第3話「頑張ってましたね」
その日は、最初から嫌な予感がしていた。
社外の会議室。
海外の取引先。
説明役は、なぜか私だった。
理由は単純で、
「一番状況を分かっているから」
という、よくある無茶振りだ。
英語は苦手だった。
致命的に、というほどではないが、
武器になるほどでもない。
つまり一番厄介なレベルだ。
説明を始めて三分で、
相手の表情が曇った。
五分で、
明らかに理解されていないことが分かった。
頭の中で、
単語が渋滞を起こす。
文法が崩れ、
論理も崩れ、
自分の立ち位置まで怪しくなる。
結局、
別のメンバーが助け舟を出した。
流暢な英語で、
私の言いたかったことを、
あっさり整理して説明する。
会議は問題なく進んだ。
問題があったのは、
私の中だけだ。
情けなさと、
恥ずかしさと、
妙な空虚感。
彼女は、会議室の隅に座っていた。
いつものように、静かに。
私の方を見ているかどうかは、
分からなかった。
会議が終わり、
廊下に出た瞬間、
私は深く息を吐いた。
「ああ、最悪だ」
思わず、声に出ていた。
「そんなことないですよ」
少し後ろから、彼女の声がした。
「……いや、かなり最悪だろ」
「伝えようとは、してましたよね」
その言い方は、
慰めでも、励ましでもなかった。
事実確認に近い。
「結果的に、
通訳してもらう形になったけど」
「でも、途中まで、
自分でやろうとしてました」
私は足を止めた。
「頑張ってましたね」
その一言は、
思っていたよりも、
ずっと強く響いた。
彼女は、
いつもなら、
こういう場面では
遠慮なく指摘してくるタイプだ。
「だから英語は準備しとけって言いましたよね」
とか
「そもそも無謀でしたよ」
とか。
だが、彼女は言わなかった。
私は、少し戸惑った。
「……バカにしないんだな」
「する理由、あります?」
彼女は首を傾げた。
「できないことを、
できるふりしてたわけじゃないし」
「でも、恥ずかしいよ」
「恥ずかしいって、
ちゃんと分かってるなら、
それで十分だと思いますけど」
その言葉は、
妙に冷静で、
妙に優しかった。
私は、その瞬間、
不意に思ってしまった。
――この人は、
私を評価していない。
良いとか、悪いとか、
できるとか、できないとか。
ただ、
「今、何を引き受けようとしたか」
だけを、
見ている。
それは、
これまで誰にも向けられたことのない視線だった。
「……変なやつだな」
私がそう言うと、
彼女は少しだけ笑った。
「よく言われます」
帰りの電車は、
妙に空いていた。
窓に映る自分の顔が、
少し疲れて見えた。
彼女はスマートフォンを見ていたが、
画面を眺めているだけで、
操作している様子はなかった。
「さっきの会議」
彼女が言った。
「もし、もう一回やるなら、
どうします?」
「やらない」
即答だった。
「ですよね」
彼女は納得したように頷いた。
「でも、
やったから分かったことも、
ありますよね」
私は、少し考えた。
「……あるな」
「それで十分だと思います」
その言葉を聞いて、
私は初めて気づいた。
彼女は、
失敗を「評価対象」にしない。
「観測結果」として扱っている。
だから、
責めないし、
持ち上げもしない。
ただ、
次にどうするかを、
静かに考える。
駅に着き、
ホームに降りる。
「今日は、
ありがとうございました」
彼女はそう言った。
礼を言われるようなことは、
何もしていない。
それでも、
私は小さく頷いた。
彼女が改札を抜け、
人混みに消えていく。
私は、
少しだけ立ち止まった。
あの一言――
「頑張ってましたね」
それは、
恋人がかける言葉ではない。
上司が部下に言う言葉でもない。
もっと曖昧で、
もっと厄介で、
それでいて、
確実に心に残る言葉だった。
――この関係は、
きっと、
簡単な名前では呼べない。
そう思いながら、
私は電車に乗った。




