第十話 『霧に靡くはずがない』
この異世界での二日間は、俺にとっては未知の領域だった。勿論、空間的な意味でもそうなのだが、疲労的な意味では猶更だった。過去にこれほど活動的だったのは体力無尽蔵だった小学生の時まで遡ると思う。
腕時計の短針が午後十一時を回る。気を抜くとよろめきそうになる体を、紅茶のブレンディ―な香りで誤魔化した。そうして待つことどれくらいになろうか、待ち侘びていた音は唐突にやって来た。
トントンと遠慮気味にドアをノックする音。それに次いで「夜分遅くに申し訳ありません」「お時間を頂いても構いませんか?」という丁寧な声。
実は、この来訪は言葉で約束されていた訳ではなかった。
だからこそ少女は部屋に入って驚くことになった。
「――お兄さんはエスパーですか? 確かに広場では、話がしたいんですと視線を向けてみましたけど」
少女が目を丸くして見下ろす先には、花のような可愛らしいお茶菓子を中心に添えたテーブルに、丁度三人分の座布団。
そう、客人を迎え入れる準備が完璧に為されていたのである!
ただ惜しむらくは――。
「お兄さん?」
「こら沙智寝るな!」
「ふごぉ!?」
俺が忍び寄る睡魔に抗い切れなかったことだろう。
惜しかった。眠い。
§§§
「奴隷である以上は主人の前で言えないこともある。だから、視線に託したその思いを今度は言葉にしにくるはずなんだ、か」
ちょこんと正座で座り込んだ少女の前へ紅茶を運びながら、ステラが帰宅後の俺のセリフをそのまま繰り返す。感心しているようで、あれは揶揄い顔だ。何度も弄られた俺には分かる。騙されてはいけない。
「ふふふ、そこまでは格好良かったのにね」
「放っとけ」
「あんたも眠気覚ましいる?」
「プリーズ」
ステラの笑みに口を尖らせた後、俺は目前に座る少女を改めて観察する。
桑色の髪は肩ほどの長さで僅かに波立っている。柔らかい面立ちだが、年の割にはしっかりとしている印象を受けた。礼儀正しく姿勢も良い。紅茶を口へと運ぶ一連の動作を見るだけで、上品だと感じる。
衣服は質素な雰囲気だが、ステラが着る服よりボロっちくはなかった。一応主人が商人ということで、体面だけは整えさせたのだろう。
本当に、鈍く光る金属の首輪だけが邪魔だった。
「そう言えば自己紹介がまだだったか。俺の名前は七瀬沙智。実は宇宙人みたいなもんなんだ。よろしく!」
「私はステラ。沙智から『解術ポーション』を無茶して渡そうとしてくれたんだって聞いたよ。ありがとう」
異世界生活二日目ともなれば軽く冗談も言える余裕っぷりだ。俺のふざけた挨拶とステラの真摯なお礼に対し、少女は微かに目を伏せて。
「私は奴隷なので名前はいいんです。ご自由にお呼びください」
「ええ?」
と、ナレーションさんがとても困るようなことを。
ステラといいこの子といい、どうして頑なに名前を語ろうとしないのか。俺は内心呆れながら、どうしたものかと腕を組んだ。
いつまでも「奴隷の少女」やら「少女」では分かり辛いのだ。
――また良い感じの渾名でも考えてもらおうか。
貧相な脳内ボキャブラリーに不満を訴えるナレーションさんは放っておいて、まずは少女の要件である。
「察しの良いお兄さんなら、実は気づいてたりしませんか?」
「まあな」
穏やかな微笑で様子を窺う少女に、俺は軽く肩を竦めた。
そもそも普段の俺なら、少女から熱視線を浴びせられても首を傾げるだけで終わりだったのである。そうならず、後で話があるのだという少女の意図を汲み取れたのは偏に、記憶の片隅に残っていた違和感のお蔭だ。
俺が初めてこの少女と出会った時に覚えた違和感。俺の放ったある言葉に、少女は不思議なほど過剰な反応を示したのだ。
「――呪い」
少女の顔を見るに、当たりらしい。
「お前は、呪いについて何か訳知りなんだろ?」
「さすがですね。ええその通りです。あの時は言えずにすみませんでした」
「いいよ別に。言えなかった理由も何となく分かるし」
ここに奴隷である少女がいて主人であるビエールがいないということ。これだけでも色々と察せられよう。
生憎と想像力だけは豊かな方なのだ。
「お話ししますね」
少女がすっと居住まいを正す。つられて自然と俺も背筋を伸ばした。
始まりはまず、衝撃的な一言から。
「ステラさんに呪いをかけた犯人が誰なのか知っています」
「それはまた、ジュエリーの立つ瀬がないね」
「本当、今朝ステラに依頼されたばっかりだったのにな!」
ステラは思わず苦笑いを浮かべ、俺は顔をニヤけさせる。
情報収集のプロよりも先に情報を入手できる機会なんてそうそうない。何か聞こうと訪ねる度に「じゃあまずは相談料の支払いを」と笑って足元を見てきたあの守銭奴に、「残念だったな!」と鼻を高くできるチャンスである。
彼女は一度は出し抜きたい相手なのだ。
別に嫌いな訳ではないが――。
「そのジュエリーですよ、犯人は」
思考がピタリと止まる。
「――え?」
「ですから、ステラさんに呪いをかけて殺そうとした犯人は、そのジュエリーだと言ったんです」
真っ白な頭で音を漏らした俺に、少女は丁寧に繰り返した。聞き間違えかと耳を疑ったのだが、どうやら訂正の言葉は続かないらしい。
俺は激しく困惑して、記憶にある彼女に問いを発する。
――ジュエリー、お前が犯人だってのか?
あるいはステラなら、そんなことないと声を荒げるかもと思った。
だがそんな俺の期待とは裏腹に、ステラは小さな声で。
「そっか」
納得の声を発するのだ。
「ジュエリーはこの七日の間に私と接触してる。沙智、情報屋で話していたことは覚えてる? スキルを発動する条件ってやつ」
「対象者に触れることだった?」
「うん。ジュエリーは確かに条件を満たしてる」
そう告げて俺の顔を見るステラの表情に、犯人が分かったことに対する安堵の気持ちは欠片も見当たらなかった。
自分で語った内容に自分で青褪めていた。
こんな身近に、平然と人を殺そうとする悪魔がいたのか――。
狂気を感じて俺は芯から身震いする。そして、遅ればせながら少女が持ち込んできた話の趣向を理解した。
これは、即座に希望へと繋がるような話ではないのだ。
「今はそういうことと呑み込んでおく。続けて欲しい」
「分かりました」
紅茶を飲んで気持ちを落ち着けた後、俺は心にガードを張る。
何度も驚かされるのは御免だ。ディフェンス、ディフェンス。
「ジュエリーの狙いが何かまでは分かりません。呪いは遅延性のようですが、どのくらいで症状が出て、どのくらいで死に至るかも分かりません。分かっていることと言えば、彼女が殺人の手段として呪いに拘っていることくらいです」
「どうしてそう思うの?」
「彼女からビエール商会へ注文があったからですよ。ありったけの『解術ポーション』を高値で買い取りたいと」
ここで接点のなかった少女がジュエリーと繋がって裏事情を知るに至る訳だ。その点を納得した一方、繋がらないこともある。
ポーションの注文があったから呪いに拘っていると分かった、とは?
俺が無理解を示すと、先に理解に達したステラが説明してくれる。
「私があんたに呪いをかけました。さあ、どうする?」
「ポーションを買いに行く」
「じゃあ町中のポーションが買い占められてたら?」
「うーん、時期外れだけど織姫と彦星に祈ろう」
因みに神様には祈らない。あの自称女神が出てくるだけだ。そう言うとステラは呆れたように笑みを浮かべた。
だがなるほど、これで繋がった。
「つまり、ただ殺したいだけなら剣でも銃でも良いのに、わざわざ『解術ポーション』という回復の道を塞いでるからってことか」
溜息を溢すと、ステラと少女が「ジュウ?」と首を傾げ合った。どうやらこの異世界には、あの厄介な武器はないらしい。
俺はホッと安心して、休憩休憩とお茶菓子に手を伸ばした。
その傍ら、ステラが少女に確認する。
「そうなると、ジュエリーとビエールは共犯なのかな?」
「大切なショーに協力するんだと息巻いてました。悪意を理解してなお、喜んで各地からポーションを掻き集めてるんですよ」
「そういやあのおっさん、苦労したって自慢げだったな」
昨晩の彼の言葉を思い出して苦い気分になっていると、ふと魚の小骨が突っかかったような違和感を覚えた。少女の説明では補完できない、何か重大な齟齬を見落としているような感覚に陥ったのだ。
いつもの癖で小指を握ろうとすると、隣から疑問符。
「でも、ちょっと変だよね」
「あ、ステラもそう思う?」
「うん。だってジュエリーってあの性格だからさ」
「あ、そうそれだ!」
――そうだ。何故気付かなかった!
違和感の正体に気付いた俺は、桑色髪の少女へと視線を戻す。少女の言葉は信に値するが、この疑問は無視できないのだ。
「なあ、別に疑ってる訳じゃないんだが、ジュエリーは金の亡者だ。超お金大好き人間なんだ。お金に人生の全てを捧げている女なんだ」
「知ってます」
「なんだ知ってるのか。まあそんな金好きがステラ一人呪殺するためだけに、多額のポーション代を支払うとは思えないんだ」
トピア紙幣を見た瞬間に目の色を変えたジュエリーの姿が強烈に俺の頭には残っている。あれが演技だったとは思えない。素だ。
散財なんて豪快な真似、あの女がするだろうか。
俺が目を細めると、少女はゆっくり瞑目して言い放つ。
「ではそれだけ、ポーションが必要な人がいたら――どうですか?」
「何?」
すぐには理解に達しなかった。だが少女から感じる雰囲気が悪い方向へと流れたのだけは確かに感じ取れた。
不穏で、薄ら寒い方向へと。
そして俺たちは思い至る。前提が違っていた。
「待って」
「まさか」
少女は、犯人の狙いがステラだけとは言わなかったではないか。
「呪いの初期症状は、風邪のような咳らしいですね」
「――――」
「この町では、風邪が流行っているそうですね」
蘇るステラやローニーの言葉。すれ違った人々の記憶。その全てが、脳裏に浮かび上がった身の毛もよだつような悪夢を肯定する。
毎年風邪が流行する季節なら、その特異性に誰も気付かない。
その最悪を、ステラが乾いた声で言葉にした。
「――全部、呪いだって言うの?」
少女が無言で頷く。そこが限界だ。
「い、一旦落ち着こうか! ここまでの話を整理しよう! な!」
許容量を突破した俺は、額に汗を浮かべながらバタンと立ち上がって、一度クールダウンすることを申し出た。動揺に次ぐ動揺。心のガードマンなんて置く意味がなかった。賃金の無駄払いである。
俺はグッと紅茶を飲み干し、一拍置いて。
「えっと、この町で流行してるのは風邪じゃなくて呪いで――」
「ジュエリーとビエールの二人が加担」
「現状、かけられた呪いを解く方法がない、ということですね」
俺、ステラ、少女の順でここまでの話をまとめる。
そして、誰も何も言えなくなった。
元の世界では味わったことのない緊張と、無言の部屋でチクタクと鳴る時計の針の音が共鳴する。意識があるようでなかった。俺はただ、恐ろしいという感情一色に呑み込まれていた。
だが、静寂が続くと、自然と思考は再開されるものである。ゆっくりと脳内に電流が流れ始め、最初に思ったのはこれだった。
――どうして俺たちなんだろう?
少しの勇気を振り絞って、俺は沈黙を終わらせる。
「なあ」
「はい」
「どうして、俺たちに話したんだ?」
俺たちは、百十番ですぐに駆けつけてくれる警官でも、困った時に何でも解決してくれる英雄でもない。ごく一般人だ。
藁よりも頼りなく、縋る価値など見出せないはずなのに。
「どうして?」
声は繰り返される。純粋な疑問だけを孕んで。
すると、少女は――。
「頑張りたいと思ったんです。思ってしまったんです」
笑ったのだ。明るく朗らかに。
思わず息を呑む。どうして笑えるのか分からなかった。声のない俺たちに、桑色髪の少女は力強く語り出す。
その表情に、儚きはなかった。
「お兄さんとステラさんは町を出て、信頼できる人に託してください。この町に留まり続けるのは危険ですから。――私は、ポーションを奪います」
「はあ、何だって!?」
「彼らは、私が奴隷だから裏切れないと高を括っています」
驚愕。信じられないものを見るような目で俺は固まった。隣で口元に手をやったステラも同じように固まっていた。
つまり、少女はこう言っているのだ。
自分が危険を冒して戦うので、安全圏へ逃げてくださいと。
いつぞやの、俺の友人のように。
「私が一番ポーションを奪いやすいポジションにいるんです」
その目は飛び立つ空を見据えた鳥のように、迷いなく。
多分、俺は怖かったのだと思う。
少女の身を案じる気持ちは確かにあった。ただそれ以上に、少女を置いて逃げることを良しとするのが怖かった。
俺は、少女にも一緒に逃げて欲しかった。
そうすれば、罪悪感を抱かずに済むから。
「死ぬ気、じゃないよね?」
「頑張りたいだけですよ。彼らが目の前でどれだけ悪巧みをしようと、私は奴隷だからとどこか諦めていました。でも、もう逃げたくありません。――奴隷だから仕方ないんだと、甘えて逃げたくないんです」
「――――ッ!」
ヂクリと心臓に何かが突き刺さる音が聞こえた気がした。
鼓動が荒くなる。言葉はまるでメスのようだ。迷いのない圧力が肌の弾力を突き抜けて鮮血を散らし、皮膚の下に隠してきた俺の弱さを暴き出した。
体の奥底で蠢く何か。赤い目をした何か。――いや、何かじゃない。それが何なのかを、俺は本当は分かっていたんだ。
ずっと見て見ぬふりを続けてきた数々の「甘え」が金切り声で叫び出す。
『あの日、俺は未完成の課題でも良いと抜け道を見つけた気分だった』
『あの日、俺は面倒になって部活をやめた』
『あの日、俺は友人の絆創膏を見なかったことにした』
あの日、あの日、あの日、あの日、あの日、あの日。少女が作った傷口から生じたのは小さな黒い水滴だ。その一つ一つが、今まで見て見ぬふりをしてきた俺の「甘え」だった。出口を見つけた「甘え」にもはや遮るものはなく、やがて大きなまとまりになった。――『霧の怪物』となる。
あっという間に「甘え」は狭い部屋を埋め尽くした。
「――ぅ」
息苦しくて、逃げ出したいのに、座布団から足が動かない。
助けを求めるように顔を上げても、そこにあるのは覚悟だ。
甘えを許さない、覚悟の顔だ。
命まで賭けなくたっていいじゃないか。俺は思った。
もしかしたら、誰かが格好良く救ってくれるかもしれないのだ。
だから、と俺は縋るように祈る。
「逃げたっていいじゃないか」
真っ黒な『霧の怪物』は、赤い瞳を二つ真ん丸にひん剥いて、俺の背後から、臆病風に靡けと同意を求めるように息を吹きかけた。
それでも、少女の表情は変わらない。
俺は理解した。この少女は決して、人の弱さを理解できない人種なのだ。物語に登場するキャラのように、完璧なのだ。
臆病風に屈せず微笑む少女に、俺は心から畏怖した。
「そろそろお暇させて頂きます。紅茶ありがとうございました」
「あ」
「お願いですから、早くこの町から逃げてくださいね」
少女は最後まで穏やかに笑って、そそくさと帰って行った。
残ったのは、丁寧にパタリと閉じられたドアを無言で見つめる二人と、部屋を埋め尽くしても足りないほどの――。
息が詰まるような「甘え」だけだった。
少女が退室して数分、ようやく零れた声は驚くほど弱弱しい。
「なあステラ。あいつ、何であそこまで」
あるいは、この言葉もまた甘えだったのかもしれない。せめてステラには俺の弱さを分かってもらいたいという、浅ましい甘えだったのかもしれない。
だが届くはずなかった。彼女も妥協ばかりの俺とは違う。
俺は虚しさを感じながら、冷めた湯飲みを力なく突く。
「分からない。でもね」
「でも?」
「もしもポーションを奪おうとしていることがバレたら死ぬよ。あの子はビエールの命令には絶対に逆らえないことになってるから」
――逆らえないことになっている?
そのステラの言い方に、俺は嫌な予感を覚えた。そこにまるで、本人の意思だけではどうにもならない天命のようなものを感じて。
遅れて、ここがどういう世界だったのかを思い出す。
「――『奴隷』という称号のせいで」
瞬間、少女の笑顔がモノクロになって網膜にピタリと貼り付いた。
【ナレーションさん】
ステラ「あんたって変な渾名つける癖あるよね?」
沙智「俺の中にいるナレーションさん命名のやつだな」
ステラ「――何て?」
沙智「別名髭だるまお兄さん。地の文を書くのがお仕事だ。自給百円、だけど支払われることはない。休日もない。口癖は『まだ中二病じゃない』だ」
ステラ「ブラックな労働環境だね」
沙智「いいのいいの。頭の中の話だから」
※加筆修正しました(2021年5月21日)
表記の変更
サブタイトルの変更




