閑話 『茜差す剣と白い涙花(3)―メイリィ―』
村の住民が寝静まり、静寂だけが潜む深夜。
件の無獣迷宮の入り口前には俺の仲間たち総計二十七名が勢揃いしていた。その雰囲気に、薪を囲んだ時のような和やかさを、もう誰も感じられない。
ふと顔を上げると、村の中心からメイリィが神妙な面持ちで帰ってきた。
「ヤマト、確認してきたわ」
「どうだった?」
「あれ以来、子供たちは一度も迷宮には入ってないそうよ」
メイリィの報告に、俺は盛大に顔を顰めた。
先ほど紙芝居で話した「農具を磨く妖精」は、収穫祭を控えて迷宮内で子供たちが企てていたドッキリ計画を隠すためのフェイク情報。
迷宮から聞こえる物音の正体は、子供たちが農具を整備する音だ。
ならば――。
ならば、村長がここ数日聞いた物音は果たして何なのか。
「一体、どうしたと言うんだ?」
「詳しい事情は後で話す。この迷宮に入った経験のある俺とメイリィで偵察に向かうから、お前らはいざという時のために臨戦態勢を整えておいてくれ」
代表してデイジーに口早に命令し、俺は襟を正して歩き出した。
四か月前のように、物音の理由が可愛らしいものであれば良いのだが、もしそうじゃなかった場合は、持てる命を全て懸けて、挑まなくてはならない。
それがきっと、俺が『勇者』である理由だから。
§§§
無獣迷宮に踏み出して、一歩目。
毎日ここを訪れていたメイリィが、違和感を覚えるのは早かった。
「え?」
「どうした、メイリィ?」
彼女は頓狂な声を出して立ち止まると、急にその場に屈んで足元を手の甲で叩き始めた。その反響音や感触を確かめて、渋い表情を浮かべる。
更に立ち上がると、迷宮の内壁をなぞって、目を細めた。
「ヤマト、迷宮が別物になってるわ!」
「どういう意味だ?」
「元々の迷宮内にあった岩石と同じ成分だけど、構造が組み替えられて、糊が固まったような物質に変化させられている何か。そんな何かで、床も、壁も、全部、迷宮の内装が一面コーティングされてるのよ!」
メイリィは血相を変えて言ったが、俺には変化が分からなかった。
彼女は以前、この無獣迷宮は自然生成したものではなく、古代の人間が何らかの目的で作った人工物ではないかと調査していた。この迷宮は、どのようにして作られたのかを、細密に。
だからこそ、彼女は気づけたのだろう。
この、凄まじく、微細な変化に。
「一つだけ言えることがあるわ」
「ああ、迷宮をコーティングした何者かがいる、だろ?」
「ええ、間違いなく」
俺とメイリィは互いに頷き合い、警戒を強めて奥へ進んだ。迷宮をコーティングした理由は不明だが、それをここ数日の物音と関連付けないはずがなかった。
やはり、誰かがいる――。
二フロア目、三フロア目を越えて、隠し扉。
いつか少年たちが農具を磨いていた秘密の場所へ。
「――行き止まり、よね?」
結局、人影は見当たらず、メイリィは訝しそうに俺の様子を窺う。
迷宮をコーティングした何者かはもう外で出て行ったのか。僅かに染み付いている四か月前の油の匂いを鼻に感じながら、俺は思考した。
思考して、あの日を光景が蘇る。
子供の手から落ちた鍬。
零れた音は――。
「――軽かった」
「え?」
「メイリィ、下がってろ!」
まさかと思い、俺は聖剣を引き抜いて魔力を込める。
アメノハバキリの真骨頂は刀身を伸ばせること。持ち主に剣とリンクしたユニークスキルを与える、特別な三つの聖剣の内の一つである。
剣は、青く輝き、刀身は伸びる。
「――『聖撃砲』!」
出鱈目に四方八方に放たれた魔力の塊は、勇者が持てる最大出力にも拘らず、壁や天井に傷一つつけることを能わない。恐らくは、迷宮をコーティングしている何かが、魔力を弾いているのだ。
しかし、それは壁や天井の話。
床は、別だった。
「よし、落ちるぞ!」
「――――」
階下の床は、さほど深くはなかった。
そして、あの軽い反響音が聞こえた時の違和感は、間違っていなかった。
「ビンゴだぜ、やっぱり地下にもフロアがあった!」
「床がコーティングされてなかったのは、脱出口の確保ってところかしら。スライド式の隠しドアの場所もコーティングされてなかったしね」
「だろうな、警戒は怠るなよ」
お互いに推測を述べ合うが、まずは状況の確認が優先だ。
声の反響具合からして、さほど広いフロアという訳ではなさそうだ。落下の衝撃で消えた蝋燭にもう一度火をつけ、辺りを見回す。
すると、メイリィが奥の壁に何かを見つけた。
「これ、壁画かしら?」
メイリィの声に振り返ると、なるほど。
確かに、これは壁画だ。
奥の壁に刻まれた、抽象的な白線の模様。
手前側には白い小さな線が丘に生え揃う芝のように無数に描かれいた。しかし線同士が寄り添い合ったり、項垂れたり、細く短い線から人間の感情に近いものを読み取れる。
お椀状に広がる白線の僅か上には、仮面をした小さな人間の姿があった。その人間は左手に立派な剣を持ち、集中線で強調された右手を空へ翳す。
仮面の人間が手を伸ばす空には、巨大な何かがあった。
この壁の上半分を全て使って描かれるそれは、姿形を例えようのない怪物だ。それでも無理に例えるなら、十数本の巨大樹の脚を持ち、葉の代わりに雲のような不定形の何かで別の大樹と繋がっている怪物。
正しく胴体や、顔と呼べるモノは見当たらなかった。
だが、なぜだろう。それが怪物であることは疑わなかった。
恐らく、その最大の理由は刻印された文字だ。
仮面の人間と怪物の間に彫られた文字。見た事もない文字のはずが、自動発動型のユニークスキル『隔てられぬ言葉の壁』は見事に解読してみせた。
二行に渡って刻まれた文字を、俺はそのまま読んだ。
「――『この世界にマジンが生まれる。異能の王が立ち上がった』」
「ヤマト?」
「『コラプションオフキングレポートその弐』」
俺の言葉を聞いたメイリィが激しく動揺する。
無理もなかった。これは七瀬沙智から、セリーヌを介して聞いたことがある文字列だったのだ。確か意味は、「王の堕落に関する記録」だったはずだ。
雷鬼王キャロルが気にしていたという、謎の壁画。
俺は、ゴクリと息を呑んだ。
隣ではメイリィが急いで手記を走らせる。
「そう、書いてあるの?」
「ああ、沙智がジェムニ教会で見た壁画と同じ系譜のものだろう」
「その弐って事は、沙智が見たのはその壱かしら?」
「あるいは、番号は読み忘れたかもしれない」
誰に言われずとも、これは極めて重大な資料だと俺たちは思った。
この壁画にどれほどの信憑性や正確さを求めるかで話は変わってくるが、未だ誰も知らない魔神の姿が絵として描かれているだけでも貴重だった。
この出鱈目な存在と戦うのかと、今から嫌になるが。
それに、異能の王。
恐らくは中心に描かれている仮面の人間を指すのだろうが、壁画のタイトルにもなっている「堕落した王」との関係はどうなのか。
同一人物か、それとも別人か。
そもそも。
異能の王って、誰の事だ?
『――そりゃ#あ可愛いお姫#様のことで#しょう?』
「――っ!?」
瞬間、背中に感じたのは思わず身震いするほどの悍ましさだった。
小さな男の子のような純朴な音に響きに、ノイズが何度か走って、途端にそれは俺の中で得体の知れない何かへと昇華する。人の心を読んだかのように言葉を発し、泥の匂いを漂わせる何か。
頸椎にピキキと痛みが走り、それが危険信号だとすぐに理解した。
ああ、死ぬ――。
背の衣服と肉を一直線に貫いて、肋骨の隙間から心臓をペロリと舐められたような感覚をリアルに感じ、俺は躊躇なく、後方へ、青銅の剣を投げ飛ばした。
振り返って、ソイツを視界に収めたのは、先制攻撃の後だった。
『あは#はー、いったーい!』
見た目は十歳ほどの、低身長の小太りした少年だった。
随分と古風な衣装を着飾り、見事に肩に突き刺さった青銅の剣に対して眉一つ動かさない胆力のある少年。と言うより、眉も目も全く見当たらない。
溝に飛び込んだかのように全身は泥だらけ。左手に安物の銀色バケツを、右手に柄の長い竹製の刷毛をぶら下げて、常にニッタリと笑っているのだ。
その表情に張り付いた狂気が恐ろしい。
俺は、もう片方の剣の鞘に指を当てて、叫んだ。
『あーあ#、早くソ#レも塗り潰せば良#かったなあ!』
「――お前は誰だッ!?」
『僕? 僕が#誰かって? 僕が#何者か##って#?』
俺の問いかけに、少年は狂ったように笑い出す。
声の、徐々に増える奇怪なノイズは、感情の危険な昂ぶりだ。
「ヤマト」
「分かってる」
隣りから静かに発せられたメイリィの声に、彼女なりの最大級の警戒が宿っている。決して印象に左右されない彼女の分析能力と、俺の経験則が同時にアラートを響かせて、ただの敵であるはずがない。
そしてこの時だけノイズなく、ソイツはケラケラ名乗った。
『僕はね、僕はね!』
「――――」
『――修正の大魔王だよッ!!』
薄暗い迷宮に、蝋燭の火が怯えて揺れる。
両手を掲げて名乗ってみせた化け物に、心臓の拍動が限界を越えて早まり、聖剣の柄に添える掌が無性に熱を持って弾けそうになる。
声なく、体が持てる機能を全て使って、悲鳴をあげた。
赤の国で対峙した、火焔の化け物。
それと、同格を名乗る者に。
「大魔王、だと!?」
『うん『アリオ#ト』、これが僕#の持ってる称号だよ! あれ、通じない#ー? 通じな#いかー! 要す#るに、第五位って事だ#よー!』
再びソイツの声にノイズが混じり始め、理解不能な言動を繰り返す。
アリオトやら修正やら第五位やら、様々な単語が耳元を素通りしていく中で、たった一言、大魔王という単語だけが雷のように耳を殴りつけた。
それ以上を思考する余裕は、俺にはなかった。
だが、冷静沈着なメイリィは違ったようだ。
彼女は、目の前の化け物を、瞬時に会話が成立する相手だと見定めた。
聞き出すべきは聞き出す。その意志の下、彼女は尋ねる。
「あなたは、何を修正したって言うの?」
『決まって#んじゃん! 決ま#ってるでしょ?』
メイリィの問いに修正の大魔王は興奮した口調で応じ、泥の入ったバケツと刷毛を勢いよく前へ突き出した。それが意味するところに、遅れて気づく。
「――――」
バケツの泥は、この迷宮の内壁と同じ色。
修正という単語と、背後に控える巨大な壁画。
メイリィの、コーティングという声。
全てが繋がって、一人の化け物の役目を浮かび上がらせる。
こいつは、そう、塗り潰していたのだ。
『――歴史を、だよ!!』
このディストピア世界は、魔神が支配するより以前の歴史が酷く曖昧だ。
俺は、それが単に、古すぎてあまり記録が残っていないか、魔神と神々の戦乱で消失したためだと考えていた。
だが、実際には違ったと痛感する。
魔神にとって都合の悪い歴史の記録。
これを、上から塗り潰して修正する存在がいた。
今、目の前に。
『見つかっ#ちゃったなら仕方ない! 人間は#魔法に対して果たすべき責任を果たさなかった。でも#ね、遠い歴史を掘り返して、今更やり直そ#うとしなくて良いんだよ! 僕が全部、全#部、塗り潰して修正す#るから!』
「……魔法に果たすべき、責任だと?」
『後は、可愛いお姫#様に任せなよ、人間!』
満面の笑みで、舌なめずりする修正の大魔王。
カクリと首を傾ければ、それが対話の意思を閉ざした合図だった。
魔力の流れが、変わる。
分が悪いのは明白だった。
地理的にも、人数でも、質でも。
「メイリィ、走れッ!」
「だけど!」
「情報を伝える必要がある、絶対にぃッ!」
喉の浅い場所から、今にも干乾びそうな叫びを弾き出す。
俺は今咄嗟に、ある二つを同時に諦めた。一つは、背後の議論に足る貴重な壁画の保存を。一つは、遠い未来の誰かの勝利に賭けてメイリィを情報伝達役として逃がし、彼女の逃げ道を守るために自分の命を。
必ず、いつかは来るのだ。
そういう不運な役目を引き受けなければならない時が。
当然、死にたくはないが――。
「でも!」
「お前は『勇者』のパーティーメンバーだろうッ!?」
きっと、こういうものだ。
俺が目指そうとしている勇者像は。
メイリィが修正の大魔王の横を横切って出口へ走って行ったのを見届けて、俺は聖剣アメノハバキリを鞘から引き抜いた。鼓動は壊れるほど早く、全身が風邪でも引いたかのように熱を帯び、汗を掻き、妙に世界の流れが遅くなる。
死神がストップウォッチを片手に、俺の魂が尽きる瞬間を待っている。
メイリィの横顔。
あんな泣きそうな顔は、初めてだったな。
「――悪いが足掻かせてもらうぞ、修正の大魔王ッ!」
『別にい#ーよ?』
一気に張り詰める剣の銀色に、嘲笑う音。
真剣な静寂を壊して、迷宮の床が揺れ始める。
『どうせ修正す#る迷宮の壁画はここで最後だったし、千年続けて#きた仕事も今日で退職。もし生き残れたなら、君に栄誉を#上げるよ!』
「何ィッ!?」
『――じゃー#ね、#勇##者#!#』
ソイツは、最後の最後まで、醜悪なノイズに包まれていた。
魔力は爆発し、今、無獣迷宮が崩れていく。
§§§
死んだ。
死んだ。
死ん、だ?
手足が千切#れそうなほど、痛い。
気管に砂埃が詰まっ#て、息苦しい。
暗#い、どこまでも、永#遠に。
重い、痛い、暗#い、辛い。
俺##は###。
「――ヤマト!?」
感じたのは、温かな光だった。
薄っすらと視界に光を見つけ、誰かの腕の温もりを胴で感じる。血反吐を吐きながら足を引きずって、俺は何とか倒壊を続ける迷宮から脱したようだった。
聖剣で手が塞がっていて、激しい爆音をガードできなかった右耳が、やや聞こえ辛い。人の声が何かに絡まって、ノイズが邪魔をする。
徐々に視界の陰りが消えていき、周囲の状況がようやく把握できた。崩壊を続ける危険な迷宮に、デイジーが今にも突撃するところだったらしい。
アリアはこの爆音について村長に説明に向かったようだ。彼女には誰か翻訳係が連れ添ってもらいたいが、その指示を出せるほど今は頭が回らない。
ただ、俺ははっきりと分かっていた。
脅威は、もう存在しない。
「ヤマト、修正の大魔王は?」
「――死んだ」
メイリィへの端的な返答に、皆が驚きで目を見開く。
「野郎、勝ち逃げしやがった!」
自爆――。
初手で唯一攻撃を加えた俺の下に、称号システムの基準に基づいて称号『魔王撃破:修正』が確かに届けられ、大魔王と名乗る者の死は決定された。
そのノイズを、喜べるかどうかは、別として。
こうして青の国ケイブ村の騒動は終結した。
だが旅は、まだ始まったばかり。




