岩沼市ボランティアレポート
四月二十九日、東北地方太平洋沖地震の被災地である宮城県岩沼市に、ボランティアとして行ってきた。
話がきたのは二十四日の昼過ぎ。高校時代の恩師が、ボランティアに参加するメンバーを募っているということを友人から聞いたのがきっかけ。
実を言うと、仕事の一環として四月の頭から復興支援に参加する予定があった。でも、物流が止まってしまった影響で必要物資が手に入らず、復興支援参加の話は無くなった。
自分としては是非とも参加してみたいと思っていたので、その話が無くなったのは残念だと思っていた。
不謹慎な言い方かも知れないけれど、こういうものに参加する機会というのは滅多にあるものじゃないので、是非ともやりたいと参加表明をした。
もちろん、支援を必要としているということは困っている人がいるということであって、それを良しとは思わない。けれど震災が起きてしまったことは仕方の無いことで、今更何を言っても時間は戻らないのだから、これはある意味で自分自身にとってのチャンスと思い、即決した。
被災者の方々のためでもあるんだけれど、自分自身のためでもあると思ったので、これは是非行くべきだと感じた。
そして当日。
仕事を終えた後、弟と夕飯を済ませた後で荷造りをし、二十八日の午後十一時過ぎに家を出た。
集合場所がY高校ということで、駅から電車に乗って移動することに。
恩師には事前に参加する旨を伝えていたのだけれど、家を出てからもう一度連絡をしてみたら、「Y高校までは、電車でY駅まで来たらバスに乗ってくるといいよ」なんてことを言っていた。余談だけど、このY高校は駅から遠いのではっきり言って集合場所には不便過ぎる。
電車の乗り換えは二回。一回目の乗り換えはすんなりと行ったんだけど、二回目の乗り換え駅でトラブルが発生した。
…………電車が無い。
「あれ!? これまずくね!?」
よくよく考えてみれば、もう日付が変わろうとしている深夜なんだし当たり前なんだけど、うっかりしていた。
仕方ないからタクシーで向かうことに。片道三五○○円だよ。
それから真夜中のY高校に着いた。少し怖い。
合宿所が仮眠室となっているそうなんだけど、自分が到着したのが午前一時半。
出発が午前二時半。
仮眠できるか! それでも横になっていると、あっという間に出発時刻。
学校の正門前に一台の観光バスがやって来ていて、自分が乗り込むと既に十人程の人達が席に着いていた。
荷物を棚に載せながら適当に席に着くと、その後もぞろぞろと集まりだして、運転手含めて総勢二十三人がバスに乗り込んだ。
高校を出発してからは恩師(主催者)からの簡単な挨拶があり、すぐさま仮眠タイム。
完全に寝付けたわけじゃないけれど、それでも意識が落ちた。
バスの中では、朝食としてお茶とおにぎりと果物が配布された。しかもいろんな人からカンパもあったそうで、おやつがいくつか貰えた。
どっちが支援されているんだか分からん。
途中で二回ほど休憩を挟みながらも、バスはほぼ予定通り、朝の七時半には岩沼市災害ボランティアセンターに到着。
ボランティアセンターには、既に百人を越える別地からのボランティアの人々が長い列を作って、受付を待っていた。報道メディアも来ていた。
受付開始が八時半ということだったので、時間がまだ空く。
この時間を利用して、少し被災地の視察をすることになった。
視察先。
バスが到着したボランティアセンター周辺の景色を見ていると、確かに学校の門が拉げていたり、用水路のフェンスが折れ曲がっていたりして、津波の被害を感じられた。
でも、意外と綺麗な家が多くて、一階部分は家具などが無くなっているけれど、それは浸水したから表に出しただけのようだった。家自体が壊れている様子でもなく、「意外と住める状況だな」と思っていた。
でも、ボランティアセンターを出発してから三分ほど走った地点から、景色が一変していた。
本当に何も無くてびっくりした。
どこから来たのか分からない細かいものは散乱しているものの、傾いた家とかひっくり返ったトラック、根こそぎ倒された木がぽつぽつと見える以外は、何もなくなっていた。
ボランティアセンターから数百メートルの位置が、津波に押し流された場所と浸水しただけの場所の境界線だったんだと思う。
大袈裟な表現ではなくて本当に、ある一線の向こう側が別世界になっていた。
ボランティアセンターに戻ってから受付を済ませ、必要道具も借用して、バスは今回のボランティア先へ出発。
今回ボランティアさせてもらう場所は、養鶏場を営んでいたとある一軒の民家。
近所の小学校にバスを止め、そこから道具を持って徒歩一分。
住んでいたのはお年寄りばかりの一家。
家の敷地内には重機が入っていて、少しだけど瓦礫の撤去が始められていた。
自分達は敷地内の一角、主に鶏舎を清掃することとなった。
ある程度、人が歩けるように道は作ってあったけれど、辺り一面真っ黒なヘドロといろんなゴミが散乱していた。
スコップでヘドロを拾っては袋に詰めて、瓦礫は重機の側まで運んでポイ。
ひたすらこれの繰り返し。
既に作業自体は何日も前から始まっているというのに、一向に片付いている感じがしない。自分達の参加したこの日だって、手を付けたのはほんの一角。完全復旧までには相当の日数が掛かるだろう。
作業中の装備としては、長靴とゴム手袋、防塵マスクとゴーグル、帽子。全部自前で用意するもので、自分も前日にホームセンター行って揃えてきた。
東北地方だし涼しいだろうと思っていたんだけど、予想以上に暑い。
上は一枚しか着ていないのに、たくさん汗掻いた。
作業中、すぐ側では鶏達が籠の中でコッココッコ言いながら餌を食べていた。
家の人の話だと、籠は二段重ねになっていたんだけれど、下の段にいた鶏は海水に沈んでしまったため全滅。上の段の鶏だけはギリギリ助かったという。最近ではようやく、小さいけれど卵を産むようになったそうだ。ただ、家の方にはもう人が住めないので、家の人達は避難先から毎日ここまで通っているという。夏には仮設住宅にも入れるけれど、やはりそこから通うと言っていた。
昼飯は自前してきたんだけれど、やはりカンパの分もたくさんあるという。
しかしそれ以上にも余分に水分などを持ってきていたので、それらは被災地の方々へ寄付。
午後も作業は続き、休憩時間にはなんと家の人からコーヒーと草餅の差し入れが。
本当、どっちが支援されているんだか分からん。
ちなみにこの草餅。岩沼草餅と言って今の季節しか作らない名産らしい。家の人が、「ボランティアの人達に食わそうと思って朝七時に並んで買ってきた」と言っていた。
美味い。
午後四時半には作業終了。帰り支度をして一行はバスに乗り込む。
家の人に挨拶をしながら、バスは埼玉目指して出発。
バス会社の人を除いて、今回ボランティアに参加したのは二十一人。
そのうちの半数は、どっかしらの学校の先生だった。
主催した恩師と何らかの繋がりがある人ばかりなんだけれど、自分の顔見知りは一人もいなかった。
ただ、恩師と繋がりのある人達の話を聞いていたら、何だか恩師がやっている『教師』という職業が羨ましいと思った。
先生になるか否かは別として、教員免許の勉強してみちゃおうかと思ったくらい。
まあ、それはまた別の話になるので割愛。
Y高校に帰り着いたのは午後十時過ぎ。
それから挨拶して、解散となった。
こんな時間じゃあやっぱりバスなどあるわけもなく、Y高校まで弟に迎えにきてもらった。
肉体的にはすごい疲れたけれど、精神的には清々しい感じがした。
恩師も、実はちょっと前にも相馬市にボランティア参加していて、「これは一度じゃ終われないな」ということで今回の岩沼市ボランティアを企画したという。またやりたいと言っていたので、行けるようなら自分もまた参加したいなと思った。
今回、自分はボランティアに行ったはずなのに、なんだかいろんなものを貰って帰ってきた感じがする。草餅とかそういう形あるものもそうだけど、それだけじゃないもの。
今回参加してみて、実際にこの目で見ることが出来て良かったなと思うものがある。
一つは被災状況。テレビ画面越しで見るのとは全然違っていて驚かされた。
もう一つは、被災者の人達。被害にあって大変なはずなのに、やたらと明るかった。そういう“強さ”ってものを目の当たりに出来て、それだけでも充分価値のある経験だったと思う。
世の中が自粛ムードだと言われたり、テレビでは被災者達の辛い顔とか涙を映すことのほうが多かったりするけれど、もっと明るい部分が見れたことは嬉しい。
今回声を掛けてくれた先生には感謝しないといけないな。
震災被災地の一日も早い復興をお祈りしております。