人体融解水
「プールの水を張る役目を無事に手に入れたわ」
「ナイス芽々子! 早起きは三文の徳って本当だな。今のうちに準備を済ませよう」
本土では学校のプールは一年中張られている。夏はともかく冬は虫がいようと苔が生えていようとおかまいなしだ。小学校でも中学校でも大層汚い水を見てどうして抜かないのかなどと当時の俺は疑問に思っていたが、後々知るところによると有事の際の水源として使うらしい。汚かろうが水は水という事で例えば消火には使えるし、濾過すれば飲み水やら生活用水にも使える。また、プール自体の劣化も防ぐ目的があるらしい。
この学校ではそんな必要がないのか分からないが、プールはなんと授業が終わる度に抜いてしまう。そして朝早くに誰かが水を入れて授業で使うまでに満たすのだが、今回はその役目を休みがちな芽々子が務める事になった。不自然な事は何一つない。この仕事は単発のバイトとしてたまに募集がかけられているのだ。だから俺も『誰か』と言った。同じ人間がやる必要はない。同じ仕事が出来ればいいだけなのだから。
「しかし何で水を抜く必要があるんだ? オフシーズンで不要になったら抜くのは、まあ理屈は分かるだろ。うちに水泳部はないけど、幾らなんでもペースがおかしい」
「理屈は分かっても道理には適っていないわよ。法律が関わってくるから」
「そうなのか……じゃあどうして?」
プールの水を張る為だけに大量の蛇口を捻らないといけない。すると幾つかの放出口から大量の水が流れ込んできて瞬く間に水が溜まっていく。完全に満ちるにはもう何時間かかかりそうだが、授業が始まるまでには間違いないか。
クラスメイト全員に血を飲ませる方法は悩ましかったが、プールがあるならそれを使うのが一番だ。うちの学校における部活は殆ど遊びの延長線であり、大会の為に出向するような事殆どない。俺が知らないのではなくて、クラスメイトすら経験がない。だからプールの授業も言うなれば身体の健康目的な運動以外になく、殆ど遊びの延長線だ。一滴でも水を飲ませるだけなら手段は幾らでもある。
「それは分からないけど、お陰で仕込みが出来る。水に溶けた後の響希さんを目視では確認しづらいから量を持ってきたわ。とりあえず五〇ml」
瓶に入った血液が、心なしか蠢いている気もする。既に響希は入れ替わっているようだ。
「水に対して全く比率は合ってない気もするけど」
「水に対して人格を1:1の比率で持ってこいなんて馬鹿げてるわね。同じ液体の中なら自由に動けるみたいだからこれくらいで十分。いざ授業が始まった時に入れる隙がないから今の内に入れるわ。回収は私がする」
「まさか、ここまで見越してプールをいつも休んでたとはな」
「え…………ええ、そうよ」
「うん、俺から言うのもあれだけど乗っかるなよ。体の事がバレたくないだけだろうが」
意味のない見栄がおかしくて軽くて芽々子の肩をつっつく。彼女は恥ずかしそうに耳の髪を掻き分けると、瓶を逆さに中に入っていた血液を水の中へと落とし込んだ。人格の融解した血が瞬く間に溶けてなくなっていく。
「…………変な意味じゃないんだけどさ、一年生は俺達のお陰でまだまともな奴らばかりだ。こういう事するのは心が痛むけど、お前はどうなんだ。俺には気兼ねなく韜晦出来てるように見えるけど」
「……気の置けない仲だからとほんわかしている場合ではないでしょう。もしそう見えているのだとしたら、それは私が人形だから。貴方にはなってほしくないけど、人形という体がどんなに便利かは今更説明するまでもない……違う?」
「そのお陰で助かってるみたいな所もあるしな」
人形だから。
その言葉の真実を知る度に、背中に呪いが刻まれていくようだ。俺の犠牲ありきで攻略していたように、芽々子の犠牲ありきで全ては成立していた。その重さを知って尚、まだ足りないとさえ思う。一文字、繰り返し、刻まれる死と死と死。僅か一画とめはねはらい。その身に刃が沈むが如く、血を滲ませる。
「血は混ぜる必要あるかな」
「多少はかき混ぜましょうか。後はもう…………待って。誰か来るわ」
「…………いいか、俺達はバイトでプールの水を入れてるんだ。そして朝早くだから暇してる。どうでもいい会話をするぞ。逃げなくていい。逃げたらむしろ不自然だ」
話の脈絡なんて物はどうでもいい。来訪者については心当たりがある。それをうまくやり過ごせばいいだけだ。
「俺さー、この島に来てからずっと疑問なんだけど水泳の授業は海でやればよくないかって思うんだよ。どう思う?」
「…………同じ水でも海は海水だし、それに波や潮の満ち引きも気にかけないといけない。授業どころではないわ」
プールのドアを開けて大柄な男が入ってくる。その人の名前は岩戸丹葉。『仮想性侵入藥』を事実上使用不可能にした人であり、こうなる前は頼れる先輩だった人。薬の介入がどのような変化をもたらしたかは正直分からないが、主体的に変化をさせたのは響希の行動で、先輩に色々と尋ねたのは真紀さんだからそこが彼の記憶を書き換えてくれていると信じたい。
更衣室の方に移動していく。
「でも水泳の授業が殆どお遊びなのも事実だろ。スク水はあるけど、別にビキニでも咎められないしさ」
「貴方としてはそれが望ましいんじゃないの? むっつりさん」
「俺だけがそうみたいな言い方はやめてくれよな。み、みんなそうだからさ。俺は悪くない」
背中の方で足音。
俺達に近づいてくる様子はなく、うろうろと動き回っているようだ。まだ離れる様子がない。先輩の死体を探しているのは明白で、彼の記憶は単純に考えたら俺達に話した経験はなく、真紀さんにだけ伝えてある筈だ。
―――真紀さん、ごめん。
でもあの人にはまだ秘密があるような気がする。もう薬がないから探りは入れられないけど、根拠もなしに大丈夫だと思いたい。
「どうせ遊びならプールでも波を起こしてほしいよな。どうにかして」
「それは……ちょっと気になるかもね」
足早に岩戸先輩はプールを後にして何処かへと行ってしまった。目的地は何となく察せられる。俺達の事など最初から目に入ってなかったか、会話から無関係だと考えてくれたなら上々だ。
しっかり離れたのを目視で確認してからどっと後ろに倒れこんだ。早朝にも拘らずこの汗は、真昼に太陽を頭に翳したようではないか。
「ま、マジか。緊張したかも……」
「やり直しが効かないのも悩ましいわね。一先ず……大丈夫かしら。危険は去ったとみて」
「真紀さんの事が心配だけど、そこは信じるしかないな。後は……どうやって飲ませるかだけど。全員に飲ませる方法なんかあるかな。皮膚に触れるだけでもいいなら何とかなるけど」
「手段はどうあれ摂取させるだけなら私に任せて。殆ど遊びという事なら……いっそバーベキューをした時みたいにふざけてみましょう。大丈夫、覚えてるでしょう。みんな恐怖を忘れやすいようになっているって。気楽に、呑気に、悪ふざけには乗ってくれると信じてる」
芽々子が得意げに笑ってそう胸を張っている。ああ、そういえばこれにも悩まされていたっけ。
実を言えば人形も生身も切り替わるタイミングがなくなる程、もう見分けがつかなくなっている。