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第6話「役割の名前」

その違和感は、

気づいた瞬間に言葉になったわけではない。


ただ、

積み重なっていく小さな出来事の中で、

輪郭だけが、少しずつ浮かび上がってきた。


例えば、

誰かとぶつかりそうになったとき。


私が先に

「すみません」

と頭を下げると、

彼女が半歩前に出て言う。


「失礼しました。

 こちらが不注意でした」


必要以上に丁寧で、

必要以上に落ち着いている。


あとで聞くと、

彼女はこう言った。


「その場が荒れなければ、

 それでいいじゃないですか」


それは、

正しい。


だが同時に、

妙な引っかかりがあった。


私が守られている。

そう感じた瞬間が、

確かにあった。


別の日、

私が判断に迷っていると、

彼女は意見を言う。


だが、

結論は決して押しつけない。


「私は、

 こう考えますけど」


必ず、

そう前置きする。


その言い方は、

遠慮でも、

逃げでもなかった。


責任の境界線を、

はっきり引いている。


私は、その境界線の内側に、

いつの間にか

立っていた。


――ああ、

  これは。


そう思ったとき、

少しだけ、胸が重くなった。


私は、

この関係の中で、

「上の立場」にいる。


年齢。

経験。

役職。


それだけの話だ。


だが、

彼女は、

それを使わない。


使わない代わりに、

受け取る。


私が引き受ける責任を、

そのままに。


「それ、

 疲れないか」


ある日、

私はそう聞いた。


「何がですか?」


「俺を、

 立てるみたいなやり方」


彼女は、

少しだけ考えた。


「立ててるつもりは、

 ないです」


「じゃあ、

 何だ」


「役割を、

 間違えないようにしてるだけです」


役割。


その言葉が、

静かに刺さった。


「あなたが決める場面で、

 私が決めたら、

 おかしいでしょう」


「逆も、

 同じです」


その通りだった。


だが、

私は気づいてしまった。


彼女は、

私を頼ってはいない。


依存も、

期待もしていない。


ただ、

この関係の「構造」を、

正確に把握しているだけだ。


それは、

尊敬でも、

信頼でもない。


もっと乾いた、

しかし誠実な態度。


その夜、

一人で考えた。


この関係は、

どこへ向かうのか。


対等ではない。

依存もしない。

上下もない。


ただ、

一時的に噛み合っているだけ。


歯車のように。


噛み合う理由が、

失われたら、

簡単に外れる。


それでも、

彼女は言ったことがある。


「いつか、

 この議論が必要なくなる日が

 来ると思います」


その時は、

軽く聞き流した。


だが今は、

違う。


それは、

別れの予告ではない。


成長の話だ。


彼女は、

いつかこの場所を、

必要としなくなる。


私も、

同じだ。


それは、

悲しいことではない。


そう思おうとした。


だが、

正直に言えば、

少しだけ寂しかった。


「父性」という言葉が、

頭をよぎった。


守る。

引き受ける。

責任を負う。


それは、

彼女と幸せになるための

役割ではない。


むしろ、

彼女が離れていけるようにする

役割だ。


その事実を、

私はようやく受け入れ始めていた。


――この関係は、

  続くから価値があるのではない。

  終わりを含んでいるから、

  成立している。


そう思えたとき、

胸の重さは、

少しだけ軽くなった。

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