表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
4/8

第4話「降りるはずの駅」

社外での仕事が一段落したのは、夜の九時を少し過ぎた頃だった。


「このあと、どうします?」


彼女は、帰り支度をしながら言った。

質問の形をしているが、

特別な意味は込められていないようにも聞こえる。


「食事でも行く?」


私がそう返すと、

彼女は少し考えてから頷いた。


会社の近くの店だった。

静かで、照明が暗く、

会話が自然と小さくなる場所。


仕事の延長の話をして、

そのうち、いつもの議論になる。


「さっきの判断、

 あれは正しかったと思います?」


彼女は、メニューを見ながら言った。


「正しいかどうかは、

 まだ分からない」


「ですよね」


彼女は、楽しそうでもなければ、

不満そうでもない顔で頷いた。


「じゃあ、

 しばらく様子見ですね」


その言葉が、

妙に心地よかった。


白黒をつけなくていい。

今はそれでいい。

そう言われている気がした。


食事が終わる頃、

彼女が言った。


「もう一軒、行きます?」


「……バーとか?」


「そういうのも、

 たまにはいいかなって」


私は一瞬、迷った。

だが、その迷いは、

危険なものではなかった。


バーでは、

彼女は一杯だけ酒を頼んだ。

私はノンアルコール。


「飲まないんですか?」


「今日は、頭を使ったから」


「それ、

 飲む理由にもなりますけど」


「俺の場合、

 飲まない方がいい」


彼女は笑った。


「自覚があるなら、

 立派です」


その言い方が、

評価でも、冗談でもないのが、

この人らしかった。


バーでは、

仕事の話はほとんどしなかった。


代わりに、

「知らなくてもいいこと」

「夢を語る意味」

「努力が報われないときの扱い方」


どれも、答えの出ない話題。


それなのに、

時間は妙に早く過ぎた。


「そろそろ、帰ります?」


彼女が言った。


電車に乗り、

並んで座る。


彼女の家の最寄駅は、

二つ手前だ。


私は、

そこで降りるものだと思っていた。


電車が減速し、

ドアが開く。


彼女は、動かなかった。


一瞬、

気づいていないのかと思った。


だが、

彼女は窓の外を見ていた。


ドアが閉まり、

電車が再び動き出す。


「……降りなくていいの?」


私がそう聞くと、

彼女は、

少しだけ間を置いて言った。


「今日は、

 会社の最寄りまで行こうかなって」


理由は、聞かなかった。

聞くべきじゃない気がした。


次の駅で降りる。

夜の空気は、

少し湿っていた。


「車、ここですよね」


「そうだけど」


「送ってもらっても、

 いいですか?」


頼み方は、

とても事務的だった。


断る理由は、

見当たらなかった。


車の中では、

ほとんど話さなかった。


沈黙は、

気まずくはなかった。


ただ、

考えが自然と巡る。


この関係は、

どこに向かっているのか。


到着すると、

彼女はドアを開けて降りた。


「今日は、

 ありがとうございました」


「こちらこそ」


彼女は、

少しだけ躊躇ってから、

小さく手を振った。


そして、

振り返らずに歩いていった。


私は、

しばらく車の中で、

エンジンを切らずにいた。


あの電車で、

彼女が降りなかった理由を、

私は考えなかった。


知らなくてもいいことは、

確かにある。


それでも、

分かっていることが一つあった。


――彼女は、

  私といる時間を、

  「安全に考えられる場所」だと

  思っている。


それは、

ずっと厄介で、

ずっと大切なことだった。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ