めぐる君チェンジ
僕はどこにでもいる普通の中学生だった。口うるさいけど僕を大切に思ってくれる母さんと、ぼっとしているけど頭が切れる父さんと二歳年上のダルメシアンのブッチと一緒に14年間平和に暮らしていたんだ。僕が独り立ちするまでは何も変わらない生活が続くと思っていた。
でも、あの日は来たんだ。
朝起きてまず感じた違和感は首から肩にかけての違和感だった。とは言っても蚊に刺されたという感じではなく、くすぐったいと言った方が正確だと思う。
寝起きで何も考えられないまま首筋に手をやると、そこにあったのは自分の髪だった。痒みの原因はどうやらこれのようだ。
でも、僕の髪はこんなに長くない。
つい一昨日、邪魔にならないようにと散髪してもらったばかりじゃないか。それにしても邪魔だ。頭をかきむしると髪が何本か指に絡まる。いい匂いがした。
次に目に留まったのは髪の絡まった自分の手だ。昨日より指が細くなった気がする。いや、指だけじゃなかった。手のひら、手首、そこからつながる腕まで一回り小さくなったみたいだ。か細くて、捻れば簡単に壊れてしまいそうな、まるで女の子みたいな手……。
そこで初めて嫌な予感がした。そして僕は恐る恐る、自分の胸へ手を当てた。
むにゅ。
背中からどっと汗が湧き出る。昨日までなかった、無かったはずの膨らみだ。どうして僕についているんだ?
縋るように股間に手をやる。変わらずそこになくてはならないものの感触はない。
予感は的中した。
僕は凍り付いた。
「どうしてこんなことに?」とでも言いたかったんだろうか、僕はどうにかして声を出そうとしたけど、何かに突っかかってうまく出てこない。遂に僕はむせてしまった。視界が滲んでいた。もう一度胸に手を当てる。心臓が激しく鼓動を刻んでいるのがわかる。腋の下を冷たい液体が一筋伝っていった。
それから大体五分ぐらいだろうか、僕は座り込んでいたままだったと思う。何か必死に考えようとしていたんだけど、何も思い出せない。
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座り込んでいては何も始まらない。信じてもらえるだろうか、ていうか信じてくれないと困る。家族に話すことにした。音を立てないようにドアを開ける。汗をかいたせいか吹き込んでくる廊下の空気が冷たく感じる。ついさっきまで握りしめていたタオルケットを再び装備して、静かに冷たい床を踏みしめる。柔らかくて湿った足の裏がフローリングの床に張り付く。
下へ続く階段へはこの廊下をまっすぐ進めば着く。脳味噌ごと揺さぶられているような錯覚に陥り、真っ直ぐ歩くことも出来ず結局壁にもたれ掛かる。我ながら不甲斐ない。
それでも、病院みたいな白い壁を伝って進んでいくうちに、僕は家族にどう切り出すか考えられるまでに冷静さを取り戻していった。こんな話を聞いたらあの父さんでも腰を抜かすだろう。口元を綻ばせて家族の反応を楽しみにしている自分がいた。
◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆
階段を下りて最初に出くわした家族はブッチだった。お前は呼んでないよ。まだご飯をもらっていないらしく、しっぽを振って後についてくる。
僕の家のキッチンはダイニングだ。部屋をのぞき込むと、ちょうど朝ご飯を作っていた母さんと目が合う。
「あら廻、おはよう。今日休みなのに随分早いね」
「うん…昨日は忙しかったし、ね」
「ふーん、じゃあ今日はゆっくり羽をのばせるね」
「勉強もするよ」
「お、いい心がけだ」母さんはニヤリと笑う。僕もつられて笑う。
…正直すごく言い出しづらい。この流れから『僕女の子になったんだ』はひどい暴投だ。母さんはきっとベーコンを床にぶちまけるだろう。いずれ知られることだし、母さんに伝えるのは後回しにしようかな、と心が揺らぐ。
いや、言わなくちゃ駄目だ。僕がこうなったことで今後の生活に大きな影響が生じる人のうちの一人だ。今言わなかったとして、後々もっと面倒な問題になって返ってくるとしか考えられない。先手必勝、善は急げ。いつ言うか?今でしょ!先人の偉大な言葉の数々で自らをまくし立てて、勇気を振り絞り声を出す。
「…あのさ、母さん」
「なぁに~?」
母さんは今に鼻歌でも歌い出しそうなくらい上機嫌だ。
「僕、女の子になっちゃったみたいなんだ…」
「むひゅっ!?」
母さんは奇声を上げ、ベーコンの入ったフライパンが宙を舞う。
「…ッ!?」
今世紀最高の反射神経で走り出した僕は、フライパンの柄をしっかと捕まえる。…よかった。ベーコンは全て無事だ。
「め、めめめ廻さん?それは一体どっどどういう意味でしょうか!?」
一方母さんの頭の中はスクランブルエッグになってしまったようだ。実の息子に敬語を使うなんて。ん?今は娘だっけ?
「女の子って、確かに、廻は昔から母さん似っていわれてきたけど、そこまで似なくてもいいんだよ!?」
母さんは依然パニック状態で、僕の肩をつかんでなにやら訳の分からないことを口走っている。
「母さん落ち着いて、うるさいよ」
鼓膜が破けそうだ。
「うん、うん、ごめんね、だっ大丈夫だからね、うん」
ちっとも大丈夫に見えない。とりあえず何度か深呼吸させて落ち着かせる。
「…ごめんね、ちょっと取り乱してたみたい」
「大分な」
「それで、女の子になったってどういうこと?変な泉にでも落ちた?」
「いや、朝起きたらもうこうなってて…」
母さんが騒いでくれたせいか、それとも打ち明けたことで気持ちの整理がついたのか。ともあれ僕は、朝起きたときの混乱から回復できていた。
「ふーん…朝起きたら女の子に、ねぇ…」
母さんは訝しげに呟く。そして少し間をおいて、とんでもないことを言い出した。
「……体、触らせてもらってもいい?」
「…は?」
「いや、ぱっと見た感じ顔とかそんな変わらないし、髪が伸びたのがわかるぐらいで、体の変化とかはよくわかんないじゃん?だから…」
「じゃん?じゃないよ、見せもんじゃないよこの体は!胸はちゃんとあるし、な、ないとこはないし…」
「ちょっとくらいいいじゃん家族の仲なんだし…そうだ、女の子の感覚に慣れておかないときっとこの先困るよ…?」
「余計なお世話だ!!いやっ、寄るな、やめ…きゃっ!?」
正気を失った母さんから逃れようとして足を躓かせ転ぶ僕。その上にまたがって手足を拘束し逃げ場を奪う母さん。昨日までの僕なら簡単に振り解けたはずなのに、どうやら女の子になって筋力も落ちてしまったようだ。
どうしよう、絶体絶命のピンチだ。このまま僕の初々しい無垢な肉体は野獣と化した母さんにおいしく頂かれてしまうんだろうか。嫌だ、僕はまだ男としての尊厳を失った訳じゃない、でもせめて、初めては好きになった恋人が良かった…!
「…真琴、廻…お前ら朝っぱらから何やってるんだ…?」
完全に諦めて涙目になっていた僕の貞操を救ったのは、樹海みたいな寝癖をつけて二回から降りてきた父さんの冷ややかな視線だった。
◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆
「ふーん、お前も大変だな」
食卓で父さんにも事情を話したら、返ってきたのはそんな素っ気ない台詞だった。
「反応薄いね…母さんまでとは言わないけど、もう少し期待してたんだけどなぁ」
「お前はウケ狙いで女の子になったのか?」
父さんの厳しい指摘。ごもっともだ。
「…父さんはさ、僕が女の子になっちゃったこと、何とも思わないの?」
レタスとトマトを頬張る父さんに聞いてみる。
「俺はお前が何になろうと、老後の世話さえ見てくれればそれでいいからな」
なんて薄情な。
そこで母さんがベーコンを食べながら「ところで文也、廻が女の子になったら、学校とかどうすればいいのかな?」と言う。母さんは先ほど地に頭を擦りつけて父さんに謝罪したばかりだ。
「んー、学校もそうだが、まず戸籍を変えないとな。後々面倒になるぞ」
「戸籍!?」
「そこまで心配する事じゃないよ。そういうめんどくさいことは私たちがやっておくから」
戸籍ってよく知らないけど、要は社会的にも女の子として見られるって事だよね?
「そんな…じゃあ学校は!?」
「普通なら転校、もしくは学校はそのままで学生証だけ女子のを発行してもらうとか?」
「んー、そんな所だな」「な…」
いつもどこか抜けている二人が真面目に話していることから、僕が置かれている状況の深刻さが伝わってくる。性別が変わるだけで、今まで通り暮らすのに障害が出てくるなんて…。こんな面倒な世界に誰がした。胸の奥から生まれてくる感情が体も心も重くする。いつもより何倍も濃いため息をつくが、少しも楽にならない。
「廻」
名前を呼ばれてうなだれていた頭を起こす。
「大変だろうけど、母さんもできるだけフォローするから、そんな顔しないの」
笑って、と母さんは言う。
「この家には少なくとも二人…あと一匹味方がいるからな。お前は溜め込みがちだから心配だけど、困ったときは遠慮しないで頼ってくれよ、な」
父さんが肩をポン、と叩いてくれる。
父さんの呼びかけに呼応するように、皿を舐めていたブッチが吠えた。
「……」
僕は何も言えない。胸の重石は気が紛れたのか楽にはなったけど、代わりに別の感情が湧き出てきて、僕の目から溢れ出しそうになる。こんな時だけ頼もしく思えるなんて、なんだか卑怯だ。
「…まああれだ、老後の世話を見てもらえるまで、恩を売っておきたいしな…」
父さんは照れくさそうに呟いて、こう続けた。
「今日は皆で、うまいもん食いに行こうな」
もう一度肩が叩かれた瞬間、僕はこらえきれず泣いた。
父さんが頭をなでてくれた。
母さんは優しく抱きしめてくれた。
ブッチは足の裏を舐めてくれた。
みんなで、笑った。
◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆
「外食の前に服とか下着も買いたいなー」通帳を鞄に入れながら母さんが呟く。
「…スカートは勘弁してよね」と僕。
大丈夫すぐ慣れるから、なんて笑われても説得力がない。あんたは子供の時から履いてたでしょうが。
「準備できたかー、行くぞー」外から父さんの声がする。
「はーい」「待って、まだブッチに水やってない」
いつもと変わらない、我が家の日常だ。僕が女の子になった事なんて本当に些細なことだった。
「真琴、俺のジーパンも買ってほしいな」
「今日のは廻のための買い出しなんだから、父さんの分はないよ」
僕が変わっても、皆は変わらず僕を受け入れてくれた。それがわかって何よりもうれしかった。
「僕、寿司が食べたいな」
「じゃあ今日は父さんのおごりにしようか」
「そうしよう!」
「ちょっと待て、小遣いもう切れるんだって!」
大人になっても今のまま楽しく過ごせればいいな、きっとできるよね。秋風が髪を揺らす。冷たく感じるのはきっと僕の心が温かいからだ。ちょっとクサいかな、口元が綻ぶ。
「廻ー、行くぞー」
「うん、今行くよ!」
呼ばれて振り向いた僕は、無意識のうちに走り出していた。