閑話 『玉は結界を食い破って』
今回は敵サイドの話です
ロブ島外海で、彼は数日間にも及んで海の藻屑のように漂っていた。
水や食事も一切取らず、その気になれば陸まで泳げるのに泳ごうともしない。ただ無限に続く大海原を、波の気まぐれに任せ、仰向けに浮かんで旅をした。
そんな彼の耳に、ある時、翁の声が届く。
「ア、アンタ、大丈夫かいっ!?」
彼が目を開けると、自分がギリギリ乗れるほどの木の小舟がすぐ脇に寄せられていた。翁は櫂を置き、慌てて異形の漂流者に手を伸ばす。三メートルの巨体に恐れを抱かない翁の態度には、さしもの彼も驚かされた。
彼の記憶では、確かこの近海ではこの時期、高級イカが獲れる。
恐らく漁船と思われる翁の小舟は、彼にとっては、まさに渡りに船だった。
『都合が良い、乗せてもらうぞ』
「そりゃ構わんが」
『当たり前だ。構わんに決まっている』
彼が木の縁を掴んで乗り込むと、その重さで小舟は激しく揺れ動いた。
海で長らく漂流していたにしてはしっかり回る呂律、それに助けられたにしては甚く傲慢な態度に、翁は不信感を覚えたが、一先ず沖に向けて櫂を漕ぐ。
翁の後ろで、男は胡坐を掻いて、空を見上げていた。
それから数分後、翁は久しぶりに彼の声を聞く。
小さな、呆れるような声だ。
『――やっと来たか』
何事かと思って振り返り、空を見上げる彼の横顔を翁は見た。
同じ方向に視線を向けると、一羽の鳥が小舟に向かって飛んで来る。
「ここにいたか? ここにいたんだな」
『遅かったな、フクロウ?』
「まさか結界の外側にいるとは思わなかった。思わなかったのか?」
『思わなかったんだろう?』
フクロウは彼と妙なやり取りを済ませ、小舟の縁に留まった。
この場では翁のみが知らない事だが、ロブ島の龍の結界は島内に彼を封じる事を目的としたものである。
千年前に眠りについた彼は、四百年前に一度だけ目覚めた。その際に何が起きたかは歴史が知ることだが、用事を済ませた彼は西の迷宮の最奥を次の眠りの場所に選んだのだった。『命の秘宝』に関する真実を龍とキュリロスが書き記した、氷のフロアの更に地下にある例の部屋である。
彼がロブ島に入って眠りについたタイミングを、龍は見逃さなかった。
事実は小説より奇なり。
龍は青目族を外海から訪れる魔獣から守るために結界を張ったのではなく、彼という化け物を封じ込める牢獄にロブ島を選んだのだった。
死後も残る、結界を。
しかし、彼の巨体は今、結界の外側に存在している。
理由は単純――。
『高度七千メートルともなれば結界も薄かったようだ。天空からの命綱なしのスカイダイビングはさすがに死にかけたが、お蔭で外海に出ることができた』
彼は灰色の髪を掻いて、大きな溜息を溢す。
幾ら魔法や聖属性の魔力による攻撃しか効かない『魔王』の体だとしても、あれだけの高度から海面に叩き付けられれば普通は死ぬものである。
だが、彼はこうして鼓動を続けている。
彼が死ななかったのは、小細工でも何でもない。
――偏に、彼が『再生王』だったからだ。
「追い出されたの方が正しいがな。正しいのか?」
『フッ、全くだ!』
敗北を認めるのを嫌う彼が、この時は清々しい表情でフクロウに同意した。
しかし、続く彼の言葉でフクロウは納得した。
『一時はハイエナ共の船に乗って強引に結界を突き破る策も考えたが、貴様が二人の勇者がロブ島に帰還したと報告してくれたお陰で、まあ楽しめた!』
「滑稽な喋り口調だったがな。滑稽だったのか?」
『アレが現世の主流な喋り方と教えたのは貴様だろう?』
楽しめた――。
遥か千年前、この原初の魔王は神々との抗争を終えた世界に対する視界を、たった一言つまらないと評し、完全に閉ざした。手応えのない勇者を見限った。
そんな彼が、この新しい現世を、楽しめたのである。
敵からすれば、今回は痛み分けとも言うべき結果だ。
それを敗北でも良いと思えるほどに。
「――――」
だからこそ、フクロウは改めて思う。
再生王に敗北を認めさせた存在を、放置はできない。
『オイ、<ミザール>』
「何だ?」
『アレは殺しておかんと不味いぞ』
フクロウは彼が自分と同じ結論に達したのだと理解した。彼がフクロウと呼ばずに、魔神から与えられた序列で呼ぶのは、真剣である証明だ。
左の羽と左脚を執拗に嘴で突いて綺麗にした後、フクロウも頷く。
「私も同意見だ。同意見なのか?」
フクロウもまた、アレの脅威は赤の国で認識している。
決して強い訳ではないが、異質なのだ。
「魔神様は放置しても問題ないと仰るが、六人目の勇者は明らかに問題だ。問題なのか? 今一度魔神様に七瀬沙智を殺すよう、提言を――」
流暢にフクロウが声を続けようとした、その時だった。
彼の灰色の眉が、ピクリと動く。
『七瀬沙智を殺すだと?』
「違うのか? 違わないだろう」
『違うわ、フクロウ』
語気を強めて、彼は徐に立ち上がった。
遠い水平線を見つめる瞳は、金。
『あの男を殺すだと? とんでもない!!』
声は突如として感情を起伏させた。
海鳥はそれを嵐と錯覚して飛び退き、水面を泳いでいた海水魚たちはそれを荒波と錯覚して海底へ慌てて逃げ込んだ。
翁は、癇癪が自分に向かわないよう、息を殺して櫂を握り締めた。
地雷に触れた。
フクロウは自分の考え違いにようやく気づいた。
『魔神と同質の異能を有しながら、相反する信念を持っている。アレは、千年の時を経て錆びついたシステムに新たな発展を促せる、金色の歯車だ!』
彼がこの現世を楽しめたのは、彼を苦しめる強敵ではない。
金色の瞳の奥に隠れる青い輝きが、彼ら種族の生き甲斐である知的好奇心を刺激したからである。
『――七瀬沙智を除いて、次の<アルカイド>はあり得ない!!』
「――――」
『手を出すなよ、フクロウ?』
左に金の瞳、右に青い瞳をギラギラ輝かせ、彼は睨む。
通常時よりもレベルが跳ね上がり、一歩間違えれば何もかもを消し炭にされかねない鬼気迫る雰囲気に、フクロウはただ頷くしかなかった。
声を発することを、許されなかった。
しばらく睨んだ後、彼は背後に倒れ込んだ。
青空を見上げ、瞳には一転変わって複雑な感情が映る。
『――ハァ、私が言いたいのは赤毛の魔王の方だ』
「む?」
『七瀬沙智と行動を共にする、あの女さ』
フクロウは予想外の人物が語られた事に驚きを隠せない。
正直、監視対象にすら入れていなかった少女である。
『レベル30を突破してなお、アレは平静を保っている』
「――何だと?」
『恐らくは七瀬沙智が称号を介して、羽化と同時に溢れ出した瘴気に対し、恒久的に“次元パラドクス”を発動させているのだろう。魔神システムの称号<魔王>による鎖の仕組みとはまた違うが、やりたいことは同じだ』
フクロウには彼の言っている言葉の大半が理解できなかった。
称号『魔王』が、レベル30に達するまでの間、その人間の内側に存在する膨大な瘴気を抑え込む鎖の役割を果たしている事は、大魔王連中では常識である。
溢れ出す瘴気に肉体が耐えられるようになるまで、鎖は必要だ。
肉体が崩壊すれば、魔神が精神を乗っ取っても意味がないから。
だが、同じ鎖の効果をシステム権限の外側から六人目が与えたのか。
その「次元パラドクス」とは一体何なのか。
『経緯は問題じゃない』
「――――」
『アレが羽化してなお平静を保って、魔神の意思に逆らっている事実が問題なのだ。システムの根幹に関わる<瘴気政策>に、例外を許してはならない』
七瀬沙智の事でまた頭を悩ませ始めたフクロウを、彼は本題に呼び戻す。
本来羽化すれば暴走するか、魔神の支配下に下るかの二択。経緯はどうであれ、そこに例外を与えてはならないというのはフクロウも同意だ。
称号システムの原点とも言うべき部分に、例外は許されない。
『それに、<緑>の綱引きも発生しているしな』
「ああ、『風斬王』も戦々恐々としているだろうな。しているのか?」
『誰だ、ソイツは』
相変わらず現世に疎い彼に、今度がフクロウが呆れる。
こうして大魔王たちは一通りの情報共有を済ませ、赤の大魔王が抜けた空席『アルカイド』の補充は引き続き灰色髪の彼に任せられる。
これで、長い長いロブ島事件は本当の終わり。
――いや、まだだった。
『にしても――』
不意に彼の機嫌が悪くなる。
金色の瞳には、痛烈な怒りが光り出す。
『小癪なハイエナの頭め。ロブ島が私の縄張りだったと忘れたか。あろうことか、雑魚共を私が眠っていた玉室近くまで踏み込ませよって!』
「おい、やるのか? やらんだろうな?」
『やるさ、お灸が据え足りんようだからな!』
再生王が眠りについて一度だけ、四百年前の一度だけ、彼は目覚めた。
魔神の意思に逆らって、席を降りた存在を討つために。
『そうだろ?』
そして今、怒れる『再生王』の名の下に再演は約束された。
歴史上、一度だけあった、大魔王の衝突が。
『――なあ、隷術の大魔王!!』
※2020年4月27日に投稿




