第三話 『ウミホタルは待っているかもしれない』
俺はいつしか満足していたのかもしれない。
空に昇る眩しい太陽も、星々と共に訪れる寂しさも、肌に感じた景色は異世界とは思えないほどリアルだった。例えば気兼ねなく笑い合える今の状態がずっと続くなら、それもきっと悪くないと。
でも、それじゃ駄目だ。
トオルが過去を乗り越えて温かい家族に溶け込めるように。
ステラが称号の支配を破って一番の笑顔で笑えるように。
そして、俺が元の世界に帰れるように。
「ここを――旅の終着点にしなければいけない」
波打ち際に煌めく幻想的な海の宝石を眺めていると、そう思った。
強く、そう思ったんだ。
§§§
真っ暗な夜の浜辺は打ち寄せる波の音で完成されていた。
そこへジャリジャリと珊瑚のような白い砂浜を踏み荒らす足音が二つ。他人の足音ならまだ自然の音と調和して風情があるが、自分の足音だと聞くに忍びない。
「お兄さんって寒がりなの?」
「寒がりで暑がり」
「面倒臭いね」
放っとけ少年。
俺が上着のポケットに両手を突っ込んで体を小刻みに震わせていると、エリゼは楽しそうに俺にすり寄って来る。本当はもう休みたい気分だったのだが、この子の笑顔を見ていると散歩も悪くないかもしれない。何よりエリゼが口にしたロマンチックな単語が気になって仕方がない
「遠出するのか?」
「ううん、ここだよ」
何と「星の絨毯」は自宅から徒歩十数秒で見られるようだ。
とは言え、辺りにそれらしき物は見当たらない。
「本当に?」
「うーん。まだ来てないみたい」
「星の絨毯、まさかの移動式っ!?」
俺の反応にクスクス笑うと、エリゼは浜辺に作られた石のベンチに座り込んで口笛を吹き始めた。どうやらこの寒い中、星の絨毯が現れるまでここで待ち続けるつもりらしい。
監督責任があるから放っておけないか。
仕方なく俺も隣に座り、少年の遊び相手をすること数分。
「うー、涼しいなー!」
背後から恐ろしい声が聞こえてきたのは気のせいだろうか。
振り返ると、薄っぺらい長袖一枚のステラが靡く赤い髪を押さえていた。
「お姉さんだー!」
膝の上からエリゼが俺の顎を押し退けて手を振ると、ステラが穏やかな笑みで応答する。部屋にいないと分かると探しに来るかもしれないとは薄々思っていたが、意外と早い登場だったな。
「奥さんとの話、終わったのか?」
「知ってることが元々少なかったからね」
なるほど、『ハイエナ』の襲来事件はロブ島で知らない人はいないだろうし、ステラが話せる事と言えば確かにはずれの町でビエールの『奴隷』としてトオルと出会ったという事くらいか。
「部屋に戻ったらトオルしかいないんだもん、驚いちゃったよ」
そう肩をすぼめると、ステラは俺に温かい紅茶の入ったボトルを手渡す。どうやら夫婦に外に出向くと予め伝えてきてくれたらしい。
「で、エリゼを連れ出して何してるの?」
「トオルから聞かなかったのか?」
ステラの素直な反応を見るに、部屋で待機しているトオルからは本当に何も聞いていないらしい。仕方ない、俺たちが何を待っているか端的に教えてやるか。
「新月の夜に星の絨毯を操って精霊が一発芸をするんだとさ」
「はい?」
ええ、知ってますよ。
ステラには何も伝わらなかったって。
気分は十数年に一度の流星群を待っている感覚に近い。
やはり記憶は定かではないが、随分昔に誰かと天体観測に行った時も同じようにワクワクというかドキドキというか――まるで空から星が落ちて来るんじゃないかという不思議な恍惚感に支配されたのを覚えている。
「それでね、姉貴に勝つための修行が始まったんだ! まずはナレージ図書館で借りた『魔王』について調べられた書物を頼りに剣の扱い方を覚えたんだ!」
「だからトオルを見た瞬間、急いで着替えに行ったんだね」
どうやらこの少年もしっかり青目族らしい。
ステラとエリゼの会話を聞いていると、奥さんはトオルが冒険にでも出かけたと嘘をついたのだと窺える。そこで自分の方が強くなると決意するところがエリゼの可愛らしい点だが、ただ我武者羅にレプリカの剣を振り回すだけでないのが末恐ろしい点でもある。
何となく空を眺めていると、ふと右手の甲に冷たい物が触れた。
「本当に冷たいね」
「ステラの指も大概だけど?」
「そーかな?」
首を傾げるステラの手を拾って握るとやはり随分冷えている。
仕方がないのでこの温かい紅茶のボトルを少し貸してあげよう。
そんなやり取りを左端から覗き込むように眺めていたエリゼが「うーん」と唸り声を上げだすのだ。どうかしたのかと二人同時に視線を遣ると、彼が突然――。
「何だか恋人同士みたい」
『――なっ!?』
この若造はいきなり何を言い出すんだっ!?
純粋無垢な少年の率直な感想に大いに驚き、背骨が折れるほど仰け反った俺とステラが目にも留まらない速度で首を横に振る。なおも少年の疑惑は止まらない。
「ひょっとしてお兄さん……」
「な、何だよ?」
「――ハーレムエンド狙ってる?」
「またそれかよっ!?」
衝撃的な着地点に強張っていたステラも思わず苦笑する。
すでに赤の国でこの世界はハーレム可能じゃぞとレイファに揶揄われたのだ。今更蒸し返されても答えは変わらないし、何より困惑するだけだ。
「ふふふ、幾らお兄さんでも姉貴は簡単にはやれねーぞ。話は俺に『ダブルチョコサンドスーパーマカロンエディションホワイトマウンテン』を奢ってからだ!」
「ダブルチョコ……何て?」
「『ダブルチョコサンドスーパーマカロンエディションホワイトマウンテン』はロブ島で今一番熱い限定マカロンで一個五百トピアで売ってるんだー!」
「お、おう」
「……マカロン、じゅるり」
鼻息を荒くして熱弁するエリゼにそんな腑抜けた返事しか浮かばない。
きっととても美味しいのだろうが一個五百トピアか……。
「お姉ちゃん、安すぎない?」
激しく同意。
きっと虚空を物欲しそうに涎を垂らす彼の瞳には甘い砂糖菓子が映っているのだろう。しかしこの姉弟にはつくづく感動的なやり取りが欠けていると思わずにはいられない。
まあ少し気まずい恋バナから話題を逸らせて俺とステラが同時に安堵した時の事だった。「あ!」とエリゼが小さく発し、勢いよくその場に立ち上がったのだ。
「どうした、幻覚のマカロンが腐ってたか?」
「星の絨毯が来たよー!」
いつの間にかお喋りに夢中で時間が過ぎていたようだ。
彼が笑顔で指差した方角に視線を遣り、俺たちはすぐに声を失った――。
その光景は日本でも見られることがある。
水平線の彼方から雪の結晶のように青くキラキラ輝いて、それは新月の夜の海を見渡す限りに埋め尽くす。波が押し寄せる度にそれは輝きを増して、冗談のつもりだった海の精霊が降りて来てもおかしくないほど雄大で幻想的だった。
「ウミホタル……」
そう、青く輝く正体はウミホタルという小さな海の生き物だ。
刺激を受けると青く発光し、それが集まればこんな幻想的な光景をももたらす。星の絨毯――なるほど、言い得て妙である。
「……綺麗だね」
「ああ」
今まで気がつかなかったのが不思議なくらい、背後の木の家も、さらに奥の鬱蒼とした木々も、薄く青く染まっていて、砂浜が白い貝殻の粉でできているからか、青を一層美しく映している。ふと町の方の空を見上げれば、幾つかの風船の縁がほんのりと光っていてまた美しい。
「北の火山がある海から海流に乗ってやって来るんだ。この辺りは丁度湾になってるからウミホタルが留まりやすいんだよ」
「生き物の神秘だね」
「すごいでしょー?」
腰に手を当てて胸を張っているのがエリゼであることは気になるが、確かにこの光景は圧巻だった。生き物の神秘とステラは称するが、ウミホタルがエビやカニと同じ種類の生き物だと聞けば仰天しそうである。
「沙智、波打ち際にウミホタルが集まってるみたい。見に行こうよ」
「ちょ、慌てんなって!」
ステラもすっかり興奮しているのか、その場に靴を脱ぎ捨てると俺の手を取って早足で波打ち際に繰り出した。歩く度にシャカシャカと砂浜の貝殻の破片が擦れて音が鳴り、まるで小さな星々がぶつかって火花を散らしているかのように聞こえる。ここはすでに広大な宇宙が生み出した「星の絨毯」の中である。
水際まで来て俺も靴を脱ぎ、ステラに引っ張られるがままに海に足を入れる。するとウミホタルたちが表面張力で引っ張られて足首に集まるのだ。
「うわぁー。ねえ、これ、指にとってもまだ光ってるよ!」
「青色の炎が燃えてるみたいだな」
屈み込んで指先で光るウミホタルを恍惚とした表情でステラは眺めている。心の底から嬉しそうなステラの表情が久しぶりな気がして、ドキドキと胸が高鳴る。
幸いエリゼは波打ち際には来ていない。
緊張で繋がったままの掌は熱く、濡れているのが汗のせいか海の水のせいか分からない。ちょっとだけ体を傾けたら頬と頬が当たるんじゃないだろうか――エリゼが妙な事を言うものだから普段よりその横顔を意識してしまう。
「炎かー、本当に燃えなくて良かったね」
これだけ綺麗なウミホタルに夢中ならバレないだろうか?
息が詰まるのを我慢しながら、俺はそっと体を傾けて。
「あ、でも燃えても海の水があるから大丈夫か」
やっぱり頬も少し冷たかった。
そよ風で眼前に流された赤い髪の毛が美しく青い光に照らされて、でも打ち消し合う訳でも混ざり合う訳でもなく、艶がかかるように繊細に華やかに調和する。
「綺麗だな」
「ね」
俺の出来心にステラはまだ気づいていないようだ。
髪のことを言ったのがバレる前に名残惜しいが頬は離すとしよう。
「お兄さーん、お姉さーん!」
『――っ!』
背後からエリゼの声が響いて俺たちは咄嗟に繋いでいた手を離す。
振り返ると、玄関口の階段に座り込んでエリゼは美味しそうにクッキーを頬張っていた。早くも見慣れた海の神秘に飽きたようである。
「母さんがお菓子どうぞーだってぇー!」
子供というのは本当に空気を読まない。
ステラはずっと手を繋いでいたことに今更気づいて赤面し、流れるように手を背中に隠した。そして恥ずかしさを誤魔化すように早足で浜辺に戻り、くるりと回って微笑むのだ。
「ま、また明日も見ようよ」
波に残されて俺は一人。
ウミホタルの美しき青は、初めてサクが俺の前に現れたあの日を想起させるが、どれだけ待ってもあの耳を裂くような始まりの音は鳴らない。
まだ一番の笑顔でないステラ。
家族とほとんど話せないトオル。
「…………」
いつまでも現状に甘えてはいけないんだと痛感した。
俺も、ステラも、トオルも、ひょっとしたらアルフも、それぞれが目指すべき場所があって、誰もが道の途中なのだ。
「ここを旅の――」
だから誓う。
この美しき青とともに胸に深く。
なおこの後、俺たちの足首にはウミホタルがアンクレットのように付着しており、それがペアルックみたいだとエリゼに笑われたのは余談である。
◇◇
「この海は七年前から憎いほど変わらないな」
沙智たちがウミホタルと戯れていた丁度その頃、同じ砂浜の南端にも海を眺める男がいた。どこかから打ち上げられた腐った流木に尻を乗せ、宝石のように煌めく海を見つめて男は嘆く。その声には自然の幽玄さに酔いしれるような潤いは一切なく、喉が酷使されたかのようなガラガラとした乾きに満ちていた。
男の右手には錆びついた銀のロケットペンダントが一つ。
それを握り締める指も少し黒ずんで弱弱しかった。
「――代表! こんな浜辺にいたのですね!」
ふと背後から剽軽な声が響く。
男は咄嗟に縒れて糸が解れているポケットにペンダントを隠した。
「件の新入りか」
「例の計画について副官が打ち合わせしたいらしいのです」
「そうか……」
男は敢えてそれ以上は何も言わなかった。
剽軽な声の若い男も不満そうに町の中心へ去っていく。
また、戦わなくてはならないのか。
ポケットの中のペンダントを指紋の薄くなった掌で強く握り締め、元からしわの寄っている目尻にさらにしわを寄せて男はさざ波の夜を鋭く見つめた。
「なあ、答えてくれ、ウミホタルよ」
七年前と変わらない海の輝き。
あの日立てた誓いはまだ結ばれないまま。
「いつになったら――俺の旅は終着点を迎えるんだ?」
輝く海の蛍たちは男の憂鬱な声を無視して美しく光り続ける。
その問いの答えを彼らは知らない。
【星の絨毯】
北の海底火山がある海域から潮流に乗って流れ込むウミホタルが海面を覆う様子を青目族たちはこう例えたんだね。沙智の話ではロブ島で見られるウミホタルは季節外れらしく、とても綺麗なんだけど流れ着いた浜辺では海水温が低すぎてすぐに死んじゃうんだって。沙智が物知りなのが少し腹立つんだけど「俺の事何だと思ってる?」
※加筆・修正しました
2019年10月29日 剽軽な男の口調の変更




