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この作品には 〔残酷描写〕が含まれています。
苦手な方はご注意ください。

死の体験旅行

作者: ren

  私の朝はいつも、高校に向かう満員電車に乗るところから始まる。何をするでもなく、時折やってくる揺れに気をつけるだけの十分間。運よくそびえ立つスーツの壁の向こうから何の変哲も無い景色が見えた時、私は誰に問いかけるでもなくこう思うのだ。


 ――私は何のために生きているのだろう。



 私の名前は、園田穂香。日本にどこにでもいる、普通の高校生のうちの一人だと思う。少し違うと言えば、中高一貫校に通っていることと、趣味で小説を書いていることと、色々なことに醒めてしまっていること……。


 教壇の前に立つ英語教師の言葉を適当に聞き流しつつ、私は隣の席の人にばれないようにこっそり溜め息を吐いた。


 小学校は公立だったが、医学部を目指すために中学からは私立に通う私。努力のかいあってか、学校の成績的には一応上位層に食い込んでいた。その一方で、中学から所属している吹奏楽部ではフルートに精を出している。家庭事情も悪くは無く、よっぽどのことが無ければ一生お金には困らない生活を送って行くと思う。


 自分で言うのもなんだが、勝ち組な人生。それなのに心は、とても乾いていた。きっかけは、小学校の友達の死だった。


 通っていた小学校は、公立。私は通学路が同じという理由だけで結成された、五人グループの中の一人だった。もっと仲が良い友達は、他にもたくさんいたと思う。それでも確かに、六年間何らかの交流があったのだ。


 一人だけ私立の中学校に入学した私は、それ以降彼女達と特に連絡を取ることも無かった。改めて表面だけの付き合いだったのだと気付かされたが、別に気にも留めていなかった。初めて連絡が来たのは、卒業から二年が経ってからのことだった。


 期末試験を一週間後に控えた、ある金曜日の夜。学校から帰ってきたばかりの私は、部屋着に着替えて自室のベッドの上にいた。何をするでもなく、弄っていた携帯。そこに、突然知らない番号から着信が来たのだ。


 普段なら絶対に出ないであろうその電話の通話ボタンを押したのは、何の偶然だったのだろうか。左耳から聞こえてきたのは、小学校の時の友達の声だった。


「……もしもし、穂香?」


「ああ、美奈子か。 お久しぶり」


 すんなりと名前が出て来たことに秘かにほっとしつつ、私は懐かしいその声に何の気なしに尋ねた。


「突然、どうかした?」


「その……。 今、時間大丈夫?」


「大丈夫だけど」


 なかなか本題を切り出さない、音量を絞った美奈子の声は不安を描き立てるには十分だった。


「あのね……」


「うん」


「小百合が、亡くなったんだって」


「……!」


 さすがに呆然とする私に、彼女は告別式の日程、時間、場所、自分は参加できないことを伝えて電話を切った。


 翌日、私は制服で小百合の告別式に参列した。二年ぶりに会う友達は、誰も変わっていなかった。そして、誰もが神妙な顔をしていた。小百合の死因は、原因不明の突然心停止だと言う。いつも通りに就寝し、翌朝目覚めてこなかったらしい。


 式の間、余りに突然の別れに周りからはずっとすすり泣きが聞こえていた。私はその間……ずっと膝を見つめていた。涙は、出なかった。


 心に映るのは、完全な無だった。悲しいかどうかすら、私には分からなかった。ただただ、お坊さんが詠みあげるお経を聞き流しているだけの一時間を過ごしていた。


 告別式から帰ってすぐ、私はすんなりと日常に戻った。小百合を思い出すことも無かった。だが、何故か心には引っかかる物が残っていた。


 医者を目指していながら、友達の死にも泣けない。そんな自分に嫌気がさしていた。言い訳が出来ないぐらい、自分は冷たい人間なのだと思った。


 勿論彼女は、すでに身近な人間では無かった。同窓会なども無い小学校だったから、もしかしたらこんなことが無ければ一生会わなかったかもしれない。そのぐらい、遠い存在となっていたことは確かだった。それでも確かに、一定の交流はあったのだ。


 二人きりで学校から帰ったこともある。一度だが、家に遊びに行ったこともある。思い出そうと思えばそれなりに、思い出もあった。だが。思い返しても思い返しても、悲しさが湧いてこないのだ。ただ、あの時泣かなかった自分が周りからどう見られていたかが気になって仕方が無かった。


 欠伸でもして、無理やり涙を見せれば良かったのかもしれない。そんなことすら思った。しかしあの張りつめた雰囲気の中では、眠気を感じることも、他のことを考えることも出来なかった。


 そして、ふっと思った。もし自分が死んだら、誰か泣いてくれる人はいるのだろうか――。深く考える前に、自分で無理やり思考を切り替えた。それ以上は考えてはいけない、そんな気がした。


 もしかしたら、こんな思いを抱えていることを誰かに相談出来たら良かったのかもしれない。だが、それも不可能だった。深刻な問題を打ち明けられる程の友達はほんの一握りで、彼女達に自分が冷たい人間だと知られるのは耐え難かったのだ。


 もやもやとした心の内を隠して隠して、日々の生活を過ごすのは辛かった。私はいつでも、不機嫌な顔をしていたと思う。授業中でも、部活中でも、優等生の仮面の下に潜んでいる冷たい素顔が漏れ出してしまわないかと、びくびく怯えていた。


 そんな時、私は一つの授業と出会うことになったのだ。




 それは、この学校で行われている特殊な道徳の授業だった。事前に配られたプリントに書いてある五つぐらいある授業の中から、自分で選択した一つを受けるという物だった。


 こういう物は大体、内容よりも仲の良い友達と集まれるかどうかで決める物だ。私も多分に漏れず、適当に友達と同じ授業にマルを付けて提出した。


 すんなりと受講が決まったその授業の講師は、近くにある医大の学生だった。絨毯張りの大講堂で、三角座りで待っている私たちの前にあるスクリーン。そこには、“死の体験旅行へようこそ”との文字が書かれていた。


「死の体験旅行って何するんだろうね」


「さあ。 死後の世界を見てみよう、とか?」


 冗談まじりに笑う、私たち。この時はまだ、この後にあんなことになるなんて想像もつかなかった。


 チャイムの音と共に、いよいよ授業は始まった。私たちの前に立ったのは、一人の女の人だった。彼女は簡単な挨拶と、この授業を選んでくれてありがとうとお礼を言った。


 ――あの人が、将来お医者さんになるのか……。


 派手さも無ければ、カリスマ性も無い普通の人。それが彼女の印象だった。テレビで見る女医さんは皆、自信満々で尖って見えたから平凡すぎて意外に思った。


 彼女は素朴な顔でにっこり笑うと、初めにルールを確認しますと言った。


「このワークショップの中で、皆さんにマイクを渡して何かしゃべって貰うことがあります。 その時他の人達は、耳を傾けてちゃんと聞いて下さい。 また、マイクが回って来ても、言いにくいことは無理をして言わなくても大丈夫です。 その時はパスを使って下さい」


 その人の発言に、私たちは少しだけざわめいた。


「えー、何かしゃべんなきゃいけないの?」


「パスしたら良いんじゃん、パス」


 外部から来た人ということで、大抵の私語は小さな声で控え目だった。それでも彼女は、私たちが静かになるまできっちり待ってから続きを始めた。


「はい。 それでは皆さんに、今から五種類の紙を五枚ずつ渡します」


 彼女の合図で、前から紙――というか付箋が回ってきた。


「皆さん全員、紙を受け取りましたか? それでは今から、皆さんに何をして貰うのか説明していきます」


 そう言って彼女がスクリーンの方を振り返ると、パッと画面が切り替わり説明のスライドが現れた。


「今から皆さんには、この紙に大切な物を書いていって貰います。 緑の紙には、大切にしている物を。 ピンクの紙には、大切な人を。 青の紙には、好きな場所を。 黄色の紙には、普段大切にしている出来事を。 そして白の紙には、大切な目標を書いて下さい。 全ての紙を埋められない場合は、白紙のままでも大丈夫です」


 えーっと思う間もなく、皆は早速紙に向かって何事かを書き出している様だった。私も遅れてはかなわないと、急いで愛用のシャーペンを握った。


 まずは順番に書いて行こうと、私は緑色の紙を手に取った。


 ――緑は……大切な物。


 特に何も考えずに書いたのは、携帯電話とパソコン。そして、フルートだった。携帯電話は今や手放せない物だったし、パソコンは小説を書くのに欠かせない物だった。


 ――他は、思いつかないな。


 私は緑を埋めるのを諦めて、ピンクの紙に手を伸ばした。


 ――ピンクは……大切な人。


 私は母親と、弟。それに友達の名前を三人書いた。同じぐらいの仲の良さの友達が何人かいるから、誰を書くか一瞬迷ったがそれ程時間はかからなかった。父を選ばなかったのに、特に意味は無かった。


 ――……本当は冷めてるくせに、こういう時だけすぐに書けちゃうところが私らしい……のかな。


 ふっと自嘲の笑みが浮かぶが、慌ててそれを手で隠して私は青の紙を手に取った。


 ――青は……大切な場所。


 自分の部屋、部室、教室。あとは……。


 ――場所……?


 クラブ帰りに良くよるたこ焼き屋さんと、夕ご飯の後に長々と母と喋っている台所を書き加えて私は青の紙を書き終えた。その次は、黄色の紙だ。


――黄色は……普段大切にしている出来事。


 少し悩んだ後、私はさらさらとシャーペンを進めた。小説を読むこと、小説を書くこと、フルートを吹くこと、音楽を聴くこと、友達と他愛も無い話をすること。最後は、白の紙だった。


 ――白は……大切な目標。


 震える手でまず書いたのは、医者、だった。


 ――結局、私にはこれしか無いのかな。


 自分は医者には向いていないのではないかと悩んでいるわりに、じゃあ別になりたいものがあるのかと聞かれればそれはノーだった。……というか、今まで改めて考えたことも無かった。


 ――悩んでる様で、全然悩んでなかったんだな……私。


 少しだけ心が晴れた気がして、私はさくさくと続きに取り掛かった。卒業、大学合格、結婚、出産と無事に書き上げ、最後に残るのは緑の二枚の紙だった。


 ――大切な物……大切な物……。


 いつしか大講堂には、クラシックのBGMが流れていた。すでに書き終わっている人もちらほらいる様で、私は少し焦った。その一方で、書くことが無いと大学生達を困らせている人もいる様で……。


「大切な物とか、私一個も無いんですけど……」


「何も無かったら、無理に埋めなくても大丈夫だよ」


 埋めなくても良いと言われても、私は何となく空けたままにしておくのは嫌だった。私はふっと、使っているシャーペンに目を留めた。


 このシャーペンは、中学受験中に伸び悩んでいる時に自分で買った物だった。それ以来、気付けば五年も使い続けていることになる。


 ――シャーペン、と。


 そして、もう一つ。私の左手には、中学合格祝いにおばあちゃんに買って貰った腕時計があった。


 ――この腕時計が無いと何か落ち着かないんだよね。


 逆に何で今まで思い出さなかったのだろうと思いつつ、私は最後の紙を埋めた。



 皆が紙を書き終えるのを待って、大学生はまたマイクを持って話始めた。まず初めに行ったのは、自分で書いた二十五枚の紙を並べることからだった。


 私たちは円を描く様に絨毯に座り、それぞれ自分の目の前に5×5になる様に五種類の紙を適当に並べた。


「今から皆さんには、死の体験旅行をして貰います。 私がある物語を読んでいきますので、途中で紙を何枚か、丸めて捨てて下さい」


 ――何だ、それだけか。


 リラックスした気分になっていた私は、彼女の言葉にさして考えもせずにそう思った。


「途中でしんどくなってしまったら、いつでも抜けて構いません。 ……それでは、始めます」


 彼女はそう言って、マイクを置いた。BGMが、より静かで、物悲しい物へと切り替わった。彼女は静かだけれど、よく通る声で淡々と物語を読んで行く。


「ある秋の日でした。 学校帰りに、あなたは突然、普段とは違う頭痛を感じ、そのまま倒れてしまいました。 ……次に目を覚ましたのは、病院のベッドの上でした。 あなたは病院の先生から、脳に癌が見つかったことを知らされました」


 水を打ったかの様に静まりかえる、大講堂。一息ついた彼女は、無慈悲にもこう言った。


「では、五色の紙から各一枚ずつを取って、丸めて捨てて下さい」


 おずおずと動き出す、私たち。私は崩していた足を、正座にした。


 ――……捨てる。


 今やっと、大切だと気付いた物があった。それを捨てるのかと思うと、無性に心が痛んだ。悩んだ結果、私が選んだのは時計、友達の一人、たこやき屋さん、音楽を聴くこと、出産だった。


 何となくするんだろうな、と思って書いた“出産”をぐしゃりと潰すのには全く抵抗が無かった。一方で、友達の名前を書いた紙を潰すのは……本当に辛かった。嘘でも、本当に会えないのだと思うだけで苦しかった。


 しかし、物語は続いて行く。


「癌を取り除く手術は成功し、あなたは希望を持ちました。 しかししばらくして、あなたは再び体調を崩し、検査の結果、癌が再発したことを告げられました」


 ――……。


「左隣の人の白の紙を一枚、黄色の紙を一枚ずつ捨てて下さい」


 ――……!


 皆一様に、自分で捨てるのではないということにショックを受けた。……それでもゲームは、進んで行く。固まってしまった私の右隣に座る友達が、私の前に腕を伸ばした。


「――っ」


「……え?」


「ううん……何でも無い」


 彼女の手が伸びた瞬間、私は不思議な感覚に囚われた。まるで、自分の身体から何かを剥がされる様な、そんな感じだった。恐る恐る、何の紙が無くなってしまったのか確認すると……それは小説を書くことと、医者だった。


 ショックなことはショックだったが、私はそれを淡々と受け止めた。いや、本当はショック過ぎて深く考えたく無かったのだと思う。それに気付く代わりに、私は隣の人の紙を捨てた。書いてある文字は、読まなかった。


 そして物語は進んで行く。


「化学療法を受け、自分は病人だと実感したあなたは抑うつを感じました。 あなたは何事に対しても、楽しめなくなりました」


 ――……。


「青、ピンク、緑の紙を一枚ずつ捨てて下さい」


 ――来たか。


 出来たらもう、これ以上紙は捨てたくなかった。しかし現実は残酷だ……。私は少し、捨てることを受け入れつつあった。そして選んだのは、パソコン、弟、教室だった。


 ふーっと息を吐き、呼吸を整える私。選べても、捨てる瞬間はやはり辛かった。


「治療の結果、多少体調が回復したあなたは希望を持ちました。 しかし、再び鋭い痛みに襲われました」


 ――ああ、私はこれから死ぬんだな。


 そう思った。癌という単語を聞いた時から、薄々感じていたこと。それは段々現実味を帯びてくる。


「何色でも良いので、紙を三枚捨てて下さい」


 ――良かった。 友達を捨てなくて良いんだ。


 何色でも良いという言葉は、皮肉なことに私に安心感を与えた。迷わず選んだのは、結婚と大学。今の状況で、正直大学も結婚もどうでも良かった。


 ――結婚する相手もいないしね。


 そして、もう一枚にはシャーペンを選んだ。


 ――大学に行けないなら、勉強するためのシャーペンは要らない。


 こうして、大切な物のうち半分は早々に捨てられた。その中にはすでに、絶対に捨てたくないものが含まれていたが……。これが、死というものなのだろうか。


 物語は、まだ続いて行く。


「検査の結果癌が成長していたことが分かりました。 あなたは、エンドオブライフについて考えることが大切だと告げられました」


 ――もう、助からない……。


 私は膝の上で、ぎゅっと手を握った。


「何色でも良いので、紙を四枚捨てて下さい」


 ――四枚も……。

 もう、迷う程の選択肢も無かった。私は先程迷って残した卒業を、まず初めに捨てた。そして……人を捨て

ることは、なかなか出来なかった。私は場所の中から、部室と台所を捨てた。


 ――残り一枚……物か、出来事か。


 物にはフルート、出来事にはフルートを吹くことがあった。


 最近はすっかりフルート熱が冷めている私だったが、捨ててしまうことにはとてつもない抵抗があった。一応、週一では必ず吹いているわけだし……。


 迷いに迷った結果、私はフルートを吹くことを手放した。吹くことは勿論大好きなのだけれど、仮に吹けなくなったとしても絶対に捨てたくない。そう思ったのだ。


 ――紙の残りも、少なくなっちゃったな……。


 明らかに寂しくなってしまった目の前を見て、思わず溜め息が漏れた。


「痛みが激しいため、あなたは緩和ケアセンターで残された時間を過ごすことになりました」


 その言葉を聞いた瞬間、痛まないはずの全身に電気が走った気がした。


「何色でも良いので、紙を五枚捨てて下さい」


 ――いよいよ……。


 もう、ほとんど躊躇いは無かった。自分の部屋を捨て、小説を読むことを捨て……。残ったのは、母と、友達二人と、携帯と、フルートと、友達と他愛もない話をすること。


 この中から三つを、捨てなければならない。一番初めに捨てたのは、絶対に手放さないと思っていた携帯だった。その次に、フルート。さっきは絶対捨てないと思っていたのに……。


 残る一枚に、私は友達と他愛ない話をすることを選んで捨てた。もう、話すことも出来ない程体力は残されていなかったと思ったのだ。


 ……残されたカードは、全て大切な人だった。


「痛みがコントロールされ、あなたは家族や友人と残された日々を過ごしますが、呼吸が苦しくなり、残りの時間が少なくなったことに気付きます」


 ふっと、私は目を閉じた。じわり、じわりと涙が滲んでくるのが自分でも分かっていた。


「全ての紙を、捨てて下さい」


 誰も、動かなかった。二十五枚の紙から、たった三枚残った紙。そのどれもに、大切な人の名前が書かれていた。


 ――捨てたく、無い。


 そう思った時、誰かがくしゃりと紙を潰した音が響いた。その音に釣られる様に、固まっていた人が、死に向かって動き出す。


 くしゃり、くしゃり。


 私も震える手で、ピンクの紙に手を伸ばした。初めに、友達を。次に、もう一人の友達を。……最後は、母だった。


「あなたは、死を迎えました」


 この世から、私は消えた。気付けば私は、静かに泣いていた。……自分が死んだから、泣いたのではない。もう二度と、大切なものに出会えないことが悲しかったのだ。


 しばらくして、悲しいBGMが消え、大学生が話し始めても私の涙は止まらなかった。


「皆さん、安心して下さい。 皆さんは何も、喪ってはいません。 捨てたカードを、自分の手に戻して下さい」


 その声に私たちは、我先にと丸めて捨てていた紙を元に戻した。


「では今から、グループでディスカッションをしましょう。 紙を捨てた時にどう感じたか、何を捨てることが最も難しかったか、今日の感想などについて皆で話し合って下さい」


 完全に気持ちを切り替えて、私たちはディスカッションに励んだ。


 私はこの授業の中で、ふっと物の怪が落ちた様な気がしていた。たった二十五個の中でも、進んでみれば全てに愛着があるわけでは無かった。一生会えないと分かっていても、悲しささえ湧いてこないこともあった。


 ……残念ながら、百合子は私の大切な人には入っていなかった。それだけのことなのだ。


 逆に、本当に別れが辛い物もあった。出来るなら、この先、卒業して別れ別れになっても、ずっと大切な人に入っていて欲しい。そう思った。


 全ての物を、大切に思うことは出来ない。だから、本当に大切な物を大切にしよう。


 それが、着飾ることの無い、私の本音。死の体験旅行を終えた私は、ほんの少しだけ自分自身のことを知って日常生活へと帰ったのだった。








 死の体験旅行は、元々アメリカのホスピスで医療従事者向けに始められたものです。私がこのテーマを知ったのは、とあるクラブに入ったのがきっかけで、高校生にいのちの授業をすることになったからでした。

 自分自身でも実は、生きている実感があるかどうかなんて分からない。こんな状況で授業なんて出来るのだろうかと、まず思いました。

 そのクラブ自体は何年か続いているので、去年の先輩がやったことをそのままやればどうにか形にはなります。でもそれは、何となく嫌でした。実際自分もその授業を受けたことがあるのですが、正直なところあまり感情が入らなかったのです。あと、どうせなら独自性を出したいという思いもありました。

 そこでネット上を探して探して探した結果、このテーマに行きついたのです。実はこのテーマ、前の前の前の授業ではすでに使われていた様で、結局は二番煎じかよ、というオチが付いてしまいました……がそれはさておき。

 勿論このまま高校生にドンと差し出して、やって貰うには少々無理があると思います。とりあえず、時間が足りない。重すぎる。その他、色々……。

 もしかしたら本番までにもっと良いテーマが見つかって、蓋を開けてみたら全然違うことをやっているかもしれません。それでもしばらくは、ずっとこのテーマで自問自答を繰り返していると思います。

 

 もし良ければ、皆さんが受けた授業の中で心に残った物を教えて頂けませんか。


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[一言] 初めて感想欄に伺います。 お久しぶりです。何気なくお気に入りユーザー様達の新着一覧を眺めていて、題名に惹かれて拝読しました。全体のテーマが主人公が「生と死について」を向き合うもので、話も…
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