世介中道の教ヱ
「…………狭すぎる」
「我慢して。狭いのは私だってそうなんだから」
密室に女性と二人きりのシチュエーション。それだけ切り取れば聞こえはいいが、多分俺は死ねないので喜んでいる場合じゃない。本当に人二人が入るのが限界であり、先輩を抱きしめる形で何とかギリギリ収まっている。何度も言うが、合法的に抱きしめられるとかそんな悠長な事を言っている場合ではない。
遮蔽物があるから人は自分が隠れていると認識して安心出来るのだ。勿論物が目の前にある事で誰が来たかを確認出来ないからそれはそれで怖いというデメリットもある。元々目が見えないような事情でもないと、音だけで正確に周囲を把握するのは難しい。それと比較したらきちんとパイプを通して周辺を確認出来るだけ気が楽……?
いいや、見えているという事は視線が通っているという事だ。見えづらい見えやすいはあるが、そんな事情は主観的には判断出来ない。俺が見えているという事は、相手からもこちらが見えるという事だ。たったそれだけでもう、気が気じゃない。
岩戸先輩が騒ぎを起こしてから既に一時間。割れた窓の掃除も終わり、教師は全員戻ってきた。まだ小声なら会話出来るが、油断は禁物だ。
「君、お腹撫でないでよ。笑ったら君のせいよ」
「き、緊張で手汗が……すみません。これ何時間もここに居るって思ったら精神的に結構きついんですけど」
「時間間隔は長めに取らないと怪しまれるわよ……しー、しー」
足音と、喋々と雑談にふける先生の声。こうして身を潜めていてもまだ普通だ。職員室の裏事情を盗み聞きしている程度の感覚でしかない。これが後、何時間待てば…………緊張は永遠に続くものじゃない。精神が疲弊したら一度休むなり眠るなりしないと、根性ではどうにもならないような倦怠と油断を引き起こしてしまう。
「……ね、寝ちゃダメですよね」
「そりゃ、駄目。寝息を全く立てない自信があるならやってもいいけど、私も出来る気しないし。ここは頑張るしかないよ。これ以上騒ぎを起こしたら違和感を持たれちゃうし」
「うう…………大丈夫かな」
時間を感じようとすると、一分でさえ永遠のそれに等しい。暇と言える程自由でもなく、退屈と言える程空虚でもない。ただただじりじりと芯の先を削るような苦痛が続く。動けない、分からない、場合によっては喋れない。三拍子揃った辛苦に俺の身体は聞いた事のない悲鳴を上げていた。それは地べたに寝転がるという物理的な負担もあるが……多くは何か行動をしている実感が湧かない事による精神的なダメージだった。
二時間。
「………………」
「…………」
辛い、苦しい。動く事を除けば如何なる行動も制限を掛けられていないのに、一時間が苦しい。それが二回。後何回? やり直す事前提に行動していたせいだろうか、俺の身体には忍耐という物がない。対する先輩は俺に抱きしめられている間も体を震わせる事すらなく置き物のように動かない。死んだかと思う程だ。
「…………一応胴体はまだ普通なんですけど、それでも体は拒絶しないんですね」
「腕も足も無機物な人間なんて私は知らないわ。今は顔に罅が入ってるけど、そんな人間もやっぱりいない。体が人間だって認めてないならそうなのよ。まあ仮に人間でも、未来で私を強姦した奴と密着するよりマシでしょ」
「い、一応現場を見たとか証拠があった訳じゃないんですけどね……?」
「私は自分の性質をちゃんと把握してるから間違いないよ。帰ったら死体を探してみて。当てはあるんでしょ」
「ええ、まあ…………」
そうえいば顔の罅も直しておかないと…………誰も指摘してくれないから存在しない物と認識していた。だけどそういえば最初に岩戸先輩に指摘されていたから、見えていないなんて事はなかったか。
「…………」
「……」
好きな人の事をもっと知りたくて話しかけるという行為は往々にして存在するし俺も先輩の事は嫌いじゃないが、これは単に沈黙が辛くて話しかけたいだけだ。だが話しかけてはいけない瞬間も存在するのでそれに応じて黙らないといけない。本当にこれが辛い。物理的な制約はないのに、それがある時よりも遥かに不自由を覚えている。
三時間。
そろそろ時間を数えるのも馬鹿らしくなってきたのに数えるのをやめられない。眠たくもなってきた。この苦痛から逃れる為なら一瞬で眠れる自信がある。ただこの窮屈なベッドの下に押し込められた物のような感覚は、筆舌に尽くしがたい苦しみを伴っている。真髄を味わいたいならその一片でさえ言語化するべきではない。物に心があるのなら、押し込まれたっきり忘れられた物体は人間を恨んで然るべきだ。
「…………ごめん。君、ちょっと。もうちょっと私を強く抱きしめられる?」
「えっ。それは……」
「床なんかにずっと寝転んでるせいで身体が痛くなってきた。ちょっと、その腕貸しなさい。緩衝材にしないと……後で痛むかも」
言われた通りに先輩を抱え込む形で抱きしめる。四肢が無機物だからって俺の身体が無事な筈もないが、頼られるとどうしても頑張りたくなる。せっかく頼ってくれたなら、その願いに応えたい。そんなロジックで薬を沢山使ったから、こんな状況に陥ったのだけど。
「夜まで後どれくらいですか?」
「携帯なんて開けない…………耳を澄ませて、じっと待つの。その時は来るから」
それから、宇宙が熱的死を迎えるまで俺達はベッドの下に隠れていた。普通に嘘だが、化石にはなりそうな程の時間を体感で味わった。目も耳も口もそろそろ埃でも被ってくるかという頃にようやく、カーテンの閉まる音が聞こえた。
「生徒は全員帰ったか?」
「見回りでは見つからなかった。今日も大丈夫そうだ。長老方は既に集まられてる。私達も行きましょう」
「ようやくだ。ようやくです三姫先輩」
「……会話を聞きましょう」
そう思って耳を澄ませたがどれだけ経っても大量の足音から何も聞こえてこない。そしてこちらに近づいてくるような気配―――いや、残光の揺らぎで判断しているが、漏れる光に変化はない。不思議に思ってベッドの下から外に出ると、職員室の丁度真ん中にある、地下収納にしか見えない扉に梯子がかけられていた。サイズはおおよそ成人男性一人分程度。順に一人ずつ行けば降りられそうだ。
「こんなところに隠し通路ですか。知らなかった」
「カーテンで全部隠してるんだからそりゃ知らないでしょ。どうする? 一旦丹葉の奴を呼んでから行く?」
「いや、それはやめましょう。いつ戻ってくるか分からない以上、ここから出たら出た痕跡が残ります。現実に影響がなくてもそれだと二人が追ってた事について答えが出ません。行きましょう、このまま」
痕跡云々を抜きにしても、帰ってきたら用事が済んだ教師たちが戻ってきていたので何が何だかさっぱりでした、なんて笑えない。せめて何をしに行ったのかだけでも確認しないと意味がない。先に先輩を行かせて、俺は後から降りる。不死身なんだから盾にしろと言われて仕方なくこの順番になった。
「長老って世介中道会の長老ですよね」
「さあね。私がその名前を知ったのはたまたま……もう既に死んだ奴のメモだから。目的なんて見当もつかない。いずれにしてもろくでもないのは確実」
梯子を下り切ると、古い地下道に居る事に気が付いた。土を掘り抜いたような原始的な地下道にやや不安が残る。崩れたりは……しないでほしい。携帯の明かりを頼ると何か危ない気がしたので壁伝いにゆっくりと進んだ。光源を必要としない歩き方は不便だが、例えばここが単純な一本道だった場合、振り返っただけで俺達の存在は露見してしまう。
先輩の歩く音が止まった。
「……三姫先輩?」
「…………寒気が止まった。あまり良くない兆候ね。注意して」
先輩はそこから俺の手を引っ張って、より注意深く呼吸をして土を踏む事さえ躊躇うように優しく繰り返す。体感にして一〇分。すっかり日が暮れた様子の出口が見えてきたと言いたいが、実はそれは最初から見えていた。出口だと認識できるようになったのは、風が吹き込んだからだ。
ふわっと生温い風が頬を撫で、歩みを一歩遅くする。
気が付いたら、地下道の外に出ていた。
「えっ」
目の前に広がるのは百段以上をゆうに超える石階段。白く色抜きされた鳥居を最初に、並び立つ鳥居は徐々に血染めされていく。最後に聳える大きな鳥居は、本島でもよく見るような真っ赤なモノに。上がった先には無数の白骨が積まれたお堂があり、ここからでも中の様子がハッキリと見える。
霧のように曖昧な髪を垂らした白無垢が、項垂れたまま囁く。
そんな筈はないのに、耳元で。
「我の…………肉は…………何処に……………在る」