5.黒い毒物
■前回のあらすじ
・猫又のクロは姿こそ変わったが、中身は猫の時のままであった。
「んん……」
目が覚めた。
部屋の電気がついている。
パソコンもクーラーもつけっぱなしだ。
外は暗く、まだ夜中であることが分かる。
どうやらあのまま寝てしまったらしい。
「にぇへへへ……」
クロが上に乗っていたため寝返りも出来なかった事と床で寝たせいで腰と背中と後頭部が痛い。
そんなクロは俺の胸に涎を垂らしながら何やらにやけている。
どんな夢を見ているのやら……
「……なんだ?」
ふと感じる違和感。
何か変だ。俺はどうして起きた? クロが重かったからか?
いや……違うのだろう。
クロと出会った時と同様の重い空気を感じる。
その事を無意識に身体が異常を察知したのだろう……徐々にその空気が濃くなっていく……何か近づいて来る、のか?
「……ん……にゃっ!?」
クロも気付いたのか、ガバッと起き上がり、四つん這いで耳をピンと立てる。
そして部屋の入口であるふすまをジッと見つめている。
対して俺はクロの重さで痛くなった腰を押さえながら立ち、何の変哲もないであろう部屋を見渡す。
いつもより薄暗く感じたのはおそらくこの空気のせいだろう。
そして、視界の隅で何かが蠢いたような気がしたのもこの空気のせいであろう。
「……っ!?」
音がした。
昼間に俺が死神の足音と比喩した音だ。
その音がしたのと同時にねっとりとずっしりとした空気が密度を増した。
またあの感覚だ。
俺の首を刈ろうとするあの感覚。
だが、その空気はクロの時に比べ更に重い。
そして鋭い。
ギシギシと階段を上がってくる音と共に、どす黒く濃密になっていく空気にゾクゾクと鳥肌が立ち、足がガクガクと震えはじめた。
目からは涙があふれ、奥歯と奥歯がぶつかりガチガチと音をたてる。
息を殺すとか、呼吸を整えるとか、そういった事がまるで出来ない。
「グルルル……」
クロを見れば、全身の体毛を逆立てるかのように威嚇の格好をしていた。
実際に、尾てい骨から生える二本の尾の毛は逆立ち、通常の三倍以上の太さになっている。
ひたひたと微かに聞こえていた足音がふすまの目の前で止まった。
そして、そいつらは何の躊躇いもなくふすまを開け放った。
「ふむ……無傷だな」
ふすまを開けた奴が放った言葉は先ほどまでの空気を掻き消すような軽い言葉だった。
いや、実際に掻き消えたのだろう。
直ぐに鳥肌と涙が収まり、体の震えも収まりつつある。
「ふーん……」
入ってきた先頭の奴は、威嚇しているクロ、散乱しているクロの遊具、と見た後にクロの後ろで未だ震えている俺をジッと視た。
心の奥まで覗かれる錯覚を覚えるほどの鋭い眼光であった。
だが、不思議と恐怖はない。
それは俺とその者達の間に入り、必死に威嚇しているクロの存在があるからだろうか。
重い空気が無くなり少し冷静になれた事で、その者が声質の通り幼い事に気づく。
クロと同様に頭に猫耳があるが、小学生並みに小柄だ。
身長は百四十センチあるかどうかといったところだろう。
頭の上にある大きな猫耳と、腰まで届きそうなほど長いブラウン色の髪。
クロと同じような大きな目に猫のような爬虫類ような独特の瞳。
幼き者特有のもちもちと柔らかそうな肌。
手足は細く、腰に当てた手はその身長相応に小さい。
そんな者はアオザイのような黒い衣服で身を包んでいるからか、人とも獣とも言えぬ独特な雰囲気を出していた。
そして、その独特の雰囲気を出している者は一人ではなかった。
先頭の幼い者の後ろに男と女が一人ずついる。
スラリとしたその男女も頭に猫耳を生やし、黒い衣服で身を包んでいた。
その衣服のせいで尾は見えないが、その頭に生えた猫耳を見る限りではこの者達もクロと同じ猫又なのだろう。
「フシャッー!!」
そんな者達へクロが威嚇をする。
だが、威嚇を受けてもその者達は動じなかった。
「大丈夫、何もしないよ。お前の主人を取ったりなどしないよ」
むしろ幼い者は我が子を見守るかのような慈愛に満ちた表情でクロに微笑んだ。
「グルルル……」
それでもクロはその者達への威嚇は止めなかった。
そのクロの様子を見た幼い者は半ば呆れたような表情になっている。
聞き分けの悪い子供をみているかのようだ。
「……っ……だ、レだっ」
やっとの思いで口から掠れた音が出た。
重い空気が晴れたとはいえ、辛うじて声と呼べるかどうかも怪しい音を出すのが俺の精一杯だった。
「あれ、威嚇を受けて話せるようになるのが早いな。弱すぎたかな?」
「コ、たえろ」
「やれやれ、せっかちだな。まず、僕達はそこで威嚇してる子と同じ種族」
「……猫又、か?」
「そうそう、よく知ってるなお前」
俺の震える声にその幼い猫又はあっけらかんと答えた。
容姿は幼いのに、言動が幼くなく違和感を覚える。
それは妖怪を人間の尺度で測ろうとするからだろうか。
「さて、その子を連れ戻しに来たんだけど――」
「フカッー!!」
「……流石にちょっとうるさいよ」
未だ威嚇しているクロに対し、幼い猫又がそう言った瞬間、何かが噴き出した。
視覚的に何か見えたわけではない。
だが確実に幼い猫又は何かを噴き出し、纏った。
そして、俺は幼い猫又の狩人の眼となった瞳から視線を外せなくなった。
心臓を握られたかのように胸が痛み、筋肉は緊張し全身が震える。
蛇に睨まれた蛙にでもなった気分だ。
「……ぅにゃ……」
クロの怯えたような声が聞こえた。
毛を逆立てピンと立てていた尾も足の間に巻き込んでいる。
「にゃっ……うにゃっあ!」
だがそれも束の間、直ぐにクロの力強い声で鳴いた。
視界の下にいるクロの体から“黒い靄”のようなものが出ているのが確認できる。
幼い猫又が纏った“見えない何か”ではない。
視覚的に分かる黒い何か、それがクロの体から吹き出し、クロを中心に部屋を侵食していく。
「ぐっ……」
それから感じるものは熱。
クロが来た時に感じたぬるま湯のような中途半端な熱ではない。
熱湯のように熱いそれは触れた箇所を熱くさせる。
ねっとりとした粘度があり、皮膚など無いかのように体内に侵入し触れた箇所の内部まで熱くさせる。
クロが出した“黒い靄”はそんなものだった。
「こらこら、そんなに妖気をだだ漏れにするでない」
「グルルル……」
「でないと、お前の主人が死ぬぞ?」
「グルル……ル? ……ウにゃっ!?」
クロから出た黒い靄は俺の体を全て包んでいた。
全身が焼けるように熱い。
人の細胞は約四十二度以上から致命的なダメージが発生し、死滅する。
本来、恒温動物である人間は一定の体温を保つことで生命を維持させるため、外気温が内臓に影響することはそう無い。
だがこの黒い靄は触れた箇所の内部まで瞬時に熱くさせた。
「ぐ……うあっ……ぅ……」
クロの出した黒い靄は、人間にとって致命的な毒物であった。
触れた物を高温にさせ、人間であれば細胞を焼いてしまう。
皮膚を貫き体の奥を高温にさせる。
身体がそう感じているだけで実際はそうではない可能性もあるが、それでもこの苦しみを生むこれは毒物であった。
熱に我慢できず無意識に爪を立て己の胸を掻き毟る。
だがいくらもがこうと、いくら体中を引っ掻き回そうとこの身を焼く苦しみからは逃れなかった。
(熱い。どうしようもなく熱い。苦しい。だめだ、死ぬ。このままでは死んじまう)
「やれやれ……ミケ、小次郎」
「「はっ」」
「ふぎゃっ!」
死期を悟った俺が感じたのは、軽い浮遊感の次に背中への衝撃だった。
■登場人物紹介
【人間の滝沢恭介】
・この物語の主人公。
・パソコンでゲーム制作などの作業をする際は眼鏡をし、普段は裸眼で過ごしている。
・ジーパンによれよれの黒のワイシャツという、他人にはあまり見せられない服装で過ごす。
・新たな知識を得た時は真っ先にゲーム制作に活かせないかと考える癖を持つ。