごすだけで、何も解決してくれはしないのだと』
――ソフィーの字だ。でも。
『だから』
――だって。
『だから、私は』
――だって、これって。
『私は、あと五年を最後にする』
「――え?」
そのあまりにもソフィーらしくない好戦的な一文に辿り着いたのか、俺の隣でステラの声が上擦った。
かくいう俺も言葉が出ない。
『十一月十八日。カイルが死んで五年後のその日。もしも、そこがまだ、あなたの笑える里じゃなかったら――』
書き殴るような言葉の数々だ。
なのに。
そこには感情がなくて。
張り裂けそうな想いの全てが。
最後の一文に集約されていた。
「――――『戦って、全部ひっくり返せ』?」
添えられていた魔法花は濁った色をしていた。
【ある朝の一幕】
ソフィー「ルビーと仲良くなることを命じますう!」
沙智「は?」
ソフィー「散歩に連れてってあげてえ」
沙智「無理」
ソフィー「やらないとお」
沙智「やらないと?」
ソフィー「ぬいぐるみルビーを枕元に置いちゃうかもお!」
沙智「ひいいいいいいい!」
ステラ「あんた、幽霊的な怖さもダメだもんね」
※2022年4月21日
加筆修正




