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第二十五話 『ダケド命、あったかもしれない』

 昨日までとは打って変わり、灰色の病室は全くの別世界だった。

 薄水色の入院着でベッドに横たわるナディアさんの白い腕には幾つかのチューブが連なり、すぐ脇には黒鉄色の点滴スタンドが物々しく存在感を放つ。


「――――」


 ドロドロの重苦しい空気が腕や脚に纏わりついて離さない。

 それを無理やり振り解きながら、俺は部屋の奥の味気ない椅子に雑に腰を下ろした。アランが訪ねてきた際は決まって腰掛けるという白い椅子にである。


 自分の膝に視線を固定し、小さく発声練習を開始する。

 声帯に同期させるのは、迷宮で散々聞いた刺々しい男の音色だ。


「――――」


 喉を摩ると感じる、声の調子は決して悪くない。

 カロリーネのように他人の声音を完璧に真似られるスキルがあればと高望みはしまい。見舞いに来ないアランの代わりを俺がせめて演じられれば充分だ。


 二人に後ろめたく思う気持ちがあるのは確かだ。

 でもこの大罪を犯せば、救えない命の代わりに願いを拾い取れる。

 ナディアさんの切ない願いを、一つ。


「――――」


 しんと静まり返る灰色の病室で俺は窓の外へ視線を遣った。

 窓台の花瓶に差さるコリウスの穂も先端が濁って儚く散る寸前だ。それが無性に悲しくて、手を伸ばそうと俺は椅子から立ち上がろうとする。


 まさにその時だった――。


「アランなの?」


 衝撃は突然、雷のように駆け巡って全身の動きを止めた。

 信じられない思いで首を横に動かすと、驚くことに女性の瞼は開かれていた。病床から焦点の定まらない瞳でナディアさんは俺を見上げていたのだ。


 そしてこの衝撃は同時に、俺の声帯を無意識に震わせたのである。


「――ああ」


 返答は、傘を持たぬ晴天に零れ落ちた雨粒だ。

 まだナディアさんを騙す覚悟が決まっていないのにと不満を垂れても時を逆走はできない。雨粒は――声は緊張から解放されて零れた後なのだ。


 やるしかないと思った。

 でも一秒にも満たない返答の次に続く言葉がどうしても出ない。

 どんな態度で、何を言えばいいか分からない。


「――――」


 仏頂面で嫌味でも言うのか?

 それとも素っ気ない態度でも意外と優しく接するのか?


 生まれた灰色の沈黙が何よりも決定的に証明していたのだ。

 先ほどの返答を訂正できずに俯いた俺の醜い態度が、病床に浮かび上がる穏やかな笑みが、そして耳に届く温かな声が証明していた。


「やっぱり君は良い子だね」


「――――」


 いつか聞いた優しい声音に俺は拳を震わせるしかないのだ。

 だって温かい笑顔で化けの皮を剥いで、彼女は呼んでしまうから。


「七瀬君」


 俺は糸が切れたように力なく椅子に崩れ落ちた。

 全てが徒労に終わった原因は、震える拳が知っていた。


 究極的に俺はアランではない。

 だから鍵括弧の中に入れる言葉がずっと見つからないんだ。

 本物のアランでなきゃ意味がない。


 それでも――。


「もしも、ですよ?」


 それでも今になって唇が動き出したのはなぜだろう。

 体に溜まった灰色の虚脱感が出口を求めようと抉じ開けたのか。


「もしも、『命の秘宝』が偽物だったら……?」


 これが勘付かれる恐れのある愚かな質問だと分かっていた。

 だがナディアさんは追求せず、代わりに一言。


「ねえ、耳を貸してくれる?」


 その瞬間、世界は光り出す。





§§§





 何人かの看護師が薄暗い廊下を忙しなく行き来した。

 病室を後にして一階のロビーに戻った頃には夜は消えつつあった。薄っすらと白く照らされた病院の窓口には見知った顔がすでに集まっているようだ。


「――せんが、七瀬さんとの会話中に吐血したようです」


「あの馬鹿」


 担当医から話を聞いてステラは額に手を添えていた。

 エリナとトオルの姿は見当たらず、ステラから少し離れた植木の隣で兎は静かに耳を震わせていた。

 そして、この場にはもう一人。


「沙智、あんたは――」


 ステラの説教を無視して俺はそいつの前に立った。

 壁沿いの待合席に座るその捻くれ者からは未だ覇気を感じない。俯いたまま微動だにしない地蔵は世界の終わりに瀕しているようにさえ見えた。


 それでも俺は静かに期待を抱いていた。

 この虚しい抜け殻に魂が蘇っていることを偏に願った。


「パラボラ、余計な真似すんな」


 だから彼の無気力な第一声に失望を禁じ得ない。

 哀れなこの朴念仁の刺は削がれてもはや痛くも痒くもない。亡霊のように立ち上がった彼は俺を一瞥すらせず、遠い目で正面ドアへ歩き出した。


「どれだけ足掻いたって覆せない現実は存在する。糸を紡いで空へ飛んだところで雲は掴めないし、願ったところで秘宝の偽物は誰の命も救わない」


 その後ろ姿は、必死に自分に言い聞かせているかのようだ。

 諦め混じりの溜息が悔しくて堪らない。


「俺らは龍神みたいに願いを叶えられないんだよ」


 灰色、彼の世界は一つ残らず灰色に食い潰された。

 病棟に浮かぶ風船の色も、枯れゆくコリウスの蕾の色も、彼には無意味。

 全てが灰色だと決めつけ、彼は瞼を遂に閉じた。


 ならば、俺は視界を閉ざした愚者に叫ばねばならない。

 この世界中の色を賭けて。


「……じゃないか」


「ああ?」


 小さく喉だけを震わせると注目は一身に集まった。

 この直向きな使命感に従って俺は訴えねばならない。ナディアさんが見出した光の美しさまで灰色に包まれるのが嫌で、今度は数倍大きな声で俺は叫ぶ。


「――『命の秘宝』はあったじゃないか!!」


 夜の病院にあるまじき絶叫を腹の底から。

 言ってやったという達成感とともに顔をあげると、ガラス戸前で男は無理解に固まっていた。その表情は言葉を咀嚼するにつれ鬼気迫るものへ変貌する。


「て、てめえも迷宮で見ただろ!」


 瞳は灰の向こうで激しく揺らいだ。

 彼の心中は決して穏やかではないだろう。迷宮で真実を知って半日、ようやく現実を受け入れる覚悟が決まったタイミングで癪に障るであろう叫びだ。


 男は拳を震わせ、歯を軋ませ、苛立ちのままに歩き出す。

 怒りのままに俺の胸ぐらを引っ張り上げる。


「……ぉわっ!?」


「『命の秘宝』は、毒草『月苔』を隠すため、キュリロスと龍神のクソ共が吹いたホラだったんだよ! アレは金色なだけで、誰かを救う力なんてない――」


 そのまま俺を待合席に叩きつけ、男は金切り声を上げるんだ。

 嗚咽を吐くように、悔しそうに。


「ただの水なんだよっ!!」


 一番の叫びの後に訪れた静寂は冬景色より一層寂しい。

 受け入れ難い現実が虚しく反響し、ステラたちも悲しく俯いたまま。だけど口の中に滲んだ血が、この使命感だけは譲れないと痛みで訴える。


 秘宝にナディアさんを救う力はない。

 なら秘宝は本当に価値のない灰色なのか――いや、違う。


「それはお前が望んだ代物じゃなかったかもしれない」


「さっちー?」


「でも、確かにあった!」


 子供みたいな主張だと受け取られたかもしれない。

 実際、彼らの表情に浮かんでいた苛立ちは直ちに困惑へ変わった。

 だからと言って口を閉ざす訳にはいかない。


「ナディアさんが言ってた――」


 灰色しか映らない瞳で彼女がようやく見出した光の意味を叫べ。

 この朴念仁が誓いを灰に閉ざす前に。





§§§





「――ねえ、耳を貸してくれる?」


 あの時、俺は促されるがままに彼女の耳元に近づいた。

 アランの真似をして彼女を安心させようという計画が頓挫した時点で気持ちは離れていたのかもしれない。ただ、無気力にナディアさんの傍に近づいた。


 そこで俺は耳を疑うことになった。

 だって彼女は思いもしない事を告白したから。


「ホントはね、偽物でも何でも良かったんだ」


「はい?」


「例えばこの部屋の入り口に水面台があるでしょ。その蛇口から水を汲んで、これが『命の秘宝』だって嘘をついてくれても良かったんだよ」


 頭の中に幾つもの疑問符が飛び交ったよ。

 蛇口を捻ったところで万病を癒す黄金の液体は手に入らない。偽物で良かったなら、何のためにぶっきら棒な地蔵と勝負を約束したのか理解できなかった。


「ほら、私って偽物でも色の違いとか分からないもん」


「で、でも、それじゃ助からないんですよ?」


 秘宝は万病を癒す伝説の薬。

 その唯一の価値を放棄して一体何を求めようというのか。

 頭を悩ます俺に彼女はまた微笑んだ。


「アランが勝負に勝ったら教えてくれるんだよ」


「何をですか?」


「私をどう想ってるか、だよ」


 瞬間、凍えていた指先に電撃が強く駆け巡った。

 同時に体にずっと纏わりついていた重苦しい空気が嘘のように解けて、食い潰されたと思っていた心の中の幾つもの色が騒ぎ出したんだ。


 ――まだいるよって。


「勝負を約束したあの時、生まれて初めて世界を美しく感じたの。灰色しか映らなくなった瞳でも、世界はウミホタルにだって負けないくらい輝いてた」


 彼女は語り続けた。

 酸素マスクの内側に血を流して、なお。


「本当に好きなんだって気づけて嬉しかったんだよ」


「――っ」


「だからこれは私のワガママ」


 俺は黙り続けた。

 聞き逃すまい、頬に涙を流して、絶対に。


「知りたいんだ――」


 絶対に、アランに伝える。





§§§





 灰色の時間は終わった。

 気づけば薄暗闇の水平線から朝日が昇り、棒のような古木の木肌をなぞり、風船の影を庭に落とし、夜の灰色に覆い隠されていた色たちを見つけ出す。


 その色に一番戸惑ったのは目の前の男だろう。

 迷宮から秘宝を手に入れる勝負――愛する人の命に全ての意味を置いていた男と違って、病床の彼女は別の結果を、別の色をずっと待ち望んでいた。


「言えるんだろう!?」


 今度は俺の番だと思った。

 待合席に横たわったままの上体を起こし、昂る感情に心の中で深く頷いて、俺は男の胸ぐらを勢いよく掴み上げた。そして困惑の男と目が合う。


 瞳に映った秘宝はどうしても誰かを救わない。

 なら秘宝は本当に価値のない灰色なのか――いや、違う。


「その秘宝があったら、お前は『好き』を言えるんだろう!?」


「――っ」


 瞬間、大きく見開かれた男の瞳孔に微かな色が横切った。

 その淡い揺らぎを俺が見逃してたまるか。ナディアさんが何を望んで勝負をけしかけたか、この男は覚えている。間違いなく覚えている。


「おい、五年も告白できない意気地なし」


「――」


「ナディアさんはお前が言葉にするのを今も待ってるぞ!」


 俺は男を思い切り前へ突き飛ばした。

 確かに、万病を癒すと謳われる奇跡に彼女が全く期待を抱かなかったはずがない。だが「偽物でも良い」と微笑んだ彼女の表情に嘘があったとも思えない。


 勝負に彼女が求めたのは一つの願い。

 青目族たる知への欲求。


「彼女は何なら蛇口で汲んだ水でも良いと言った」


「――」


「でも無駄にプライドが高いお前はそれを許さない。お前が勝負に選んだのは、例え偽物だったとしても『命の秘宝』なんだろ!?」


 男は受付前に倒れ込んだまま沈黙を続けた。

 だが病室で大罪を犯した俺と違って、男は鍵括弧の中に入れる言葉を知っているはずだ。病床の彼女と勝負を誓い合った二年前から、あるいはもっと前から。


 こんなに吠えたのは悔しかったからだと思う。

 目の前の癖毛の男は相変わらず苦手だし、気に入らない。


「だったら最後までお前の意地っ張りを貫けよ!」


 けど、何でかな――。


「勝って、好きを伝えろよ!!」


 刺々しくて攻撃的な、醜い紫色。

 でもその方が今よりずっと輝いて見えた。


 灰色の空に太陽は上った。

 一色だった夜空は世界に色をもたらす母の登場によって呆気なく破られ、白雲と朝焼けが複雑に入り混じって美しいコントラストを生み出した。


「――国王様!」


「やっと見つけました、至急お耳に入れたい案件が」


 足元の白い床が熱を孕むと同時に雑音共がドアを開けてやって来る。

 この声、イポリートとクレマンか、今はどうでもいい。


「国王様、ハイエナが動きました!」


「嘘でしょ!?」


「複数の船団で迷宮を襲撃、『命の秘宝』を奪って現在西の海域を――」


 イポリートの報告はそこで終わった。

 例え数日前にシャロンの頼みで俺が王宮に持ち込んだ最重要案件だったとしても、胸に直向きに宿った鮮やかな色を曇らせるに足り得ない。


「アラン」


 男の名前を呼んだなら、ダメ押しにもう一度叫べ。

 両手に握り拳を作って、ほら。


「勝負はまだ終わってない、そうだろっ!?」


 悲鳴にも近い絶叫が視界を塞ぐ灰色を真っ二つに切り裂いた。

 誰もが口を噤んで見守る中、男は歯をギシギシと軋ませて未だ表情を見せず。膝に手を当てて徐に立ち上がると、長い沈黙を彼らしい毒でようやく破った。


「てめえの大声はキンキンうるせえんだよ」


 やっとの彼の返答に俺は思わず肩を落とした。

 数分ぶりの言葉の棘は形だけで痛くも痒くもない。覚束ない足取りで病院を発とうとする男の背中を頼りなく感じる。この抜け殻にもう魂は宿らないのか――。


 悔しくて俺はとうとう視線を落とす。

 すると男は急に振り返り、静かにこう尋ねるのだ。


「行かねーのか?」


 驚いて顔をあげると、男と再び目が合う。その瞬間、もう言葉はいらないんだと分かった。気づけば喉は嬉しさに震えた後だ。


「ああ、奪い返しに行こう」


 誰の命も救わない黄金の涙。

 灰色にしか思えない一滴の価値を――。


「『命の秘宝』を!」


 もう、知っている。


【アランとナディアの勝負】

 二年前のある日、桃色の風船の下で二人は勝負を始めた。

 男は泣き虫で意気地なしだった自分を克服するために、女は諦めかけていた命を全力で生きるために。そして、二人共が自分に勝てたなら――。


 きっと言える。

 「――――」の中に入れる色鮮やかな声を。



※2020年1月23日投稿


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