第4話「降りるはずの駅」
社外での仕事が一段落したのは、夜の九時を少し過ぎた頃だった。
「このあと、どうします?」
彼女は、帰り支度をしながら言った。
質問の形をしているが、
特別な意味は込められていないようにも聞こえる。
「食事でも行く?」
私がそう返すと、
彼女は少し考えてから頷いた。
会社の近くの店だった。
静かで、照明が暗く、
会話が自然と小さくなる場所。
仕事の延長の話をして、
そのうち、いつもの議論になる。
「さっきの判断、
あれは正しかったと思います?」
彼女は、メニューを見ながら言った。
「正しいかどうかは、
まだ分からない」
「ですよね」
彼女は、楽しそうでもなければ、
不満そうでもない顔で頷いた。
「じゃあ、
しばらく様子見ですね」
その言葉が、
妙に心地よかった。
白黒をつけなくていい。
今はそれでいい。
そう言われている気がした。
食事が終わる頃、
彼女が言った。
「もう一軒、行きます?」
「……バーとか?」
「そういうのも、
たまにはいいかなって」
私は一瞬、迷った。
だが、その迷いは、
危険なものではなかった。
バーでは、
彼女は一杯だけ酒を頼んだ。
私はノンアルコール。
「飲まないんですか?」
「今日は、頭を使ったから」
「それ、
飲む理由にもなりますけど」
「俺の場合、
飲まない方がいい」
彼女は笑った。
「自覚があるなら、
立派です」
その言い方が、
評価でも、冗談でもないのが、
この人らしかった。
バーでは、
仕事の話はほとんどしなかった。
代わりに、
「知らなくてもいいこと」
「夢を語る意味」
「努力が報われないときの扱い方」
どれも、答えの出ない話題。
それなのに、
時間は妙に早く過ぎた。
「そろそろ、帰ります?」
彼女が言った。
電車に乗り、
並んで座る。
彼女の家の最寄駅は、
二つ手前だ。
私は、
そこで降りるものだと思っていた。
電車が減速し、
ドアが開く。
彼女は、動かなかった。
一瞬、
気づいていないのかと思った。
だが、
彼女は窓の外を見ていた。
ドアが閉まり、
電車が再び動き出す。
「……降りなくていいの?」
私がそう聞くと、
彼女は、
少しだけ間を置いて言った。
「今日は、
会社の最寄りまで行こうかなって」
理由は、聞かなかった。
聞くべきじゃない気がした。
次の駅で降りる。
夜の空気は、
少し湿っていた。
「車、ここですよね」
「そうだけど」
「送ってもらっても、
いいですか?」
頼み方は、
とても事務的だった。
断る理由は、
見当たらなかった。
車の中では、
ほとんど話さなかった。
沈黙は、
気まずくはなかった。
ただ、
考えが自然と巡る。
この関係は、
どこに向かっているのか。
到着すると、
彼女はドアを開けて降りた。
「今日は、
ありがとうございました」
「こちらこそ」
彼女は、
少しだけ躊躇ってから、
小さく手を振った。
そして、
振り返らずに歩いていった。
私は、
しばらく車の中で、
エンジンを切らずにいた。
あの電車で、
彼女が降りなかった理由を、
私は考えなかった。
知らなくてもいいことは、
確かにある。
それでも、
分かっていることが一つあった。
――彼女は、
私といる時間を、
「安全に考えられる場所」だと
思っている。
それは、
ずっと厄介で、
ずっと大切なことだった。




