ホラー作家と悪魔の契約
町外れの山のふもとにゲオルク・ゴルダンという名の老人が暮らしていた。ゲオルクは小説家であったが、彼の書く悪趣味なホラー作品は大衆受けするとは言い難く、一部のオカルトマニアを除いてゲオルクの名を知る者は少なかった。
ゲオルクはその日の原稿を書き終えると、寝室のへしゃげたベッドに横になった。青白い満月が窓の外から姿をのぞかせていた。
寝る前になるとゲオルクはいつも思う。
「嗚呼、わしの命もあまり長くはないのだろう。死にたくない。死ぬのがこわい。誰にも知られぬまま、孤独に死んでゆくのがこわい。嗚呼、神よ――」
毎晩そのような祈りを捧げていたものだから、ある夜、ついにゲオルクの枕元にそれが現れた。神ではなく、悪魔が。
「こんばんはゲオルクさん。あなたの望みを叶えに来ましたよ」
ゲオルクがまぶたを開けると、すぐ目の前に背の高い男が立っているのが見えた。スーツにネクタイをしているが、背中にはコウモリの羽、頭には山羊の角が生えていた。
「なんだ悪魔か。おまえがいったい憐れなわしをどうやって救うと言うのかね」
問われた悪魔は大げさに、しかしうやうやしくお辞儀をする。
「あなたは死ぬのがこわいのでしょう。売れない小説家のままひっそりと死ぬのがこわいのでしょう。私ならば、不老不死も、富も、名声も、すべて叶えて差し上げられますよ。悪魔は嘘はつきません」
ゲオルクはひとまず悪魔を無視して寝室から抜け出し、居間の電気と、暖炉の火をつけた。鍵付きの棚から回転式拳銃を取り出す。
振り返ると開いた扉の向こうには悪魔が立っていた。寝ぼけているわけでも見間違いでもないらしい。ゲオルクは拳銃を悪魔に向けた。
「やあやあ物騒なお人だ。私はあなたにせっかくチャンスを届けに来たというのに」
悪魔は慌てて両手を挙げる。
「ふん、どうせわしの魂を奪うのが目的なんだろう」
「もちろんですとも! ですがそれは正当な対価。代償。いいえ、あなたの三つの望みを叶えることを思えば、安すぎる報酬とも言えましょう。ゲオルクさん、あなたは近いうちに死ぬ。売れない作家のまま、誰にも知られることなく、ね。恐怖と絶望から救われたいのなら、契約することです。毎晩祈りを捧げたところで、傲慢な神は見向きもしてくれやしない。でも私ならば望みを叶えられる。悪魔は嘘はつきません」
悪魔は饒舌にまくし立てた。
ゲオルクは拳銃を下ろし、暖炉の前のボロボロなソファにどっぷりと腰をかけた。
「三つの望みを叶えてくれるのだな。すべての望みが叶うまでは魂を奪わないでいてくれるのだな」
悪魔はそうこなくっちゃと言ったふうに顔を輝かせた。
「もちろんですとも! ええ! あなたは賢明なお人だ。さあ、願い事を言いなさい。あ、でも『願い事の数を無限に増やしてくれ』みたいなのは駄目ですよ」
ゲオルクはソファに身を預けて目をつむり、しばらくの逡巡を見せる。それから深いため息を吐くと、老いた者とは思えない鋭い眼光を悪魔に向けた。
「ではひとつ目の願いとして、わしの死ぬ時刻を教えてほしい。何年何月何日何時何分何秒、正確にじゃ。無論、おまえが悪魔の力で寿命を早めたり事故に遭わせたりしてわしの死ぬ時期を操ることは無しとする」
悪魔は不意を突かれたようにきょとんとする。
「えっ、そんな願いで宜しいので? まぁお安い御用です。ゲオルク・ゴルダンさん、あなたは1989年6月30日21時55分18秒に死にます。だいたいあと半年の命ですね。訊かれてないので死因は教えられませんが」
「いや、あと半年も猶予があると知れて助かった。死神はいつ訪れるか分からないのが最も恐ろしい」
そう言ってゲオルクは不敵な笑みを見せた。
「それはどうも。で、ふたつ目の願いを聞かせてください」
「そうじゃな。ところでこれは願いではなくただの確認なのだが」
ゲオルクは少し言いよどみ、それから
「おまえは最初、『不老不死の願いを叶えられる』とわしに言ったよな?」
と続けた。
問われた真意が分からず悪魔は思案するが、やがて「……あっ!」と声をあげて目を見開く。
もしもゲオルクが不老不死を願い、それを叶えてしまったら、ひとつめの《死ぬ時刻を教える》願いを叶えたのが嘘になってしまう。しかし不老不死の願いを叶えなければ、最初に《不老不死を叶えて差し上げられる》と宣言したのが嘘になってしまう。
嘘は悪魔にとって大罪だ。偽りなき契約をその魔力の糧とする悪魔にとって、嘘をつくことは自殺行為に等しい。
(ちくしょう、クソジジイめ。俺をハメやがったな)
悪魔は内心で毒づき、頭を抱える。
「いや、わしは不老不死は願わんよ」
助け舟を出したのはしかし、ゲオルク当人だった。
「え?」
「仮にわしが不老不死を願ったとしても問題はなかろうて。宣告したとおりの時刻にわしが死んだあとで、わしを生き返らせて不老不死にすれば両方の願いを叶えたことになる」
「た、たしかに……」
もっとも、死んだ人間を生き返らせるのは悪魔としても骨が折れる仕事なのであまりやりたくはなかったが。ともあれ逃げ道を得た悪魔はほっと胸を撫で下ろした。
「どうせ不老不死の体を得たところで、魂は奪われる。生きた屍として永遠に生き続けるだなんてそれこそ地獄じゃよ」
「まぁ賢明な判断でしょう。あなたは賢明すぎるお人だ」
悪魔は皮肉交じりに答えた。
「ふたつ目の願いは、わしを毎晩地獄に連れて行ってほしい」
「……へ?」
悪魔はまた仰天する。聞き間違いかと耳を疑う。
つい今しがた生き地獄は嫌だと言っておきながら、今度は地獄に連れて行ってほしいとはどういうことか。目の前の老人が賢者なのかキチガイなのか、判断がつかない」
「無論、夜が明ける前にはわしの魂と肉体をきちんと元の状態で、この世界に返すこと」
「え、えーと、それはあなたが死ぬまでの半年間の期間の願いで宜しいので? べつに死んだらあなたの魂は否が応でも、永遠に地獄に留まり続けることになりますよ」
「構わん。生きているうちに地獄を見ておくことに価値がある」
悪魔はしばらく思考する。この願いにも何かしらの罠が仕掛けられているのではないか。論理的な綻びがあるのではないか。
しかし考えても考えても、考えれば考えるほどに意味のわからない願いだったので、仕方無しに口を開いた。
「わかりました。毎晩あなたを地獄に連れていきましょう。そして夜明け前にはその魂と肉体をきちんと元の状態で現世にお返しすることをお約束しましょう。ただしこの願いを叶えるのは、明日の夜からあなたが死ぬまでの半年間の期間に限定されます」
ゲオルクは頷き、契約は成立した。
生者の魂を地獄に連れて行ったり現世に戻したりを半年間も続けなければならないのは悪魔としても面倒極まりない仕事であったが、ここで不老不死を願われるよりかは幾分マシともいえた。
「それじゃあみっつ目の願いを聞き届けましょう」
悪魔は半ば投げやりに言う。まだ十数分しか話していないのに、狂った老人の狂った願いに翻弄され、考えすぎてどっと疲れが出た。悪魔のノルマも楽ではない。早く次の人間の勧誘へ取り掛かりたかった。
「みっつ目は、死因を決めさせてほしい。そうだな、鳥葬がいい。群衆の集まる大広場で、わしは高い柱に磔にされて『死にたくない! 死にたくない!』と叫ぶ。するとどこからともなくカラスの大群がやってきて、わしの髪の毛、両目の眼球、鼻、歯、両腕と両脚、十本の手の指と十本の足の指、すべての皮膚、すべての血液、すべての内臓を真っ黒な嘴に啄まれ、わしは絶叫と共に跡形もなく消え失せるのじゃ」
「は? 正気ですか? きょうび悪魔だってそんなひどい殺し方はしませんよ!」
悪魔は驚愕にうち震える。
ゲオルクが提案してきたのは《願い》というよりも、むしろ願いを叶えた対価として悪魔が要求する《代償》そのものだった。可哀想に、この憐れな老いぼれはとうとう気が狂ってしまったのだと悪魔は天を仰いだ。
「おまえたち悪魔は残酷に人が死ぬ結末が好きなのだろう。不満があるのかね」
「い、いえ……あなたこそ、後悔しても遅いですよ。あと念のため言っておきますが、仮にあなたがカラスに食われて跡形もなく消え失せたとしても、その魂は私がカラスと共に地獄に連れてゆきますからね」
「無論じゃ。それが可能ならわしの死んだあとは好きにしたまえ」
ゲオルクは含みのある言い方をした。
「わかりました。それでは半年後の1989年6月30日21時55分18秒、あなたを群衆の前で磔にし、カラスの群れにあなたの肉体のすべてを食わせて跡形もなく殺して差し上げることをお約束しましょう」
こうしてゲオルクと悪魔の不思議な契約は成立した。
悪魔は、やれやれこんなイカれた老人の家はもう御免だと、早々と踵を返して帰ろうとした。
しかしふと見れば、目の前の老人はいつの間にか拳銃を右手に持ち、老人自身のこめかみに銃口を当てているではないか。
「さよならじゃ」
ゲオルクは拳銃の引き金に指をかけ、悪魔に笑いかけた。
「冗談じゃない!」
今この老人に自殺されたら、死期と死因を定めた願い事を叶えるのが嘘になってしまう。
悪魔はとっさの判断でゲオルクに魔法をかけた。
直後、大きな発砲音が轟く。
銃弾はたしかにゲオルクの脳天を貫いたはずだが、老人の頭には傷一つない。
「ほう、不死身の体まで与えてくれるとは、気前が良いのう」
「あんたに死なれちゃ俺が困る。せいぜい半年後に怯えて眠れ」
悪魔が打って変わってぶっきらぼうに返す。
とんだ大損だ。しかし事細かに死因を決めた以上、今はゲオルクに指の一本、歯の一本、髪の一本までをも勝手に失わせるわけにはいかなかった。
早く殺したくともひとつ目の願いがそれを許さず、魂に手を加えて心を操ろうにもふたつ目の願いがそれを許さなかった。
悪魔が悔しそうに悪態をついて家を出ていったあと、ゲオルクは愉快そうに腹を抱えて笑った。悪魔にまんまと一杯食わせてやったのだ。面白くないはずがない。
「だがわしは、ほんとうに、死にたくはないんじゃ」
ゲオルクは窓から星を見上げると、心の底からの願いを吐露した。
それから悪魔は、ゲオルクの願いを忠実に叶えた。
半年後、人の集まる大広場で高い柱に磔にされたゲオルクは多くの人に見守られるなか『死にたくない! 死にたくない!』と絶叫する。
そしてどこからともなく現れたカラスの大群に、髪の毛、両目の眼球、鼻、歯、両腕と両脚、十本の手の指と十本の足の指、すべての皮膚、すべての血液、すべての内臓を啄まれ、文字通り跡形もなくゲオルクの体はその場から消え失せた。
このショッキングで猟奇的な事件は、新聞やラジオでも報道され、世界をしばらくのあいだ狂気に晒した。
◆ ◇
ホラー作家、ゲオルク・ゴルダンは、死を誰よりも恐れていたという。晩年に彼が書き上げた小説は百五十作。タイプライターを打つ姿は、まるで悪魔にでも憑りつかれているようだったと当時の編集者は語る。
生前は売れない小説家だったゲオルクはしかし、奇抜な死を遂げたことを機に一躍有名となる。
ゲオルクの死後、彼の遺作は世界中で読み継がれた。彼の遺した作品の多くは地獄をモチーフとしていた。まるで実際に地獄を見てきたかのような克明でリアリティのあるその描写に、多くの読者が夢中となり、そして恐怖した。
ゲオルク・ゴルダンの魂は、人々の悪夢のなかで永遠に生き続けたのだ。
(了)




