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第七話   『緑の魔王の誕生かもしれない』

§§§  午後三時十五分





 圧迫感のある分厚い雲を悠然と眺めることはもうできない。

 無理やり目を開ければ槍のような雨粒が激しく瞳を打ち抜き、突き飛ばすような風が瞼をすぐに下ろさせる。僅かの間だけ映り込んだ灰色のどんより景色の中心に鮮烈な赤は揺らめいた。


「おいおいちょっと待てよ」


 羽化が引き起こす影響は空間的には限定的なはずである。

 そんな当初の想定を翻して、巨大な黒い竜巻は激しく鳴きながら空高く昇りつめる。突如発生した激しい暴風雨に戸惑い、俺の声は酷く上擦っていた。


 ステラの赤い髪は煩雑とした風の流れの中心にある。

 真っ黒でおどろおどろしい瘴気が周囲を駆け巡る一方で、闇とは対照的な明るい赤い髪が風に沿って龍のように泳いでいるのだ。いつもは綺麗だと称するその色合いも、今ばかりは何か化け物を具現化したかのように恐ろしい。


「あの竜巻の中心に飛び込まなきゃ『編集』はできない……?」


 冗談じゃない。できれば苦労しないのだ。

 耳を殴りつける暴風が木陰のアカネの小さな花々を攫って孤独な海へと突き飛ばす。近づくな、これは見せしめだ――風がそう告げているかのように。


「どうする?」


 暴走が始まった以上仕切り直しはできないぞ。


「どうする?」


 飛び込んだらバラバラに切り刻まれるかもしれないぞ。


「どうすればいい?」


 鼓動は異常に早まり、戸惑いと混乱の渦から抜け出せない。

 それはなぜか――この暴風雨で上手く呼吸ができていないからだ。


「……よし、落ち着こう」


 深く空気を吸うとほのかに苦い塩の味がした。

 景色が大いに変わってもここはファート島で、激しい竜巻の中心にあってもステラは今も戦っている。まだ解き始めてすらいない問題に筆を放棄するな。 


「指先が微かにでも届いた瞬間俺の勝ち、そうだろ?」


 いつしか応答性のある称号を本当に作れるのかという不安は消えていた。

 想定外の事態に多少取り乱してしまったが、この異世界で幾つかの修羅場を掻い潜ってきた俺の心は粘り強く成長していたらしい。深呼吸して鼓動を均せば、為すべきことがはっきり見える。


 まだ羽化が完全ではないからか、風のうねりは未だ乱雑で統一性がない。

 統一性がないという事は風の中心までムラがあることを意味する。


 今ならまだ風の中心にいるステラの下に辿り着けるんだ。

 覚悟を決めた俺は掌を湿った砂浜に叩きつけて、それを作戦開始の合図とした。


「まずは『魔王』の力を削がせてもらう……『聖剣作製』!」


 このユニークスキルは触れた対象に聖属性の魔力を持たせることができる。それが場所であるなら聖域にできる。聖属性の魔力は瘴気に対して有効であり、フィールド全域が聖属性の魔力を持つとなれば『魔王』の攻撃力は大いに低下する。


 つまりこの『聖剣作製』は、ステラが暴走して俺を傷つけてしまった場合のリスクヘッジである。尤もこの効果は二分しか継続しない。だから――。


「早く終わらせて帰るぞ、ステラ!」


 歩いた軌跡で輪を作ればその内側を聖域化できる。

 赤の国での経験が生きて島全域が青い魔力に覆われ、まるでウミホタルの絨毯を駆け抜けるよう足を前へ動かした。近づけば近づくほど向かい風は強くなり、首根っこが握られたみたいに呼吸は苦しくなる。


「くっそーっ!」


 この世界が、魔神が、システムに挑むことを許さない。

 強い風圧で体は前へ進まなくなり、ついに左足が一歩後ろへ押し戻される。


 でも負ける訳にはいかない。


「――っ」


 呼吸が邪魔だ、だから息を止めた。

 表面積の大きい体が邪魔だ、だから姿勢を低くする。

 進めないなら伸ばすしかない、だから右手を渦の中へ。


「ステラーっ!!」


 声が枯れても君の名を叫ぶ――。

 荒れ狂う海から指先だけが宙へ飛び出たような感覚とともに、青い光が黒い渦を浄化していく。上塗りされた光の先で、ステラの瞳は何よりも鮮烈に赤かった。


 何一つとして映さない、赤だった。

 




§§





 トオルの『奴隷』を破壊した時も今と同じだったと思う。

 称号システムの玄関口であるメニューに魔力を流して意識を集中させると、まるで海に溺れているかのような息苦しさと浮遊感があるのだ。真っ暗な海底から無数の泡たちが体を押し上げ、魔神が織り成した不可侵領域への侵入を防ごうとする。


 泡を避けながら必死にもがいて海底へと泳ぎ進む。

 そして海の一番暗い場所を間近にして全身が凍りつくような寒気に襲われる。伸ばした指の先には、禍々しい歴史と運命の黒い渦に覆われ、他の何者も寄せ付けない孤高な輝き――俺はあれが目指した称号だと確信した。

 

 称号の作り方は何となく体が理解している。

 トオルの『奴隷』を破壊した時にその応答の仕組みを無意識のうちに解析したからだろう。主人が『奴隷』に対して行使する、鎖のような抑制力を真似て新たに称号を作ればいい。それで暴発した瘴気を抑え込めるはず――。


「――っ」


 異変が起きたのは、海底の黒い輝きに指を伸ばそうとした時だった。


『頑張るから』


 思い詰めたような孤独な声。

 誰の声かくらい分かる、長い付き合いだ。


『頑張らないと』


 使命感に満ちた響き。

 でも酷くこもっていて、見えない膜があるかのようで。


『私、呑み込まれないよう――』


 失敗した。

 この指はあの称号にはきっと届かない。


『頑張るんだ』


 最後の掛け声に応じて、海底から数え切れないほどの泡が生まれて巨大なバルーンになる。こいつは魔神支配を絶対的に信仰する今までの泡とは根本的に違っているのだ。重く気負ってしまったステラが無意識に形成した、他を寄せ付けない深く鋭い集中――それが壁となって現れた。





 俺はここにいるぞ、ステラ?


 彼女の不安や緊張に気づいて今更共に背負うと言い出しても手遅れ。巨大なバルーンは集中を削ぐ邪魔者を深層心理から無遠慮に追い払った。





§§





 まず伸ばしていた腕が背後に弾かれ、踏ん張りが効かなくなった途端に身体は宙へ放り出された。『編集』による青い発光は瞬く間に瘴気に再征服され、風は宣言通りに外敵を排した。


「――ぐぅわぁっ!!」


 決死の思いで詰めた距離が一瞬で泡となる。

 柔らかい砂浜に盛大に尻餅をついて間もなく、腕を帽子のつばにして瞳を見開いた。数メートルも背後に吹き飛ばされた割に痛くないと驚いたからでも、または数分の労力が無為になったからでもない。


 受け入れ難かったからである。

 これが、称号システムの防衛反応だけではないと。



『傷つけたくない、だから頑張るんだ』


『そうだよね、まずは自分が瘴気に呑まれないよう集中しないと』


『人格が奪われないように、耐えてみせるんだ』


『私が――』


『頑張らないと』



 白犀を倒した位置から彼女は微動だにしない。

 歯を食いしばったまま小刻みに震え、二の腕を潰さんばかりに握るステラの右手には骨の筋が浮き上がっている。瘴気が引き起こす暴走に負けまいと必死に抗っている。


 誰の声も耳に入らないほど、一生懸命に。


 ステラの緊張を解しきれなかったのは俺のミスだ。

 手首の傷が悲鳴をあげて泣き叫び、心臓が激しく荒波の音に同調する。


「何がいけなかった?」


 どうしてステラの緊張を解しきれなかったのか?

 羽化後の暴走を抑える手段はキュリロスの書物を用いて、絡まった糸を一本ずつ解すよう丁寧に説明したはずである。返答を聞く限りでは、彼女もその論理を正しく理解したはずだった。


 でも現実は目の前に広がっている通りだ。

 なら彼女が重く背負い込んでしまった原因は別の何かに――?


「くそっ、もう一度……あれ?」


 現状を打開できる具体案が一つも浮かばないまま、また我武者羅に走り出そうとしたその時だった。誰かの声が聞こえた気がしたのだ。知っている音の響きなのに、もう知らない声が。


「――」


 風雨も気にせず瞳を見開いて、絶望した。


 ただ荒れ狂うだけの風たちは従うべき法則を見つけて秩序を得た。新たなる仕えるべき王の前に自らの昂ぶりを収め、赤く輝く瞳の意志に従った。この島を中心とする海上で暴れていた巨大な竜巻は今や、たった一人の少女の周囲に圧縮したかのように蜷局を巻いて鮮烈な狂想曲を奏で始めたのである。


「……ス……テラ?」


 いつもの温かい瞳はもうそこにはない。

 いつもの美しい髪も、優しい表情もそこにはない。

 

 風は見事に統一された。

 小さな黒い渦は少女を何が何でも守るだろう。


 強い風が嘲って、背後から彼女の方角へ脚を攫おうとする。

 竦んで動かなくなった脚を押し出して、もう一度走ってみろよと笑ってる。


「ステラっ」


 縋るように告げた呼びかけが届くはずがない。

 鋭い集中は鼓膜を塞いだイヤホンと同じで鉄壁だ。


 何がいけなかったんだろう。

 何が――。



『今の自分には大事な――が欠けている』

 


 どうして、そんな感覚だけが今も鮮明なのか。

 俺は一体、何を忘れてしまってる?


 放心して立ち尽くすだけの俺が気づくはずがなかった。

 目の前でステラがそっと左手を胸の前に突き出し、掌に風を集めて繊細に力強く圧縮したことに。


「あ、やば――」


 意識を体の外側に戻した時にはすでに轟音が響く。

 風の塊はまるで大砲のように発射され、水平方向に激しく渦を巻いて砂や木屑を呑み込みながら、少しずつ加速して迫り来る。速度と範囲を兼ね備えた一撃を避ける術なんて俺が持っているはずがなかった。


「ぅお……ぁ……ぐぅ……っ!」


 視界は瞬く間に消滅した。

 この世の終わりのような断末魔が鼓膜を破るように泣き叫ばれる。

 乱回転する風は鋭い刃になって、鎌居達の如く、腕を、脚を、胴を、首を、頬を切り裂き、捩じ切れるような痛みを全身に与えた。その壮絶な痛みを確かめる間もなく――。


 俺の意識もぷつりと失われた。

 最後の記憶は――恐怖だけ。





§§§





 どこを見渡しても灰色だった。



『今の自分には大事な――が欠けている』


 

 でも胸の中にぽっかり生まれたこの空白に、心から愛した色があった。

 そんな気がしてならない。





§§§  午後五時二十一分





「――ぅ」


 どこからか零れ落ちた水滴が頬を優しく撫でて意識を覚醒させた。

 重い瞼を開くと、だらんと無気力に伸びた両脚の狭間に首が切られた花の死体が一つ。背中に刺々しい壁のようなものを感じ、俺の背中は巨木の幹に支えられているのだと分かった。


 酷いのは自分の体の有様である。

 右肩付近から脇にかけてインクのような赤い血が縦に滲んでいる。腕や足首、膝、至る場所に無数の切り傷や擦り傷が皮膚の上でここは自分の領土だと主張するように赤く、痛々しく。頬を伝った水滴もシャツに零れて額から流れる血だと知った。


「……何が?」


 どういう状況なのか一刻も早く知りたかった。

 目が眩み、酷い頭痛と倦怠感が体を襲う――そんな状態でも声を出せたのは脳から大量のエンドルフィンが分泌されているお蔭だろうか。


 深く息を吐いた。

 肺から空気が一キューブも残らないほど長く、絞り出すように。


「――っ」


 頭がクリアになると、直前の記憶は驚くほど呆気なく蘇る。

 記憶は無数の傷を刺激して妙な現実感を呼び覚まし、そして――。


「……ステラ」


 友人への――否、魔物への底知れない恐怖も同時に呼び覚ました。

 腕や脚の切り傷、擦り傷が風の大砲でできたものだと気づき、心の底から恐怖する。たったの一撃、確かに正面から直撃したとはいえ、聖域の影響で威力は落ちているはずなのだ。それでも風の大砲は俺のライフゲージを八割も削るほど凄絶な一撃だった。


「……うっ……がはっ、ごほっ」


 宙を乱回転しながら飛ばされたことの気持ち悪さが時間差で激しい吐き気に変わって襲い来る。それでもまだマシだと思えたのは、泣き叫ぶような痛みに苛まれて全く身動きが取れないという最悪の状況は紙一重で免れたと理解したからだ。


 化石のように重くなった腕に力を込めて、俺は何とか立ち上がる。

 木の幹に手を添えていなければ簡単にバランスを崩して倒れてしまいそうだったが、この鬱蒼とした森だと幹から別の幹へと伝って歩くことも不可能ではなさそうだ。


 自分の状況が把握できると、次に気になるのは恐怖の対象。

 俺は両手を幹に添えて周囲を注意深く見回した。


「ステラは……どこだ?」


 俺は島の中心付近まで飛ばされたのだろうか。

 細い木々が切り裂かれ、折られた枝や葉が無惨に散らばった道が一筋。おそらく風の大砲が俺を吹き飛ばした軌跡だろう。これだけ見ても背筋が凍るほど恐ろしい。が、これを為した張本人の姿が見当たらない。


「いないのか?」


 自分でも鬼気迫る声音だったと感じる。

 しばらく待っても木の葉のざわつく音しか聞こえず、俺はホッと溜息をついた。そう、心を満たしたのは少女への心配などではなく、恐ろしいまでに純粋な安堵。


 これだけの傷を負わされたのだから致し方ないことだが、非情だと言われたら言い訳のしようがない。実際に自分でも今の溜息はないなと反省し、慌てて取り繕うようにステラの影を探した。


 しかし、刻まれた恐怖がすぐに拭えるはずがないのだ。


「――っ」


 少しずつ、確実に風の音が近づいて来る。

 破れるほどの轟音を鼓膜が思い出し、自然と全神経は聴覚に集まった。


 魔物が一歩、また一歩と迫って来る?

 ガクガクと震えながら、恐る恐る『第三の目』を発動したらそれが最後だった。


「いっ……!」


 数十メートル先で恐怖の魔物がこちらを向いている。

 モノクロにしか映らないはずなのに、その瞳は赤く鮮烈で。


「逃げ――」


 恐怖に全身の身の毛がよだち、先ほどの反省を破棄してすぐさま背を向けた。

 バランスを崩して木の根元に残っていたペンタスの華麗な花を押し潰し、掌には石がめり込んでまた傷口を増やす。それでも痛みや吐き気など一切気にならないくらいに俺の頭の中は得体のしれない恐怖で支配されていたのだ。


 逃げろ――それは従うべき至上命題である。

 みっともなくもがいて地を這い、ふらふらな足で枝を踏みつけ、体に備わった生存本能から送られる電気信号を頼って錆びついた体を無理やり動かす。


「早く……遠くへ」


 作戦のことなどもはや頭にはない。

 逃げる脚の原動力はただただ純粋な恐怖だった。



『今の自分には大事な――への想いが欠けている』


【『魔王』の応答】

 『人格を失い魔王が暴走するのは内に眠る莫大な瘴気が原因だ。ならば羽化まで瘴気の爆発を抑える力が働いていると考えるのが自然である。レベル30になると同時にその効果を魔神が失効させ、魂を人質に屈服を要求するのは理不尽であるが問題はそこではない。称号『魔王』の応答とは瘴気に対する――ただの鎖である。』(キュリロス、『魔王とは何か』より)



※加筆・修正しました

2019年10月19日  加筆・修正

         表記の変更

         ストーリーの順序変更・分割

         ストーリーの補強


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