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とらわれた皇女

二条院では、といちの女房達から方違えに寄るとの事前連絡があった事もあり、珍しく東宮自身が、薫と共に院の門前まで迎えに出ていた。

二条院は門番に至るまで人払いされ、殊の外閑静であった。

 車が到着すると、女房に促されるままにふらふらと、といちが下乗した。

 幽婉なる紫の衣は露に濡れ、濃艶なる黒き髪は、焼香で燻らされた暗紫の襲に嫋嫋として、白雪の様な肌理は深き哀惜に紫立ち、といちが幢幢として佇立する。

随従する女房や女官が、そこはかとない主の様子を心配そうに見つめると、東宮に向かい深々と低頭した。哀愁を帯びた南風に、焼香の百歩の移り香が、切々と匂い立つ。

 東宮は、毅然と腕組みをしたまま門柱を背に凝立していたが、波間に漂う浮き草の如く揺揺とした妹宮を一瞥するなり、一声を発した。

「といち!」

 瞬間、我に返ったといちが、兄宮を見上げた。

「……兄上、薫殿」

 哀哀として、何とも悲痛なる声だった。

 哀絶なるといちに、東宮に侍立していた薫が、哀憫に満ちた眼差しを向ける。

薫が、皇女の背後で恭謙している女房達に歩み寄ると静穏に微笑んで労を労い、別室に控えて寛ぐ様に促した。薫に案内され、大勢の女房達がその場から居なくなると、再び二条院は水を打った様な静けさを取り戻した。

 惘惘と佇むといちに向かい、東宮が静かに口を開いた。

「……先程、紗霧を殺した犯人が捕まった」

 といちが双瞳を大きく瞠り、兄宮の顔を凝視すると、その色を失った。

「昨日話題に出ていた菖蒲の君が、嫉妬に駆られて犯行に及んだらしい。……紅蘭の悪い冗談が、現実になってしまった」

 東宮が、淡々とした口調で事実を告げる。

「……」

 急転直下の衝撃に、蒼然としたといちが無言のまま東宮に歩み寄ると、兄の胸にこつんと頭をもたれる様にうつむいた。東宮が軽く嘆息すると、自分の胸元にも満たない小さな妹を見下ろしながら、困惑顔を見せた。

「……悪かった。……実は、紅蘭も衝撃が強過ぎて、寝込んでいる」


 戻り来た薫と共に、三人が東宮の私室へと向い、廊下を歩く。厳重な人払いのせいか、床板を踏み締める自らの足音以外はしんとして、物音ひとつしなかった。

 沈黙を破り、東宮が口を開いた。

「しかしながら……嫉妬とは、怖いものだな。……聞けば、結婚祝いを持参したという口実で紗霧の屋敷に赴き、紗霧と二人になった時を見計らい、殺害した様だが……」

 東宮が大きく溜息を吐くと、無言になる。

といちが足下を見つめたまま、沈痛な面持ちで呟いた。

「そんなにも深く人を愛せる人が……人を……殺められるものなのかしら……」

 沈然として、といちが再び黙り込む。

 ゆったりとした歩調で歩きながら、淡然として東宮が答えた。

「俺も信じたくはなかったが……あれだけ証拠が出たのでは、疑いの余地が無いな」

 事件の経緯について詳細を知らない様子の薫が、その怜悧な瞳を向けると東宮の言句に傾注する。配下の諜報員より独自に情報を得ていた東宮が、話を続けた。

「紅蘭が口にしていた噂は、宮中ではとうに流布していたものであったし……。昨晩、彼女が紗霧の家へ訪れたのは、大勢の侍女達が目撃している。おまけに、菖蒲の君の私室からは、血染めの短剣が発見される始末……」

不意に、薫が口を挟んだ。

「大津」

東宮が眉を上げると、何だ? とばかりに薫を見遣る。

「――彼女は、自首したのか?」

 薫が鋭敏な瞳で東宮を凝視する。

「……いや、巷の噂や昨晩の事で検非違使が彼女の家を調べた所、証拠品が出たから確定したらしい。本人は現在の所、否認し続けている様だがな」

 薫の懸念に気付きながらもさして気に留めず、東宮が自分の知る事実を忌憚なく告げる。話を聞き終えた薫が、怪訝な顔で静黙した。

 ……腑に落ちないな。どうも話が上手過ぎる。皆が周知の噂なら、本人も当然耳にしている筈であろうし、犯行に及べば、真っ先に自分が疑われる事ぐらい分かるだろう……。それに、いくらなんでも殺害に使用した凶器を証拠とばかり、これ見よがしに残しておく愚挙も気に掛かる。……深怨であれば、あり得る事かもしれないが……。

「おい、薫!」

不意に呼ばれ、ふっと思考が中断した。薫が顔を上げ、呼声の方向に目を欹てる。

いつの間にか私室に着き、紅蘭が寝込んでいる奥の部屋に妹宮を通すと、こういう場は苦手だとばかり戻った東宮が、私室前の庭に出て、何やら熱心に自分を呼んでいた。

 一体何の急用かと注視すると、東宮が心機一転、爽やかな口調で薫を誘った。

「鬱々していても、仕方無いだろう? 天気もいいし、気分転換に蹴鞠でもしようぜ!」

 能天気を極めた東宮の突拍子も無い発言で、思考を乱され、すっかり調子を狂わされた薫が端麗な眉を顰めると、盛大な溜息を吐いた。



 紅蘭は、朝一番で紗霧の訃報を聞いた。

昨日の今日という出来事であり、況してや自分の悪乗りで発した冗談が、悪夢の様な現実になってしまった事に、紅蘭は心中深い痛手を負っていた。

自室に居ると、昨日の紗霧の言葉や表情、和気藹々とした談笑に至るまで、何ともはや生々しく、微々細々に渡り思い出されて胸が張り裂け、今にも気が狂いそうだった。この鬱結とした居た堪れない空間から逃れたい一心で、急急と二条院に赴いたのである。

 着の身着のまま、取るものも取りあえず、悲泣して駆け込んだ紅蘭に、東宮は黙然としたまま何も聞かず、唯彼女の肩を軽く叩くと、入れよ、とばかり、二条院の中で一番奥まった場所にある閑静な小部屋に通してくれた。

 紅蘭は、部屋の隅にうずくまると、ひたすら涙した。

この部屋の窓からは、薫が趣味で手入れしては愛でている中庭がよく見えた。今の季節は水路に沿って植えられた紫陽花が、青藍や薄色、紫に咲き誇り、ちょうど見頃を迎えていた。慈雨に浄化された純白の紫陽花が、雲ひとつ無い蒼天に映え、醇雅なる四片を幾重にも時めかせながら豊麗に挺立する。翠雨の名残は瀼瀼として辺りを清幽たらしめ、燦燦とした陽光に真珠の如く煌いた白露が、潤いを帯びた深緑の葉からほろりと零れ落ちる様は、真に幽艶であった。

 膝を抱えて座り込んだ紅蘭は、時が経つのも忘れ、窓外の静謐な景色に見入っていた。

……何とも、眩しかった。

炳乎とした日の光が、何だかとても切なくて……胸が、痛かった。

彩光は燦爛として、林立する紫陽花に無限の光彩を与えていた。

爛漫として七色に随喜する紫陽花の、此の世のものとは思えぬ景色に、紅蘭が双瞳を潤ませた。浄土を思わせる光景は、荷葉に月の雫を戴いた自邸の夢幻なる蓮池に似て……いかんともなく、昨日を思い出させてしまっていた。


ふと人の気配を感じて襖を振り返ると、目を真っ赤に腫らせたといちが佇んでいた。

といちを見遣り、紅蘭が再び双瞳から涙を溢れさせる。緘黙していたといちが、紅蘭を見つめると唇を震わせた。二人の姫君は寂寂と歩み寄ると、互いにその存在を確認するかの様にしかと抱き合い、言葉を交わす事無く、肩越しに慟哭した。

 それから……どれだけ時間が過ぎたのだろう。


夕餉の時間を過ぎても、といちと紅蘭の部屋からは、何の物音もしなかった。

といちに随行した女房達が時折、東宮侍従を通じて皇女の様子を尋ねると、鷹揚なる東宮が、湛然と回答した。

「深く、哀惜していたからな。今頃は疲れ果てて、寝ているのではないか? ……まあ、放って置け。今日は、といちも紅蘭も泊まって行けばいい。お前等も、滅多に無い外出なのだろう? いっそ休暇のつもりで寛げばいい」

豪胆な東宮に、といちの随従が困惑顔になる。豪放磊落な言葉に半ば困惑しながらも、かと言って、自分達が気落ちした皇女の為に何か出来るという訳でもなく……今の所は、悠然と様子を見守る東宮に、従わざるを得なかった。


長日も疾うに暮れ、夜気爽やかなる清宵となっていた。

東宮は、自室で薫を相手に囲碁を愉しんでいた。

一局終えた所で、流石に二人の姫君を憂慮した薫が、徐に立ち上がると姫君の部屋に歩み寄り、優雅な仕草で襖の外にふわりと座ると、清麗なる声で尋ねた。

「紅蘭、起きているのか? ……朝から何も食べていないんだろう? 少し、こちらに出て来て、何か食べないか?」

暗暗とした室内から、すっかり滅入り果てた紅蘭が、弱弱しく呟いた。

「……ありがとう、薫。……でも、いいわ。今は何も……口にしたくないの」

快活な普段からは想像すら困難なほど消沈した声に、やれやれこれは重症だな……とばかり心配顔になると、薫が再び声を掛けた。

「といち様も、起きておいでなのですか? 紅蘭とご一緒に、お出ましになられたらいかがです? ……何でも、お好きなものを料理しますよ」

今度は、といちがさめざめと啜り泣きながら、ようやく応えた。

「薫殿……お気遣い、ありがとうございます。……でも、私も姉様同様、とてもそんな気分になれません……」

薫がふうっと深い溜息を吐くと、さながら天の岩戸だな……とばかり困惑した。

神々は、面白おかしく騒いで天照大神の関心を引いたが……この場合、そうはいくまい。

黙坐したまま、薫が思考を巡らせる。


薫の戻りが遅い事に、痺れを切らした東宮が奥の間に向うと、襖の前に端座したまま黙考している薫を不思議に思い、声を掛けた。

「何だ? 薫……一体、どうした?」

背後で不意に発せられた東宮の一声に、大声はまずいとばかり振り返った薫が、静黙したまま夏扇を広げると、東宮の耳元に囁いた。

『……依然として、気鬱が甚だしい様だ。流石に、一日経つからね。何も、食べていないだろう? 何でも少し口にすると、そのうち元気も出るというものだが……。さて、どうやって出て来て貰おうかと思ってね』

眉を顰めた東宮が、辟易として薫を見遣る。

『甘いな、お前! そんなもの、放って置けばいいだろう! いくら何でも、飢える前には何か食べるに決まっている。今はいらないと言うなら、構わず放って置け』

明快なる東宮に、苦笑を浮かべた薫が反論する。

『お前の基準で考えるな。お前の体力ならそうかもしれんが、相手は姫君だ。もともと小食の上に、傷悴したとあればなおの事、体力を奪われるというものだろう?』

ふんと鼻を鳴らした東宮が、平然として言葉を返した。

『……ならば簡単ではないか。襖を取っ払って、何か食べろと、引き摺り出したらいい。目の前にあれこれ並べてやれば、そのうち腹も減ってくるだろう。何を悩む必要がある?』

強暴無比なる回答をさらりと宣った東宮に、だからお前は全く駄目なんだ……とばかり絶望した薫が嘆息する。

『姫君のお部屋だぞ? こちらからでは、どんな様子かも分からないというのに、そんな乱暴な手段が出来る訳ないだろう? ……ますます精神的にまいるというものだ』

東宮が眉を上げると目を欹て、薫を見遣った。

『ふん……色々と面倒だな! ならば、どうするつもりだ?』

『そうだな……』

 暫し黙思した薫が東宮に何事かを耳打ちすると、やがて二人は静かにその場を後にした。


一刻程経ち、東宮が奥の間の前に立つと、はきとした声を掛ける。

「おい、といち、紅蘭! 出て来いよ!」

 ややあって、といちが悄悄と返事した。

「兄上……。私も姉様も、とても滅入っていて……。今宵は、紗霧のお通夜のつもりで、こうして二人で静かに過ごしたいと思います……」

 涙も枯れ果て、陰暗とした声だった。

「来ないのか? ……ならば、入るぞ!」

 言うが早いか、勢いよく襖を開いた東宮が踏み入ると、部屋の片隅に踞座した二人の姫君は、奥の窓辺に屏立する左右の柱に凭れ、しんみりと座っていた。

窈然とした灯火は微微として幽冥に瞬き、二人が惨然と泣き腫らした顔を緩慢に上げると、東宮を漠然と仰視する。

「……やれやれ。この上なく、辛気臭い顔だな!」

 颯爽とした東宮が、嘆息する。鋭利な双眸を転じて欹て、颯然と舞い込んだ一陣の清風に火勢を取り戻した灯火に歩み寄ると、ぐいと引き寄せ、ためらう事無く吹き消した。

 眼前が、ふっと暗くなる。

呼応するかの如く、奥の間周辺の明かりが、何故か次々と消え入った。

煥乎とした庭の篝火も一斉に消え失せ……辺りは一瞬にして、冥冥とした暗闇となった。

「いいぜ、薫」

 東宮が、口を開いた。

 昏冥に、ようやく目がなじんだ様だった。幽幽とした蒼黒の室内に、密やかな清光が射し込むと、仄かな人影が蕩然と浮かび上がる。

清静とした衣擦れの音に耳を澄ませると、薫らしき人の気配が朧げに感じられた。

嬋娟たる三日月の閑寂なる静夜に、幽かな足取りで現われた薫が凝立する。静寂の内に、両袖をふわりと広げると、手にした扇で袖の内側を振り扇いだ。

婉麗なる翠の星彩が、冥暗なる空間に、蕩蕩と舞い上がる。

柔らかな翠玉の清暉が、或いはつき、或いは消え……幽明なる瞬きは恰も星躔の如く、ゆったりとした軌道を描いて散満した。

「……まあ」

「……蛍……」 

虚空を振り仰いだ紅蘭が、爛漫とした蛍を見つめながら、燦然と手元に舞い降りた翠の粋美に、陶然とする。といちは、明滅しながらふわりふわりと舞う蛍の幽艶なる姿に心惹かれると、暫し、憂き事を忘れた様であった。

「……庭に、出ないか?」

静黙していた薫が微笑むと、やんわりと二人を(いざな)った。

「ほら、来いよ!」

 静観していた東宮が、その手を二人に差し出した。

 人を和ませる様な清麗なる薫の美声と、雄爽なる東宮の心強い手に誘われると、二人の姫君はようやく重い腰を上げ、促されるまま部屋を出た。


 晴明なる庭は、縷縷とした三日月の柔らかな薄明かりに照らされて、辛うじて足元が見える程度の仄暗さだった。流石に慣れた足取りの東宮が先頭を歩き、うつむきかげんに歩く二人の姫君が、時折背後の薫に助けられながら東宮に続いた。

東宮が水路近くまで歩み寄ると、不意に足を止め振り返る。足下に傾注していたといちが眼前の兄の背にこつんと当たるなり吃驚すると、顔を上げた。

「……わぁ……!」

 といちが、思わず嘆声を漏らす。

「……これは……凄いわね……」

 紅蘭が、ほうっと深い溜息をつくなり、感嘆した。

水路に沿って林立する紫陽花は、清けき月明かりに夢幻に照らし出され、紺藍なる夜陰に紫立ち、数多の蛍が縦横無碍に天地を浮沈しては輪舞する。

ひと際、美しい夜だった。


「……でも、儚いわ……」

 紅蘭が声を震わせると、うつむいた。

嫋嫋とした夜風が、哀哀として吹き抜ける。

「儚い……か。確かに、ほんのひとときの命だな。……だが、俺達だってそうではないか」

 静かに東宮が呟いた。

 紅蘭が涙に濡れた顔を向け、東宮を見上げる。

凛として佇んだまま、神妙な面持ちの東宮が、飛び交う蛍をじっと見つめていた。慈愛に満ちた薫が、穏やかに微笑する。

「……限りある命だからこそ……斯くも美しいのかもしれないな……蛍も、人も」

暫し静黙していた東宮が、薫の言葉に頷いた。

「そうだな……精一杯、輝いている。……だからこそ、美しい。……だからこそ、こうして人の心を打ち、感動させる事が出来るのかもしれないな」

 といちが寂寞とした顔を上げると、ふと呟いた。

「……紗霧は、思い切り輝く事が出来たのかしら……。無念の思いを抱いて……逝ってしまったのではないかしら……」

 小さく華奢なといちの肩に手を置くと、東宮が温柔な眼差しで、真摯に答えた。

「そうだな……。最期は、正直……無念だったかもしれない。でも、懸命に輝いていたのではないか? あんなに、幸せそうだったではないか。お前達に祝って貰って……」

 嗚咽していた紅蘭が東宮に向き直ると、泣き噦りながら言葉を返した。

「……でも、幸せの絶頂で、摘み取られてしまったじゃない! ……どんなに辛かったか!……どんなに悲しかったか! ……そして無念だったか……。私は絶対、許せないわ!」

 溢れる感情を抑え切れず慟哭すると、紅蘭が叫んだ。

「蛍は……次に連なる命を残してから、天寿を全うするのに……。紗霧様は何ひとつ、残せなかったのよ! ……我が子を胸に抱く事も無く……非業にも命を落としてしまった! ずっと続く筈だった幸せを……未来を、突然断たれてしまったのよ! 何て惨い……。私は、断じて許せないわ! こんな事は、あってはならない! 絶対、許せないわよ!」

 悲憤の余り激昂し、慷慨極まった紅蘭が、小刻みに肩を震わせる。

憐憫に満ちた薫が、紅蘭の遣る瀬無い心中を慮ると、背後からそっと……紅蘭の繊麗な肩を抱き寄せた。紅蘭が思わず言葉を詰まらせると、後背の薫に体を預けたまま……ぶわっと涙を溢れさせた。

「姉様……」

 といちが紅蘭に歩み寄ると、どうしようもなくなって……泣きながら紅蘭に抱き付いた。そして二人はひと頻り、共に激しく泣き崩れた。


二人の泣き声が嗚咽に変わるのを待つと、薫がゆったりと口を開いた。

「紅蘭、紗霧殿は……決して、何も残さなかった訳ではないよ」

 紅蘭とといちが噦り上げながら、穏やかに微笑む薫を見上げる。

「紅蘭とといち様の心に確と……思い出と共に、その思いを残されていった」

 薫が誠意を尽くした態度で二人に向き直り、悠然と語り掛けた。

「……思い?」

 薫の清澄なる瞳を熟視すると、紅蘭が問い返す。柔和に微笑んだ薫が、頷いた。

「そうだ。長年紗霧殿と共に居られたといち様なら、多分感覚的にお分かりになると思うが……。紗霧殿のお考えやお気持ち……それを、あまたある思い出と共に『思い』として残されていった筈だ。それに……子については、必ずしも誰もが持てる訳では無いしね」

薫の心慮が何となく分かる様な気がして、といちが薫をじっと見つめる。

「確かに紅蘭の言う通り、彼女は真に不本意な形で、他人の手に掛かり急逝してしまった。でも、だからと言って、紗霧殿が今迄残されてきた足跡や思い出、その思いまでが消えてしまった訳ではないのだよ。それは、我々が生きている限り、絶対に消される事の無い永遠の記憶であり……紗霧殿がこの世にちゃんと存在していたという、確固たる証でもある」

 紅蘭とといちがふと泣くのを止めると、薫の言葉に聞き入った。

「そうした紗霧殿の『思い』は……身近に居らしたお二人が、誰より深く理解していると思うが……。私達は生き証人として紗霧殿の『思い』を継承しつつ、我々本来の天寿を、精一杯全うしなければ……。誰より紗霧殿の『思い』を知る貴女方が嘆いてお痩せになり、儚んで紗霧殿の後を追う様な事にでもなれば……それこそ紗霧殿の『思い』も又、そこで永遠の死を迎えてしまう事になる。そうなれば……紗霧殿の御魂もお二人を心配なさって、安慮を得て成仏という訳には行かなくなってしまうだろう」

 薫が温雅に微笑み二人の姫君を見つめると、恩情に満ちた瞳で言葉を継いだ。

「紗霧殿は……最期こそ悲劇であられたが、彼女の人生は、決して嘆かわしいものでは無かった筈。大いに喜びに満ち溢れていたのではないですか? 今夜がお通夜であるならば、私も大津も知らない彼女の思い出話を、沢山聞かせて貰いたいものですね!」

誠実な薫の心暖まる言葉に、二人の姫君が真に久し振りの笑顔を見せた。

東宮がふっと微笑むと、溌剌とした声を掛けた。

「ほら、空を見てみろ!」

 東宮の言葉に、総容が、天を仰いだ。

「わあっ!」

 といちと紅蘭が、思わず歓声を上げる。満天の星空には、白月の薄光を物ともせず、見事な天の河が掛かっていた。降り注ぐ星の雨に、といちがそっと紅蘭に囁いた。

「紗霧も、今頃は……天に昇ったのかしら……?」

 涙を拭い、天を見上げた紅蘭が答える。

「ええ。……きっと天翔けて、私達を見てくれていると思うわ。……ね、薫」

 薫が温容に微笑むと、二人の姫君を促した。

「さ……では、何か食べながら、思い出話を聞かせて貰うとしましょうか」

 といちと紅蘭が顔を見合わせ、そう言えば……と、急に空腹である事を自覚した。

「何だかとても……お腹が空いてきたわ」

「姉様、私も……。泣き過ぎたせいか、とても喉が渇いてしまいました」

いつもの調子を取り戻した二人の姫君に、東宮が呆れ顔でくっくと笑った。

「今頃、気付いたか! ……全くお前らは、始末が悪いな!」

 四人は藹藹として部屋に戻ると、食事を取りながら追憶に耽り、紗霧の思い出話に花を咲かせると、以て紗霧のお通夜とした。



 翌日――。薫と紅蘭は朝議に出席の為、早朝に二条院を後にした。

常常とばかり欠席を決め込んだ東宮が、といちの様子を見に奥の間へと顔を出した。

「といち、入るぞ」

「兄上!」

 鬱屈とした昨日とは別人の如く、といちが陽気に呼応すると嬉しそうに几帳を上げた。

「何だ、寝ていなくていいのか?」

 足を踏み入れた東宮が、といちが端坐している事に驚くなり、目を瞠る。

「もう、大丈夫よ!」

 といちが莞然として兄宮に上座を勧めると、凛として口を開いた。

「兄上! 私……今日、もう一度紗霧の家に行って、ちゃんと最後のお別れをしてくるわ。昨夜、兄上と薫殿に慰めて頂いて、随分落ち着いた気もする反面……いまだに、とても信じられないの。……紗霧が、もういないなんて……」

 鋭敏な東宮が、といちを注視しながら静黙する。敏な視線に気付いたといちが顔を上げ、東宮を真摯に見つめると、明瞭な口調で言葉を継いだ。

「……だから、自分の気持ちに、しっかりけじめを付けてくるわ」

毅然とした態度で意志を示した妹宮に、東宮がふっと微笑んだ。

「……そうだな。それがきっと、一番いい」

 妹の決意を尊重した東宮に、といちが爛然として感謝した。

「東宮様」

 ふと、廊下より東宮侍従が言上した。

「何だ?」

 東宮が尋ねると、侍従が恭しく持参した書状を奉献する。

「薫様より、火急の書状です」

「薫が? 一体、何用だ?」

 東宮が怪訝な顔で受け取ると、傍らで経緯を見守るといちを一瞥する。

バッと勢いよく書状を広げると、声に出して読み上げた。

『大津へ。調べたい事があるので、暫く留守にする。私がいないからといって、不羈奔放な行動はくれぐれも自重しろ。軽佻浮薄なお前の行動は極めて横暴で、甚だ社会の迷惑だという事を充分自覚しろ。尤も明日からお前も帝と共に伊勢へ下向の身だから、大した奇行は出来ないだろうが……。追記。菖蒲の君の処刑、お前の権力で何とか引き延ばしておいてくれ。 薫』

 読み終わると同時に憤激した東宮が、チッと舌打ちするなり手紙を破り捨てた。

「ふざけるなよ、薫! 自分勝手はどっちだ! 言いたい放題、抜かしやがって!」

 といちが恐る恐る見上げると、怒り心頭に発した東宮が立ち上がり、激昂したまま轟轟と足を踏み鳴らすと、悍然と部屋を出て行ってしまった。



初夏だというのに背筋が凍る様な悪寒を覚え、思わず薫が寒気立つ。

双肩を抱えて擦りながら、怜悧な深青の瞳を欹てると、独り言を呟いた。

「……嫌な寒気だ。ぞっとする。……そろそろ、大津に書状が届いた頃か……」

 自分が書いた文でありながら、激怒した東宮の様子を想像すると苦笑した。

「薫様」

 廊下に佇む薫に向かい、ひとりの官吏が歩み寄ると朗報を告げる。

「面会許可がおりました。どうぞこちらへ!」

 薫が穏やかに微笑むと、礼を述べた。

「ああ、ご苦労だったね。ありがとう」

 職務に忠実な官吏が揚揚として、厳重に施錠された部屋の前に薫を案内した。


 昨日東宮より伝え聞いた事件の全容に疑問を抱いた薫は、正犯とされる菖蒲の君に直接会う為、検非違使に許可を求めていた。

聞き及んだ話や資料を見ても、検非違使の捜査は適正であり、逮捕に至る経緯にも無理は無いと感じられた。

気になる点と言えば、話が出来過ぎているという、個人的主観に他ならなかった。

動機から逮捕に至る経緯の全てに納得が行く説明がつき、一切の無駄が無い……という事が引っ掛かる。何とも合理的である事が、却って解せないのである。

菖蒲の君が犯行を自白したのではなく、寧ろ一貫して否定しているという事も気になった。腑に落ちない薫は念の為、独自に調べ直す事にしたのである。

菖蒲の君は殺人事件の犯人として検非違使の監視下にあり、座敷牢に拘束されていた。


薫が入室すると、部屋の中央に、豊麗な髪の女性が煢然として座していた。

人の気配に気付いた女性が、俯いていた顔を緩慢に上げ、鬱鬱として薫に尋ねた。

「……誰です?」

 薫が向かいに座ると、初対面の挨拶をした。

「綾小路薫と申します。初めまして、菖蒲の君」

 薫がその端麗な顔を上げると、怜悧な双瞳を向け、菖蒲の君を正視した。

菖蒲の君は、艶めいた豊かな垂髪に、情の深そうな黒い瞳、白く滑らかな肌は魅惑的で、何ともはや……なまめかしい女性であった。

潤いを帯びた瞳を薫に合わせると、菖蒲の君が口を開いた。

「処刑間近のこの身に何用かは存じませぬが……悪い事は言いません。……お帰りなさい。貴方まで疑われますよ……」

 愁然として嘆息すると、菖蒲の君が妖麗なる瞳を悩まし気に伏せ、俯いた。

「……?」

相対した薫が、内心酷く驚いた。

 ……無実であれば、冤罪で死刑になるかもしれないという絶体絶命の窮地に、極限の精神状態に陥っている筈……。それこそ醜態を晒す覚悟で、必死に無罪を訴えているのかと思っていたが……。鬱悶としている様子は見受けられるものの、平静としたこの態度……。   

何故、冷静に他人の事など思い遣る余裕が有るのだろうか……。

やはり彼女は有罪で……自らの罪を認め、処刑を待つ心境なのだろうか……。

……それとも、圧倒的に不利である境遇に、一切を諦めているのだろうか……。

明敏な薫が菖蒲の君を凝視したまま、暫し黙考する。やがて、静かに口を開いた。

「貴女は検非違使の調べに対し、紗霧殿を殺めていないと仰ったそうですが、それは真ですか?」

 委細を看破する明眼で、薫が菖蒲の君の機微を精察する。

 鋭利に核心を突いた薫の問いに、悄然としていた菖蒲の君が弾かれた様に顔を上げると、深遠なる薫の瞳を真っ向から見つめ、揺るぎ無い視線で答えた。

「私は本当に、何もしていません! 殺していません! 本当です!」

 暫時、静黙した薫が、菖蒲の君をじっと見つめる。

やがて、ふっと口元を緩めると、やんわりとした瞳で明言した。

「どうやら……本当の様ですね。貴女は、紗霧殿を殺していない。真犯人は、別にいます」

 菖蒲の君が心から驚いた顔を見せると、感極まって激しく打ち震えた。

手にしていた衵扇を思わず取り落とし、震える手を胸に当てると襟元を握り締め、安堵の余り脱力する。震戦する手で扇を拾い上げると、ようやくの思いで広げ、感喜に震える艶めいた口元を隠しながら、興奮頻りに口を開いた。

「ああ……! 信じられないわ! ……証拠品まで出されて……。誰も、私の話を信じてくれる者はいなかったというのに……!」

 依然として菖蒲の君を鋭敏に注視したまま、薫が微笑する。

「……もう心配はいりません。貴女の身の安全は、私が保障します」

 安意した菖蒲の君が薫を見上げると、恍惚として頷いた。

「……勿論、それは貴女が私に協力して下さったらの話ですが……。今回の事件に関して貴女が知っている事を全て、私に話して下さいますね?」

 艶然とした薫の申し出に、菖蒲の君が妖冶に頷き、話し始めた。

「あの晩……私は、紗霧様の御屋敷に、結婚の御祝いを届けに上がりました。風評にある通り……確かに私は、信頼様をお慕い申し上げるあまり、信頼様が紗霧様と御結婚なさったと知った当初は、大層落ち込みました。でも……信頼様が、お選びになった御方です。私がひとり足掻いた所で、詮無き事……。それに紗霧様は、私の遠縁に当たる御方でもあります。……もっとも、傍流の枝葉である私などとは、身分が違い過ぎて畏れ多い事ですが……。何れにせよ私は、自分の気持ちにけじめを付ける為にもちょうど良い機会と思い、紗霧様の御結婚を御祝いしようと思ったのです」

 端雅に頷いた薫が、淡々と事実を確認した。

「調書に依ると、それで貴女は紗霧殿とお二人だけで面会されたそうですが……。持参された贈り物――花器でしたね? それを進呈して、そのまま帰られたのですね?」

 菖蒲の君が俯いて静かに頷くと、それを肯定する。

 薫が鋭敏に双眸を欹てると、冷静な口調のまま、続けて問い掛けた。

「その時、紗霧殿の様子はどうでした? ……どんなお話をされましたか? 他人が部屋に居る気配等は、ありませんでしたか?」

 不意に菖蒲の君が顔を上げると、はきと答えた。

「お会いするのは初めてでしたが……。お独りで……香を、焚いていらっしゃいました」

 薫が自らの五感を鋭意に研ぎ澄ますと、細心の注意を払い、ゆっくりと尋ねた。

「……どんな香でしたか?」

 杳茫なる瞳で、菖蒲の君が答えた。

「甘く……むせ返るほどの……薔薇の香りでした。初めて嗅ぐ……香の匂いでした」

 刹那、薫が菖蒲の君を熟視する。清澄な声色のまま幾分蒼然として、念を押した。

「噎せ返るほどの……強い薔薇の香気だったのですね?」

「はい」

 薫が緘黙すると、凄寥なまでに哀しみを湛えた瞳で、暫し天を仰ぎ見た。

哀哀として静黙する薫に、当惑した菖蒲の君が、沈然として口を慎む。

視線に気付いた薫が、表情を平静に戻すと菖蒲の君に向き直り、再び質問した。

「……それから貴女は退出されるまで、紗霧殿と侍女以外には、誰とも会わなかったのですね?」

 菖蒲の君がきっと顔を上げると、毅然として言い切った。

「ええ、私は誰にも会わなかったし……何も、見ていません」

「――そうですか。ありがとうございました」

 謝意を述べた薫が、優雅な仕草でふわりと立ち上がる。

蒼氷の冷艶なる双瞳を向けると艶然と微笑み、深長に言い置いた。

「……これから、事件についての再捜査が開始されます。真犯人が捕まるまでは、不本意ながら貴女が重要参考人として拘束される事になるでしょうが、処刑の懸念はありません。それに貴女のお話が真実であれば、貴女が真犯人に狙われるゆえんも全くありませんから、どうぞ安心なさって下さい。……では、失礼します」

 幽深なる薫の艶容はぞっとする程凄艶で、晶晶とした蒼氷の瞳は鋭利な霜剣を思わせた。

 典雅に一礼した薫が、流れる様な仕草で背を向けると、悠悠と退出する。

 後に残された菖蒲の君が一抹の不安を抱くと、漠然とした憂慮に囚われ震慄した。

……あの薫という男……。容姿は艶麗として物腰柔和でありながら、秋霜を思わせる蒼氷の瞳は凛として冷徹を極め、油断も隙も無い……。謎めいて胸懐が全く読めないどころか、むしろ此方が見透かされている様な気さえして……言い知れぬ不安が胸を過る。

……信頼様……。

 菖蒲の君が、妖艶なる唇をきっと噛み締めると眉を寄せ、心中深く呟いた。



 左京の綾小路家の程近く、四条烏丸付近の広大な敷地が、(さかき)葵の屋敷であった。

屋敷といっても、右京の橘家や左京の綾小路家と大きく異なり、広広とした敷地のほとんどは薬草園であり、また邸宅の大半は病院部分で、家人である葵と葵の父が居住する空間は、邸宅全体に対し、まことに細やかなものであった。

病院部分は大きく診療所と入院病棟、そして製薬所に分かれていた。

訪問診察に在宅医療が主流であったこの時代に、珍稀とも言えるこの仕組みは、葵の父である榊白山(はくさん)の『病と闘う人を全力で助け、支援する』という医師としての確固たる決意に基づき設けられた、画期的なものであった。様々な家庭事情を抱える宮廷人に最善を検討した結果、患者は自分の都合で訪問診察か外来診察を選択出来る様になり、在宅医療が困難な場合や里帰りが難しい場合には、長期入院を選択する事が可能であった。


 医師団や大勢の助手と共に午前中の診察を終え、昼の休憩に私室に戻った葵は、処方された薬を取りに来がてら、ひょっこりと顔を出した紅蘭と、昼食を共にしていた。

「……そう……。紅蘭も……といち様も、大変だったんだね……」

一連の経緯を聞いた葵が顔を曇らせ、なぐさめ顔で紅蘭を見つめた。

「……そうね……流石に、こたえたわ……。昨日の今日という惨劇だったし……。私の場合は、自分でたちの悪い冗談を口走ってしまっただけに、余計後味が悪いというか……」

 訥訥として、紅蘭が答える。自責の念に沈む紅蘭をいたわる様に、葵が尋ねた。

「……昨晩は、ちゃんと眠れたの? 睡眠薬の処方を取りに来ていたみたいだけど……。大丈夫?」

葵が紅蘭にそっと目を注ぐと、その体調を気遣った。

「……ええ。昨日は、大津と薫に慰められて、救われたわ……。随分と、気持ちが軽くなったしね……。……だけど、寝てもすぐに目が覚めてしまって……。疲れて眠りたいのは確かなのに、気ばかり焦って、眠ろうとしても、かえって冴えるばかりなのよ」

紅蘭の目元に鮮明に浮き出た濃色の隈に、その悶悶とした焦燥を見て取ると、葵が痛く心配顔になる。気の利いた言葉を見付けられず、紅蘭に甘いお菓子を勧めると、自らもひとつ手に取り口を開いた。

「ここには日本古来の薬草の他、薫のお母さんが渡来した時に持参された貴重な薬草を始め、鴻臚館の外国使節や留学生達から持ち込まれた珍貴な薬草も多多あるから、もし、今回の薬が効果無くても気長に構えて、色々試してみるといいかもしれないよ」

 卓上にお茶が無い事に気付いた葵が、席を立った時だった。

「葵、居るのか? ……ほら、お前の好きな唐菓子を持って来たぞ」

 清麗なる声が響くと、部屋の几帳を優雅に掲げ、薫がふわりと顔を出した。

「薫!」

 欣喜した葵が出迎えると、喜び勇んで薫から大きな菓子箱を受け取った。

「丁度良かったよ! 今、紅蘭とお茶にしようかと思っていた所なんだ。何のお菓子?」

 ほくほくとした葵が、期待満面で包みを開ける。

「開けてからの、お楽しみ」

嬉々とした葵に、薫が陽気に微笑んだ。

目を配り、紅蘭の姿に気付いた薫が艶然として声を掛けた。

「紅蘭! 来てたのか」

紅蘭が莞然として頷いた。

「ええ。……お陰様で、大分気持ちは復活傾向なんだけど……。どうにも寝付きが悪くて、熟睡出来ないのよ。睡眠薬を貰おうと思って、ちょっと寄ったの」

 薫が柔らかな笑みを浮かべると、優しい瞳で紅蘭を見つめる。

「……そうか。では、お茶は柑橘にしよう。安眠効果があるからね」

「……ありがとう」

 紅蘭が素直に感謝すると、薫が慣れた手付きでお茶の準備を始めた。

菓子箱を開けた葵が、様々な果物を模した沢山のドーナツを前に歓声を上げる。

薫と紅蘭が半ば呆れ顔になりつつも満ち足りた様子で、唐菓子を頬張る葵を見つめた。

爽快な柑橘の香りに癒され、人心地がついた紅蘭が目を転じると、薫に問い掛けた。

「ところで薫。あんた……確か今日の朝議、途中退席してなかった? 何か、あったの?」

紅蘭の鋭い指摘に、思わず薫が苦笑した。

「流石にさといね、紅蘭。……実は、菖蒲の君に会っていたのだよ」

「えっ?」

淡雅に答えた薫の思いも寄らないひとことに、紅蘭が吃驚する。

流石の葵も唐菓子に集中していた手を止めると、驚いた顔で薫を注視した。

「……そ……それで? ……ど……どうだったの? ……どうして会ったの?」

 蒼惶した紅蘭が、沸沸とした疑問を全て口にすると、当惑顔で薫に尋ねる。

薫が温柔な双瞳を向けると、清淡に答えた。

「昨日大津から聞いた話に、疑問を感じてね。直接会って、事の真偽を確かめようと思ったのだが……」

 紅蘭と葵が固唾を呑むと、薫に傾注する。凛として、薫が結論を述べた。

「実際に会ってみて分かった事だが、彼女は直接手を下した犯人では無い。だが、恐らく……事件に繋がる何かを、故意に隠している」

「えっ?」

「何ですって?」

 驚愕した二人が同時に叫声を発すると、直ちに紅蘭が問い返した。

「……どういう事? ……何でそんな事が分かったの?」

 薫がふと遼遠な双瞳で、哀しみを湛えた顔になる。

「菖蒲の君が訪れた時には……。紗霧殿は……恐らく既に、亡くなられていたのだよ」

「……?」

 謎めいた薫の言葉に困惑すると、紅蘭と葵が思わず顔を見合わせる。

「そう推量した経緯には、幾つかの理由があるが……。順を追って、話すとしよう。まず始めに、彼女は当初から犯行を否認していた。直接会って自分の目で確認したが、直感で感じた限りでは、彼女が殺害していないという事は多分本当だろうと思った。だがそれはあくまで、私の感覚の部分だからね……。根拠としての適性を欠く、不確定な主観に過ぎない。だが……」

 卓上に手を組んだ薫が、二人に目を配ると、淡々として話を続けた。

「菖蒲の君が紗霧殿に面会した際に、紗霧殿が香を焚いていた……と証言した。それも、噎せ返る程の薔薇の香気だったという……。それで、分かったんだ。知っての通り香とは、そもそも、ほのかに香る薫香を愉しみ、聞き分ける事こそが大きな悦びであるからね。ましてや空香であれば猶の事、香炉が何処に置かれているのか分からぬ程にほんのりと燻らせるのが風雅というものだ。紗霧殿は、香をたしなむ事に掛けては卓絶した風流人であったという……。噎せ返る程に焚き染めるとは、恐らく香など初めて焚いた人間のする所作で……およそ下の下だ。仄かにくゆらす事は、中々技術の要る事ではあるが……卓越した御手前と評判の紗霧殿であれば、香を聞き愉しむ手順に何も問題はないだろう。……つまり、菖蒲の君が会ったという紗霧殿は真っ赤な偽物で、御本人ではないと思われる」

寂寂として、薫が虚空を見つめた。

「……それに、薔薇の香気についてだが……。あれは、といち様が贈られた香炉に見合う薫物が無いとの事だったので、私が大津と共に御結婚祝いとして届けさせたものなのだ。大津からは唐の『百歩』を、私からは我が家の薔薇を原料にして母の国の製法を取り入れた練香を贈ったのだが、凡そ我が国では馴染みの無い芳香は、極めて特殊でね。急ぎ届けさせたが……送り届けるのが夜半になってしまったというものなのだよ」

 薫が深く嘆息するとその長い睫毛を伏せ、遣る瀬無い顔になる。

「結婚祝いに贈った『百歩』が、まさか紗霧殿の供香となるとは、何と皮肉な……」

 哀哀として嘆くと、薫が緘黙する。といちの衣に残る馨香を鮮明に思い浮かべた紅蘭が、居た堪れない顔になると薫を見つめた。

粛粛とした空間に、深深とした時が無限に流れる。

ややあって、薫が再び口を開いた。

「……検非違使によると、紗霧殿の御遺体から察する死亡推定時刻は、夕刻から夜が一番疑わしいとの事だ。菖蒲の君が紗霧殿を訪れたのは、私の祝儀が届けられた夜半過ぎの筈……。死亡推定時刻を勘案しても、菖蒲の君の犯行とするには矛盾が生じる。それにもうひとつ……紗霧殿は心臓を小刀でひと突きされ、それが致命傷となったとの事だが……。十二単の上から正確に急所を見抜き、一撃で絶命させるという鮮やかな手並みは、熟練した者でも難しい筈。それが菖蒲の君に偶然と雖も可能だったとは、とても思えない……」

鋭敏な薫が、導出される推論を口にした。

「彼女は犯行を否認しているが、窮鼠かと思いきや、奇妙に落ち着いている。しかと視線を合わせて切に訴えるかと思えば、意識的に目を逸らして口を慎む時もある。それに加えて、今話した要素を考慮すると……菖蒲の君が真犯人ではなく、何か重要な事実を……故意に隠蔽していると考えると、全て合点がいく」

話を聞き終えた紅蘭が、清静とした薫を見つめ、真摯に尋ねた。

「それで……これから、どうするつもりなの?」

薫が紅蘭を見遣ると口角を上げ、ふっと微笑んだ。

「ひとつ分かった事がある。菖蒲の君は溌悍の傾向がある。つまり感情の起伏が激しく変わり易い。それに虚栄心も中々のものだと感じた。そういう人は、総じて御し易いのだよ」

清爽なる薫の意味深な発言に、紅蘭が寒気立つと、恐る恐る尋ねてみた。

「御し易いですって? ……つまり、あんたまさか……」

薫が艶然として、紅蘭を見つめた。

「さあ……どうだろうね?」

初夏の陽気に凛冽な悪寒を感じたまま、紅蘭が釘を刺す。

「流石にあんた……大津じゃあるまいし……えげつない真似は、しないわよね?」

爽快に微笑むと、薫が答えた。

「まさか……ね。唯、真実を知りたいと思っているだけだよ」

さて、どうやって話して貰おうか……。それとも自由に泳がせ、行動で示して貰おうか……等と、清らかな顔で、この上無く楽しそうな様子の薫に、東宮とは異なる恐ろしさをひしひしと感じた紅蘭が、思わず葵に胃薬の処方を依頼すると閉口した。

いつもの光景とばかり慣れっこの葵は、特に疑問を感じる事無く、美味しそうに唐菓子を堪能していた。



「といち様……。こうして再びご来駕頂けるとは、恐惶至極でございます……」

紗霧の屋敷では、紗霧の世話役であった老婆が平伏して、といちを出迎えていた。

「婆や……」

 数年前にといちの乳母である実母を亡くした紗霧は、幼少より世話を焼いていた老婆が母代わりとなり近侍していた。

落胆哀惜の果て……げんなりと窶れた婆やの姿に、といちの清心は沸沸とした哀傷を覚え、いやが上にも締め付けられた。といちは屈んで痩せ衰えた婆やの手を取り、優優として助け起こすと、潤沢な黒曜の目を伏せ静かに告げた。

「私……。未だ、紗霧の死が信じられなくて……。今日は紗霧の部屋で、紗霧と最期の別れをしたくて……」

 後は、涙で言葉にならなかった。哀婉としたといちに、思わず老婆が涙ぐむ。

「といち様……。ええ……きっと、紗霧様もお喜びになるでしょう……」

 哀しみを新たに、老婆とといちが泣き交す。

軈て、長い廊下を紗霧の部屋まで歩むと、といちが案内役の老婆と随従の女官に向き直り、静寂に口を開いた。

「……ひとりで、大丈夫よ。……ゆっくり、お別れをしたいし……」

 畏れ多い宮様の尊意に、老婆が一瞬戸惑うと、懇情を込めて言上した。

「……では、ただちにお茶をお持ち致しますので……」

 老婆の懇誠に、といちが微微困惑した様子で微笑んだ。ふとした皇女の御気色に、主の心情を敏に察したといちの側近が、気を利かせると代弁する。

「お気遣いありがとうございます。……ですが、といち様はしばらく御ひとりでゆっくりと、紗霧様とのお別れをしたいというお気持ちでいらっしゃいますので……どうぞ、お構いなく」

 黙止していたといちが双瞳を和らげ輝輝として、側近の女房に精一杯の謝意を示した。

皇女という御立場の自覚により、懇意にしていた老婆にも気を遣い、近侍する女房達にも配慮して、ご自分のお気持ちや深いお考えが有りながら、周囲に遠慮して積極的には言えないでいる……。

何ともけなげなといちに、随従した女房達が総並に母性本能を駆り立てられると、何とかこの愛らしい皇女の意向を最大限、叶えて差し上げようという気持ちで一杯になった。

申し合わせたかの様に、随従が斉一に頭を下げると、といちに奉告する。

「といち様。暫時……婆殿にお願い致しまして、紗霧様のお部屋周辺を人払いさせて頂きますので、どうぞお気の済むまま、ごゆっくりとお過ごし下さいませ。私達も離離とした別室にて控えておりますので、どうぞご安心下さいませ」

女房達の深情に、紗霧を喪失した哀惜に沈然としながらも、といちが有りっ丈の感謝を込めて嫣然と頷いた。素直で純粋な皇女の真情を推察すると、了然とした女房達がといちをひとり残し、退出した。


 寸陰の間、といちは紗霧の部屋に分け入る事を躊躇していた。

軈て意を決するとそっと襖を開け、今や森森として静まり返った室内に足を踏み入れた。

 見慣れた真木の柱に清灑な文机。優美な装飾を施された灯台。爽やかな夏の翠帳に囲まれた室内と、四隅に据えられた二階棚。……二階厨子に、整整と置かれた香道具。

そこに紗霧がいないというだけで……幼時から共に遊んだこの部屋は、何ひとつ変わらぬ光景だった。

「全て……生前のままにしてあるのね……」

 といちが、静かに呟いた。懐かしい思い出と共にゆったりとして部屋を見回すと、深呼吸して几帳の前に静坐した。ここは遊びに来ると、といちがいつも座る場所だった。

 瞳を閉じると、幼い頃の記憶が鮮明に蘇った。


堅苦しい宮中とは違い、ここではよく安座したまま寝転んだり、バタバタと音を立てて走り回ったり、およそ後宮では怒られそうな格好で、目一杯遊んでいた。

乳姉妹である紗霧とは、学問を共に学ぶ仲でもあった。書物が大好きで、夢中で物語を読み耽る紗霧の傍らで、読んで読んでとせがんでは、沢山本を読んで貰ったわ……。

『ねえ、紗霧!』

『まあ、また悪戯めいた顔をなさって! ……何か、妙案が閃いたのですね? といち様』

『うふふ、そうなの! 何か……二人だけの秘密をつくってみたいわ!』

壮大な物語にすっかり触発された私は、自分でも冒険したくなって……。

何か凄い事をやってみたくて……。思わず紗霧に切り出したのだったわ……。

『ねっ! 絶対に他人にばれない場所に、二人だけの秘密を創るのよ! 素敵でしょう?』

 始めこそ、途方途轍もないと逡巡していた紗霧だったけど、いざやり始めたら、面白くなって夢中になって……。微に入り細に入り薀蓄を傾けたのは、紗霧の方だったわ!

 追憶に耽るといちが、くすくすと笑い出す。そして、おもむろに立ち上がった。

「そう……あれは確か……。この軟障の裏だったわね……」

 童心に返ったといちが嬉嬉として壁に張られた軟障に歩み寄ると、昔の様に勢い良くぴらっと捲って覗き込む。露になった壁には、小さな飾り棚が嵌め込まれていた。

『……そのまま残ってる!』

喜悦すると、といちが目を輝かせて興奮した。

『ひょっとして……暗号も、そのままかしら?』

 といちが胸をときめかせながら足元の厨子を開けると、昔よく遊んだ双六と貝合わせの道具箱と共に、見慣れた小箱が入っていた。

といちの胸に往時が刻々と去来すると、いやが上にも胸が高鳴った。

慎重に小箱を取り出したといちが、ずしりとしたその重みにいよいよ高揚すると、細心の注意を払い小箱を開ける。箱には、十二支を象った文鎮が沢山入っていた。 

重い小箱を両手に抱えると、といちが飾り棚に向き直る。

『……まず、紗霧の干支から、当時の紗霧の年齢までの十二支を順に置いて……』

大小様々な文鎮の中から選び取り、といちが慣れた様子で棚に文鎮を並置した。

並べ終えると、棚の下方からカチッという金属音が聞こえた。

『……鍵の外れる音がしたら、次に私の干支から、当時の私の年齢までの十二支を足す』

 といちが文鎮を丁寧に並べると、飾り棚がゆっくりと、滑らかに沈降し始めた。

『やったわ! 文鎮の重みで棚が下がり、上部に設置された隠し場所が出現する!』

 歓悦したといちが、満面の笑みで踊躍する。

やがて飾り棚がすっかり沈下すると、かわって姿を現した隠し棚には、一巻の巻物と、青磁に柘榴石を象嵌した香合がひとつ置かれていた。

 初めて目にする代物に、といちが思わず目を瞠る。

青磁の香合は、恐らく紗霧が合わせた香の中でも、とっておきの薫香に違いないと思うけれど……。巻物は、果たして紗霧の好きだった物語かしら? 

といちが巻物を手に取ると、物珍しい様相で繁々と見つめた。

巻物には、物語の題名が書かれていた。

……全く聞き覚えの無い、題名だけど……。紗霧の創作なのかしら? 

興味をそそられたといちが、迷わず巻物を広げると、その内容に驚いて絶句した。

 巻物には、内裏と大内裏の精細が明記され、京の都周辺の地勢図、行政図に加え、殿上人の勢力図、私有財産の規模から軍事力に至るまでの細緻が、克明に書き記されていた。

政治的な事柄に関してはおよそ疎いといちであったが、あまりに精密に書かれたその情報にまず驚愕すると、次いでこの巻物が書かれた目的を推察して、蒼白になった。

「紗霧の筆跡ではない、この巻物は一体……? 何故、紗霧がこんなものを……?」

 狼狽したといちが、巻を凝視したまま、甚だ震慄する。

ふと、挟み込まれた紙片に目を止めると、慎重に取り出した。

それは紗霧自身の筆による、といち宛ての文であった。

吃驚したといちが、蒼然として通読する。

『といち様――。万が一の事を考え……ここに全てを記し、例の場所に隠しておきます。先日、私は我が殿である信頼様の密談を、偶然耳にしてしまいました。信頼様は、以前に鎮圧した東国の方と、強い絆がお有りの様で、推量しますと……都の詳細を調べ上げ、期を見て東国から挙兵し、いずれは都を手中に収めたいとお考えの様です。

私は、どうかその様な愚考はお止め下さいと諫奏したのですが、『邪魔をするならお前も殺す。死にたくなければ黙っていろ』と申される始末……。何とか暴挙をお諌めしようと、私は密かに東国へ渡される予定の極秘文書を入手し、此処へ隠す事にしました。

これが無くば、信頼様も野望を実行に移す事は出来ない筈……。

といち様……。震恐する事実を知りながら、愚蒙な私は公然と夫を断罪出来ずに……こうして逡巡しています。信頼様は身の程知らずの大それた野望をお持ちですが……私には、どうしても信頼様が、根からの極悪人には思えないのでございます。

未来を考えると……私は唯、恐ろしい。

謀反は八虐第一の重罪に当り、未然に事が発覚しても、決して許される罪では無いでしょうから……。謀反という大罪を憎悪し恐れながらも、背の君とお慕い申し上げる信頼様を何としても悛改させ、僭越ながら、お命ばかりはお救い申し上げたい……。

詮無き矛盾に優柔に陥り、愚迷に不断な私を、どうぞお許し下さいませ。

しかしながら事態はもはや、私ひとりの力では、どうする事も出来ない段階まで……退っ引きならない局面を迎えつつあります。

この手紙がといち様のお目に触れるという事は……恐らく私が他界した時だと思います。

といち様に何ひとつ告白できず、猛悪なる罪を犯そうとしている夫を止める事も出来ずにいた愚昧な私を、どうぞお許し下さい。恥じ入るばかりでございます。 紗霧』

 衝撃的な告白に、読み終えたといちが愕然とした。

「ま……まさか。……まさか紗霧は……信頼殿の手に掛かって殺されたの? ――信頼殿が謀反を? そんな、馬鹿な……!」

震驚したといちの両手から、巻物が滑り落ちた。といちが蒼然として、激しく動揺する。散開した巻物を拾い上げ様としたものの、惘惘として手に付かず、踞座したまま戦慄した。


「へえ……。……紗霧が、こんな所に隠していたとはね……」

 驚く程に、淡白な声だった。

俄かに背後から響いた無機質な声に、といちが弾かれた様な恐怖を覚えた。慄然として全神経を研ぎ澄ませると、背後に意識を集中する。極限の緊張に、といちが金縛りに遭ったかの様に一切の身動きを封じられると、振り返る事さえ出来ずに、兢兢と焦燥した。

しんとした室内に、とくとくと脈打つ自らの鼓動が、やけに大きく感じられる。

いつからそこに居たのだろう……。

忽然と現われた人物に、不覚にもといちは、何の気配も感じていなかった。

 淡然とした声の主が音も無く歩み寄り、といちの眼前に安座する。座したまま凍て付くといちを見つめ、口元に冷笑を浮かべると巻物を一瞥し、独り言の様に呟いた。

「……どうりで、探しても、見つからなかった訳だ……」

 冷ややかに放言した眼前の人物に、脅威よりも憤怨が打ち克ったといちは、かつて見せた事の無い険相になると、きっと睨み付けた。

「信頼殿!」

 信頼が薄笑いを浮かべると、興味深そうな視線でといちを見つめた。

 といちが溢れ出る激情を抑え切れず、凄絶に詰難する。

「貴方が、紗霧を殺めたのね! どうして? 貴方は、紗霧を愛していたのではないの?」

 平生は爛漫とした愛嬌に満ち、およそ怒りという感情からは縁遠い筈のといちが、甚だしい憤恨に激昂すると恐怖も忘れて、真っ向から信頼の双眸を睨まえる。

明鏡の如く皎皎として、胸奥の深潭を照射するかの様なといちの眼差しに、信頼がふと視線を逸らすと、静かに呟いた。

「……惜しい女を……良き妻を、亡くしました」

 端整な顔を上げ虚空を見つめたまま、信頼が口を噤むと緘黙する。

「……?」

 といちが、訝しげな表情で信頼を凝視した。

信頼は唯、遥かなる視線をしていた。

沈然とした信頼を奇異に感じたといちが、幾分怒りを和らげた口調で問い返す。

「……どういう事です? ……貴方が、紗霧を殺めたのではないの?」

「……」

 静黙していた信頼が、やがてゆっくりと視線を戻すと、といちに向き直った。

「紗霧の事は……残念でした。……抑抑、私が紗霧に近付いた目的は、紗霧が藤原四家の中でも北家という権門勢家の血筋だったからですが……。彼女は、実に優美で静淑な……温情に満ちた女でした」

 紗霧の殺害を否定しない態度でありながら、紗霧に対して未練を感じている様子の信頼に、矛盾を感じたといちが当惑する。

……どういうことかしら……。信頼の真意を計りかねたといちが、信頼を正視した。

秀麗なる眉目を再び宙空に向け、暫時、そこはかとなく彷徨わせていた信頼であったが、やがて潤沢な黒き瞳で真摯に自分を見つめるといちの視線に気付くと、口を開いた。

「不思議な顔をなさっていますね? ……まあ、当然と言えば当然ですが……。いいでしょう。……既に、経緯を知ってしまった貴女ですからね……」

 信頼が湛然として構えると、といちに向き直り、ゆっくりとした口調で話し出した。

「私は、ご存知の通り……東国の出身です。宮中……とりわけ後宮と言う温室で、ぬくぬくとお育ちの貴女様には、およそ想像も出来ない事でしょうが、豪華絢爛なる京の都と異なり、近年における東国の荒れ様は凄まじく……略奪や殺人が横行していて、国司の手におえる状態ではないのです。皆が皆、自分と家族を守る為に自ら武装して戦わなければならない、それが当たり前なのです。こうした個個の武装は組織を編成し、やがてそれぞれが統合され武装集団が形成されました。当然の事ながら、武装集団同士の抗争も各地で頻発する様になり、まあ……自然発生的な謀反が起きたのも、必然という現状なのです」

 信頼が嘲る様な冷笑を浮かべると、話を続けた。

「頻頻の内乱を抑える為に、当然国司も、有力な武装集団の力を借りて国を治める手段を取らざるを得ない。そして有力な武装集団には生き延びていく為の禄が必要なのですから、両者の利害は一致する。まあ想像は付くと思いますが、私は実力で郡司に伸し上がった、成り上がり者でしてね……。東国では最有力の武門を束ねる、棟梁です」

 信頼が双眸で嘲笑すると、といちを一瞥した。

「当初、国司の下で東国を平定する事はたやすかった。東国に住む人間も、何も好き好んで闘争している訳ではありませんからね。武装集団同士の紛争が粛清され暴虐が無くなった事に、皆、喜んでいましたよ。……ところが平和になった途端に、国司がその恩を忘れ……我々武士団をうとみ始めた」

 信頼が、ありったけの侮蔑を込めると、吐き捨てた。

「都合の良い時だけ我々の力を頼りながら……必要が無くなれば、容赦無く切り捨てる。華やかで豊かな都に上り、恩賞を受けて独占するのは貴族の端くれである国司だけ……。身命をなげうって闘った我らを軽んじ、太平の世には『やれ、行儀も知らぬ田舎者よ』と蔑み遠ざける……。何と勝手な言い分か……」

ちくりちくりと清心をさいなむ信頼の毒言に、といちが居た堪れない顔になると瞳を伏せた。静黙するといちを鼻で笑うと、信頼が話を続ける。

「そこで私は、一計を図ったのですよ。自ら国司では抑えられぬ様な規模の謀反を起こし、愚鈍な朝廷からまんまと押領使を拝命すると、瞬く間に平定した。……案の定、その功績は宮中の目に留まり、初めて国司を通さず私自身が宮中に呼ばれ、自ら恩賞にあずかった。それまで臨時的な官位が与えられていたとは言え、東国の田舎者であった私が、いきなり中央政府の要職を担う立場になり、上京する事になった……。国司と、ほぼ対等の立場となった訳ですからね……。国司の顔といったら、なかったですよ」

 くっくっと込み上げる笑いを抑え切れず、信頼が高笑した。

「上京して驚いたのは、実戦をほとんど経験していない兵衛府の存在でした。何とも生温い事をしている……。都の人間は泰平の世をむさぼった挙句、自堕落にのうのうと安居して、恐れているのは疫病と、ありもしない空想上の末法の世だけ。何と阿呆らしい。都人は皆聡いと思っていたが、全く拍子抜けしましたよ……。そして、こんな頭のおめでたい連中の為に身命を賭すのが、非常に馬鹿らしくなったのです」

 黙然と傾聴するといちを凄凄と蔑視すると、信頼がせせら笑った。

「……左兵衛府佐という職位だけでは、武士団の棟梁として一門を養うには厳しいという現実もありましたからね……。形骸化した軍事力しか無く、平和惚けした人間だらけの、富裕なる京の都を侵略し、手中に収めるのは容易に思えました。だが……謀反という、大それた事には変わりない。いかに簡単に思えても、あくまで事は慎重に運ばなくてはなりません。……ところが何とも歯痒い事に、身分が低ければ禁裏の様子は全く窺い知れない。……そこで上流貴族の女に近付き、宮中の詳細な情報を得ようと考えたのです」

といちが悲しげな顔になると、俯いた。黒曜の清かな瞳には汪然とした涙が湛えられ、潭潭とした悲哀が、といちの心奥を深く満たしていた。

 深深としたといちの愁緒に、信頼がふと愁色を浮かべると、寂寂として口を開いた。

「国司同様多くの貴族が、心の底では田舎者よと私を見下し、慇懃無礼に接する中で……彼女だけは違いました。紗霧は……真に心の優しい女でした。宮中の礼儀作法を弁えず何かと世事に疎い私に……懇切丁寧に、衷心からの誠意を以って、適宜な行儀を教えてくれました。当初は必要な情報だけを聞き出し、上手く利用してやろうと思っていた私ですが、優美で誠実な彼女に接している内に、いつしか……紗霧を大切に思う様になりました」

「ならば、何故です! 何故、紗霧を……!」

 緘黙していたといちがきっと振り仰ぐと、漣漣とした涙をこぼし、叫号した。

 といちの肺腑を貫く様な叫びに、唇を噛み締めた信頼が思わず目を背けると俯いた。

「……殺すつもりは無かったのです。尤も今更、何を言っても言い訳がましいですが……。あの日、私は……この部屋を出た廊下の突き当たりに設えられた私室で、暗暗裏に密談をしておりました。私には、東国時代から行動を共にする同志が多数おりましてね。京の都の攻略は、今や我々の完遂すべき悲願でもある訳ですから……。紗霧が巻物を隠匿した事で、事態を憂慮した同志が、私に対策を講じる様に要請しに来た所だったのですよ。私はその内、脅威を感じた紗霧が屈すると踏んで、悠長に構えるつもりでいましたが……ふと、その同志が廊下に人の気配を感じ、密談を聞かれたと思い、咄嗟の判断で障子越しに刀子を投げたのです。障子を開け確認すると、倒れていたのは……紗霧でした。恐らく……私の挙動が気になり、気配を窺っていたのでしょうね……。可哀想な事をしました……」

 悲絶したといちが慟哭する。皎潔なる涙を、汪汪漣漣と溢れさせた。

哀哭するといちを正視しかねて、信頼が静かに双眸を伏せると沈黙した。

信頼の瞼に、倒れた紗霧の、変わり果てた姿が鮮明に蘇っていた。


 ……障子を開けると、紗霧が刀子を深々と胸に受け、倒れていた。驚駭した信頼が咄嗟に抱き抱え、刀子を引き抜き呼び掛けたが、最早蒼白の紗霧に反応は無かった。

絶命した相手が紗霧と知って、刀子を投げた同志の(はやぶさ)が居た堪れない顔になると、信頼に深く詫び入った。

自らが引き起こしてしまった悲劇に、信頼が茫然と自失する。取り返しのつかない事態に、どうする事も出来ず……突如として不慮の死に見舞われた紗霧をかいなく抱き締め、頬に手を当て、ただ呼び掛けた。長き黒髪は妍妍として為すがままに揺らめき、優婉なる白皙は今や瑩徹に透き通り、色を失った紗霧の口唇は儚くも永遠に閉ざされた。

無情にも穿たれた心腑から、温もりに満ちた真紅の血が、散り逝く命と共に流れ出る。潸潸とした血潮は紗霧の紅涙に似て、信頼の胸奥を、いやが上にも惨然と締め付けた。

冷冷と静寂した紗霧を如何ともせず抱いたままの信頼に、侍座していた隼がはっと顔色を変えると喚起する。

廊下に近付く人の気配に、信頼が一瞬で自我を取り戻すと、瞬時の気転で企謀した。

紗霧の具合が悪いからと人払いをさせ、同志である隼と共に、紗霧の亡骸を帳台に寝かせて隠匿した。次に事をどう決着させるか思考を巡らせ、謀議した。

不測の事態で紗霧を失ったとは言え、今更、謀反を断念する気は毛頭無かった。

寧ろ、暴挙を制止させうる可能性を秘めた紗霧という存在の喪失は、尚一層、信頼を陰謀の成就に妄執させていた。紗霧が死んだ以上、事局は一刻の猶予も無かった。信頼が知力を傾け、策謀する。……そこで思い付いたのが、菖蒲の君の存在だった。

菖蒲の君は、その一方的な執着で、信頼に熱を上げていた。身分も低く、また好みの女では無かった為、これ迄は適宜失礼の無い程度にあしらって来たが、事ここに至り、都合良く犯人にでっち上げるのに打って付けの存在であると、俄かに思い当たった。

贄とする菖蒲の君を呼び出す為、信頼が早速文をしたためる。

文には巧言を弄し、あらん限りの言葉を尽くして赤裸々な恋情を叙し、『遠縁に当たる紗霧の屋敷に、結婚祝いを届けに訪れたという名目で、密かに自分に会いに来て欲しい』と、熱心に誘引した。

……案の定、菖蒲の君は、文を受け取るなり紗霧の屋敷へやって来た。

信頼に随従する女性同志が扮した侍女に案内され、菖蒲の君は紗霧の部屋に通された。菖蒲の君は別の女性同志が扮した紗霧に、その存在を疑いもせず形式的に結婚祝いを渡すと、その情熱的な瞳は積極的に、信頼の姿を追い求めていた。

やがて祝儀の礼を述べる為、信頼が紗霧の部屋に顔を出した。

信頼は、女性同志が扮した偽者の紗霧に対し、『菖蒲の君を見送って来るから、貴女は自室で休んでいる様に』と優しく言い置き、紗霧の部屋を退出し、菖蒲の君を自室に誘った。


部屋に入るなり信頼は、嬉々として信頼に随順した菖蒲の君の手を引き、ぐいと抱き寄せると唇を重ね、その耳元で甘く囁いた。

「私は、自分でも気付かぬまま……どうやらとうに、貴女の妖艶な瞳の虜になってしまっていた様です。今日、こうしてお会い出来た様に……これからは度々、貴女の御屋敷に通わせて頂けたらと思います」

思わぬ口付けに、豊艶なる胸をときめかせ、菖蒲の君が恍然と陶酔する。思いも寄らぬ信頼の熱情に絆されると、ここが恋敵の紗霧の屋敷である事も忘れて快楽に打ち震えた。菖蒲の君が欲情に潤んだ瞳で恍惚と信頼を見上げると、熱っぽく頷いた。

官能に浸り陶然と艶めいた菖蒲の君を見遣り、信頼が口元を綻ばせると令色を浮かべた。

自分の思惑通りに事が運んでいる事に、えも言われぬ快感を覚えると、信頼がほくそ笑む。

これで此の女は、俺の言いなりだ……。良い様に、動いてくれるだろう。

何とも、浅はかな女だ……。

菖蒲の君の深甚なる一途な恋情を逆手に取って、とことん己の為に利用する……。

それに対しての罪悪感など、信頼は微塵も感じていなかった。

信頼はそもそも目的達成の為に手段を選ばず、また何でも躊躇い無く利用し尽す種類の人間であった。妖冶なる天性の美貌と機才により、予て女に不自由した事が無かった信頼は、その恵まれた環境が却って災いしたのか、本気で好きになった女性など、嘗てひとりもいなかった。信頼にとって、端整な己の容姿はより良く渡世する為の道具に過ぎず、また女性とは、あくまで目的達成の為の手段であり、単なる手駒のひとつに過ぎなかった。


豊麗なる菖蒲の君の、ねっとりとして絡み付く様な瞳を見つめながら、信頼はふと……彼女とはあまりに対照的な紗霧を思い起こしていた。

嫋やかな容姿に、清らかな優しい瞳……。温もりに満ちた、貞淑なる女……。

そう……唯一、紗霧を失った時だけは……初めて胸が痛んだ……。

純粋にして寛容な魂の持ち主であった紗霧に可哀想な事をしたと思い、遣る瀬無かった。

……だが、そう思ったのも束の間の事……。

今はこうして、謀略成就の為に、菖蒲の君を籠絡している自分がいる……。

……紗霧、貴女もあの世で私の本性を知ってさぞかし呆れ果て……ほとほと愛想を尽かしている事だろうね……。信頼が内心密かに自嘲すると、眼前の菖蒲の君に向き直る。

今回も、紗霧殺害の犯人として、此の女には、全ての罪を被って貰わなくてはならない。

信頼が駄目押しとばかり、好きでもない女を熱心に見つめると、菖蒲の君の妖艶な黒髪を指に絡ませ悩ましく口付け、情愛を弄ぶかの様に確と抱き締めるなり甘美に囁いた。

「本当ならば、今すぐにでも妍麗なる貴女をこの腕に抱き、我が物にしてしまいたい所ですが、如何せんここは紗霧の屋敷……。中々、私の勝手にならない場所であり、何とも心苦しい次第です。どうか……貴女を思って、夜も眠れずにいる私の狂おしい心中を哀れと思し召し……貴女への恋心を抑え切れずに、今宵私が、こうして危険を侵してまで貴女とお会いした事は二人だけの秘密として、ただ貴女の胸にのみ、深く秘めて頂けませんか」

 菖蒲の君が愛欲に満ちた黒き瞳でうっとりと信頼を見上げると、嫋嫋と頷いた。

秀麗なる眉目を開いた信頼が、妖麗に微笑んだ。眩惑した菖蒲の君が頬を上気させて嬌羞すると、信頼が青糸の髪を愛撫するなり、たぐり寄せ接吻する。ひと頻り濃密な口付けを交わすと箝口を念押し、名残惜しい素振りで眷眷として、彼女を見送った。

 後日、菖蒲の君が紗霧の殺害犯として検非違使に逮捕された際には、同志を介して密かに密書を送り、『処刑執行前に、必ず貴女を助け出すから安心する様に、また救出成功の暁には、二人で都を落ちのびて静逸に暮らそう』などと、またもや欺瞞に満ちた情熱的な内容の手紙で、菖蒲の君を巧妙に箝口していたのであった。


 ……紗霧を失ったのは、降って湧いた想定外の不幸であり……真に遺憾であった。

だが、菖蒲の君に対しては、今に至るまで、何ひとつ罪悪感が湧かなかった。

さて……問題は、紗霧の告発により計画の全貌を知った、眼前の皇女をどうするか……。

 回顧と共に冷静に立ち戻り、深刻な事態を再顧した信頼は、軈てその長い沈黙を破り、悲嘆に暮れ啜り泣くといちを冷淡に見遣ると口を開いた。

「ところで、内親王様。いい加減、ご自分の心配をなさったらどうです? 貴女様は知ってはならない秘密を知ってしまったのですよ? ここから帰れるとでもお思いですか?」

 乳姉妹の最期に悲しみをあらたに涙に濡れ、肩を震わせ哀咽していたといちが、はっとして我に返ると蒼然として信頼を見上げる。狡猾な信頼が、にたりと笑った。

「まあ……ご心配には及びません。貴女様はここで、俄かに御病気になられた事にしましょう。……そして私と一緒に、この屋敷を出て頂きます」

「誰……誰が、その様な! ぶ……無礼者!」

 刹那、信頼が、袖口に忍ばせていた吹矢をふっと吹いた。

といちが首筋に激痛を感じると、その場にどさりと倒れ臥す。

「本当は、貴女様も御同意の上でお連れしたかったのですが……残念です。では暫くの間、御病気になって頂きます」

 恐れを知らぬ信頼が、平然と皇女を毒牙に掛けると悦に入る。意識を失い、ぐったりとしたといちをひょいと抱き上げると、孤狼の如き冷笑を浮かべた。

「私の屋敷で、ゆっくり静養なさって下さい」

 信頼が、得たり顔でほくそ笑んだ。




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