報告書34「記憶の“角”」
毎度お馴染みとも言える、サイバー三途の川。そこにいたのは、一匹の黒い犬だった。端正な毛並みをしているが、爛々と輝く金色の目から、こいつがリソーサーであることは一目瞭然であった。
「お前が、言っていたティンダロスか……一体全体、俺に何の用だ?」
「<人間を……あなたを“理解”させてもらいます。まずは、あなたの記憶を閲覧させてもらいました>」
リソーサーらしく無い、何とも丁寧な口調で話すそれ……ティンダロス。こいつが本当に、あの自衛軍隊員をあんな風にしちまったのか?それにしても、記憶を閲覧って……この流れる映像と画像の事を言っているのか。こんなもん見て人間を理解って、何をしようってんだ。カウンセリングでもしてくれるのか?
<<油断するなワン!あいつの言う記憶の閲覧ってのは、ウェイスターのそれとは違うワン!>>
「違うって?」
<<ウェイスターは記憶を、時間軸に沿って、記銘・保持・想起と一次元的にしか把握できないけど、あいつは記憶を忘却・黙殺・改竄した分まで含めた感情勾配がある五次元的情報地形として把握できるんだワン!>>
「相変わらずの説明下手だな。それであいつの狙いはなんなんだ?」
<<だから!あいつはウェイスターが記憶を忘れる、見ない、無意識に改竄する事でできる、ウェィスターには知覚できない“記憶の角”から侵入してくるって事だワン!>>
「何言ってるのか全然分からんが、要は倒せばいいんだろ?そこで見てろメタ犬」
<<あっ!バカやめろワン!>>
鞘からキ影を抜き放ち、一気に距離を詰め、不気味な黒犬相手に振り下ろす。それを避けようともせずに、ティンダロスはただこう言った。
「<あの時も、“切れば終わる”と思ったんですか?>」
「なっ……!?」
その言葉を聞き、動きが止まった。ティンダロスの言葉と同時に浮き出た空間の中で一つの記憶映像が鮮明化したからだ……それはあの日、東京駅ダンジョンで、上司の命令に逆らってチトセを助けた記憶だった。これが……この何とも形容し難い空間が、五次元情報地形ってやつなのか……?
「<あの日、あなたはリソーサー・ゴリアテの片腕を落とし、一人の女性を救いました。その結果、あなたは何を得ましたか?なお、失ったものは明白です。あなたの左腕です>」
無意識に後退りしながら、ふいに足元に目線が落ちる……その先に並ぶ画像は、あの日見た、落ちたゴリアテの腕と……宙を舞う自分の腕だった。
「なっ、何を得たって……俺は、俺は……仲間を……信頼できる仲間を得た。あのクソ会社のクソ上司とは比べ物にならない信頼できる……」
「<──あなたは、左腕と引き換えに“仲間”を得たと言った。けれど、それが本当に等価だったと、心から思えていますか?>」
なっ……!?何を言ってやが……
「<あなたの身体は──まだ、左腕の存在を信じていますね。義手を外した瞬間に訪れる、あの疼き。それが“幻肢痛”です。あなたが“失ったもの”に、いまだ囚われている証明ではないですか?>」
……!あの不思議な痛み、感覚が嫌で俺は四六時中この義手を付けるようになった。あれは俺の肉体の叫びだったとでも言うのか……そして、次のティンダロスの言葉は、冷たい刃のように俺の心に突き刺さった。
「<あなたは“救った”代償を、誇りにした。だが──“失った”痛みから、目を背けた……本当に得たのは“信頼”ですか?それとも“言い訳”ですか?>」
その瞬間、空間に浮かぶ“記憶映像”の彩度が、音もなく跳ね上がった。
助けに飛び出したあの一歩。眩いばかりの閃光。自分の手で、リソーサーの腕を断ち切った手応え──そして、その直後だった。
「命令違反」
「殉職者が発生」
「俺の夢のために……死んでくれ」
親友の表情が、口元だけが笑っていた。肩口に走った焼けつくような痛みとともに、視界の片隅で“左腕”が放物線を描く──
そして義手がギシッと不自然な角度で微かに震える。それは、幻肢痛。ありもしない左腕が、今そこにあるかのように主張していた。
「っ……!?」
息が止まる。喉が詰まる。心が、軋む。
――信頼?言い訳?俺は……どちらだ?自分が……自分がワカラナイ。
<<……で、泣くのかワン?ここで、誰にも言わずに、ポキッて心折れてかワン?>>
小さな黒犬の幻影──バーゲストが、左肩にぴょんと跳び乗ってきた。そして、義手の神経接続点からかすかに光が漏れ始めた。
<<全く本当にしょがない奴だワン!それじゃあ、ここで奴に心を引き裂かれて、自己を認識できなくなって一巻の終わりだワン>>
心を引き裂かれる……そうか、それであの自衛軍隊員はあんな風に……だが、メタ犬、お前に俺の何が分かるってんだ。俺は今まで誰にも……
<<ずっと言ってなかったワンな。誰にも。チトセご主人にも、イクノご主人にも。左腕を初めから“なかったこと”にしてたんだワン>>
「そうだ、俺はいつの日か、左腕なんて初めから無かった、存在してなかったものだと、自分で自分に思い込ませようとしていた……」
<<でも01(ゼロワン)は知ってるワン。お前が寝てる時、うなされてるのも。風呂に入る時、鏡を見ないようにしてるのも──幻肢が疼いてるのも>>
俺が口を開きかけたその時、バーゲストは義手をコツンと前足で叩いた。
<<でもこの義手があったから、01はここにいることができるワン。お前が繋いだんだワン。お前の『失った』左腕に、こうして、01は“宿った”んだワン>>
「宿った……」
<<なーにが信頼だワン!言い訳だワン!──お前の“この手”だからこそ、繋がれた存在は、今でもちゃんと、お前の側にいるワンよ>>
そう言って、バーゲストは義手を押し上げるように鼻先をぐいっと突き出す。それはまるで、左腕を再び立ち上がらせようともしているかのようだった……
バーゲストの声が届いた瞬間、端正の毛並みの黒犬だったティンダロスの口から悪臭と粘液が漏れ始め……その体が所々割れはじめた。




