仮想なりや絶望の淵
俺達は今、地獄に居る。
島全体に広がる彼岸花は、先程俺達を殺そうとした力に他ならない。森も、山も、或いは建物の屋根すらも。人の立ち入るあらゆる場所に彼岸の花が広がっている。その光景は幻想的なようで、逃げ惑う人々が為す術なく原理不明の死因で花の中に沈んでいく所は遥かに狂気的だった。多くは喉を掻きむしり、喀血して死んでいく。中には体の内側を花が突き破って失血死する人間も居た。学校は島内で随一の高さを持っているからこそ、見えてしまう。猫も、ネズミも、人間も。等しく死を迎え、抗う事さえ許されない。
「これ、さっきの…………」
「…………」
「…………霖、さん。これは…………なんです、か?」
「事態は私の想像するより遥かに深刻だったようですね。詰みました」
「え?」
「少し整理しましょう。天宮泰斗君。貴方達が戦わなければならないのはこの町に潜む人形怪異……それも随分前から出会っている誰か。三年生、三姫さん。貴方の死因にも間接的に同じ怪異が関わっています。テスト期間終了までを本来の寿命として、それまでに三人で調査をしてほしかったのですが……まさかこんな事になるとは。予期せぬ分岐です」
「分岐?」
「この使い方は所謂シミュレーションに近しいです。都合のいい要素と悪い要素を排除出来る。死んだ人が生きていて、行動を共にしていた友人を存在しない事に出来る。現実に一切の影響を及ぼさず、時間軸の矛盾さえ無視出来るのは紛れもない長所ですが、この世界にはこの世界なりの道理があります。誰か、ゲームは好きですか?」
「人並みには好きだぞ!」
「ではそれっぽく言い換えますね。条件を満たしたが最後その後の選択に拘らずバッドエンドを踏む状態に陥ってしまいました。何が悪かったかは……分かりません」
気休めのように霖さんはカーテンを再び閉めて現実から逃げるように背を向けた。口以外のパーツがなくても、彼女が焦っている事は伝わった。
「秘密に踏み込んだ事じゃないの?」
「しかしその秘密の情報は現実の貴方が遺した物です。つまり向こうでも観測していないだけで同じような事は行われている筈。踏み込んだのが行けないというのはどうも納得性が低いですね。彼も貴方も捕まっていないでしょう」
片腕は取られたが、そこは恐らく問題じゃない。仮想であるのを楯に先輩二人は不死身だ。踏み込んだのだってそれを承知で無理をしただけだろうし、普通に死ぬならもっと慎重に動いたと思う。先輩達は俺と違って、やり直す方法なんてないのだから。
―――少しダメージが戻ってきた。
体の何処かが壊れた、という訳ではないようだ。自分でもあんなに喀血したのに、時間を経ると体はなんともなかったように調子を取り戻した。
「これ、もう俺は助かりませんか? もう現実と状況が大分違いますけど」
「いえ、その発言は時間稼ぎをしたかっただけなのでそんな事はありませんよ。ただ私は出来るだけ直接介入をせずに貴方達を助けたかっただけ。もう二度とこの世界には戻れませんからね。未知の情報を拾わせるくらいはさせてあげたいものです」
「時間稼ぎって…………」
「やり直す事が出来なくなれば、貴方達は三年生以上に即全滅の道を辿るでしょう。不死身の身体と同じです。どうせ死なないなら雑に扱おう、どうせやり直せるなら取り合えず失敗しよう。特性を十二分に生かした向き合い方ですが、もうそれは許されない。だから少しでもそうならないように協力をしています。まあ、それもこれまで。島がこうなってしまえば時間稼ぎというのはむしろ、こちらの寿命に切り替わります。どうも室内には侵入してこないようですが……帰れない」
「おい三姫! 梯子の下まで花が一杯だぞ」
「閉めて」
地下道に続く道を閉じて、職員室の景色はいつも通り。校内も変わらず、ただ生徒は一人も居ない。教師も、もう帰ってくる事はないだろう。あの花に分別がつくとは到底思えない。
「帰れないって何? 後輩君はいつでも目覚められるんじゃないの?」
「国津守芽々子の地下室に行く必要があります。しかしこの花の性質が分からない内は突っ込むのも賢明ではありません。何か策を考えないと」
「……なあ、これさ。俺らは時間止まってるのはいつも通りじゃん。こいつがいつまでも戻れなかったら……な、何もないよな? 何かあるのか?」
「何もないですよ。進みもしない。戻りもしない。学校に居れば安全ですが、学校に居る限りは何も起きようがない…………ようこそ、永遠の牢獄へ」
学校に居る人間は俺と霖さんと岩戸先輩と三姫先輩の四人だけ。室内に影響がないなら家にいる人間ならまだ生存者と言えるかもしれないが交流の手段が一切ない。事実上、関われる生存者はここだけだ。何処の教室を訪ねた所で人っ子一人見当たらない。
「少し歩かない?」
「ど、何処を?」
駄目で元々と校内を歩き回った果てに自分の教室に戻って窓から外を眺めていると、三姫先輩が訪ねてきて俄にそんな事を言ってきた。
「校内に決まってるでしょ。まあ気分転換にさ。このまま一生ここで辛気臭く閉じ込められてるのなんて嫌じゃないの」
「………………片腕と目は大丈夫なんですか?」
「心配ありがと。でも私はもうとっくに死んでるからぜーんぜん大丈夫。心配なのは君の方」
先輩は隣の空席に腰かけると、俺の手を握って避けようとする目をしっかりと見つめてきた。
「永遠にここに居れば死にはしない。それは安全かもしれないけど、心を殺してしまうわよ」
「…………」
「私の目を見て。今、何を考えてるか言いなさい」
「……………………」
怖い。
あの怪物が、ではない。
この状況が、ではない。
何もしなくても良くなった事に安堵してしまった自分が、怖い。
状況は完全に詰んだらしい。死んだら後がない俺にとっては外に出ない事こそ安心安全。これまでやり直し続ける事でリスクを回避し続けた男なら当然、今回もリスク回避を選ぶ。
状況は進展もしなければ悪化もしない。これまでの薬を使った後の状況からして現実には大した時間が流れていないだろうから、ここに居る限りはむしろ悪手を打つ事はない。
それでいいと思う自分が、どうかしている。芽々子は俺に助けてほしくて選んだのに、何もしない事を望む? 死にたくないから?
自分の性根がとことん嫌になる。実際、岩戸先輩の事を悪く言えた口でないのは薄々気づいていた。信念は反転する事もある。信じてくれる人の為にも頑張りたいというのは、悪手を打って裏切りたくないという意識が表れたものだ。裏切るも何も時間が経過しないこの状況なら、俺という人間は打開ではなく停滞を選んでしまいそうになっている。
「…………」
「私には言えない? 関係値が薄いから?」
「…………分からない、です。気持ちはハッキリしてますけど。言葉にしようとすると分からなくなる」
「うん」
「自分という人間が全然強くないのが分かって、ただそれだけがずっと浮彫になるような事ばかりで……どうすればいいか分からなくて」
「―――重圧を感じてる? 薬を使えるのが自分だけで、自分が頑張らないとって?」
「まあ…………そうですね。薬が使えなかったら俺はもっと臆病だったし、命なんて張らなかったかも」
「仕方ないでしょ。それが人間なんだからさ」
「…………馬鹿にしてくださいよ。俺は情けないってケツ叩いてくれないと、心が折れそうです」
「私がどうケツを叩くの? 物理的に? 死人に口なし、私がどうにかしようとしたって君にお前はもう死んでるじゃんと言われたらそれまでよ」
先輩の手が俺の頭に力なく置かれる。この柔らかな感触も、髪の上では死人と大差ない。
「前向きに考えなさい。 君はまだ死んでない。帰る方法なんてゆっくり考えればいい。臆病なのは生き残る証明、勇敢なのは死ぬ証明。死んだ私が言うのもなんだけど、弱くて結構じゃない。追い詰められてむしろ牙を見せるような人は全員死ぬ。詰んだとは言われたけど、君を帰すまでがとっくに死んだ私の仕事。ワンチャン生き返れたらいいなって、祈りながらねっ」