第1話「距離は測れると思っていた」
人はたいてい、自分と他人との距離を測れると思っている。
少なくとも私はそうだった。
年齢、立場、役職、経験。
数字と肩書きを並べれば、だいたいの位置関係は見える。
見えるはずだった。
その日の帰り道までは。
「それで、なんで全部知ろうとするんですか?」
彼女は、まるで
「どうして雨は上から降るんですか?」
と聞くみたいな口調で言った。
場所は、駅前のカフェだった。
社外での打ち合わせのあと、自然な流れで入った。
自然、というのは後から都合よくつける名前だ。
彼女はコーヒーを頼んだが、すぐには飲まなかった。
カップを両手で包んで、少し待つ。
その癖に、私はその時初めて気づいた。
「判断を間違えたくないからだよ」
私がそう答えると、
彼女は「なるほど」とも「そうですよね」とも言わなかった。
「でも、間違えない判断って、あります?」
その言葉は、攻撃ではなかった。
むしろ、確認に近い。
私は少し考えた。
頭の中に、過去の判断がいくつか浮かぶ。
うまくいったもの。
失敗したもの。
うまくいったと思っていたが、後から失敗だと分かったもの。
「……ないかもしれない」
そう言うと、
彼女は満足そうに頷いた。
「ですよね。だから、知らなくてもいいこともあると思うんです」
「知らないと、不安じゃない?」
「不安です。でも、知りすぎると、動けなくなりません?」
その言葉に、私は少しだけ黙った。
図星、というやつだった。
彼女は仕事ができる。
それは社内でも有名だった。
なのに、彼女は“勝ちに行く感じ”がしない。
全力で正解を取りに行かない人間を、
私はこれまであまり信用してこなかった。
「夢って、語ると楽しいですよね」
彼女は、冷め始めたコーヒーを一口飲んでから言った。
「でも会社だと、夢より現実を見た方が、楽なときもあります」
「楽な方を選ぶのか?」
私がそう言うと、
彼女は肩をすくめた。
「覆らないものを前提にするだけです。
その方が、無駄に消耗しないので」
この人は、現実的だ。
そして、たぶん優しい。
少なくとも、自分をすり減らすことには、あまり価値を置いていない。
「それでもさ」
私は言った。
「やりたいことを、最初から諦める理由にはならないだろ」
彼女は少し考えてから言った。
「諦めるかどうかは、別の話です。
ただ、全部自分の責任だと思わない方がいい、ってだけで」
その言葉は、
私が長年、無意識に背負っていた荷物を、
一瞬だけ軽くした。
不思議だった。
彼女の意見は、必ずしも正しくない。
でも、話した後の私は、
なぜか判断を急がなくなっている。
答えをもらったわけじゃない。
むしろ、答えは増えている。
店を出ると、夜風が思ったより冷たかった。
駅まで並んで歩く。
「また、こういう話してもいいですか?」
彼女は、別れ際にそう言った。
告白でも、約束でもない。
ただの確認。
「もちろん」
私はそう答えた。
その時はまだ、
この関係が恋愛になるのか、
それとも別の名前を持つのか、
考えもしなかった。
ただ一つだけ、はっきりしていた。
――この人と話すと、
自分の考えは、一度壊れてから、
少しだけ良い形で戻ってくる。
距離は、測れると思っていた。
だが、測れない距離もあるらしい。
それを知った夜だった。




