第三十五話 『俺が答えを見つけに行く』
赤の大魔王は、遂に谷底の石橋へ到達した。
予想していたよりも、遥かに早く到達した。
その進行速度を考えると、俺がダムの外周残り八百メートルほどを走っている間にも大魔王は石橋を悠々と通り越して、作戦の試行区域から脱してしまう。
何よりも今の咆哮は、大魔王の揺るぎない勝利を飾るものだ。石橋を防衛ラインと定め戦っていた勇者やレイファがどうなったのか、想像に難くなかった。
口を固く閉ざして俯いた俺を、ジュエリーは静かな口調で諭す。
「もう、全部無駄なのよ」
「――――」
「あなたが何をしたかったのかは知らないけれど、どうせ赤の大魔王がダムから離れたらダメなんでしょう?」
彼女の推測は、決して外れていなかった。
押し黙る俺を片目に、女は頬に手を付く。
「でもまさか、あの黒い墓石が『封印玉』だったなんてね。パジェムは使えない男だったけれど、最後の最後に役に立ったということなのかしら」
「――――」
醜悪な声に耳を塞いで、呼吸を整える。
状況は確かに目を瞑りたくなるほど絶望的だ。この絶望的な場面で、隣で手を握ってくれる誰かがいないことは心細い。それでも立ち止まってはならない。真っ暗闇の絶望の中で根気強く迷い続けて、光を探し出さなくてはならない。
きっと、それは忘れないためにだ。
この手で何を掴めるのかを――。
「もしかして、まだ何かできないかって探してる?」
「――――」
茶髪の前髪の隙間から思考し続ける俺の瞳を目敏く見つけて、ジュエリーは意外そうに呟いた。そこに他人を貶めるような悪意はない。
彼女が語ったのは、純粋で、真っ当な、聞きたくない評価だ。
「あなたには何もできないわよ。はずれの町では偶然、私の魔法陣に干渉できる力があっただけ。ジェムニ神国では偶然、『魔王』として大成したばかりの男に勝てただけ。偶然、死に際に聖剣エクスカリバーに認められただけ」
「――――」
「でも、あなたの不思議なユニークスキルは今ここで一切役に立たないし、聖剣エクスカリバーも雷鬼王を滅ぼした代償にその力を失っている」
彼女の言葉は、きっと正しいのだろう。
悔しいけど、俺に力がないのは事実だ。
「猫耳勇者から貰ったその聖剣カーテナがエクスカリバーの代わりになるとでも思たの? いいえ、ならないわよ」
腰に添わる銀色の剣に目を遣って、ジュエリーはつまらなさそうに首を横に振って肩をすくめる。その態度には、剣だけでなく、前の持ち主の勇気を借り受けた俺自身への嘲笑の意味合いも含まれているように思えた。
それでも俺は激高せず、暗闇の中で静かに迷い続ける。
その様子が面白くないのか、ジュエリーは声音を強めて。
「どれだけ頑張っても何も得られやしないわ。努力とか、奇跡っていう、曖昧で不完全なものを、赤の大魔王は全部灰に変えてしまう。あなたやステラが守りたかった脆い繋がりと一緒にね。自分が特別な人間じゃないって分かってるでしょ。性に合わないことをしたって失って傷つくだけよ。もう、やめなさい」
人の弱さを糾弾するようでいて、心に訴えかけるような甘さも匂わせる。そんな子守歌のような言葉の数々を囁かれて、暗闇を彷徨う足が止まる。
暗闇の中で女が笑っている。ひたすらに、自堕落な暗闇の中で。
暗闇の中で、迷って、迷って、迷って。
もう何も見えなくなりそうになった時、不意に何かが発火したような小さな音が聞こえたような気がした。驚いて、振り返ったら。
光が、爆発的に広がっていたんだ。
「もう、無理に走らなくてもいいのよ」
「――駄目だ」
優しく逃げ道を示すジュエリーを、俺はすげなく拒絶した。
あまりの端的な反抗の意思に、黒い女は一瞬震える。
それでも、俺の耳には聞こえたのである。遠すぎて聞こえるはずないのに、その微かな爆発音を耳は確かに拾い取った。絶望的な暗闇で迷う俺の手綱になって、音と光は俺に伝えてくれる。
だから、俺は迷わずに街の方へ指差して。
「ほら見ろよ、セシリーさんが言ってる」
「え?」
「次は、あなたの番だって」
空に目一杯広がっていた灰色雲を蹴散らして、綺麗に咲き誇る巨大な一輪。弱くたって戦えるのだと、戦友が空に打ち上げた花火で言っている。
◇◇
赤の国渓谷の底、石橋――。
空に咲く特大花火を、大魔王は不愉快そうに見上げていた。
『何だあれは?』
花火の意図は単純明快だ。空を縦断する火焔に引火しないように、そして使命称号『イズランドの決まり』を無効化するために打ち上げられた。
実際、称号が無効化されていることを知った住民は逃げ始めている。
しかし、大魔王にはこう思えたのである。
『このワシへの宣戦布告のつもりか!?』
アレは、自分が空へ放つ赤い火焔への挑戦だと。
遥か格下の『勇者』に底を見破られたことでムシャクシャしているところで、何の力も持たない下等なゴミムシの集まりにまで舐められた。歴史上最大の大魔王だと自負する赤の大魔王にとっては、許されざる暴挙である。
全て燃やして灰にしたいという衝動に駆られて、足を前へ出す。
だが赤の大魔王は、ふと思い出した。
先刻から現れた一人の少女を。
「――行かせない!」
石橋の中央に差し掛かった大魔王に、たった一人で応戦する少女。
火焔を浴びて黒ずむ渓谷の中で、一際綺麗な赤毛の少女。肩ほどの髪を激しく靡かせて、歯を食いしばりながら無謀にも抗うステラの姿があった。
絶大な向かい風を発生させて、今も大魔王の進行を遅らせている。
この少女は、七瀬沙智と同じくずっと隠れていた臆病なゴミムシだと赤の大魔王は記憶していた。それが今では、少し異なる印象を抱いている。
少女が扱っている風魔法。
恐らくは後方の空気に向きを与えて大魔王にぶつけているのだろうが、その規模と威力が明らかに並大抵の魔法使いを上回っていた。渓谷という複雑な地形で、それも各所で起きている火事で乱されやすいというのに、的確な風の技術力。
大魔王は眉を顰めた。少女のレベルは何らかのアイテムで隠されているのか見えないが、高いのであれば最初から戦闘に参加したはずである。魔法陣や杖のような補助もなく、大魔王さえ押し返されるほどの風魔法を行使する少女。
――気になるのは、その魔力に何か同類のようなものを感じることで。
「絶対に行かせないんだッ!」
『愚かしい、貴様一人でワシを止められると本気で思っているのか?』
「うぅッ!」
ゴミムシレベルではないとは認めざるを得ないが、それでも自分を止めることなどできやしないというのが大魔王の結論だった。
先ほどから風に邪魔されて、火焔も思うように街に届かない。うんざりだと苛立った大魔王は、前へ押し遣る足に力を込めようとして。
瞬間、大魔王は驚愕に包まれる。
足が、持ち上がらない。
『何だ、周囲の空気が突然重く!?』
「この魔法って!」
赤の大魔王は状況を理解できていないようだが、ステラは瞬時に理解した。大魔王が異変を感じたと同時に、巨体を包みこんだ魔力が込められた紫苑の気塊。これは昨日、七瀬沙智から聞いていたあの勇者の魔法と符合する。
ステラの背後から、石橋を踏む小さな足音。
あり得ない。そう思いながら少女が振り返った先に。
「じゃあ、一人じゃなかったらどう?」
『ん?』
「――シアン?」
最後の猫耳勇者が、立っていた。
「私の『GAチェンジ』は物質の重量を操るユニークスキル。風魔法で指定した空気の範囲に能力を行使すれば、強い重力空間を生み出すことだってできる!」
『ほざけ、ゴミムシがァ!!』
シアンは前回の攻略戦での傷が祟って庁舎で寝込んでいたはずだった。少なくとも今回の参戦はないと思っていたステラは、思わぬ援軍の登場に唖然とした。
よく見れば、体の節々に巻かれた包帯からは血が滲み、薄紫色の気塊は沙智が言っていたような龍の形を保てていない。
負傷の色は未だ濃いようで、力も万全ではない様子だった。
だから、薄紫色の重力空間に大魔王は容易く抗える。
『貴様一人増えたところで何も変わらんと知れ!』
「――ッ!」
重力空間が破れそうで、シアンの表情に痛みが走る。
猫耳勇者の魔法は風魔法とユニークスキルと同時に使う複雑な魔法である。万全でない状態で、しかも相手は絶大な力を有する大魔王。
特殊な気塊を維持できるはずがなかった。
だから、シアンは直ちに作戦を変える。
「あれほどの巨体を止めるのには魔力を練る必要がある。私はユニークスキルに集中したいから、風魔法はあなたに任せるわ、ステラ!」
その言葉が、更にステラを驚かせた。シアンが沙智と衝突した理由が、『魔王』たるステラを滅ぼすためと聞いていたからである。
『魔王』を絶対的な悪と考えているシアンが、ステラに協力を頼んだ。その意味を何となく理解して、でもステラは意地悪に聞いてみる。
「いいの、私を倒さなくて?」
「――――」
しばしの沈黙。
やがて。
「ふ、もういいのよ」
シアンは小さく微笑んだ。
「――私は、私のなりたい勇者が分かったから」
迷いのない清々しい笑みが、そこにはあった。
もう『魔王』と『勇者』の間に壁はない。互いの理念を乗り越えて、守るべき衝動のために、願うべき未来のために、隣に並び立つ。
たったそれだけを、シアンはずっと待ち望んでいた気がした。
二人は笑い合い、徐に手を繋ぎ合う。
逆の手で魔法の準備をしたら。
「『テンペスト』!」
「『GAチェンジ』!」
繋ぎ合った手を空へ掲げて。
『――『風ドラ』ッ!!』
シンクロした声と一緒に、濃い紫色の気塊ドラゴンが叩き下ろされる。垣根を越えた二人の魔法は、石橋に亀裂を入れ、大魔王をその場に押し止めて。
そこにセリーヌのユニークスキルで回復した勇者や悪魔も再び参戦し、絶大なる壁に挑戦する。七瀬沙智との一つの約束を守らんと。
それを見つめる王の額に、白い何かが光った。
◇◇ 沙智
空に咲く一輪の特大花火。
赤く、白く、黄色く、青く、様々な色に移り変わり、この絶望の灰色空に希望を書き記した戦友からのメッセージ。太陽の何倍にもなる大きさで、鮮やかさで、遠い街の中心から、俺に伝えてくれるメッセージ。
――あなたはもう自分の衝動を知ってるじゃないですか?
そうだ。
知っている。
どれだけ絶望的な状況に俯いたって、どれだけ自分の力不足を嘆いたって、今できることは何も変わらない。あの勇者たちならば赤の大魔王を押さえてくれると信じて託したのだ。ならば、俺には反対に応える義務があるはずだ。
信じて託してくれたものに、応えたいと思える衝動があるはずだ。
こんな場所で、諦めて、逃げ出す選択肢なんてない。
アルフだって、言っていたじゃないか。
「涙を、涙のまま終わらせたくないんだよ」
「はい?」
「だから、俺はまだ走れるんだ」
疑問を呈するジュエリーに、俺は多くを説明する気はなかった。その場で屈伸して、足の筋肉を伸ばす。残りおよそ八百メートルで始点と終点を繋げられる。繋げたら、ユニークスキルを発動して、俺の役目は終わり。
再び走ろうとする俺を、欄干からジュエリーは怪訝に眺めた。
「本当に良いの? どれだけ頑張っても何も残らないかもしれないのよ? 誰もが喜ぶ幸せな結末なんて、英雄でも簡単に手に入れられないのに」
「いいんだ、特別な人間も英雄もいらない」
小さく息を吸って、胸を張って前を向く。
空に輝いた、あの一輪に負けないように。
「――俺が答えを見つけに行く!」
力強い宣言と同時に俺は再び駆け出した。
もう、背後は振り返らない。
目の前に、高い高い壁が立ちふさがった。
願う未来が壁の向こう側にあった。それは俺やステラが称号なんて気にせずに笑い合える未来であり、ネミィが称号に惑わされずに戦える未来であり、シアンが称号に支配されずに救いたいものを救える未来。
だが壁はあまりに高くて、俺たちは跪く。
声が、聞こえたんだ。
諦めそうになった時、何度も。
――本当に、わしに預けてしまっても良いのか?
――傲慢でも、無責任でも、身勝手でも、何だって良い。
――考えて、考えて、考え尽くせ。
――納得できる答えに辿り着けるまで立ち止まるなー!
それぞれの声で俺の心を揺さぶって、壁の高さを見上げるばかりで見ようとしなかった心の中にある衝動を教えてくれた。その時、俺は嬉しかったんだよ。
元の世界の神社の片隅で、何もしようとせず、ただ空に流れる雲を眺めて暇を持て余したあの頃と違って、こんなにも願う未来が増えたんだって気づけたから。
それが、この異世界で、走り続けた意味だった。
走り続ける意味だった。
いつかきっと、なりたい自分が見つかるはずだ。
その衝動を見つけられたなら、立ち塞がる壁がどれだけ高くたって関係ない。魔神が生み出した称号システムだろうが、歴史を刻む大魔王だろうが関係ない。
挑むだけだ。挑まなきゃ望む未来には辿り着けない。
目指すのは、ハッピーエンドだ。
そうでなければ何も意味がない。
だから、戦うんだ。
その壁を自分の限界だと決めるのなんてつまらない。
その壁を立ち止まる理由にするなんて格好悪い。
その壁を、衝動を殺す理由にするなんて馬鹿だ。
その壁は、歴史でも、称号でも、何でもないのだ。
どんな世界の人間の前にも、等しく現れるそのパラダイムを。
限界だと思っていた壁を越えて、願う地平を切り開け。
「見てろよ、ネミィ!!」
腹の底から、声を振り絞った。
もう一人の戦友に届くように。
「これが、この世界を好きだと言うための第一歩だ! ――これが、俺の壁を越えるために俺が導き出した、俺だけの答えだぁぁあ!!」
指先が、レプリカの剣の柄に触れる。
瞬間、駆け抜けてきた軌跡が光り出す。
その結果を最後まで見ずに、俺は脇に転がしていたリュックに手を突っ込んでレイファと共同開発した拡声器ミニを引っ張り出した。今回は早々に見つかって良かったと安堵する間もなく、外側の柵に飛びつき、それを口元に押し当てて。
精一杯、渓谷の谷底へ声を。
『レイファーーッ!!』
声は鋭く轟いて、目下の石橋に響き渡った。
すると大魔王が俺に気づく。
『そこにいたか、小僧ォ!』
「――ぃ」
睨み上げる獰猛な視線に一瞬怖気づいたが、何も恐れることはないと胸に手を当てて心を落ち着かせる。ここまできたら、赤の大魔王と言えど、何もできない。
石橋で大魔王と交戦していた勇者連中の動きも止まる。ここからだと細かい点のようで何も見えないが、あの悪魔ならば俺の意図も伝わるはずだ。
そう信じた通り、レイファは瞬時に悟って動き出した。
セリーヌさんに声を掛けて、同時に魔法を振るう。
『――――!』
破壊の衝動を注ぎ込んだ、幾種もの属性を混ぜ合わせた高度な複合魔法。七色に光る宇宙の始まり『エクスプロージョン』が、手加減なしに放たれる。
赤の大魔王に対してではない。ダムの堤体に向けてだ。
二人の優秀な魔法使いが奥義を放ったと同時に、爆発地点の鉛直上の天端にいた俺は振動に耐えるために頭を押さえて蹲る。
ズシリと突き抜けるような衝撃に俺が怯える中、魔法を解き放ったレイファは直ちに懐からロープを投げて仲間に掴ませ、『テレポート』を発動。残りの魔力を全部使い果たして、安全圏である展望台までワープした。
その刹那の動きに遅れて聞こえてきたのは、流れだ。
堰き止められていた水の、激しく流れ出る音。
『なるほど、ダムを決壊させてワシの火炎を封じようという訳だな』
「――――!」
『ふふふ、甘いわ小僧。水の流れで炎が封じようとも所詮それまで。聖属性の魔力を使った攻撃や魔法でない限り、ワシを傷つけることはできん!』
耳に届くは、勝ち誇ったかのような響きの声。
頭を天端に押さえつけたまま、その声に、俺はニヤリと笑った。
彼は推測は大体は正しい。
レイファとセリーヌさんが堤体に穿った大穴からは、堰き止められていたダムの水が凄まじい圧力で溢れ出す。この狭い渓谷の谷底では、大魔王の巨体さえ沈んでしまうだろう。あまつさえ、このダムの水は大魔王を纏う赤い火炎を消し去り、彼が街に向けて放っている火焔の流星をも終わらせる力を持っている。
しかし、ただの水に威力はない。
瘴気に守られている大魔王にダメージは与えられない。
所詮は火魔法を封じるだけの策。
全く、その通りである。
本当にただの水ならば。
『む、何だ? 水飛沫に混じるあの白い光の粒は?』
でもな、赤の大魔王。
もし、この水が――。
『――ま、まさか!?』
「全部、『聖水』だったらどうだぁぁぁあ!!」
光に気づいた大魔王が動転した声を上げるが、もう手遅れだ。堤体から溢れ出たダムの水が真上から赤の大魔王に襲い掛かる。逃れようと手足を振るおうとも、恐ろしい速度で水位を上げる川が、それを絶対に許さない。
決して濁らない清き水の流れが、王から命と炎を削り続ける。
セリーヌさんの攻撃で、赤の大魔王に唯一ダメージを期待できたのが聖属性の魔力を組み込んだ水魔法だった。それは即ち、このディストピア世界で局所的に発見される聖属性の魔力を帯びた特別な水――『聖水』に他ならない。掌サイズの初級水魔法で一パーセントのライフポイントを削れるなら、その百倍の『聖水』を用意してやればいい。そう考えて、ダムに溜められた水に行き着くのは道理だろう。
ユニークスキル『聖剣作製』の効果でダムの水を『聖水』に変える。たったの二分の持続時間でも、敵の命を削り切るには余りある流量だ。その圧倒的な流量さえあれば、無限とも思える大魔王のライフゲージを突き崩せる。
「――――」
俺は後頭部から手を離して、その場に徐に立ち上がった。大魔王の巨体をも沈めて、なおも嵩を増し続ける谷底の川を見下ろし、声を落とす。
「お前の耐久力は圧倒的だったけど、完全無敵ではなかった。災害を倒せるのは同じ災害だけ。この激流は、お前のライフゲージを削り切るまで終わらない」
激しい水面に拳を伸ばす。
勝利宣言は、力強く。
「言ったろ! 俺がその炎を消してやるって!」
終わった――。
酷い戦いの終着点で、拳を落として俺は遠い空へと顔を向けた。
今日、俺の戦いの結末はあの雲の上に届いただろうか。誰もが不可侵だと諦めていたパラダイムに一筋でも、亀裂を入れることができただろうか。いつか、遠い日に、誰かが自分らしく生きるためのキッカケを、作ることができただろうか。
なあ、ネミィ。
称号システムという壁の前で、夢を諦め続ける世界。
そんな世界を今日、少しでも変えられただろうか。
少しでも好きになれただろうか。
『――――』
やがて渓谷を流れる川は青白い光を放って、聖属性の魔力を失った。
その様子は、空へ掲げた小さな線香花火の集まりのようで。
『――を』
この異世界に渡って、ようやく一つの季節が終わる。
長い、長い、夏の季節が終わる。
「さて、みんなのところに帰るか!」
『――メ』
「ん? 何だ?」
大きく伸びをしてそう呟いたその時、ふと声が聞こえた気がした。
レイファらがいる遠くの展望台からだ。街側の斜面の中腹に位置する展望台から届くその声を、ダムの天端からでは遠すぎて全ては聞き取れなかった。
だが、僅かに届いた一部の音がこう聞こえた気がした。
「メニューを見ろだって? ったく、何なんだよ」
不思議に思いながら、指先に魔力を込めて宙に四角形を描く。
表示されたメニューは、以前と何も変わらなくて。
何も、変わらなくて――。
「――――ッ!!」
待て、何も変わらないのはおかしい。
大魔王を倒したなら経験値が与えられて、その分のレベル変動があるはずだ。新たな討伐を示す称号獲得だってあるかもしれない。
あるはずの結果が、そこにはなかった。
嫌な予感が頭に過った。
俺は慌てて柵に飛び掛かる。
「そんなはずがないッ!」
ダメージ計算ならした。セリーヌさんの水魔法で与えられたダメージと、ダムの水量で与えられるダメージを比べて、充分に削り切れると確信した。
赤の大魔王が耐えられるはずがない。ないんだ。
そう焦りながら、増水した川の水面に視線を彷徨わせる。
彷徨わせて、見つけてしまった。
もはや失われたはずの、炎の存在証明を。
「おいおいおいおい、嘘だろッ!!」
視線の先、一筋の蒸気が上がる水面の一点。
水は炎を消すという使命を忘れ、怯え、その場所を避けるように逃げ始めた。聖属性の魔力付与がなくなって濁流と化した川の中で、激しく渦巻いていく。
その螺旋の空洞の中に、彼は立っていた。
赤を通り越して、凄絶なる真紅。
残ったライフゲージはミリ単位で、無限大。
周囲を蒸発させて、笑っていた。
『ふはははは、良いな小僧!』
「――!」
『ワシにユニークスキル『彼岸の供え』を使わせたのはボルケ以来だ。ライフゲージが一割を切ると自動で発動し、触れたモノの水分を問答無用で蒸発させる。よくもこれだけの『聖水』を用意したものだが、あと一歩、届かんかったな』
いっそ上機嫌なまであるその声を耳にしながら、俺は下唇を強く噛んで拳を握り締める。ヒャクある可能性を精査し、持てる選択肢は全て使い果たした。
全力で魔力を行使してダムの水を『聖水』に変え、勇者たちも全てを引き換えに石橋の防衛線を守り切って、前代未聞の大勝負に打って出た。
それでも、赤の大魔王はまだ立っている。
俺たちの全てを上回って立っている。
小さな火の粉が、しかめっ面な頬の脇を抜けて飛んでいく。
恐らくはユニークスキルでも完全には蒸発し切れなかったのだろう。大魔王のライフゲージは一割よりもっと少なく、ほんのミリ単位。
だがそのミリ単位が如何に絶望的かを、俺たちは知っている。
あれが、全く僅かではないことを、痛いほど知っている。
『お前は間違いなくワシの敵だった。――勇者よ』
最強最悪の魔王が、最弱の存在を勇者と認める。
物語の展開的には大変興奮するが、当事者としては冷汗しか出ない。
認めたのだ。俺を、絶対に殺すべき敵だと。
疲れ切った思考を必死に回転させようとする俺を見上げて、大魔王は愉快そうに牙を見せた後、その目に鋭く威光を走らせる。
その赤い瞳に映ったのが、俺の死のように思えて。
『炎獄の大魔王の名において、ここで眠れ!』
「くそ、くそくそくそッ!」
地面で拳を割って、もう何もできない自分を痛める。
ここは退却して、今後を勇者らと話し合うしか。
――――。
――――。
――――。
「――あれ?」
気のせいだろうか。
今、大魔王の額に。
何かが、光って。
「え?」
もう一度確かめようと瞼を擦って目を開いたら、赤の大魔王はすでにその場所にはいなかった。代わりに肌で感じたのは急激に世界を焼き尽くす熱と、正面から押し寄せるような衝撃と、猛烈な速度で目の前に迫る気配。手も、足も、動かす暇などなかった。逃げなきゃと考える余裕すらなかった。瞳には何も映らなかった。
何も映らないまま、世界が燃やされ、暗転し、灰となる。
真紅の火炎が、ロケット砲のように堤体を貫いた瞬間だった。
【聖水】
世界各地に局所的に点在するアイテムで、聖属性の魔力を帯びた水だよ。瘴気を持っている魔獣や『魔王』相手には、体表を溶かす酸のように作用するんだ。だからね、沙智。お願いだからその聖水をこちらに向けないで欲しいの。本当にお願いだから!
※加筆・修正しました
2020年7月17日 加筆・修正
表記の変更
新規ストーリー「ステラとシアンの共闘」追加
 




