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老いての恋

作者: トムデンゼル南蛮

 夜は異常に湿気ていた。こんな空気を好むものは誰もいないだろう、私を除いて。

 そう思いながら、西嶌太郎は駅前に来ていた。髪のない頭にハンチング帽を乗せ、クリーニングに出したばかりの白ワイシャツと黒のスラックスにサンダルという身なりの西嶌は、駅前にあるマクドナルドへ向かった。

 自動ドアをくぐると、「いらっしゃいませ」と若い女の子の明るい声が西嶌を迎え入れた。西嶌は三人並ぶ列に加わり、レジに立つその女子に視線を注いだ。

 安藤と名乗るその店員は、今年の四月から大学生になったらしい。触れてみたくなるほどの眩い白肌は今夏の厳しい日差しに全く侵されてなく、キレイに反り返った睫毛の下には逞しさと聡明さの両方を秘めた瞳が潤んで揺らめき、七十過ぎの老父を見たこともない世界へと誘おうとする。

 安藤という名は胸元につけているネームプレートで知ったが、今年大学生になったという事実は、西嶌自身の勇気で安藤本人から知り得た情報である。ただ、下の名前は未だに知らない。

 ジャンクフードなど、西嶌には縁のない食べ物だった。妻のきよ子が二年前に癌で亡くなってからも、一人でファストフード店に足を運ぶことなどなかった。

 きっかけは半年ほど前、小学生の孫たちが家に遊びにきたときだった。お昼、駅前にご飯を食べにいったとき、孫はマクドナルドがいいといった。西嶌は他にもっといいお店があると提案してみたが、孫たちは頑なで、西嶌は小さい頃からこんなものばかり食べさせて、後で文句をいってやろうと不満に思いながら店に入ったとき、「いらっしゃいませ」と笑顔を振りまく安藤の真っすぐ通る声が西嶌の足を止めた。そして、老いた視線はすぐにその美貌に奪い取られた。最愛の妻に先立たれて二年、西嶌は孫といっていいほど若い安藤という女に一目惚れした。

 西嶌は真面目人間の代表で、四十年間にわたるサラリーマン生活で、最初で最後のインフルエンザと親戚の不幸のとき以外、会社を遅刻、欠席したことは一度もなかった。その性分に関係はないが、あまり人に対して物をいえず、損する仕事ばかり自分一人で抱えることが多かった。そんな西嶌を退職するまで陰で支え続けてくれたきよ子もついに先に逝ってしまい、西嶌は頭も心も動かさない日々を過ごすようになっていた。

 だから罪悪感はあった。自分の息子、娘より若い、孫といってもいいくらいの赤の他人の娘に一目惚れするなど、あってはならないことだと。しかし、西嶌はその日から、その駅前のマクドナルドへ足繁く通うようになった。一ヶ月通って、安藤がシフトに入ってる曜日、時間帯を大体把握できた。罪悪感は消えなかった。まるでストーカーだと自分自身を軽蔑することもあった。しかし、誰にも知られていない、監視されていないことが西嶌の気持ちを楽にさせ、結果、寝る時間にもかかわらずこうやってマクドナルドへと繰り出している。

 西嶌は決まってアイスティとハンバーガーを頼んだ。この年になってハンバーガーを食べることになると思っていなかったが、思ったより美味しいと感じるようになり、幼いころからこればかりはどうかと思うが、孫たちが行きたくなる気持ちも理解できるようになった。

「お姉さん、学生さんですか?」

 二ヶ月通った西嶌は初めて安藤に声をかけた。

「はい、今年から大学生になりました」

 安藤ははっきりとした口調でそう答え、西嶌はそれ以上何も聞かず、いつものアイスティとハンバーガーを持って二階へと上がっていった。安藤と会話したのはそれが初めてで、それ以来、注文以外の会話をしたことはない。

 西嶌はそれでよかった。欲をいえば、下の名前は何なのかを聞きたかったが、そんなことを尋ねる勇気は老人にはなかった。

そしてこの日、マクドナルドに通い始めて四ヶ月ほどが経っていた。西嶌はハンチングの鍔をできる限り前に深く被り、目線を落としたまま「アイスティとハンバーグ」と声を落として、用意していた小銭を置いた。

「よく来られますね」

 え?と西嶌が目線を前に向けると、安藤が控えめな笑みを浮かべながらアイスティを目の前に置いた。西嶌はあまりにも不意な声かけに、「は、はい?」とわざと聞こえないフリをすると、安藤は咄嗟に相好を崩し、「いえ、よくこの時間に来られてるなって」と同じことをわざわざ繰り返してくれた。西嶌はなんていえばわからず、「あ、はい」とだけいって、それ以上深く被れないハンチングで熱くなる顔を目の前の美少女から隠そうとした。

「いつもアイスティとハンバーガーですね」

 安藤はハンバーガーをアイスティの横に置き、「私はここのアップルパイがすごく好きです。そんなに甘くないのでおススメですよ。シナモンが嫌いじゃなければ」と付け加えてニコリとした。

 西嶌は返す言葉に詰まりながらも、「――――それじゃ、次は、それを食べてみます」とぎこちない笑みを浮かべて何とか言葉を紡いだ。

「はい、ぜひ」

 西嶌は彼女の顔をまともに見れず、手すりを使って二階へと上っていく。お決まりの席に着くと、ほっと一息ついたが、それだけでは高鳴る心臓はすぐには治まらなかった。そして、徐々に懐かしい幸福感が内側から湧いてきて老体の身を包み込む。

 後ろにお客がいなかったから声をかけてくれたのだろう。彼女も毎日のように夜マクドナルドに来るこの老人について気になっていたに違いない。どんな形であれ、自分に関心を持ってくれている。その事実だけで、西嶌は湯に浸かったような快感を得た。

 罪悪感はある。羞恥心もある。

 しかし、かの偉大なゲーテも七十を過ぎて十八才の少女に本気で恋をしたと聞く。

 亡き妻は西嶌にとって最初で最後の女性だった。彼女に出会えたことが、西嶌の幸福そのものだったといえる。

だが、西嶌は新たな恋をしている。決して人間の道を踏み外したわけでもない。これまでの人生を否定しているわけでもない。

 新しい自分になろうとしているのか。さなぎとなって殻を破り、羽ばたき巣立たんとする蝶のように。

 店を出るとき、背後で「ありがとうございました」という安藤の快活な声がした。西嶌は彼女の方を見ないでお辞儀をし、自動ドアをくぐって出た。

 明日はそのアップルパイとやらを食べよう。

 夜の暑気を吹き飛ばしてしまうほど、明日が待ち遠しくて仕方がなかった。


 ハンチングをかぶっていないことを除けば、ポロシャツ、チノパンといういつもの格好で、西嶌は駅前のマクドナルド二階のいつもの場所でアップルパイを頬張っていた。安藤に勧められてから、マクドナルドのアップルパイは七十を過ぎた西嶌の好物となった。二度目のアップルパイを注文したときは、安藤から「お口に合いましたか?」と訊ねられ、「ええ、美味しかったです」と返すと、彼女は「よかったです」と親しげな笑みを浮かべてくれた。西嶌はそれだけで幸せな気分になった。

 そんな幸福のアップルパイを食べ終え、すこし読書をすると、ぽつぽつと睡魔がやってきて、西嶌はいつの間にか眠りに落ちていた。

 目を醒ましたのは、若い男の会話が耳に入ってきたときだ。

 眠気眼をこすると、奥の方の席に若い男が二人大きな声で話をしている。会話の内容はまったく入ってこないが、若者特有の粗雑な話し方が少し耳障りで西嶌は帰宅しようと席を立ったときだった。

「たしかに安藤ちゃんはかわいいよ」

 耳に入らなかった話の内容が一つのキーワードを持つことによって別のものに化し、西嶌は立ち上がるのをやめて耳を傾けた。

「安藤ちゃんとか馴れ馴れしく呼ぶなよ」

「一回会話したらもう友達も同然」

「会話ってただ注文しただけじゃん」

「お前にはもったいないと思うけどね。お前が無理だったら俺が口説いてもいいな」

「勝手なことすんなよな、まじで」 

 二人の髪は茶色でいかにもいまどきの若者という風に感じる。それに会話の内容から片方の男が安藤に好意を寄せていることは明らかだ。たしかに見た目からして彼女と同年代くらいに思える。しかし彼女はもっと大人で知的な印象がある。二人の若者は知性のかけらもない、ただ単純にそして派手に生きている人間に見える。

 西嶌は男たちに対しムカつくような嫌悪感を抱いた。西嶌にとって唯一無二の聖域に足を踏み込まれた感覚がある。こんな怒りと不安を覚えたのはいつぶりだろうか。それほど抑えきれない感情がさきほどまで眠っていた老人の脳を活性化させた。

 二人の会話は続く。

「お前なんてヤりたいだけだろ」

「当たり前だろうが。それがなくて女と付き合うやつがいたら、そいつは生物学的に男じゃねえ」

「堂々ということかよ」

「良い女ってのはよ、どれだけヤりたいかと思わせる女のことをいうんだぜ」

「お前が良い女を語るな、莫迦」

「じゃあお前は安藤ちゃんと付き合ったらそういうことをしたくないっていえるのかよ」

「うるせえな。馴れ馴れしくちゃん付けして呼ぶなっつってんだろ」

 聞けば聞くほど虫唾が走る。特に安藤に元々好意を持っていたわけじゃない男は、典型的に西嶌が嫌う不潔なタイプの男である。だからといってもう片方の男も見た目だけ派手にして頼りなさそうだ。

「てかもう彼氏いるだろ、あれ」

「いや、いないらしい」

「確認したのか」

「直接じゃないけど」

「彼女のこと狙ってここのマック通ってるやついそうだな。俺だったら通うけどね」

 西嶌は苛立ちをため込む一方で、様々な思考を巡らせていた。どんな思考かといえば、あの二人を安藤の前からどう追い払えるかということだ。それをするには勇気が必要である。初めて彼女に声をかけたときのように、勇気がなければいけない。

しばらくそんな考えに耽り、緊張が高まってくるのを覚えると、西嶌は席を立ち、食べ終えたゴミを捨て、下へ降りず二人の若者の方へと歩み寄った。

「君たち」

 茶髪の男二人が自分の方を見ると急に緊張感がピークに達した。すぐに発すべき言葉を紡げない。

「なんすか?」

 西嶌が嫌った男はよく日に焼けていて釣り目が特徴的で、片方の耳にピアスをつけている。その男が不快そうな表情で自分を見上げている。

「どうかしました?」

 安藤に想いを寄せる男はしょうゆ顔で清楚な印象を与えたが、それだけでは西嶌のムカつきは消せなかった。

「おじいちゃんがなんでこんな時間にマックにいるんだよ。家の帰り方忘れちまったの?」

 釣り目顔の男が莫迦にしたような笑いを浮かべていった。

 若造めが。

 西嶌は引き攣ったような笑みを浮かび返す。そしていった。

「安藤とは、ここで働いている女性のことかな?」

「盗み聞き?こええな、おい」

 ピアスの男が再び下卑た笑みを向ける。

「あの、そうですけど、何か?」

「君たちは彼女の同級生か何か知り合いなのかな」

「いえ、違いますけど。あの、それが何か?」

「そうですか。いや、ちょっと心配になりましてね、君たちが孫のことで変なことを話しているようなので」

「え?」

「孫?」

 若者二人は同時に目を丸くした。

「ええ。私、安藤太郎と申します」

 西嶌は嘘をつかない実直な男である。そんな男が嘘を駆使して相手より優位に立つことなど、いままでなかった。狼狽する二人を確認すると、西嶌は表情を戻して力を込めていった。

「お前らみたいな若もんが手を出していい娘じゃないんだぞ。あの子に変なことしてみろ。絶対に許さんからな!」

 西嶌のよほどの剣幕に圧倒されたのか、しょうゆ顔の方がそそくさと席を立ち、「失礼します」といってその場を離れると、釣り目の焼けた男は舌打ちだけ残して、すぐその後を追って出ていった。

 緊張から解放され、西嶌は全身に汗が噴き出るのを感じた。同時に、一仕事を終えた後の爽快感も得ていた。生きている実感がした。

 西嶌が下へ降りて出入り口へ向かうと、「ありがとうございました」と安藤が声をかけてくれ、西嶌はそちらを一瞥して頭を下げた。これからまた、彼女にはああいう男が蠅のようにたかってくるのだろうと思うと、西嶌の心は少し落ち込んだ。しかし、自分の勇気でそれを追い払えるのならば、西嶌はできると思った。

 そんな老いた騎士精神を胸に秘めながら、ぬるい空気に満ちた夜の下、西嶌は一人家へと帰っっていった。


 西嶌は不安だった。勝手に他人の祖父を名乗ったこともそうだが、あの若者二人が突然祖父と名乗るジジイに怒鳴られ、安藤に対して変なことをしでかさないかどうかが正直不安でたまらない。いまの若者は短気で自制心が足りず突飛なことをするイメージを西嶌は抱いている。

 ある夜、西嶌はいつものようにアップルパイとアイスティを平らげ、帰りがけに人がいないことを確認し安藤に声をかけた。

「毎日いつも遅くまで大変ですね」

 安藤はもう十時過ぎだというのにお気に入りのデザートを口にしたときのような笑みを浮かべた。

「ありがとうございます」

「家は近いんですか」

 危ない質問だとわかっていた。内心はドキドキで、呂律がうまくまわっただけでホッとした。安藤は老人の不意の質問をまったく怪しまず、「自転車ですぐです」と答える。

「夜は暗いから気をつけて。最近はどこも物騒だ。あなたは女の子で、まだ若いし」

「大丈夫です。幼いころから空手と合気道をやってますから」

 微笑みながら堂々とする彼女の姿からその芯の強さが伺えた。それを見た西嶌は話しかけたことを少し悔やんだ。

「それは、失礼しました」

「ありがとうございます」

 これ以上続けられず、西嶌は逃げるように店を出て、ジメジメとした空気を掻い潜るようにして家路を歩いた。彼女が男二人を蹴散らす絵を想像した。本当は色々聞きたい。大学の勉強はどうか、家族、兄弟とはどうなのか、将来の夢は決まっているのか、そして恋人はいるのか。そういうことを何の気兼ねもなく、あのレジの前で、聞いてみたいのだ。


 家に帰ると、隣に住む品川保が小柄でガリガリの身体にランニング一枚という姿で玄関の前に一人立ち竦んでいた。品川はもう八十近くの先輩で、昔から口数の少ない物静かな男だ。西嶌が妻を亡くす三年ほど前に相手に先立たれている。地域の朝のラジオ体操でよく一緒になるが、会話はあまりない。

「こんばんは」

 西嶌がいうと、眼鏡の奥で少し目を細めた品川は「あ、どうも、いまお帰りですか」と返した。

「ええ、まあ。どうされました、こんな時間に」

 さきほどの安藤と比較すると、これほど簡単に話しかけられる相手はいない。

 品川は少し黙りこくってからいった。

「実はですね、今日、ひ孫が生まれましてね」

 玄関の明かりが品川の表情を照らす。食べ物をおねだりする赤ん坊のように口を丸く開け、品川は恥ずかしそうに小さく笑っていた。

「それはおめでたい。長女のお子さんですか」

「そうです。大学を出てすぐ結婚しましてね。まさかひ孫を拝む日が来るとは思ってもみませんでした」

「私の孫はまだみんな幼いから、彼らが子供を作るまで自分が生きれるとは到底思えませんな。嬉しさのあまり、寝れないといったところですか」

「それもありますが、逆もあります」

「逆、ですか」

「嬉しいのはもちろんですが、私の残された人生で、今日ほど嬉しい日はもうこないのだろうと思いましてね」

 品川は口を窄めて下を向いた。西嶌にはその複雑な心境がわからなかったが、相手は安藤ではない隣人の品川であったからか、すぐ言葉をかけられた。

「これまでの人生で一番嬉しかったことは」

「それは難しい。たくさんありすぎて選べない」

 即答だ。

「何か他にやり残したことは」

「それなら山ほどあります。ゴルフと野球と釣りをもっとやりたかったと思います。あと、海外に行ったことが一度もないんです。妻が飛行機嫌いでしたのでね。北海道で海鮮を食べたこともないです。池波正太郎の小説もまだ読めていないものが多い」

「本当に山ほどありますね」

「ええ、困ったことに」

「それなら憂う必要はないではないですか。挑戦するものはたくさんある。今日よりも素晴らしい日がありますよ、きっと」

「心の持ちようですね」

「心、ですか」

「心はいつまでも若くありたい」

 突然意味深長なことをいわれたので西嶌は戸惑ったが、品川はやや西嶌との距離を縮めてじっと西嶌の方を見た。

「どうされましたか」

「西嶌さんはまた若くなったように見えます」

 こんな暗い場所で何が見えるのかと西嶌は恥部を隠すかのように顔を歪めたが、品川は目を一層細めて優しい眼差しを向けた。

「心が若いことはいいことです。私もそうでありたい」

「若くなどありませんよ。孫たちとファストフードに行くのが精一杯です」

 一人で毎日のようにそこへ通っていることはいえない。まさか夜中に品川がそんな場所へ来るとは到底思えなかったが、とにかくいえなかった。

「お帰りのところ足止めしてすみません。おやすみ」

 品川は静かにそういって家の中へと戻った。

 西嶌は孫の顔を、子供の顔を、きよ子の顔を思い出した。そして最後に、さっき見たばかりの安藤の柔和な面影を思い出した。

 罪悪感はある。羞恥心もある。

 しかし、充実している。

 まるで青春時代にしか味わうことのできない甘い果実を再び手に入れたかのように、西嶌の心は充足している。

 だが、それは長続きしなかった。

 安藤の姿があのレジから消えたのは、一ヶ月後、八月の終わりぐらいだった。


 きよ子が転移性の腎癌にかかったと聞いてから亡くなるまでの五年間、西嶌の心が安らぐことは一度もなかった。

 西嶌は仕事第一の人間だった。家庭のことはきよ子に任せっきりで、そこに自らの責任は感じていなかった。自分の使命は真面目に働いて安定な収入を得て自分と家族に生活を提供すること、それのみだった。

 思えばきよ子と子供が同時に熱で床に臥していたときも、西嶌は仕事を優先した。子供の運動会と聞いても、無理に休みを取ることもなかった。そんな西嶌にきよ子は何ひとつ文句をいわなかった。実際、子供も父親がそういうイベントに来なかったことに不満はこれっぽちもなかったようだと、子供が大きくなって聞いて、西嶌は安心した。酒、タバコ、ギャンブルには縁がなく、仕事だけを真面目にこなす西嶌を、妻も子供も無害で安心な夫、父親として見ていたのかもしれない。そういう意味で妻も子供も文句を垂れずに自分を受け入れてくれていたのだなと思うと、西嶌は年老いてから少し寂しく思うようになった。

 仕事を退職し、波風も立たない真っ平な人生を見事に歩んできた西嶌にとってきよ子の病気は予定外だった。きよ子は弱音を吐かず、泣き言もいわず、いつもと変わらなかった。

 西嶌はきよ子のこういうところに惚れ込んだのだと気がついたときがあった。嵐がこようが、雷雲が唸りをあげようが、自分も子供も熱にうなされようが夫が帰ってこなかろうが、微動だにしない心の強さ。自分にはきよ子以外ではダメだったのだと、死という現実に直面して初めてそれを思い知り、西嶌はきよ子が死ぬまでため込んできたツケを支払うかのように尽くした。

「あなたの人生楽しかった?」

 食後の薬を服用した後、ベッドに横たわりながらきよ子はいった。薬の副作用で貧血を起こして倒れたこともあった。手足の皮膚がひび割れて痛みに耐えうる日もあった。それを乗り越えてきたきよ子は常に安らかであった。

「私の人生はまだ終わっていないぞ。  お前の人生もだが」

「わかってる。今日までのってこと」

「楽しかったさ。それにいまが一番楽しい」

「私を毎日看病することが?」

「看病という看病はしていない。現に未だにお前が飯を作っているしな。ただ、いままで一緒にいられなかった分、こうやって二人でいられるのが楽しいといえば楽しい」

「あら、そうなのね。そしたら私が死んだら大変ね」

「そういうことはいうな。それより、お前はどうなんだ。楽しかったのか」

「もちろんよ。満足。夫は真面目に働いてくれるし、子供は二人欲しいと思ってたし、薬も効いて楽になってきたし、色んな人に守られてきて、満足満足です」

「そうか」

 その半年後に薬が効かなくなり、二次治療薬で一年治療し、次の薬はあまり効かずに最後は在宅緩和ケアにうつった。医者からいわせると五年の間生きたのは大したものらしい。どうやら妻は満足に生き抜いたようだ。最後の表情を見てそれはわかった。最後の最後まで西嶌のことを心配した妻だった。

 西嶌にとってきよ子との晩年は恥ずかしさもあった。いままでいう必要のなかった本音を語らなければいけなかったから。

 きよ子が亡くなってしばらくの間、西嶌は魂が抜き取られた、ただの肉体の殻になった。気持ちが落ち着くまで時間を要することはきよ子が亡くなる前からわかっていたことだが、ショックは想像以上だった。

 一歩前に踏み出さなければいけない。でも、何をすればいいかわからない。何かしたいことがあるわけでもない。

 このまま孫が大きくなるのを見届け、自分も身体が弱って病気になって、死ぬのみなのか。

 そう思っていたとき、安藤に出会った。彼女は西嶌の心の奥、最も脆いところへ入り込み、老人が死ぬまで味わうことがないであろうと思っていた罪悪感、羞恥心、快楽を与えた。

 安藤が消えて一ヶ月、西嶌はその夜もマクドナルド二階でアップルパイを口にしていた。安藤が勧めたアップルパイだ。

 不味い。

 どうしてこれをおいしいと思えていたのだろう。

 西嶌は半分残ったアップルパイをテーブルの上に置いて、天井を見上げた。店内の明かりがすべて自分の頭上に集まっているかのように眩しく、それが空虚と化した心に沁み込んでいく。

 目を閉じてもその光は視界に割って入ってくる。

 もうここに来ることはなくなるのだろう。彼女がどんな理由でどこに行ったのかも知らない。そのままここを去ることは西嶌にとって屈辱というか、敗北のようで、寂しかった。

 若い男二人に啖呵を切った夜を思い出した。まさかあの二人に原因があるということはないか。安藤の身に何か起こったということはないか。

 最後に不安を拭い切れぬまま、余ったものをゴミ箱へ持っていくと、ちょうど二階へ上がってきた店員が代わりに片づけるという。背の低いポニーテールに眼鏡という若い女性店員は、安藤ばかりに気を取られていたせいであまり気にかけなかったが、時々レジで見かけることがあった。西嶌は一言お礼をいって彼女にトレーごと渡し、階段の手すりに手を掛けたとき、足が止まった。

「あの、すみませんが」

 自分の食べ残しと飲み残しを処理している店員は西嶌の方を振り返り、「はい!」と若い快活な声を返す。

「失礼なことをお聞きしますが、一ヶ月くらいまでレジにおられた安藤さんという女性なんですが」

「あ、はい」

 俄かに警戒心が彼女の表情に浮かぶ。しかし、それくらいでは簡単に引けない。失うものは何もない。

「最近あまり見かけないんですが、どうかされたんですかね」

 彼女は戸惑った色を浮かべたまま、「彼女は辞めました」といった。

「辞めた?」

「はい」

「なぜですか?」

「ええっと、留学、です」

「留学?」

「ここのバイト代で貯めたそうです」

 同い年なのにすごいですよね、といいたげな彼女は無邪気な笑顔を浮かべ、「失礼します」と足早に去ろうとしたときだった。西嶌は突発的に口にしていた。

「彼女の名前は?」

「はい?」

「その安藤さんの名前を教えてくれませんか」

 最後にせめてそれだけは知りたい。

 そこまで元同僚のプライベートはと、複雑な面持ちの店員をよそに、切実な西嶌は懇願した。

「教えてください」

 店員はあきらめた。そしていった。

「キヨコです」

「キヨコ?」

「はい」

 失礼しますといって彼女は逃げるようにして下へ降りていった。

 安藤キヨコ。

 西嶌は再び手すりに手をかけて階段を下っていく。外へ出るときさきほどの女性店員の「ありがとうございました」という声が聞こえたが、いままでのものとはまったく違う。

 夜はその暗さを増していた。しかし、もう夏も終わる。

 留学か。彼女は前へと進んでいたのか。

「楽しかった?」

 きよ子の声がした。

「ああ、楽しかった。ありがとう」

 西嶌は店を離れた。気持ちは不思議と晴れやかだった。

 西嶌は亡き妻を思った。今夜ほど、妻に会いたいと思うことはなかった。

 闇は深くなり、夜はさらに湿気ていた。

 (終)

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