1.Orcus & Nosferatu
朝霧の気配も失せ、連峰の向こうから顔を出した太陽が透き通るような空へと昇り始めたころ、どこまでも広がる草原を一台の乗用車が走っていた。朝露に濡れた草を薙いで走る車は、白いはずの外装が汚れて象牙色へと変色し、傷だらけだ。
多少の起伏だけで車体は派手に跳ね上がり、トランクに積んだ荷物が揺れるのと同時に臀部へも痛みを与える。シートのクッションはもう使い物にならなく、衝撃は直に臀部へと襲ってくるのだ。
車内にはゲームをする音と携帯電話の操作音が常に鳴り続け、紫煙が充満している。
「ヘイム、ゲームの音量下げろ。耳障りだ」
煙草を銜え不機嫌な顔でハンドルを握る男が言う。海蒼色の肩まである髪の奥にある鮮血色の切れ長の瞳は人を射殺すような眼差しをしていて、正面から睨まれればそれだけで立ち竦んでしまいそうだ。
右の耳には時計のピアスがつけられ静かに時を刻み、左の耳には鎌の形をした小さなピアスが揺れている。
「ヤダ。ティルムこそ煙草吸うなら窓開けてよ。服に臭いがついちゃう」
シートに横たわって後部座席を独占しているヘイムと呼ばれた者は、端整な顔立ちが目を引く首輪をつけた青年だった。白い後ろ髪を纏め上げ、長めの前髪を垂らしており、翡翠色の瞳はゲームの画面へと向けられていて、携帯電話の着信音が鳴ると携帯電話を取ってメールを返している。
滑るような絹の肌に高い鼻梁、そして薄い唇の奥に覗く犬歯。その全てが完璧で、美しい。
「窓もぶっ壊れて、動かないんだよ。我慢しろ」
「ヤダってば。ティルムが煙草我慢すればいいだけじゃん」
「てめぇなぁ……なんでお前はそんなに自己中なんだ?」
「自己中? 俺が? なんでだよ?」
本当に不思議そうに言うヘイムの声に、ティルムは煙草のフィルターを噛んだ。
昔、勢いで一緒に旅をすることになってしまったヘイムは、ティルムが一番大嫌いなタイプの人間だった。最悪な利己主義で、自分が楽しいことを最善とし、それ以外を絶対に認めない自分のことした考えられない人間、それがヘイムだ。
さらに他人を痛めつけることに快感を感じる変質者で、ティルムは常にその標的にされている節がある。その上浪費癖まであり、根なし草の旅ゆえに金銭面は常に逼迫しているのに彼は収入が入るたびに服やゲームを買い、携帯電話の使用料も多額だ。
お陰でティルムは煙草を買って携帯電話の使用料を払う以外にお金をほとんど使えない。
「ていうかティルム最近煙草吸いすぎ。俺達ただでさえお金に困ってるんだから、少し控えたら?」
「……俺が煙草吸わなきゃやってけない理由も、俺達がお金に困ってる原因も、どっかの金喰い虫のせいだと思うんだけどな」
「金喰い虫? そんな虫がいんの? さっさと駆除してよ。俺虫嫌いなんだからさ」
「んじゃお前に殺虫剤ぶっかけてやるよ。お望みどおりな」
「俺虫じゃないから」
短く答えてヘイムは着信音を響かせる携帯電話を手に取る。どうやらまたメールが来たようだ。
「ねぇ、俺達今どこに向かってんだっけ?」
「あ? ウィムブルースだろう? それがどうしたんだよ?」
ヘイムは少し考えるような表情をして、やがて運転席に身を乗り出してくる。
「行き先変更、イラムニートに行く」
「はぁ!? なんでだよ!?」
突然の言葉に驚きを隠しきれず、ティルムは口から煙草を落としてしまう。
ウィムブルースはこのリラモア平原の南東、対してイラムニートは北西だ。方角的に正反対に位置している。もうすぐウィムブルースに到着するというのに、今から引き返すようでは到着は明日の朝になってしまう。
「いやさ、ミランダからメールが来てさ、なんかイラムニートで明日から祭りがあるらしくて」
「待て」
「何?」
話しているのを止められ、ヘイムは眉を顰める。
「そもそもミランダって誰だ?」
「金蔓」
その単語だけでティルムは納得した。ヘイムはその淡麗な容姿のせいで、妙に女性に好かれる性質を持っている。最初はそれを鬱陶しがっていたらしいが、ヘイムはやがてその女性たちを利用する方法を考えた。
適当に愛想良く付き合って、適当に一緒にいればそれだけで金が手に入ると。
それからヘイムは女性たちに金を貢がせることを覚え、旅の途中に立ち寄った街で必ず何人も女を作っている。おそらくミランダという女もその一人なのだろう。
「んで、ミランダが今イラムニートにいるらしくてさ、そこでやる祭りがすごくいいらしいんだよね」
「だから行くってか?」
「そ」
嬉々として語る青年に恐る恐る問うと、彼はごく当然のように微笑みながら答えた。
「冗談じゃねぇ! 運転するのは俺だぞ!?」
「いいじゃんか。祭りなんてめっちゃ面白そうじゃん! 俺行きたい!」
「俺はそんなのに興味ねぇ! いまさら引き返すなんて絶対に無理だかんな!」
「ケチケチすんなよぉ。ホントはティルムだって行きたいんだろ?」
子供のようにいじけて頬を膨らますヘイムを無視して、ティルムはアクセルを踏み締め車を加速させる。ウィムブルースに到着さえしてしまえば、ヘイムも諦めてくれるはずだと考え、早めに到着する算段だ。
「……分かったよ」
渋々という様子で、唇を尖らせたヘイムはひねくれた声で言って――ティルムの胸ポケットから煙草の箱を取る。そしてそれを握る。
一瞬にしてティルムの顔が凍りついた。
「このままウィムブルースに行くならこの煙草を握りつぶしてあげる。イラムニートに行くなら、向こうで煙草を1カートン買ってあげる」
魅力的かつ恐ろしい脅迫に、ティルムは苦悩する。
ウィムブルースに行くのならもうすぐだが、煙草がないのは辛い。イラムニートに行くのは面倒だが、煙草がカートンで手に入る。どちらを選んでも辛い選択だ。
「煙草が零になるか、それともたくさんになるか……どっちがいいかなんて決まってるよね、ティルム?」
労力と煙草を天秤にかけ、ティルムは――ブレーキを踏んだ。
「目的地はどこですか、お客様?」
「イラムニートでお願いします」
ヘイムは邪悪に微笑んで、ティルムの胸ポケットに煙草を戻した。
「それじゃお願いね。運転手さん」
肩を叩かれて、ティルムは自分の愚かさにため息をつく。煙草を選んでしまう自分もそうだが、ヘイムを旅の連れに選んだこと自分自身に酷く嫌気がさした。
ティルムは車の方向を転換し、来た道を戻ろうとしてその手を止める。鮮血の瞳が一層鮮烈に煌めき、周囲を窺った。
「ヘイム、分かるか?」
「分かるよ。なんかの気配を感じる」
言いながらヘイムは携帯電話を閉じて、横になっていた体を起こす。
「人と馬が……六組、かな?」
「だな。姿と音が聞こえないのは、無音魔術か?」
「だと、思うね。魔力の匂いがするもん。たぶん術者が一人いるよ」
ヘイムは爬虫類のような翡翠の瞳で周囲を見回し、薄い唇に笑みを宿し犬歯を剥き出しにする。
「どこにいるかは分かるか?」
「分かるよ。俺を誰だと思ってんのさ」
微かに金属音が聞こえた。それはヘイムがホルダーからスローイングナイフを引き抜く音。
「≪ノスフェラトゥ≫」
下げられていく窓の音を聞きながら、ティルムは答えた。
「ご名答」
刹那、ヘイムの繊手が閃き、窓からナイフが放たれる。空を裂いたナイフは、心地よい音を微かに落とし一直線に駆け抜け、何もない景色へと溶け込んでいく。そして遠く離れた場所で埋もれた男のうめき声をヘイムは聞き取った。
瞬間、車を取り囲むようにして六角形を作った、馬に跨る男たちの姿が景色の中から突然現れる。そのうちの一人は心臓にナイフを突き刺され、絶命して馬から崩れ落ちていく。
馬に跨った屈強な男たちは予期せぬ事態に辟易とている。無音魔術が施されていれば、自分たちの姿は見えぬ者だと思っていたのだろう。
だがティルムとヘイムにとって、姿など見えなくても何も変わらないのだ。
「命中だな」
「だね」
返答も短く、ヘイムはドアを蹴り開けようとして、勢い余ってドアが外れてしまう。
「あ」
ヘイムは何事もなかったかのように外へと出ようとするが、ティルムの顔は凍りついていた。
「何やってんだ、お前! それどうすんだ!?」
「んー、後で考えるよ」
それだけ言って、ヘイムはドアを片手に外へと躍り出る。同時に間隙なく響き始める銃声に、ティルムは呆れたように頭をかく。
「マシンガンかよ……」
ティルムは止むを得なく身を屈める。車の窓は防弾仕様になっているが、いつヘイムの壊したドアから弾が流れてくるか分からないので、念のため姿勢を低くして新しい煙草に火をつける。
「……車に傷が増える」
これぐらいでヘイムが死ぬことはないので、ティルムにとって今最大の悩みはそれだった。対してヘイムは弾丸の雨の中で、踊るように草原を駆けていた。
ドアを盾代わりにしつつ、ナイフで弾丸を弾き、僅かな隙を狙ってナイフを投擲する。投げられたナイフは的確に心臓に突き刺さりマシンガンを握ったまま、男は馬の首に崩れ落ちる。さらにヘイムは左側の男に向かってドアを放り投げ、その行方を見届けるよりも早く、ハンドガンを取り出し右側へと発砲する。銃弾は眉間を打ち抜くよりも早く、ヘイムをドアを投げた方角へと同じく発砲し打ち抜く。
当然のように六人は二人へと減り、あまりにも圧倒的な力の差に竦む二人のうちの一人にヘイムは肉薄し、喉元をナイフで切りつけ鮮血を噴き出す屍を蹴って、高く跳躍し太陽を背に下降しながら最後の一人の首も狩る。
一瞬にして圧倒的な交戦を終え、ヘイムは握っていたナイフを捨てて投げつけたドアを拾って車へと戻る。
「ただいま」
「おぅ、おかえり」
憮然とした態度で煙草を吸うティルムは車に傷が増えたことを怒っているらしい。
「窓がもう使いものになんねぇ……」
弾丸をびっしりとつめられた窓を見て、ティルムは紫煙を吐きながら言う。
「……全部外しちゃったら?」
「んなことしたら、みっともないだろうが」
「窓が全部クモの巣だらけの上、ドアまで外れてる方がさらにみっともない気がするんだけど?」
「…………」
ティルムは何も言わずに車を降り、馬の方へと歩いて行く。適当に馬にうなだれる死体を引きずり降ろして、ためつ眇めつ馬を見たあとティルムは馬に跨った。
「なに? 馬に乗ってくの?」
「それしかないだろうが。必要最低限の荷物だけ持って、お前も適当に馬探せ」
その言葉にヘイムはあからさまに嫌な顔をする。
「やだよ、馬の臭いがつく」
「文句言うな。これくらい我慢しろ」
「うふぇー……」
ヘイムはいやいや車から降りて、トランクから必要な荷物だけ取って一番血のついてない馬を選んで跨る。
二人とも馬には乗り慣れていたが、これでイラムニートに向かうのはずいぶんと辛そうだ。それでもヘイムは諦めないだろう。
うんざりしながら二人は馬を走らせる。これは気が遠くなりそうだった。
「ティルムと一緒にいると本当に嫌なことばっか。盗賊に狙われるし、馬に乗らなきゃだめだし……」
「それは俺のセリフで。まさか愛車をこんなところに置いていくことになるとは思ってなかった」
「愛車って、あんなボロクソを? アンティークとも言えないよ」
「うっさい……」




