第十八話 『恋の勝負の駆け引きかもしれない』
◇◇ ナディア
一昨年の暮れの事です。
私はとうとう『配管工』の仕事をこなせなくなるくらい病態が悪化して緊急入院することになりました。色彩感覚が壊れて色を見失い、目の前に広がった病室の味気ない灰色が無性に怖かったのを覚えています。
「医者はどうだって?」
「もう長くないって」
見舞いに来てくれた幼馴染のアランに私は目を合わせられませんでした。昔からの付き合いで遠慮のいらない相手とは言え、苦しいくらい怖かったんですよ。
厳しい冬の時計台で残り二年、恋人を待つのが私です。
恋人は死で、大好きな彼では――。
「俺が西の迷宮を攻略して『命の秘宝』を持って帰る、絶対に」
いきなり力強く響いた声に驚いて私は顔を上げました。
絆創膏だらけで泣いていた情けない少年の面影はもうありません。
彼の震える拳が心に巣くう恐怖を甘やかに溶かしてくれたんですよ。
その瞬間、灰色にしか見えなかった世界にも温かな色がたくさん灯っていたんだって気づいたんです。彼は冷たい海にも負けじと輝くウミホタルのように眩しくて、やっぱり私は顔を向けられませんでした。
「道に蛇が出ただけでわんわん泣いてた弱虫アランに本当にできるの?」
「お前が諦めずに待っててくれんなら蛇だろうが龍だろうが薙ぎ倒してやる」
本当に馬鹿な人だと思いましたよ。
西の迷宮は世界三大迷宮の一つで、誰も最奥まで攻略した試しのない難関です。今までたくさんの人が『命の秘宝』を望み、そして諦めてきました。
どうしても命尽きる前に私は聞きたい。
でも「最後に聞かせて」なんて言ったらあなたは怒るから。
だからワガママを一つ許して。
「じゃあ自分たちの弱虫と勝負しようよ。アランは『命の秘宝』を手に入れて泣き虫の汚名を返上できるか、私はそれまで頑張って待っていられるか勝負」
アランは黙って聞いていました。
どうせダメで元々のワガママです。
「もし二人とも勝負に勝てたら教えてよ、アランの気持ち」
「――分かった」
「え?」
今まで何度もはぐらかされてきたから、今日もどうせ彼は仏頂面のまま立ち去るんだと思っていました。でもこんな時だけ彼は私の手の甲に指先だけ触れて、赤面すらせずに立ち去るんです。ズルいんですよ、本当に。
余命二年のカウントダウンはもう始まりました。
でも世界のカラフルな色が心に溶け込んで、甘酸っぱくて恥ずかしくて。
この熱が私の生きたいと願う理由になりました。
◇◇ 沙智
元々病弱だったナディアさんは使命称号『配管工』が定める月に一度の仕事の義務を全うできなかった。その代償に称号システムから罰を受けてさらに体調が悪化し、翌月の仕事の義務もこなせない――まさに負の連鎖である。彼女は魔神支配が生み出した「称号病」の被害者だった。
ベッドの白いサイドテーブルを倒して王宮からせしめてきたお菓子を並べ、俺は灰色の椅子に座った。彼女とこうして顔を合わせるのはお互いの体調が噛み合わず、早いことで一週間振りとなる。
「約束通り来てくれるなんて、君はどこかの誰かさんと違って良い子だね」
「部屋が真っ暗だったから寝ちゃったかと思いましたよ」
「それは驚かせちゃったね」
王宮から帰宅後、俺は足早にナディアさんの病室に向かった。
昨日バーベキューに誘おうと訪れた時は面会謝絶と言われて手持無沙汰に帰るしかなかったので、正直今晩も会えるか不安だったがナディアさんの顔色が良さそうで安心した。
彼女の病状の悪さを最も重く背負ったのは瞳だろう。
科学実験の試薬のような薄水色の上半身をベッドの上に起こして、ナディアさんは微笑を浮かべてこちらを見ている――いや、見ようとしている。
「部屋が明るくてもどうせ私の目じゃ色彩まで分からないからさ」
「でも例の幼馴染がビックリしません?」
「そんなに簡単に驚いてくれるなら島中の明かりを奪いに行くよ」
「色々と洒落にならないですって!」
ナディアさんと会話すると気持ちが穏やかになるのはどうしてだろう?
咲かないコリウスが窓辺で耳を傾ける中、俺たちは十数分の間クッキーやカステラを頬張りながら冗談を交えて会話を楽しんだ。お喋り好きなナディアさんの話題は全く尽きなくて途中からは彼女の独壇場だったけどな。
しばらく経って一段と強い風が窓を震わせた時だった。
ナディアさんが膝の上に細い指を組んで僅かに俯いたのだ。
「ところでさ」
「何ですか?」
「君はいつになったら隠してる子を紹介してくれるのかな?」
「え?」
一体全体、何の話だろうか?
今日もナディアさんと会えるかどうかは定かではなかったので、友人は誰一人連れてきていない。頭にぼんやりと幽霊の二文字が浮かんで肩を恐怖で震わせながらその旨を伝えると、ナディアさんも「でも――」と続けて引き下がらない。
「さっきからドアの向こうからずっと鼻息が聞こえるよ?」
「本当ですか?」
「私、耳はまだ換え時じゃないよ?」
確固たる自信に溢れた表情で自分の右耳を指差すナディアさん。
そこまで言うのならと俺の椅子から立ち上がり、ドキドキと緊張しながら足音を立てないようにしてドアへと歩き出した。白いドアと目と鼻の先まで近づいてようやくナディアさんの耳に俺は深く感心した。
耳を澄ませばなるほど、確かにこれは鼻息だ。
エリゼは王宮で秘密をバラした件についてお灸を据えたばかり。ステラとトオルなら泥棒みたいにコソコソ隠れてないで気安い挨拶と共にドアを開くだろう。
もう考えられる人物は一人しかいない。
こういう場面でのみ兎は容易く迷子属性を放り捨てるのだ。
「――アルフだな?」
『ギクーっ!』
相変わらず心境を分かりやすく実況してくれる兎である。
黙って逃げ出せばいいものを、これでは自供したも同然だ。
観念したのかドアがギギギと軋んで開かれる。
姿を現したのは当然、今しがたの失態を誤魔化して笑うアルフである。
「えへへ、バレちゃったー?」
「なぜ隠れていたのかをきっちり説明しなさい」
俺が呆れながら腕を組んで返答を待つと、アルフは両腕の手首に結んだ虹色のリボンをぶんぶん振り回して激しく興奮し、瞳をキラキラ輝かせるのだ。もはやこの時点で嫌な予感しかしない。
「だってさー! さっちーってばボーっとし始めたと思ったら急に白々しく散歩とか言って出てくんだよー? 何かあるに違いない、何もなかったとしても面白可笑しく話を盛ろーう。そう思って尾行したら何と美しい女性と密会しているではありませんかー! ということで今からステラに浮気を報告してきまーす」
「報告する前に兎の耳を剥ぎ取りまーす」
「はぎゃー!」
散々身振り手振りで説明して敬礼した後、身の程も弁えずにこの場から立ち去ろうとする兎の耳を思い切り引っ張った。左右に引き千切られるように、捻じって磨り潰されるように、様々な手段で俺の怒りを味わった兎の断末魔が夜の病棟に鳴り響いて木霊する。
全く、何が面白可笑しく話を盛ろう、だよ。
どっと湧き上がる疲労感に思わず溜息をつくと、控えめに質問がやって来る。
「七瀬君のお友達かな?」
「いいえ、食用兎のアルフです」
「酷いーっ!」
「ふふっ、よろしくね兎さん」
ナディアさんの麗らかな様子に免じて兎への制裁はまたの機会にしよう。
俺とアルフの喜劇を楽しそうに眺めていたナディアさんだが、不意に寂しそうに視線を落とした。その原因は簡単、早くもアルフから悪影響を受けたらしい。
「そっか、君は恋人との時間を割いてまで私に会いに来てくれたんだね」
「真に受けないでくださいよ!」
「あははは」
こうして期せずして友人を連れて来るという当初の約束を達成した。
一人ではナディアさんに疲れさせるだけだったろうし、癪に障るがアルフにはまあ感謝してやろう。俺が頬を緩めて椅子に戻ったと同時に、窓の外では花壇の古木が残り少ない葉をまた一枚、夜の深淵へ散らした。
まるで老衰した媼の細い腕のよう。
三日月を分断する朧雲は闇夜に今にも溶けて消えそうだった。
「――ダムをボッカンと壊しちゃってさー!」
「そんな悪い真似したら『再生王に心を取られるぞ』って叱られちゃうよ?」
「でも超ヤバい敵を倒したんだよー?」
「へえ、七瀬君って意外と格好良いんだ」
ナディアさんとアルフは話の波長は合うようで、赤の国での話を肴に随分と盛り上がった様子だった。兎の話は本来は他言無用なシークレットなのだが、入院している彼女がその話を第三者に漏らせる可能性は低いし、何より「宇宙人を見た」などと嘘か本当か分からない発言をする人だから大丈夫だろう。
「もしかして惚れたー?」
「惚れないよ」
そりゃそうだろう。
過去二回ナディアさんの話を聞くと、彼女が誰を好いているかは明白だ。
「私には好きな人が別にいるからね」
「ホントー!? もう告ったー?」
「おい、人の心に土足でズカズカ踏み込みすぎだろ!」
予想外の返答だったのか興奮して耳を揺らす兎を窘める。
アルフにはもう少しステラたちのような気遣いスキルを身に着けて欲しいものだが、嘆息する俺の脇でナディアさんは少し頬を赤らめただけで、随分と大人びた様子だった。
「ふふふ、まだよ。私たち今勝負してるんだ」
「勝負ー?」
「そうだよ。七瀬君はご存知のアランって人なんだけど、彼が『命の秘宝』を手に入れたら私に告白させるつもりなんだ」
「わーお!」
ナディアさんの話を兎が両手を掲げて茶々を入れる。
「告白させる」という強烈な文字列からナディアさんの図太さが伺い知れて俺は苦笑した。その一方で夫を尻に敷く彼女の将来像を思い浮かべると、咲かないコリウスの蕾と共鳴して無性に悲しくなった。
しかしアランの狙いも幻のアイテム『命の秘宝』とは奇遇なものである。
彼女らの勝負は決着まで時間が掛かるかもしれな――。
「あれ、勝負として成立してなくね?」
「ほえ、そうなのー?」
誰が何と戦うんだ?
ナディアさんが何一つ失わないよう設定されている気がするのだが。
「ふふっ、アランはちゃんと勝てるのかな?」
窓の外を見つめて和やかに微笑むナディアさん。
その横顔を恐ろしく思ったのは秘密である。
「……さて、そろそろ帰るか」
「もうー?」
お菓子を持っていたお皿の白い底が見えたのでそう告げると、アルフは子供みたいに不貞腐れて頬を膨らませた。つい昨日まで面会謝絶になるほど具合が悪かったナディアさんにあまり無理をさせてはいけない。
「もっと喋ってたいー!」
「お前、いつも夜は弱いのに何で今日だけ元気なんだよっ!」
「ずっと図書館でちんまりしてたもーん」
な、なるほど理解した。
日がな一日狭い図書館に幽閉されていたのだから普段よりも活動量が少ない。迷子になった回数が相対的に減ったお蔭で目が冴えているという訳か。
「その有り余った元気は今度の迷宮攻略に回してくれ」
「私もしかして頼られてるー?」
「ハイハイ頼ッテル」
「おざなりぃーっ!!」
胸をポカポカ殴りつける兎を適当にあしらって帰り支度を始めると、ナディアさんが首を傾げる。彼女からすれば迷宮とは愛しの彼との勝負の舞台なのだ。
「テルニケ島に行くんだ?」
「アランを見つけたら偶には顔出せって言っときます」
「よろしく、お土産話も期待して待ってるから」
「まっかせてー!」
グーポーズでウインクするアルフを引きずって俺は踵を返す。
しかしドアに指を添えたタイミングでふと思い出して立ち止まった。
「そう言えば、どうして花瓶に風車なんて差してるんですか?」
「ああ、これね」
一週間前にこの病室を訪れた時には花瓶にはコリウスの蕾しかなかった。
しかし窓台ではコリウスと同じ花瓶の中で薄水色の風車が背を向けている。
「昨日花屋さんがいらして提案してくれたの。もっと賑やかな色合いのお花を用意しましょうかって。私には間に合ってますってお断りしたら……」
「代わりに頂いたって訳ですね」
穏やかな笑みで頷くナディアさんの背後で風車は回らない。
強い風が何度も窓を叩くのに回らない。
どうしても、回らなくて不気味だ。
◇◇
夜の白い浜辺の流木から男は魂が抜けたような表情で海に風車をかざしていた。
回る薄水色の羽の合間から青く煌めく波は男を嘲笑うようにさざめく。
「俺はいつまで戦えと言うんだ――答えろ、ウミホタル」
何度問いかけても海の宝石は何も答えない。
代わりに冷たい夜は五日続けて小さな来客を寄越したようだ。
「……今日も来たのか、坊主」
「おじちゃんの持ってる風車格好いい!」
エリゼという少年はこの浜辺の北にあるログハウスに住んでいるらしい。
元気で好奇心旺盛な少年の相手は初老を迎える男には辛いものがあったが、五日目ともなれば会話が不慣れな男でもエリゼとは砕けた関係になっていた。
だからこそ男は苦しかった。
男は――『ハイエナ』北軍の代表ロベールは戦わなくてはならない。
「新入りの部下が作ったもんだ。欲しけりゃやる」
「やったー!」
ロベールが奴隷商人とも知らずにエリゼという少年は呑気なものだった。
嬉しそうに貰った造花師の風車に息を吹きかけて無邪気に喜んでいる。何にも縛られていない純粋無垢な少年の自由が羨ましくて男は目を逸らした。
あるいは少年が臆してくれれば良かった。
低く掠れた自分の声を聞いて、ほうれい線が目立つ堅苦しい表情を見て、怯んでくれれば良かった。しかし青目族の好奇心がその程度で削がれはしないと男はすでに七年前に知っていた。
「おじちゃんは北の入江にある商船の代表さんなんでしょ?」
「ああ、そうだ」
「ロブ島は楽しい?」
「――迷宮の秘宝は勿論の事、金になる“商品”が多いからな」
肉刺だらけの指先の濁った白い爪を睨んでロベールは言った。
今の発言から自分の悪事に少年が気づくことに密かに期待したが、彼はやはり楽しそうに笑うだけである。やはり一度始めてしまった戦いを自分の身勝手で終わらせることはできないのだと男は痛感する。
「坊主、何か将来の夢はあるか?」
「あるよ、おじちゃんは?」
ポケットの中のロケットペンダントを強く握ると、薬指の銀の指輪がチャームの金属と擦れてギシギシと冷たい音で心を締め付けた。
「……おじちゃんはもう疲れちゃったんだ」
また誓いのために誰かの希望を犠牲にしなければならない。
男はそれ以上は何も語ろうとしなかった。
【食用兎】
沙智の世界では食べられることもあるんだってね。食用で育てられた兎はラパンって呼ばれるそうで、鶏肉みたいな味がするらしいよ。だからと言ってね沙智、アルフを「食用兎」と呼ぶのは酷いと思「お前が言ったんだろ!」
※加筆・修正しました
2019年12月4日 加筆・修正
表記の変更
ストーリーの補強
ストーリーの順序変更




