2.訪問者 - ①
■前回のあらすじ
・猫の声を聞き一階に降りた恭介を待っていたのは、異様な空気とすりガラスに映った闇のように濃い人影だった。
「……はっ……はっ……っ……」
恐怖で肺が思うように動かず、上手く呼吸が出来ない。
心臓は痛いほどに脈動している。
息遣いがバカにでかく聞こえる。
この音があの影に聞こえるのではないかと恐怖し、抑えようと更に呼吸を乱す。
十分な酸素を得られないためか視界がチカチカしてきた。
循環器すら機能を停止するかのようにフラフラし、立つことすら危うい。
こんな状態では人影が何らかのアクションをしてきても対処できないだろう。
何者なのか分からない。
人間なのかも分からない。
何をしにこの家に来たのかも分からない。
何も分からない俺には去ってもらうことを願う他なかった。
「……はっ……はっ……」
……どのくらい動かないでいただろうか。
時間の流れが分からない。
たった数分……いや、数十秒しか経っていないのかもしれない。
だが、俺には数時間にも近い時を過ごしたかのように思えた。
急激に蓄積されていく疲労感。
極度の緊張感。
バクバクと激しく脈動する心臓が体中の体温をあげ、脳が状況を打破しようと様々な経験を思い出させる。
脳の中で何か蠢いているような感覚すらある。
そんな錯覚をさせるほど脳に負荷がかかっているのだろうか。
汗腺から止め処無く汗が噴き出し、服が体にくっつく。
だが、不快に感じるはずの汗の不快感すらも脳は受け付けていなかった。
もう、視界の半分が暗くなっている。
……気が遠のきそうだ。
いっそのこと気絶してしまった方が楽なのかもしれない。
「にゃー」
ふいに玄関から鳴き声が聞こえた。
ただ、普通の猫の声とは少し違っていた。
音量は普通だった。
音階も普通だった。
だが、その声は頭に響いた。
存在がでかいとでも言うのだろうか。
その声には強者が生み出す気迫や威圧、そんな存在感を強く感じさせるものを含んでいるように感じた。
今までに聞いたことのない質の声だった。
その声が聞えた瞬間、思わず口での呼吸を止める。
視界を床に落としつつも、無意識に全神経は声が聞えた玄関に向けていた。
「…………」
無音。
声は先ほどの一回きりだった。
いくら待とうとも、物音一つせず、それ以上のアクションがない。
視覚で確かめたいが見る勇気もない。
もしかしたら、あの影は既に家の中にいるかもしれない。
もしかしたら、もう目の前に迫っているのかもしれない。
もしかしたら――そう思うと体が動くはずが無かった。
動けるはずも無かった。
「にゃー」
どうすれば良いか、恐怖で震えると同時にそれを何回も何回も頭の中で反復思考していた時、再度声がした。
その声と共に、何かをひっかくガリガリという音も付いてくる。
更に何かが転がるカラカラという音も付いてきた。
見なくとも分かる。
毎日聞く音だ。
玄関の扉が開く音。
あの影が玄関の扉を開けている。
やめろ……やめてくれ……!
だが、願いも空しく、扉は軽い音を立てて開いていく。
その扉を開ける音は、死をもたらす死神の足音へと姿を変え、俺を更に恐怖で震えさせる。
ひた……ひた……と死神が迫ってくるかのようにそいつはその音を出し続けた。
じりじりと迫り、首元に血肉で染めた冷たい金属をあてがう。
それは徐々に俺の皮膚を裂き、肉を断っていく。
後ほんの少し力を加われば俺の命は直ぐにでも刈られる。
その音は俺をそんな極限の恐怖まで引き上げていった。
だが、無限のように感じたその音も、ついに止まる。
扉が開け放たれ外の空気が入り込んできているのか、足元に空気の流れを感じる。
まだ俺の足は感触を失っていなかったようだ。
「…………」
無音。またしても無音。
だが、同じ無音でも状況が全く異なる。
足元に流れてくる空気に温い熱を感じる。
ぬるま湯に浸かっているかのようだ。
それにその空気が下に溜まっている。
いや、今も尚その空気は溜まり続けている。
ねっとりとへばりつくようなその空気は、くるぶしから、ふくらはぎへと昇ってくる。
その感覚に鳥肌が止まらない。
もうだめだ。
おかしくなってしまいそうだ。
「にゃー」
声がした。
そんな気がした。
本当に聞こえたのか分からない。
幻聴だったのかもしれない。
足に熱を感じてから聴覚が正常に機能していない。
脳内で常に何か音が響いているような感覚がある。
気がするだけできっと外界では何も音などしてしないのだろう。
聴覚だけではなく、視界も使い物にならない。
焦点が合わず、目から入る映像を脳が物だと理解できない。
色のついた何かを見ているのは分かるが、それが何なのか判断できない。
それに既に視界の八割は黒で染まっていた。
自分がどこを見て、何を聞いているのか全く分からない。
世界がめちゃくちゃだ。
だが、気配だけはなぜかはっきりと感じてしまう。
そいつが来ている。あの影がこちらに迫ってる。
その事だけははっきりと分かってしまう。
ひた……ひた……
いやだ……来るな、来るな来るな、来るな来るな来るな!
今直ぐに逃げ出したい。
だが、そんな願いなどあの影を見た時点で不可能だった。
視界を床に落とし、動けなくなってしまった時点で逃げるなど不可能であった。
あの影を見た瞬間から、体は一ミリも動かなかったのだから。
自分が立っているのか倒れているのかすらも認識できない。
唯一脳が理解しているのは絶望だけだった。
ひた……ひた……
そして、その絶望の根源が近づいてくる。
ひ……た……
「…………」
奴が直ぐ近くまで来た。
心臓はバクバクと爆ぜるかのごとく脈動し、息遣いは激しく、目からは涙が溢れる。
もうだめだ。
俺はこれから死ぬのだ。
まだまだやりたいことが沢山あった。
夢もあった。
やり残したことだって沢山ある。
ちくしょう、未練しか残らないじゃないか。
父と母よ、若くしてそちらに行ってしまう息子を許してくれ。
クロ……俺も行くよ。
ふわっ……
死を悟った瞬間、空気の流れを感じた。
その空気が何かの匂いを運んでくる。
鼻をくすぐったそれが何の匂いなのか、どんな匂いなのかは理解出来なかった。
だが、それを受け取った脳は視覚と聴覚、その他もろもろの機能を覚醒させた。
恐怖はある。絶望もある。
だが、目の焦点は次第に定まり、耳は徐々に俺の息遣いを聞き取り始めた。
どうやら俺は倒れる事無く、その場に立っていたようだ。
そして、視界が戻ったことにより、絶望の影が俺と重なっている事が分かった。
先ほどまでの俺であれば、恐怖でガタガタと震えていただろう。
だが、嗅覚が感じた匂いがそれを溶かしていく。
ぎし……
床のきしむ音と共に、床に向けていた視線に映りこんだ物があった。
細く綺麗な物……女の足。肌色で普通の足だった。
それともう一つ、その足の後ろに何かあるのか、二本のヒモのような影が揺れている。
その足と揺れる影から視線を離せないでいると、影が俺の顏を覗き込んだ。
女。
顏が潰れ、皮膚がただれている。
眼球の部分は潰れ、黒い闇があった。
そんなホラーみたいなことを想像していたが全く違っていた。
綺麗な肌。
真っ直ぐとこちらを見る瞳孔は細い独特な形をした瞳だった。
整った綺麗な顔だ。
少し人間の顏とは違うような気もした。
それは、腰まである黒い髪の上に生えた獣の耳と真っ赤な眼が原因かもしれない。
だが、綺麗な顔とか、獣の耳とかそんなものは二の次になってしまった。
こいつには衣服という物を身に纏っていなかった。要するに全裸であった。
■登場人物紹
【人間の滝沢恭介】
・この物語の主人公。
・先祖代々から受け継ぐ土地を所有している。
裕福な家庭とは言えないが、田舎故に土地は余っているのだ。
大半の土地は田畑であるが、恭介だけでは管理すら難しい事からほぼ全て知人に貸している。
恭介は管理してもらっている側であるため、お金のやり取りはしておらず見返りも求めていない。
しかし、知人からは毎年その田畑で育った作物を半ば押し付けられてしまっている。