地図
「サム、ここから逃げ出さない?」
逃げ出す――その言葉に僕は思わず戸惑った。目の前でニンマリと笑う彼女が、僕に何かを差し出す。手に握られたものを見れば、それは古びた地図だった。
地図にはいくつもの✘印が描かれている。パッと見ただけでも、その意味は容易に推測できた。
「この✘印……ドラゴンの住処だよね?」
僕の問いに、彼女は小さく頷いた。
「死んじゃったけど、私の父は自衛隊のパイロットだったの」
なるほど、と僕は首を縦に振る。彼女の父は現場で多くの危険を目にしてきたのだろう。その経験から得た知識は、今の僕たちにとって、かすかな光にも似た希望だった。
父が言うには、世界中にドラゴンは100匹ほどしかいない。しかし一匹が国一つ分の力を持つことを考えれば、その数でも十分すぎるほど恐ろしい。誰だって知っている常識だ。だが、だからこそ、この地図の空白に意味があるはずだと僕は気づいた。
「でも……」僕は指で地図をなぞりながら考える。「✘印で埋め尽くされている中で、ここだけは何も印がない。ここはどうして?」
彼女が指差したのは、湖や川が描かれた場所だった。
「水のあるところじゃない? 湖とか、川とか……」
水……その瞬間、頭の中で何かが繋がった。ドラゴンは空を飛び、火を吹き、毒を吐く。しかし水のある場所には現れないのだ。彼女の父が生前そう言っていた。習性の問題か、それとも単なる経験則か。理由は分からない。でも確かに、地図の中で水のある場所は✘印で覆われていない。安全な避難所である可能性が高い。
「なるほど……」僕は息を吐きながらうなずく。「なら、僕たちはそこを目指すべきだね」
彼女も小さく笑った。「そう。水の近くなら、しばらくは安全。そこで次の作戦を考えよう」
僕は地図を胸に抱え、覚悟を決める。世界にはまだドラゴンが存在する。100匹、いやそれ以上かもしれない。でもわずかな希望、水のある場所が僕たちにはある。生き延びる戦略は、この地図の中に隠されていた。
冷たい風が頬を撫で、湖面が淡く揺れる。僕たちは立ち上がり、逃げる準備を整える。足元にはまだ危険が潜んでいるが、進むべき方向は明確だった。水のある場所にたどり着けば、ほんのひとときでも生存の可能性がある。
「サム、行くよ」彼女が差し出す手を、僕は迷わず握る。
歩き始めた瞬間、背後で不穏な音が響く。木々がざわめき、遠くで低いうなり声がこだまする。僕は息をひそめ、地図を握り直す。恐怖はあった。だが希望もある。希望がある限り、僕たちは進める。
川の水面に映る月光は、まるで道標のように僕たちを導いた。ここなら、少なくとも一時的には守られる――その確信が、僕の足を前へと押す。
「もうすぐだ……」僕は小声でつぶやく。
彼女はうなずき、肩越しに僕を見た。目には緊張と期待が混じる。世界は依然として危険で満ちている。しかし、希望を胸に歩く僕たちには、まだ逃げる力が残っている。
水のある場所――僕たちにとって最後の安全地帯。それは、ドラゴンの脅威を一時的にでも避けられる場所。地図に示された✘印の海を縫うようにして、僕たちはそっと、確実に、未来へ向かって歩き始めた。