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雨の日の出来事

その日は、生憎の雨だった。

梅雨とは言え慈雨に恵まれず、何かと晴天が続いたこの頃であったが、この日は珍しく夜からの雨がしとしと降り続き、昨日までの暑さが嘘の様に肌寒かった。

 後宮、麗景殿に居を構える当代一(あたるよのいちの)皇女(ひめみこ)(通称といち皇女)は、こうした今日の憂鬱な天気とは裏腹に、殊の外うきうきと、慌ただしい朝を迎えていた。

 麗景殿も平素と異なり、大層な賑わいを見せていた。

皇女に傅く大勢の女房が、主の居室を引っ切り無しに出入りしては廊下を行き交い、大小様々の小箱や唐櫃を運び込み、所狭しと並べ立てる。

 といち皇女は女房達の手綺麗な所作に大変感謝しながら、自分の眼前に山の様に積み上げられていく豪奢な荷物を、嬉々として見つめていた。

軈て女房達が一斉に侍座すると、皇女が慎重な足取りで、整整と山積みされた荷物に歩み寄る。細心の注意を払うと、累々とした荷物の最上部に、大切そうに挟持していた、黒漆に金細工の見事な小箱を乗せ上げた。

「これで、準備は全て完了だわ!」

 黒曜石の輝きを放つ大きな愛らしい瞳に目一杯の喜びを湛えて、透き通る様な白い肌を仄かな珊瑚色に上気させながら、皇女が興奮醒め遣らぬ様子で軽く手を叩く。

少女らしい純粋な喜びを素直に表した皇女は何とも可憐で、皇女を溺愛する帝や東宮でなくとも微笑ましかった。

 温恭に侍座する女房達がすっかり骨抜きになると、思わず一斉に顔を綻ばせる。

「まあ、といち様ったら、この数日とてもご熱心でいらっしゃったから、お喜びもひとしおなのでしょうね! 何ともお可愛い事!」

女房達が、柔らかな慈母の瞳で愛おしく皇女を見守ると、優艶に微笑んだ。

「といち様に、これだけ愛されていらっしゃるとは、()(ぎり)様は何てお幸せな方でしょう!」

 ひとりの女房が、羨ましい限りだわ! とばかり、恍惚とした表情で溜息を漏らす。

部屋中の女房達が満ち足りた様子で笑いながら、異口同音に頷いた。

「といち様、荷造りは終えられましたか?」

荷車を手配していた女房が、衣の露を払いながら入室すると、大量の荷物を目の当りにして思わず閉口する。

「まあ、驚きました! といち様、本当にこれを全部、お持ちになるおつもりですか?」

 夥しい荷物の前で大いに満悦していた皇女がくるりと振り向き、爛漫に微笑んだ。

「ええ! 勿論全部、持って行くつもりよ! だって……結婚の御祝いですもの!」

溢れるばかりの皇女の喜びに、侍座した女房達が総並に母性本能を擽られると、何としても主意に沿うべく、作業を再開した。

有能な女房達の手に依って、部屋に山積していた荷物が実に効率的に運び出されると、次々と荷車へ積み込まれる。ひとりの女官が皇女を優しく促した。

「さ、といち様御自身も、お仕度なさいませんとね! 折角これだけ準備なさったのに、間に合わなくなってしまいますよ。今日は皆様、(こう)(らん)様の御屋敷でお待ち合わせなのでございましょう?」

「そうだったわ! ごめんなさい」

 はっとした皇女が慌てると、ばたばたと次の間に駆け込んだ。

愛くるしい皇女を微笑ましく見つめると、数人の女官が手際良く身支度を手伝った。

「御車の準備が、整いました」

 軈て、廊下に侍した女官が畏まって奏上すると、皇女が歓然と姿を現した。

皇女の傍に控えた女官長らしき年配の女性が外を見遣ると、一向に止む気配の無い雨に甚だ嘆息する。

「それにしても……。昨日までは、夏の様な暑さでしたのに……。よもや今日に限って、朝から灰色の空に長雨とは……何とも、残念でございますね。外は、かなり寒そうでございますよ、といち様。くれぐれも、御身お大事にお出で遊ばします様に……」

 どんよりとした空模様など露も気にせず、皇女が軽快に返事した。

「梅雨ですもの! 本来こうでなくては、それはそれで心配ですから! 寧ろ、本格的な慈雨として降ってくれれば、父帝を始め宮中の皆様も雨乞いの心配が無く、さぞかし御安心召される事でしょう! ……それにね」

 打橋から、御簾を巻き上げた唐庇車に乗ろうとして、十二単衣の裾を軽く持ち上げた皇女が不意に振り返ると、純粋な好奇に満ちた顔を向ける。

手にした優美な袙扇を広げると、嬉嬉として女官長に囁いた。

「実を言うと、私……後宮ばかりにいて、ほとんど外出が無いでしょう? 雨の日のお出掛けなんて、もう大興奮! ……楽しみで仕方ないの。雨を待ち焦がれていた、田の蛙と同じ心境……と言ったところかしら?」

「まあ!」

 袙扇をぱちんと閉じ、うふふと陽気に微笑むなり洋洋と乗車した皇女に、女官長が深い慈しみに満ちた眼差しを向けると、恭謙して皇女を奉送した。

「いってらっしゃいませ」

こうしてといち皇女は大勢の女官に見送られ、後宮を後にした。


 普段より、自らの御用車である唐庇車でさえ乗り慣れていない皇女は、滅多に無い外出の好機を大いに楽しもうと、雨にも拘わらず車の側面に付けられた物見を開けて、熱心に外の様子を眺めていた。皇女にとっては雨に濡れた花木の一本、道端の虫や小石、雨粒ひとつと雖も新鮮で、感動を与えるものであった。

皇女の一行はゆっくりと内裏を抜け、続いて広大な大内裏を抜けると、右京にある紅蘭の屋敷を目指した。



 紅蘭の屋敷((たちばな)右大臣邸)は、右京姉小路の、歴代の橘本家が継承してきた地所に在り、代々宮中の要職を歴任してきた橘家は、藤原家に匹敵する権勢を誇る旧家であった。

宏大な敷地が擁する蒼枯の庭園は歴代天皇の絶愛を受け、四季を通じて帝が行幸されては、幽深なる絶景を愉しまれていた。殊に洛中随一を誇る曲水では、弥生になると、盛大なる曲水の宴を催す事が恒例であった。

庭園中央に位置する大池には、天神川より豊かな水が引き込まれ、豊満なる鯉が群れを成して悠悠と遊泳し、池より流れる曲水は庭園全体を回遊して、満満とした潤いを齎していた。曲水の両岸には春から順に季節毎の花木が植えられ、川下に行くに従って、四季の移ろいを愉しめる構造になっていた。

長久なる曲水には大小様々の橋が掛けられ、曲水に沿って造られた小路は委蛇として散策を誘い、四本の大橋の袂には、春夏秋冬を主題とした東屋が設けられていた。

春の東屋では春も酣の頃、爛漫の桜が風に舞い、花吹雪となって水路に舞い落ちる様が殊絶であった。桜が散ると、低木に切り整えられた皐月や躑躅が満開になって彩を添え、青嵐に揺れる桜の青葉とあいまって目を愉しませた。

百花繚乱の春が過ぎ去り初夏になると、夏の東屋から見える水辺の菖蒲が一斉に花開き、中央の大池では淡紅や純白の蓮が漫漫として芳潤なる甘露を抱き、薫風に嫋嫋と戯れる。池上の釣殿から望む風景は、この世の楽園浄土を思わせた。

水深が一定に保たれた曲水では、小さなめだかを始め、ふなやはやが群れを成し、水面をついと滑る涼やかなあめんぼに、様様なとんぼが飛来する。並木に営巣した小鳥や蝉が、嘈嘈として賑やかに夏の到来を告げると、盛夏には、苔生した老木の鬱蒼とした樹冠が烈日を防ぎ、潤沢なる深緑の苔が、処し難い暑さと湿気を和らげた。

取り分け秀逸な秋の風情は、濃艶なる絨緞とでも言うべき千代の緑苔に、朱塗りの東屋が鮮烈に映え、濃緑の青苔や曲水の明鏡に真紅の紅葉が揺落して綾なす様は、まさに勝絶であった。

厳冬には老松が無垢な雪を戴き、降り積もった一面の白雪が深深として、松翠や池の蒼色と相俟って静寂し、殊の外幽邃であった。

趣向を凝らした庭園以外でも、重厚な寝殿造である橘本邸は、旧きを愛する橘殿の意向で累代大切に手入れされ、数百年に渡って命を永らえていた。

 柱のひとつひとつに至るまで、昔の匂いがする。

遠い昔に白木だった柱は、代々使い込まれる事で磨り減り丸みを帯びて、人に馴染んだ何とも言えない極上の手触り感を出していた。深厚なるその色は、渋い濃色や鈍色の古色に変わり、見る者を歴史の重みで圧倒し、その一方で他に代替出来ない無上の癒しと安心感を与えていた。

橘邸は、その壮大な屋敷のどの部分を取っても、まさに歴史そのものであった。

人の一生を見つめ続け、その時代を生きた大勢の人の思いが込められ、現在に継承された荘厳な寝殿造りは、もはや建物自体に魂が宿ったかの様な風情があり、実に深玄であった。


紅蘭はその由緒正しき大貴族、橘本家の跡取り娘であった。

橘右大臣には多くの側室が居たが、何故か紅蘭以外の子宝に恵まれないでいた。

この為、親戚を含む分家筋から多くの養子縁組の話があったが、橘殿は現在の所、拒否し続けていた。

いずれ紅蘭が結婚すれば、跡取り問題は解決される……。そういう期待が、橘殿にはあるのかもしれない。だが今の所は、紅蘭に対して結婚を促す様な言動も無かった。

故に、紅蘭は歴とした橘家の次期総領でありながらも、実に自由な毎日を満喫していた。


「駄目だわ……やむ気配は無さそうね。かえって、勢いが増して来た気がするわ」

西の対にある自分の私室から外を眺め、紅蘭がほうっと溜息を吐く。

真向かいに座る客人女性に向き直ると、湯気立ち上る新茶を淹れながら詫び入った。

「ごめんね、といちには、早く来る様に催促しておいたんだけど……。すっかりお待たせしてしまって。もしかしたら、この生憎の天気で、といちも思わぬ足止めを食っているのかもしれないわ」

静淑なる客人の女性が、ほほえみながら恐縮する。

「いいえ、紅蘭様。本日は私の方こそ、こうして過分なもてなしを受け、恐縮です……。私の為に、貴女様の御屋敷をお貸し頂き、この様な場を設けて頂けるとは……。真に身に余る厚遇に、御礼の申し上げ様もございません」

厚顔至極とばかり己を責める賓客の言葉に驚いて、紅蘭が慌てて言葉を返した。

「そんな事はいいのよ、全く気にしないでね! 大体、言い出したのは私だし、ね?」

紅蘭が快活に笑うと、屈託の無い顔でお菓子を勧めた。


「紅蘭様。只今、東宮様と綾小路(あやのこうじ)様がお越しになりましたが……」

侍女が廊下に畏まると、言上する。心外な顔で、紅蘭が尋ねた。

「……え? といち、ではなくて? 大津と薫ですって? ……おかしいわね。今日は、来る予定など無い筈なんだけど……。何か、急用かしら?」

紅蘭が訝し気に首をひねり、声を潜めて独語する。やがて、にっと笑うと口を開いた。

「……ま、いっか。女同士で盛り上がる予定だったけど……。こういうお祝い事は、大勢いた方がいいわよね!」

 狐につままれた顔の賓客をよそに、紅蘭が二人を自分の私室に通す様に言付けた。


ややあって、侍女に案内された東宮(大津(おおつ)大浪(おおなみの)皇子(みこ))と薫が、肩を並べて廊下に姿を現した。見慣れぬ客人が居る事に気付いた薫が、吃驚すると非礼を詫びる。

「これは……御客人がいらしたのだね、紅蘭。突然訪問して済まなかった。私は急用ではないから、また出直す事にするよ」

薫が東宮を促すと、優雅な仕草で踵を返した。

「待ちなさいよ、薫! 何しに来たのか未だ、用件も聞いてないわよ! ……折角だから、あんた達もお茶でもどう? もうじき、といちも来る予定なの」

いや、そもそも自分は橘家が所蔵する文庫から本を借りに来ただけだから……と、薫が穏便に辞退の意向を伝えると、不意に東宮が口を挟んだ。

「といちが来る? あいつ、こんな天気の悪い日にわざわざ外出とはな! 全く、何を考えているんだか……」

自分の事は棚に上げ、憂慮を口にした東宮に、溌剌として紅蘭が答えた。

「今日はね、こちらに居られる紗霧様が、この度めでたく御結婚されたので、皆で御祝いしようと思って集まったの! といちが、乳姉妹の結婚だし、自分の手で御祝いを渡したいというものだからね! かと言って紗霧様の御屋敷は、新婚で……婿殿もいらっしゃるから、ちょっと御祝いに押し掛けるのも憚られるでしょ? だから、私の屋敷で祝賀会を開く事にしたのよ!」

東宮が盛大に溜息を吐くと、呆れ返った。

「……やれやれ、ものすごい暇人ぶりだな、紅蘭! それなら落ち着いた頃に訪問すればいいではないか。祝賀会にかこつけて、ただ騒ぎたいという、お前の神経が分からんな!」

憮然とした紅蘭が、怒りを露に反論した。

「大津! あんた、何も分かってないわね! それに私にも紗霧様にも、強烈に失礼よ! ……女の子としては、新婚さんの色々な話を聞いてみたいじゃない。出会いとか、恋愛とか! 結婚生活とか!」

東宮が鼻で笑うと、笑止千万とばかり言葉を返した。

「……ならば、お前が恋愛して、結婚出来る様に頑張ればいい! 人の恋愛を聞いたって、お前がどうにかなる問題ではないだろう? 参考にもならんし。そんな話が聞きたいとは……変わってるな、お前! 俺には、さっぱり分からん境地だ」

怒り心頭に発した紅蘭が、顔を真っ赤にして噛み付いた。

「馬鹿! あんたって、ほんっとに重症よ! 乙女心が全く分かってないわね! 自分の事じゃなくても、幸せな話は聞きたいの! うっとり夢心地になって、幸せを共有したいの! ……もう! ごめんね、紗霧様。この人、一応これでも東宮様なんだけど……。何と言うか、色んな意味で人間じゃないから! 本当に気分悪いけど、気にしないでね」

「何だと? 言いたい放題の失礼な態度はどっちだよ! ……チッ。全く胸糞悪いな! おい薫、帰るぞ!」

 紅蘭の悪態に逆切れした東宮が薫を促すと、意に反して薫が冷眼で東宮を一瞥するなり、やれやれと深く嘆息した。次いで、帰ろうとした東宮の手をぐいと引き掴み制止すると、紅蘭の前に引き戻して無理やり座らせた。薫がふわりと侍座すると、冷冷と東宮を促し、自らも深く低頭して、真摯な態度で口を開いた。

「……万障を繰り合わせ、折角開催した筈の結婚を祝う会に、私の不注意な訪問で水を差して、済まなかった。幸せなお気持ちで御歓談中に、東宮の暴言により、大層お気を悪くされた事であろうね。大変、申し訳なかった」

 誠実な瞳で物腰柔らかに非礼を陳謝した薫に、不意を衝かれた紗霧と紅蘭が茫然とする。軈て、はっと我に返った紅蘭が、慌てて薫を気遣った。

「やだ、薫が謝る事なんて無いのに! ……止めて、もういいのよ、薫。顔を上げて」

 顔を上げた薫が、チラッと東宮を垣間見た。苦虫を噛み潰した顔で渋々単座する東宮を見て取ると、ふっと微笑んだ薫が紅蘭に向き直る。

「女性の気持ちが全く分からない……。これだから東宮は、未だに良い相手に恵まれず、こうして結婚出来ないでいるのだよ。どうかそれに免じて、許してやって欲しい」

 薫が清麗なる顔のまま、しれっとして、とんでもない毒舌を吐いた。紗霧と紅蘭が真っ青な顔で人心地を失うと、恐る恐る東宮の顔色を窺い、今や寧ろ同情する。

東宮が、辛辣な皮肉など全く気に留めていない様子でくっくと笑うと、薫を小突いた。

「馬鹿言うなよ、薫。結婚してないのはお前も一緒だ! 人の事、言えないだろうが!」

頷いた薫が、にやっと笑うと東宮に答えた。

「その通りだ。私も、女性の気持ちが分かるという悟りの境地には至っていない。だが、お前と違って……気持ちを察する努力は、しているつもりだ」

「よく言うぜ!」

 失笑した薫を小突くなり、東宮が快闊に笑い出す。愉快至極とばかり大笑する二人に、似た者同士を痛感した紅蘭が、嘆息するなり呆れ果てる。

ややあって、東宮が紗霧に向き直ると、神妙な面持ちで詫び入った。

「……悪かったな。後で、俺と薫から結婚祝いの品を送るから、それで勘弁してくれ」

 紗霧が却って恐縮すると、丁重に礼を述べた。機嫌を直した紅蘭が、二人を招いた。

「ほら、そんな所に立ってないで、こっちでお茶でも飲みなさいよ! 事こうなった以上、あんた達にも芸でも何でも披露して貰って、しっかり御祝いして貰おうじゃないの!」

 東宮と薫が、一瞬顔を見合わせ苦笑する。薫が柔和に微笑むと、誠実に応じた。

「そうだね……。お詫びの印に、御指名とあれば、喜んでそうするよ。笛でも舞でも、お望み通りに御披露しよう」

 悪戯めいた紅蘭が、くすりと笑った。

「安心して。……芸の事は冗談よ。ま、席に着いて」


 紅蘭の私室から垣間見る庭は、殊の外趣深かった。

白糸の如き五月雨が老木に降り注ぎ、音も無く苔に染み入る様は、幽深であった。

最奥の池には翠霞が靄靄として水天をゆらゆらと曖昧にさせ、散満なる蓮が雲霞の水涯に溶け込み、真に幽玄であった。

薫は、橘家が所蔵する膨大な量の本を借りに訪れる度、蒼枯なる庭園の有り様にしみじみと感動を覚え、心惹かれていたが、桃源郷も斯くやあらんと思わせる、雨に濡れた今日の風情は中でも随一であると感じ、暫し見入っていた。

 東宮も、紅蘭の私室に遊びに来たのは、久方振りの事であった。

いつもは紅蘭の方から二条院に遊びに来る事が多かったし、東宮が出向くのも、親友である薫の屋敷か(あおい)の家が殆どであった。今日は、晴天であれば蹴鞠でもしようと薫を誘うつもりであったが、生憎の雨となり、薫が紅蘭の家に本を借りに行くというので、暇を持て余しているからと付いて来たのである。

東宮にとって、歴史を感じさせる橘家の寝殿造りは、自然と馴染み易い場所でもあった。その重厚な古い造りは御所に共通するものがあったし、橘家の温故知新の精神は、長い伝統に守られ、古き良きものを手厚く堅持して来た皇室の姿勢に、似たものがあった。

余情深き庭を熱心に愛で、心から愉しんでいる薫を見遣りふっと微笑むと、人の気配に気付いた東宮が、廊下に目を欹てた。


「紅蘭様。只今、といち様がおいでになりました。お通し致します」

 廊下の先に控えた侍女が言上すると、燦然とした紅蘭が、ぱっと廊下に出るなり嬉しそうに両手を広げ、といち皇女を出迎えた。

「といち、待ってたわ! 随分、遅かったじゃない?」

遠方に見えた人影が、待ち切れない様子で紅蘭を目掛け、ぱたぱたと駆け寄った。

「紅蘭姉様! お待たせしました。遅くなって、ごめんなさい!」

 言うが早いか、といち皇女が満面の笑みで、紅蘭の懐に飛び付いた。

皇女に傅く大勢の女官が、待機場所である次の間に入室しつつ、仲睦まじい姉妹の様な二人に、微笑ましい目を向けた。

「紗霧は? もう、着いているの? ああ、本当にお待たせしてしまって、ごめんなさい」

 といちが息を弾ませ入室すると、真っ直ぐ紗霧に歩み寄り、今度は紗霧に飛び付いて、真摯に遅刻を詫び入った。

「といち様、私の方こそ、この様な悪天候にも拘らず、こうして御出座頂くなど……。分不相応なる御厚恩に、何とお礼を申し上げたら良いのか分かりません」

娟麗なる紗霧が嫋やかに微笑むと、といちに丁重な謝意を述べる。

興奮頻りのといちが、心外といった様子でふるふると首を振ると、嫣然と微笑んだ。


「といち! お前、随分と皆を待たせた様だが、一体、何をしていた?」

 驚いたといちが振り返ると、目一杯の喜びを表した。

「兄上? 嬉しい! 兄上も、お祝いに来て下さったの?」

 欣喜した妹宮に、思わず東宮が苦笑する。

「いや、俺は偶然だ。薫が文庫を借りるというから、付いて来ただけなんだが……」

 といちが大いに興奮すると、嬉嬉として東宮と薫を見つめた。

「薫殿もおいでとは嬉しいです、兄上! 一緒に、お祝いして下さるなんて!」

 無垢なる喜悦に爛漫とした皇女を愛おしく見つめた紅蘭が、お手上げとばかり微笑んだ。

「本当に……貴女の前だと、何でもどうでも良くなっちゃうわね! 可愛らしくて!」

 きょとんとした顔のといちに、満ち足りた笑顔の紅蘭が着席を促すと、いそいそとお茶の準備を始める。温雅な薫が、そつなく紅蘭を手伝った。


 気紛れな雨風が時折廊下に吊るした風鈴を鳴らし、湿気を忘れさせる爽やかな音が凛と響いて心地好かった。香り高いお茶の柔らかな湯気が立ち上る室内では、興奮醒め遣らぬといちが身を乗り出すと、早速本題を切り出していた。

「それで、紗霧……どう? 花嫁になった気分は?」

 もう聞きたくて堪らない! という様子のといちが、真珠の様な頬を薄らと紅潮させながら、その潤沢な黒き瞳で紗霧を見つめる。

「……おからかいにならないで下さい、といち様……」

 真っ直ぐなといちの津津とした視線に、紗霧と呼ばれた姫君が、気恥ずかしそうに顔を赤らめ、思わず口元を袖で隠すと、照れ笑いを見せた。

「いいじゃないの、幸せなんだから!」

 好奇心旺盛な紅蘭が、話を聞いてみたい一心で朗らかに笑うと、紗霧を促した。

 やいのやいのと双方から熱心に催促され、生来恥ずかしがり屋の紗霧は、何から話したものかと……少々、思案している様子であった。

 暫く女性陣の話を漫然と聞いていた東宮が、机に頬杖をついたまま、やおら当惑顔の紗霧を凝視すると口を挟んだ。

「お前は確か……といちの幼馴染だったよな? 以前に、宮中で見た事がある様な……。といちと、同年ぐらいだろう? もう結婚したとは早いな! 相手は、誰だ?」

 平素は異性に全然興味の無い様子の兄宮が、朧げながらも自分の幼馴染を覚えていた事に、といちが大層喜ぶと、意気揚揚と説明する。

西(にし)九条(くじょう)家の信頼(のぶより)殿よ、兄上! 紗霧は私と乳姉妹だったから、年も私よりひとつ上と近かったし、幼い頃からずっと一緒に育った仲なの! その紗霧が、結婚したと聞いたものだから……。もう私、大興奮なの!」

 東宮が頷くと、薫に問い掛けた。

「……西九条? ……知らないな。薫、お前、知ってるか?」

 柔和な瞳で話を聞いていた薫が、淡雅に答えた。

「ああ。最近、急激に勢力を伸ばして来た家だ。東国で、中規模の反乱があってな。押領使を拝命した信頼殿が快刀乱麻に鎮圧したので、軍功により、左兵衛府佐に抜擢された」

 鋭敏な双眸を欹てた東宮が、ふと頬杖を解き、面白そうに薫を見遣る。

「へえ? やるではないか。どんな奴だ?」

 関心を抱いた様子の東宮を見て取ると、薫が艶然と頷いた。

「残念ながら、私も未だ、彼とは面識が無い。報賞の日に、別件で都を留守にしていてね。主上と父上に依ると、有能で、将来有望な辣腕家らしいが……。私も興味深い人物だと思ってはいるが、なかなか会う機会に恵まれなくてね」

宮中一の情報通を自負する紅蘭が、二人の会話に心外な顔を見せると、口を挟んだ。

「やだ、あんた達! まだ一度も見た事無かったの? 西九条信頼殿といったら、すこぶる付きの美男なのよ! 恩賞を賜りに参内した姿を見て、宮中の姫君が皆、夢中になったんだから! 今や、宮中のお姉様方の噂の主で、注目の的なのよ! 憧れの君なのよ!」

 紅蘭が滔滔と語り、饒舌になる。

「へえ? ちっとも知らなかったな、そんな話」

東宮と薫が初耳だとばかり、互いに顔を見合わせる。余りに淡淡とした様子の二人に、呆れ返った紅蘭が盛大な溜息を吐いた。

「……全く! あんた達は本当に、色恋沙汰に興味無さそうね! そうして男ばかりでつるんで遊び歩いているもんだから、女心が理解出来なくなるのよ! あんた達だって、恋愛や結婚は、他人事じゃないでしょうが」

東宮がムッとするなり、紅蘭に反論した。

「……確かに全く考えていないが、お前より追い詰められていない事だけは、確かだ」

 薫が苦笑を浮かべると、深く長嘆する。

「……そういう台詞が出るあたりが、駄目なんだ……お前は」


 夫である信頼の話題に、はにかんだまま、依然として顔を上げられないでいる紗霧を微笑ましく見つめると、といちが嬉しそうに口を開いた。

「紗霧、良かったわね! そんな素敵な殿方と、結婚したのですもの!」

 粋然としたといちの祝意に、紗霧が思わず顔を上げると、初初しい顔を見せる。

ええ、勿体無い事です……。とばかり、照れあんばいに小さく頷いた。

溢れる幸せを控え目に表した紗霧に、といちが至福の顔で陶然と微笑む。

 調子付いた紅蘭がにっと笑い、からかい顔になるなり、紗霧を小突く。

「でも、気を付けなさいよ――紗霧様! 憧れの君と結婚したという事は、多くの女の妬みを買う事になるんだから。……特に菖蒲(しょうぶ)の君は、信頼殿に、並々ならぬ熱を上げていたらしいからね――?」

 泥酔したおじさんの様な絡み口調で悪乗りした紅蘭を、呆気にとられた紗霧とといちが唖然として凝視する。眉を寄せた東宮が、軽く紅蘭を窘めた。

「紅蘭、悪い冗談は止せよ」

「……ごめんなさい」

 行き過ぎを自覚した紅蘭が、素直に反省する。神妙に畏まると、ふと遼遠なる眼差しを紗霧に向け、純粋な気持ちで羨望した。

「……でも、本当に羨ましいわ、紗霧様。由緒正しき名家の娘と、今を時めく好青年の恋なんて……。いつの日も、乙女の憧れよ! ……それが、こうして成就したなんて凄いわ、夢みたいよ! 此の上無く甘美だわ!」

 耳たぶまで真っ赤になりながら、紗霧が顔を上気させてうろたえた。

「そ…そ…そんなに持ち上げられては、身の置き所がなくなってしまいますわ、紅蘭様」

 零れるばかりの笑顔を見せると、不意に紅蘭が立ち上がる。

部屋の隅に歩み寄ると、見事な螺鈿細工の厨子を開け、豪奢な衣装桐箱を取り出した。

「おめでとう、紗霧様。これは私からの結婚のお祝いなんだけど、どうぞ開けてみて!」

 紅蘭の思わぬ所作に驚きながらも、紗霧が嬉しそうに箱を受け取り、丁重に開けた。

総様が一斉に注視すると、思わずあっと息を呑む。

桐箱には、鮮麗なる唐紅色に豪華な金糸の刺繍が施された、最早芸術品とも呼ぶべき完成度の唐衣が入っていた。

 余りの素晴らしさに、目を奪われた紗霧とといちが、思わずほうっと嘆声を漏らすと、陶然と見入る。花鳥風月は勿論の事、芸術全般と広範に渡り、とかく美しいものをこよなく愛でている薫が、思わず目を輝かせると感嘆した。

「これは、見事な御品だね、紅蘭。それに紗霧殿に、とても良くお似合いになるだろう」

にわかに我に返ったといちが、弾かれた様に立ち上がる。次の間についと歩み寄るなり、勢い良く襖を開けた。

 次の間の中央に、これでもかと積み上げられた豪奢な荷物が、犇犇と並んでいた。

控えている筈の女房の姿が、膨大なる荷物に死角となって遮られ、視認出来ない。

といちが委細構わず荷に駆け寄ると、黒漆に金細工が施された小箱を取り上げ、愛しげに抱えて客間に戻った。

眼前に展開する珍妙奇絶な光景に目を疑って、一同が思わず言葉を失った。

 やがて、呆れた東宮がといちに向き直ると、恐らくは全員一致であろう疑問を口にした。

「といち、……何だ、これは?」

 嬉嬉として、といちが答えた。

「何って……? これは全部、紗霧への御祝いの品です、兄上!」

 といちが手にした小箱を嬉しそうに見つめると、紗霧に手渡しながら熱弁を振るった。

「中でも、この小箱は、私が厳選に厳選を重ねた特注の香炉なの! 紗霧は香を嗜む事に掛けては超一流ですもの! もう、何より素敵な贈り物かもしれないと思って! 残念ながら、紗霧を唸らせる様な薫香までは、私の技量では思い付かなかったけれど……」

といちが昂然として、なおも熱っぽく話を続けた。

「実は私、ここ数日ずっと夜通しで、御祝いに贈りたいと思うものを全て準備していたの!今日は生憎、雨になってしまって……。実は、到着が遅れてしまったのも、積み過ぎた荷物の所為か、途中で荷車の車軸が折れてしまって……。一旦宮中に戻り、父上の車をお借りして再度運び直して来たから、こんなに手間取ってしまったの」

 えへへと悦に入りながら、無邪気に話す妹宮に、東宮が呆れ果てて緘黙する。

紗霧が蒼然と恐れ入ると、思わず顔を見合わせた紅蘭と薫が、互いの懸念を確認した。

 やがて紅蘭が一同を代表すると、恐る恐るといちに尋ねた。

「父上の車を借りたって……。といち? あんた、まさか……」

 といちが屈託の無い、清朗なる笑顔を見せた。

「ええ! あの、ほら! 其処に見える、あの車をお借りしたの! 父上が、何でも好きなものを使って良いと仰るものだから。流石に父上の御車は頑丈で、どんなに積んでも、押せばちゃんと動いたし、泥沼に嵌まっても、びくともしなかったわ!」

 無言のまま瞳を閉じた薫が、人知れず深い溜息を吐く。

 驚愕した紅蘭が、慄然とするなり外を見遣ると、帝専用の巨大な玉輦が、雨皮を付けたとは言え車輪から何から泥塗れの様相で、見るも無残に横付けされていた。

 紅蘭が心奥から震駭すると、といちを問い質した。

「といち? ……あんた、帝の玉輦に自分が乗って来たんじゃなくて、まさか荷物の方を積んで、荷車の代わりにして来たの?」

きょとんとして、といちが答えた。

「だって私には、自分の唐庇車がありますから! 覗きの為の小さな物見窓が付いていて楽しいんですもの! 父上の車は大きいから、丁度、荷物入れに良いと思って!」

 爛漫なるといちの傍らで、帝にどうお詫びしたら良いのか考え、責任を痛感した紗霧が心痛の余り蒼白になると、ばたんと昏絶した。

苦笑を浮かべていた薫が、気絶した紗霧をふわりと抱き留めると、丁重に寝かせる。

東宮が、抱腹絶倒とばかり大笑した。

「馬鹿親父だな! 車の使い方も碌に知らないといちに貸すとはな! 自業自得だ!」

 真っ青になった紅蘭が、東宮を窘めた。

「笑い事じゃないわよ、大津! ……あの車、あんなに泥に浸かったんじゃ廃車じゃない!帝に、どう弁解したらいいのよ……。どうしよう。雨の日に、といちを呼んだ私の所為だわ……。……もうっ! あんたも何か、良い手を考えてよ!」

 摩訶不思議な顔になると、東宮が紅蘭に向き直る。

「といちがやったんだから、といちのせいだろう? 紅蘭! お前が親父に詫びる事など、何も無い! 気にするなよ」

 紅蘭が、溜息混じりに言葉を返した。

「そうはいかないわよ……。ああ、困ったわ。どうしましょう」

 打って変わり意気消沈となった紅蘭に、東宮が珍奇とばかり瞠目する。

「普段、あれだけ図々しい癖に……妙な所を気にするんだな、お前! ……いいぜ、そんなにあの車の始末が気になるなら、いっそ野盗に襲われた事にして、俺が木っ端微塵に大破させてやる! そうしたら、流石の親父も、惜しいとも何とも思わないだろう」

静聴していた薫が甚だ呆れ返ると、穏やかに牽制した。

「後先考えずに行動するな、大津。といち様が野盗に襲撃されたとあっては、その後の帝の行動が容易に想像付くだろう? といち様は後宮に閉じ込められ、紅蘭の屋敷に遊びに来る事が出来なくなる。紅蘭はといち様の来駕に際し、天候だけでなく、野盗に対しての配慮も欠いたと責められかねない。今後、野盗対策と称して宮中の取締りが強化されれば、お前も何かと動き辛くなるだろうし、総じて……紗霧殿の結婚祝いの後味も悪くなるというものだ」

 薫が一旦言葉を切ると、汚濁の災禍に遭った玉輦を見遣り、深く嘆息した。

「しかも……不運は重なるものだな。或る意味……まことにといち様は、お目が高い。品物を見定める、確かな眼力がお有りだ」

「どういうことだ?」

 不可解な面持ちで東宮が尋ねた。薫が淡々と、事情を説明する。

「帝の所有である数多の玉輦の中でも、あれはつい最近完成したばかりの最上のものでな。大変まずい事に、帝御自身の設計による特注品だ。無理難題を突き付け、終いに音を上げた業者が、余りに大変な手間が掛かるので、玉命と雖も今後二度と制作しないという了承を得て、五年越しに漸く仕上がったという、稀有な逸品なのだよ」

 紅蘭が心胆を寒からしめると、悶絶寸前に奄奄として落ち込んだ。

然しも豪胆な東宮がチラと目を転じると、純真無碍なる顔をして閑閑と控える妹宮を見遣り、やれやれ此奴もとんでもない事をしたものだ……と、呆れ果てた。

「……で、お前だったら、どうする気だ?」

 目を欹てた東宮が尋ねると、怜悧な薫が暫し考える。

間を置いて紅蘭に向き直り、冷静な声で口を開いた。

「紙と筆を、貸してくれないか?」

 頷いた紅蘭が慌てて紙筆を用意すると、薫が文机にふわりと座り、さらさらと筆を走らせ、何やら熱心に書き始めた。

暫くして書き終えると筆を擱き、墨が乾くのを待つと、くるくる巻き上げた。

巻物をといちに奉上すると、薫が艶然として言い置いた。

「宮中に御戻りになられたら、帝に御挨拶される際に献上して下さい。主上に拝謁される好機は……そうですね、内裏で私の父が同席した場所か、或いは……後宮にて、梅様が同席されている場合が、最も効果的かもしれません」

 薫の意図が分からず模糊としたといちであったが、薫の誠実な瞳を見つめると、安心したのか嫣然として頷いた。

「ええ、必ず! ありがとう、薫殿」

 紅蘭が、念を押して確認した。

「薫、ね、何を書いたの? ……それで本当に大丈夫なの? 頼みの綱のあんたの事だから……信じてるわよ」

「……多分ね」

 衷心から頼み入った紅蘭に、薫が悠然と微笑んだ。

 軈て文庫を借りた薫が東宮と共に帰宅すると、目覚めた紗霧と紅蘭、といちはそれから一刻ほど融融として会話を楽しみ、其れ其れの帰路に就いた。



 といちが後宮の自室に戻ったのは、夕刻だった。

薫から託された巻物を手に、早速父帝に拝謁するべくその所在を女房に尋ねると、玉輦の事情を知って驚き青ざめた女官長が、といちに念を入れ問い質した。

「主上は現在、内裏におられます。……薫様が、内裏か、後宮の(うめ)(つぼ)の更衣様のおられる場所で……と、確かに仰ったのですね?」

 周囲の狼狽から、といちが漸く事の重大を認識した様子で黒曜の大きな瞳を潤ませると、無言のままこくんと頷いた。

といちの言葉を確認すると、女官長が幾分安心した顔を見せた。

「……それならば、丁度ようございました。本日は大学寮の紀伝博士が参内し、主上に文学を御進講する日でございます。今の時刻は内裏での朝議も終わり、綾小路太政大臣様、中宮様、梅壺の更衣様を始め、宮中でも博識で文学に精通し、また興味を御持ちの公達が身分を問わず一堂に会し……主上と共に、清涼殿にて講義を受けておいでだと思いますよ。後宮の女房達も、教養を身に付ける為の絶好の機会と、参加している者が多うございます。といち様も、お早く御出で召されませ」

 といちは女官長の言葉に勇気付けられると、清涼殿へと急いだ。


 清涼殿では、学問好きの太政大臣綾小路(あやのこうじ)友禅(ゆうぜん)の発案で、その道の一流を自負する専門家が交代で参内し、最新の学問を教える各種勉強会が連日開催されていた。当初殿上人のみで構成されていた勉強会は、宮中切っての才媛である中宮萩の方、大変な勉強家で知られる梅壺の更衣を始め、後宮の教養溢れる女房達が参加出来ない事を大変嘆いた事から、内大臣である綾小路薫の提案により、身分や男女の違いを超えて、各勉強会の講義内容に興味を持つ者は、誰でも自由に参加出来る事になっていた。

勉強会は、主に大学寮の主要教科である四道と呼ばれる分野で催される事が多かった。

四道を究める教授陣の内、長である明経博士は五経を基に論語や孝経を説き、明法博士は律令を、算博士は算道を、文章(紀伝)博士は史記や漢書等の歴史書や文選といった詩文を熱心に教授した。

紀伝の勉強会では文章博士が目下、白氏文集を教材に漢文を説き明かしていた。参加者各々が感想を交換しつつ、解釈の違いから時折熱っぽい議論となっては、秀才と呼ばれる文章得業生が注釈して学問的解説を加え、文雅なる殿上人達からは、日頃中々触れる事の出来ない文学の深奥を究める場として、絶大な支持を得るひとときとなっていた。

友禅としては単に勉強好きが昂じて、自らの学問への情熱とその飢餓感から純一に発案した勉強会であったが、薫は友禅の発意を重々踏まえた上で政治的意味を付与すると、積極的に助長して伸展を促した。

薫としては、こうした勉強会を通じて大学寮に刺激を与える事で、様々な学問分野に於ける研究を促進させ、その成果を定期的に披露する事で宮中を啓蒙し、延いては人心の徳を高めて様々な争いを未然に防ぐという狙いがあった。

又、学問を実学として成立させる事で、より良い世界にする為役立てると言う、学問本来の最終目的を遂げようと考えていたのである。

これは、薫自身の『学を修め、知識を得ると言う事は、多角的な視点を得るという事に他ならず、それが延いては相手を尊重して自他共により良い方向に進化させ、以って泰平の世を実現させる事に繋がる』という、清高なる信念に基づいた行動であった。

 勉強会は毎日開催される事もあり、又実務に携わる多忙な殿上人が多数を占めた事から、毎回異なる出席者である事が多かった。友禅や薫も積極的な参加を希望しているものの、実際は膨大な仕事や多大な雑務に追われ、全出席と言う訳にはいかなかった。


この日の勉強会は、帝や太政大臣友禅を始め中宮萩の方、梅壺の更衣、後宮の女房達、公達、末席には判官達が座り、時折談笑を交えながら和やかな雰囲気の講義となっていた。

 ふと清涼殿の襖が開き、といちがそっと顔を覗かせた。

垣間見るといちの視線に逸早く気付いた中宮が、佳麗なる容貌に艶やかな微笑を浮かべると、御機嫌麗しく声を掛けた。

「これは、といち様! よく御出でになりましたね。遠慮なさらず、どうぞ此方へ」

 言うなりすっと横に引いて自らの席を空け、帝の隣席を勧めた。

愛娘の来訪を喜んだ帝が、上機嫌で口を開いた。

「といち、そなたが勉強会に顔を出すとはな! 誠に感心な心掛けじゃ! 何処ぞの戯けなる兄宮とは、偉い違いじゃ! さ、此処へ座るが良い」

 といちは襖から困った様に顔を出すと、おもむろに末席に歩み寄り平伏した。

白氏文集を論題として白熱した議論を展開していた参加者達が、平素と異なるといちの様子に手を止め静粛すると、一斉に傾注する。

 天真爛漫なるといちが、殊の外神妙である事に驚いて、太政大臣の友禅が問い掛けた。

「当代一皇女様、そのご様子は……? どうか、なさいましたか?」

 温厚なる友禅の言葉に、といちが微かに頷くと顔を上げ、純真な黒曜の瞳で上座の父帝を真っ直ぐ見上げると、幾分双瞳を潤ませ奏上した。

「父上、私は父上に……お詫びしなくてはなりません。父上からお貸し頂いた御車を……廃車同然に台無しにしてしまいました。どうぞ、お許し下さいませ」

「な……何? まさか……あの、納入されたばかりの玉輦の事か?」

 愛娘の言葉と雖も、数年越しの悲願が叶い手に入れた、思い入れ深き愛車の災難に、見る見る内に帝の顔が青ざめた。

周囲の者達は話の内容を察し切れず、唯、帝の御気色が刻刻と悪化するのを繊細に感知して恐れをなすと……為す術なく、悄悄と静まり返っていた。

鋭利な中宮が、場の雰囲気を敏に読むと機転を利かし、といちに尋ねた。

「廃車同然……とは、一体、どうなさったのですか、といち様……? 車はさて置き……まず最も大切な貴女の御身に、大事はありませんでしたか?」

 機知に富み、するりと車から関心を逸らした中宮に、渡りに船とばかり助けられたといちが顔を上げ、その瞳で目一杯の感謝を表した。

「はい、中宮様。私はこの通り、何ともありませんでしたが、父上の新しい御車が……。誠に申し訳ございませんでした。詳細は……どうか、これをお読み下さいませ」

といちが恭謙したまま進み出ると、薫の書いた巻物を父帝に献上した。

 これがあの東宮の仕業であるのなら……この逆鱗に触れる行為に対し、瞬間的に逆上して軍を差し向けるか、自ら成敗に赴く所であったが……。この度は、目に入れても痛くはない程溺愛し、無条件に可愛がっている愛娘の失態である。

流石の帝も怒り心頭に発したとは言え、当たり所を見付けられず……何とか怒りを封じ込め、この降って湧いた様な災難を嘆き、しょげ返る他なかった。

気落ちした帝が、がっくりと肩を落とし、失意のまま項垂れて巻物を受け取った。

中宮と梅壺の更衣は、あたかも奈落の底に墜落したかの様な帝の落胆を目の当たりにすると、東宮の前で見せる強硬で尊大な態度と斯くも異なる事に、寧ろ可笑しささえ覚えて、自ずと顔を見合わせるなり、互いに内心で笑いを噛み殺す事に必死であった。

ややあって、中宮が胸の内を悟られぬ様に平静を装うと、意気消沈の帝に向かい、巻物を開いて見るよう促した。

帝は折角手に入れた玉輦が、既に廃車同然になってしまった……という事実だけで、もう沢山であった。気持ちは如何せん深く沈み込み……どうにも遣る瀬なくなって、車が大破した原因など、最早どうでもいいという気分であった。

巻物を開く意欲も湧かず、中宮に促されると甚く沈痛な面持ちで、傍らに控える友禅に手渡し、代わりに読み上げる様に呟いた。

温恭に控えていた友禅が、帝の命じるまま巻物を受け取り、閑雅に広げ目を通す。

一見するなり、愛息である薫の筆致と見抜いた友禅が、内心密かに驚いた。

……ほう、あの薫が書いたからには、何か此れには意図するものが有るのであろう……と感じたが、友禅は或る意味、狸顔負けの、超一流の役者であった。

生来の温厚篤実な性格に、癇癪である帝との長年の付き合い、長期に渡る政治官としての豊富な経験が相俟って、殊にとぼける事に関しては、他者の追随を許さなかった。

友禅は、温和な表情を何ひとつ変える事無く空惚けると、粛々と巻を読み上げた。

巻物の内容は、漢詩であった。其処には、乳姉妹の結婚祝いをする為に、並々ならぬ思いと情熱を傾けて、数々の困難を克服しつつ、期待に心躍らせて紅蘭の屋敷に赴くといちの様子が、あたかも冒険譚であるかの様な、壮大なる叙情詩として綴られていた。

主人公であるといち皇女の心情が、嫋嫋として雅趣豊かに歌い上げられ、切々と訴える。

友禅が心得た様に、悲喜交交と声色を使い分け、艶麗なる詩を朗朗と詠誦する。

中身が叙情詩である事を逸早く感じ取った中宮が、筆者を鋭敏に看破するなりその真意を酌むと、静逸なる微笑を浮かべ、韻律を純粋に愉しみ聞き入った。

 その場に居た一同が、総並に叙情詩の世界に引き込まれると、主人公であるといち皇女に感情を移入させ、時に喜び、興奮し、或いは涙する。

もともと感受性が豊かで情に脆い梅壺の方は、ひと際強く感じ入ると、辺りを憚らず声を大にして泣き笑いを繰り返し、陶然としていた。聞き終えると巻物を手に取り、嬉嬉として叙情詩の麗筆を見つめると、何度も読み返しては流麗な筆華に目を瞠り、余韻を楽しんだ。

 詩の朗詠が終わる頃には、最早その場に居合わせた誰もがすっかりと、といちに良い様な心情的解釈をするに至っていた。そして、流石は文章勉強会の参加者である。

間を置かず、この叙情詩を評する議論が勃発し、喧喧諤諤と白熱した。

 どうやら作者は、白居易に影響されているね! ……いや、もし自分であれば、李白の様な奔放な楽府を書くよ! などと、……最早廃車となった憐れな玉輦の事などは、叙情詩に登場する単なる道具のひとつに過ぎず、誰一人として気に留める者さえいなかった。


 熱気漲る勉強会とは裏腹に、相も変わらず沈痛な面持ちで枯坐する帝をちらと見遣ると、熱心に叙情詩を読み耽っていた梅壺の方が、友禅と中宮同様、疾うに薫の思惑に気付いていながら、両者と同じく空惚けて帝に向き直り、嫣然として話し掛けた。

「主上、凄いですわね! 私、感動致しましたわ! いつもは後宮で、静粛に過ごされているといち様が、幼馴染の結婚祝いに心を砕いて、自ら進んで外に飛び出し、この様な冒険をなさるとは……何とも、羨ましいですわ! 素敵な事ですわね! 帝も、五年越しの思いを込められた御車で、といち様の貴重な経験を後押しなさったのですもの、御父君として、この上無く御立派ですわ! 流石は、太っ腹な陛下であらせられます。大変、良い事をなさいましたね!」

 梅壺の方の言葉を受け、機敏な中宮が好機とばかり、透かさず援護の口を挟んだ。

「そうですわ。車は所詮物ですから、またより良い物をお造りになれば良いのです! といち様の貴い体験は、お金に替える事など出来ませんから、こうして大切なといち様が、無事であったのです。何より重畳ではございませんか! 車の事など、もうお忘れなさいませ」

明朗な梅壺の方が莞然として帝を誉め上げると、中宮が艶然として寛大な処遇を促した。

 黙坐したままの帝をちらりと顧みると、中宮が密かに梅壺の更衣と視線を交わし、あとひと押しとばかり言葉を継いだ。

「懐深くあらせられる陛下ですから、これからはいっそ、車の使い方を含め、といち様の心の向くまま、もう少し自由な外出をお許しになられたらいかがです? 勿論、皇后様と御相談されての事ですが……。何分、青春真っ只中のといち様です。今回の様な経験は、将来きっと、内親王の財産になると思われますが」

 中宮の温語に、緘黙していたといちが思わず顔を上げ、ぱっと瞳を輝かせる。

梅壺の方が燦然と微笑むと、駄目押しとばかり口添えした。

「素晴らしい御提案ですわ! 私も中宮様の御意見に、全く同感です。後宮の私達も、といち様を通じて外の世界を垣間見るのは、とてもわくわくして楽しみですもの! 主上がお許しになられれば、それは嬉しいですわ! 私達の見聞も広がるというものですわ!」

 友禅は温柔な笑みを浮かべて静黙したまま、帝と妃達の会話を敬聴していた。

帝は、互いに結託して空惚けている妃達と、狸同然の芝居を演じている友禅の様子には露も気付かず、熱弁に絆されると、やがて機嫌を回復し、といちに向かい口を開いた。

「ま……確かに、中宮や更衣の申す事も尤もじゃな! ……車は、致し方ない。可愛いそなたの勉強代だと思えば、安いものじゃ! そう思って、諦める事にしよう。そなたも詩にある通り、大変な苦労をした様であるからの! ……今日は、もうゆっくり休むと良い」

 不安気に静観していたといちが爛漫に微笑むと、溌剌として感謝する。

「父上! そして中宮様! 梅壺の更衣様! 何と御礼を申し上げたら良いでしょう! ……本当に、有難うございました!」

 といちが深々と一礼すると、入室して来た時とはさながら別人の如く、浮き浮きとして弾む様に退出した。といちを絶愛している帝は言うに及ばず、中宮、更衣、そして友禅が、深い慈愛に満ちた眼差しを向けると、愛らしい皇女を目送した。

勉強会は新たな叙情詩の登場で一段と活気付き、詩文の技巧に至るまで、微に入り細を穿つ熱烈な議論が勃発した様であった。



 翌朝――。昨日の天気が嘘の様に、この日は朝から抜ける様な空の色が青々と澄み渡り、梅雨の中休みとでも言うべき晴天は、日中の猛暑を予感させた。

 といち皇女は昨日の疲れもあって、いつもなら疾うに目覚めている時刻を過ぎても遅々として、未だ深い眠りの中にいた。

 といちに使える大勢の女房や女官達も、平常であればとっくに声をお掛けして御起床を促す筈であったが、暁を覚えず深深と眠る皇女を微笑ましく感じ、わざと人払いして、御寝所を閑静に保つ配慮をしていた。

「といち様ったら、快くお疲れのご様子で、今朝は未だ、ぐっすりお休みの様ですね」

 ひとりの女房がくすりと笑うと、別の女房に話し掛けた。

「そうね、何せあれだけ準備なさって、ようやく本番となった昨日は、見事大役を果たされたのですもの! 今朝はすっかり緊張が解けて、安心してお休みなのではないかしら?」

「寝不足が続いていらっしゃったから、お体を心配しておりましたけど、これで、私達もひと安心ですわね! 今日は、昼餉のお時間位まで、ゆっくり眠らせて差し上げたいわ!」

皇女の御起床に備えて衣装や整髪の準備を整えると、女房達が和やかに談笑する。

「それにしても……。帝の玉輦を台無しにされたと聞いて、一時はどうなる事かと、昨日は真に、冷や冷やしましたね」

 ひとりの女房が昨日の一件に言及すると、お喋り好きな女房達が一斉に興味をそそられて、我も我もと饒舌になる。

「そう、それそれ! 私はといち様に随従して紅蘭様の御屋敷に同行したから、正に目の当たりにしたんだけど……。事態を悲観された紗霧様はお倒れになるし、流石の紅蘭様も真っ青になられて……。いかに帝の御寵愛深きといち様と言えど、本当にどうなってしまうのか……。私達の処遇も含めて、ほんとに肝を冷やしたわ!」

別の女房が、身を乗り出して問い掛けた。

「そうだったの? ……大変だったのね! 私は留守をしていたから、詳細はまだ何も知らされていないけど……。でも、最終的には事無きを得たのでしょう? 何もお咎めが無かった……とだけ、女官長様から伺ったわよ?」

問われた女房が頷くと、興奮気味に口を開いた。

「文章道講座に出席した女房によると、帝は玉輦の件で、大層消沈されていたらしいわ!でも、薫様がといち様に差し上げた巻物の素晴らしい叙情詩と、その場に居合わせた中宮様と梅壺の更衣様のお口添えもあって、御機嫌を回復されたらしいわよ」

 喋喋として話に花を咲かせていた一同が、事の顛末にほっと胸を撫で下ろす。

ひとりの女房がくすりと笑うと、思わず口を滑らせた。

「……これが東宮様だったら、ちょっと洒落にならないくらい、大変だったわね」

不幸中の幸いだったという趣でしみじみ感じ入ると、心底安堵の溜息を漏らす。

周囲の女房が総じて失笑すると、晴晴として、矢継ぎ早に言葉を継いだ。

「そうよ、といち様だったから、帝もお怒りを何とか自制なさったんだと思うわ!」

「それにしても……中宮様と梅壺様が援護して下さるとは、ありがたかったわね!」

「本当に! これも、もとを正せば聡明な薫様が、咄嗟の機転でといち様の御為に書かれたという雄編の御陰……。止ん事無き御方達が、斯くも皆様お揃いで、救いの御手を差し伸べて下さるとは……。真にといち様は、何て稀なる強運をお持ちの御方でしょう!」

 その場に居合わせた女房達が、陶然として感銘する。

「それもこれも、皇女様ご自身の徳であらせられるわね! 私達は、そんなお可愛い皇女様のお傍にお仕え出来て、幸せね!」

本当にそうだわ! とばかり、女房達が零れる笑顔で華やかにさざめいた。


 歓談を劈く絶呼と共に、廊下を轟々と走る跫音が鳴り響く。

 喃喃としていた大勢の女房達が、一斉に口を噤むと廊下に注目した。

といちの御帳台に近侍する女房が眉間に皺を寄せ、すっと廊下に出るなり沈黙したまま口に指を当て静粛を命じたが、駆け来る女官の勢いは収まらない。

蒼白の女官がといちの寝所に駆け入ると、それを止めに入った数人の女房を退ける様に、疾呼した。

「といち様! 大変でございます! といち様!」

といちの御帳台を護る女官達が、粛静の配慮を欠いた行いに腹を立てつつも、飛び込んできた女官の只ならぬ様子に、一体何事かと動揺する。

「皇女様! 一大事です! といち様!」

馳せ参じた女官が、蒼惶したまま皇女の御帳前で平伏すると、大声で注進した。

ようやくにして周囲の騒音に気付いたといちが、深い眠りから目を覚ますと上体を起こし、御帳越しに静穏なる声を掛けた。

「……何事ですか? ……朝から騒々しい」

といちの寝所は勿論、隣室に控える女房達も、女官の言葉に一様に傾注する。

「そ……それが……」

平伏していた女官が思わず声を詰まらせると、突如、床に突いた両手に自らの頭を激しく埋めるなり、わっと泣き崩れた。

「ど……どうしたのです?」

只ならぬ事態を察知したといちが御帳を開き、寝衣姿のまま顔を覗かせた。

寝所に居合わせた女官長が、悲泣に咽ぶ女官に甚だ戸惑いながらも報告を促すと、慨然とした女官が、やっとの事で言上した。

「紗……紗霧様が……。何者かによって、……暗殺されました」

瞬間、といちが大きく双瞳を見開くと、雷に打たれたかの様に色を失った。

女房達が主人同様、電流が走ったかの様に体を震わせると、悉く静止した。

言葉の失われた室内はしんとして……いつまでも静まり返っていた。



 数刻後、といち皇女は紫野にある紗霧の屋敷に向かう唐庇車の中にいた。

平素は心躍らせ軽やかな気持ちで訪れる道も、俄かに戚戚として途轍もなく長い道程に感じていた。心ときめいて洋洋と乗車した昨日とは打って変わり……あれだけ愉しんでいた物見窓もピシャリと閉めたまま……恰も魂が抜けてしまったかの様な、虚ろな表情で項垂れていた。

 頭の中は、真っ白であった。

積日の紗霧ばかりが走馬灯の様に思い出され、波間に浮かぶ泡沫の如く、浮かんでは消えていた。夢を……見ている様でもあった。

『といち様、新しい物語が手に入りました。お読みになります?』

 ……最も年の近い幼馴染として、どれだけの時間を共有した事だろう……。

『といち様がお気に召されていた空薫物を合わせてお持ちしました。荷葉です』

 紗霧がほんのり薫き染めていた、えも言われぬ空香が忘れられなくて、恍惚と陶酔していた私を思い遣り、門外不出の筈の香を、私の為に調合してくれた……。

温情に満ち、清高なる人……。

『といち様、私、結婚しましたの。……信頼様と』

結婚を知らされた時、私に遠慮しながら控えめに、でも、何て嬉しそうに微笑んでいた事だろう……。

紗霧……。嫋やかで優しく、穏和であった貴女が何故、殺されなければならないの……。

それも、どうしてこの喜び溢れる幸せの絶頂に……! 何て惨い……。

 天は……どうして時に、残酷極まりない選択をされるのだろう……。

 潸然とした涙が止め処なく雪肌の頬を伝い、零れ落ちた。

深き黒曜の瞳から溢れる涙を拭いもせず、といちは唯洞然として車に揺られ、その身を任せていた。知らず知らず零した涙は紫の衣を暗鬱に濡らし、暗紫の涙痕は寒冷なる冷感と相俟って尚一層、といちの胸懐を凄寥たらしめた。

降り積もる哀しみを堪え切れず、といちがわっと泣き伏した。

「ああ……。紗霧……紗霧! ……貴女が亡くなったなんて、嘘よ! ……信じないわ!」

 車から漏れ聞こえる哀咽に、といちに随行する徒歩の侍従が、身を切られる様な皇女の悲傷を慮り甚く心を痛めると、共に漣漣と泣き濡れた。



 紗霧の家は、累代が斎院司に奉職していた。斎院は、代々紫野に居住する事が慣習である為、紗霧の家も都の北に位置する紫野に居を構えていた。

 軈て車が停止すると、簾が巻き上げられた。

女官に下車を促されても、といちは顔を上げる事すら出来なかった。

惘然として悲しみに打ちひしがれ、ずたずたに切り刻まれた思考の中で……その足だけが無意識に、通い慣れた紗霧の部屋へと向かっているのが、何とも恨めしかった。

 うなだれたまま……漸くの思いで紗霧の部屋へと辿り着くと、白布で顔を覆われた紗霧が横たわっていた。緘黙していたといちが唇を震わせ、噛み締める。

部屋に充満する焼香の白い煙に、汪汪とした自らの涙が相俟って、弥が上にも眼前の光景を霞ませる。信じたくなかった現実を目の当たりに突き付けられて、といちがその場に惨然とへたり込んだ。

「といち様……」

紗霧に仕える侍女達は勿論の事、といちに随従した女官もことごとく、悲絶なる皇女に涙を誘われ咽び泣く。紗霧の傍らに座る若い男性が、といちに深く平伏すると口を開いた。

「これは……当代一皇女様でいらっしゃいますか。お初に、お目に掛かります。……紗霧の夫、西九条信頼でございます。本日は妻、紗霧の為にご出駕頂きまして、恐縮至極でございます」

信頼が涙声を震わせ口上を述べると、涙にくれる紗霧の侍女達が再び哀咽した。

 信頼は、眉目秀麗なる男であった。瑞々しい黒髪を結い上げ烏帽子を被る様は端整で、まさに貴公子を思わせる、まことに宮中の関心を独占するにふさわしい美青年であった。

 しかしこの日の信頼は、ことのほか疲れ切った様子であった。

切れ長の双眸は精彩を欠いて落ち窪み、黒ずんだ隈は痩羸した双頬と相まって鬼気迫り……傷悴した姿は茫々として、見るも哀れであった。

 茫然自失のといちが、信頼をぼんやりと見つめていた。

といちに礼意を言上すると、信頼が一礼して背を向け、紗霧に向き直る。

がっくりと落とされた広い肩が、時折、わななく様に震えていた。

寂寂としたといちが、洞洞として無心に見つめる。

……泣いておられるのね……信頼殿。

……あんなにやつれ果てるとは……お気の毒に……。

信頼の震える肩越しに……といちは今や、無言で横たわる紗霧に瞳を注いだ。

紗霧……あんなに喜んでいたのに……。眩いばかりの幸せな笑顔でいたというのに……。これから二人で歩み出した矢先だったというのに……嘸かし、悔しかったでしょうね……。

紗霧の無念に思い至ると、永訣に咽ぶといちの胸懐が剔抉の痛みを覚え、甚だ愁悶する。

信頼が再びといちに向き直ると、寂然として口を開いた。

「昨夜、妻は具合が悪いからと……人払いして、早めに休んでおりました。……夜半に侍女が様子を見に訪れると……妻が部屋で倒れているのを見付けました。……短刀か何かで、心臓をひと突きされていたそうです」

信頼は言葉を切ると両手で直衣を引き掴み、ギリッと歯噛みするなり言葉を継いだ。

「紗霧は、控え目で優しい女でした……。断じて、人の恨みを買う様な女人ではない……。一体誰が……! 私は、憎い! ……殺してやる!」

信頼が両拳を激しく床に叩き付け、遣り場の無い憤悶に、辺りを憚らず慟哭する。

今や、部屋中が愛妻を失った信頼の悽愴を思い遣り、声を上げて哀泣した。

……といちは、胸が張り裂けそうな悲しみを覚えた。

心臓が、締め付けられる様な激痛に苛まれる。といちは、襟元に添えた片手にぎゅうっと力を込めると俯いて、その深き黒曜の双瞳から涙を溢れさせた。

紗霧……貴女は、こんなにも愛されていたというのに……。

 ……どうして……。


 といちの悲しみは、計り知れないものであった。あまりの心痛で無気力となり、自己喪失状態であるといちを憂慮した女房達は、互いに相談すると陰陽師の勧めもあり、後宮に戻る前に急遽、兄宮である東宮の御所(二条院)へ、方違えに寄る事を決めた。


   

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